3-2
病院から会社に戻った後、熱いお茶を飲もうかと給湯室へ行ったことを、麗はさっそく後悔した。
この会社の給湯室は噂をするためにある場所なのだ。この前と同じ女性社員の声が聞こえる。
「新しい役員、格好いいよねー。何がいいって顔がいい」
「ああ、須藤役員ね。あんたきっとハゲデブ親父だって言ってたじゃん」
「まさか、あんなイケメンとは! 悔しい、もっと早く出会いたかった!」
「ばーか、あんたなんか相手にされないって」
「なにをー!」
ゲラゲラと笑いながら噂をする彼女達の邪魔はしづらく、麗は回れ右をしようとした。
「そういえば、イケメン今度、勤怠システム変えてくれるんでしょ? この前資料来てたけど、使いやすそうだった」
「社食の業者も変えてくれるらしいよ」
「やった! 今まで入ってた業者は、前の社長にリベート渡してたから不味くても変えられなかったって専らの噂だったもんねー」
そうだったのか、あれのやりそうな事である。
「問題は……」
「よりによって麗音様を捨てて……」
「あの妹と結婚したことだよねー。しかもあの妹が今社長でしょ! 器じゃないっての!」
「ねー。何でだろ?」
「それは、あれよ、出来ちゃったのよ」
「やっぱり?」
「妹、いきなり社長になった上に全然出てこないし、つわりとかあるんじゃない? それで、前社長が産まれてくる孫可愛さに麗音様を追い出したのよ」
「なにそれ、っていうかそもそも麗音様と婚約しておきながら、他の女に手ぇ出しちゃう?」
「普通なら出さないけど、きっと妹が夜這いしたの」
(それ、なんて官能小説?)
婚約者の実家に遊びに行き、勧められるがまま酒を呑み過ぎて、強かに酔っぱらって泊まらせてもらった夜。
客間で寝ていた明彦が重みを感じて目覚めると、婚約者の妹の麗が腹の上に乗っていた。
『れい…ちゃん?』
そこにいる筈のない麗の存在に明彦は目を疑った。
『明彦さん…わたしっ』
何ということだ。
思い詰めた顔をしている麗の温かな手が明彦の体をまさぐり、生き霊ではないことを示す。
『いけないよ、ボクと君は義理とはいえ兄妹になるんだ…!』
明彦は麗を説得しようとするが、麗は止まらない。
計画していたのだろうか。夕食時に何度も酒を注いでくれたのは麗だった。
『わかってる。でも、お願い、今夜だけっ!』
潤む麗の瞳を見て、女の涙に弱い明彦ははっきりと抵抗することができなくなった。
『ああ、だめだ、れいちゃん』
口ではそういうが、女より強い男の腕力で止めようとせず、されるがままだ。
それは、酔っぱらっているからだけではないことが明彦にも麗にも分かっていた。
『お願い、今夜だけっ!ずっと、好きだったの!』
『れい、ちゃんっ!』
その夜から三月後。
明彦は麗に避けられていた。
あんなことがあったのだ、無理からぬ事だ。
もともと麗は大人しい質だし、気まずいのだろうと、明彦も今日まではわざと話しかけなかった。
だが、最近の顔色の悪さだけは看過できなかった。
元より、フェミニストの気がある明彦に一度抱いた麗を放置しておくことなどできないのだ。
『麗ちゃん!』
明彦は佐橋の家を訪ねた。しかし、廊下で出会った麗は明彦を無視して足早に去っていこうとする。
『ちょ、待てよ』
麗の腕を掴んで、強引に振り向かせた。強引すぎたせいか勢いよく回転した麗は転びかけて空いた手を護るように腹を庇った。
それだけで、明彦にはわかった、わかってしまった。
『妊娠したのか……?』
麗の目がゆっくりと見開かれていく。
そして顔を反らし、小さく首を振った。
『麗ちゃん、ボクを見ろ』
両手で麗の肩を掴み、無理矢理見つめ合う。
それでも麗は目を伏せ、床を見ている。
『ボクの子なんだね……』
『……ち、違うの。この子は私、ワタシだけの、私だけの! 赤ちゃんなの!』
最初は蚊の鳴くような声で、次第に決意に燃える母の顔となり言い切る麗に、明彦は切なくなった。
麗の初めての男は明彦だ。ほかの男の子供なわけがない。
『馬鹿だな……』
明彦は麗を強く抱きしめた。
悪阻が酷かったのだろう。ただでさえ薄かった体が更に薄くなっている。
『二人で育てよう』
『そんなこと……駄目よ。明彦さんは姉さんの……姉さんの婚約者なのに!』
『元々、麗音とは別れようと思っていたんだ。麗ちゃん、君を愛していると気づいたから!』
『でも……』
『麗、お腹の子の父親にならせてくれ』
『いいの……?』
『いいんだ、麗』
『……明彦さん』
『麗』
『明彦さん!』
『麗』
『明彦さん!!』
みたいな感じだろうか。タイトルをつけるならば、
『義妹と呼ばれたくないの~婚約者の妹に迫られた官能の夜~』だ。
麗は頭を振った。
馬鹿馬鹿しい上に、内容が貧弱な妄想をしてしまった。
更に言うと、妄想の中で自分を美化して、劇画調の巨乳美人にした事も反省しなければならない。
麗は己の腹を撫でたが、宿っているのは脂肪だけだった。
麗の頭の中で、美人でセクシーな産婦人科医が長い足を組みながら、大きくてよく動く元気な脂肪ですよー。と誉めてくれる。
「あの、先輩方は部署が違うし、話したこともないから知らないでしょうけど、佐橋さんはそんな人じゃないので、そういうのやめてくださいよ。真面目で優しい人ですよ、ドジだけど」
突然聞こえてきた、営業二課に所属している大卒で年上の同期である五木の声に麗は驚いた。
給湯室にいたんだ、と。
そうか、麗がいなくなったせいで、お茶汲みの業務に部署では一番年下になった彼があてがわれてしまったのだ。申し訳ない。
ドジと言われたことはさておき、庇ってもらえて麗は嬉しかった。
「女をわかってない、わかってなさすぎー!」
「ああいう大人しくて地味な女が一番怖いんだってー」
「ホント、女を知らないよねー」
同期が総攻撃を受けていて、麗は重ねて申し訳なくなる。
己を大人しいと思ったことはなかったが、確かに社内ではこれといって目立つ仕事はしていなかったし、飲み会も、給料が安いので節約したいのは勿論だが、あれの娘が参加していたら、皆が本音で会話できず楽しめないだろうと、強制のもの以外は参加しなかったので、社内に友人もいない。
(ありがたいけど、申し訳ないな……。どうしよう)
そのとき、ちょうど明彦が麗遠くから歩いてきているのが見えた。
会社のために頑張ってくれている明彦に彼女達の陰口を聞かせるのは忍びないので、麗は明彦に会釈だけして、給湯室に入り、彼女達に気まずい思いをさせた。
「お疲れさまです」
麗が給湯室に入ると、シン、と給湯室内が静まり返った。
「えっと、皆さん、創業家とはいえ正妻の娘である姉の麗音ではなく愛人の娘で役職も主任でしかなかった私の突然の社長就任、戸惑われていますよね」
威圧しないよう目を合わせずに麗はお茶を作りながらなるべく落ち着いた口調で話した。
麗が愛人の娘であるのは周知の事実なので、隠すつもりはなかった。
なんてったって、父が事件を起こしたときに名前こそ書かれなかったが、ワイドショーに家族相関図が出て、本妻との間に産まれていない娘と書かれていたくらいだ。隠しようがない。
「私の社長就任は、大株主でもある前社長が自分の影響力を残したくて指名したことによるものです。ご存知の方も多いかと思いますが、私はもともと営業二課で主任をしておりまので、とてもではないですが器ではないです」
麗はどうにもならないので軽く笑った。
「まあ、そういうわけで、協力会社の須藤ホールディングスから須藤明彦さんに出向してきていただき、重役の皆さんとともに会社の舵取りをお願いしているというのか現状なんです」
麗は震える指先を隠すように手を後ろに回して微笑みかけた。
目の端に映る今着ている高級なスーツ。
社長がリクルートスーツでは格好がつかないからと就任祝いに明彦が買ってくれたそれは、明彦という男と同じくらい麗には見合わない。
「明彦氏と姉が付き合っていたり、婚約していた事実はなく、私は姉を裏切っていません」
しっかりと前を見据え、麗ははっきりと告げた。
「私はそもそも父に認知すらしてもらえなかった娘です。実母の病気で困窮したところを姉に救われました。だから、私は絶対に、姉を裏切りません。私は姉をこの世で一番、愛していますから」
(本当に?)
口に出したのは、魔法の言葉。だって麗は姉を愛している。姉が麗のすべてだ。それなのにどうしてだろう、初めてその言葉に疑問ができた。
そのとき、給湯室に入ってきた明彦と目があった。
いつもの明彦だ。すらっと背筋が伸びでいて、真面目な表情で、どこまでも格好いい。
だが、麗の目に、明彦が傷ついているように見えた。
それは一瞬のことですぐに普段の彼に戻った。
「こんにちは」
明彦が挨拶をすると、彼女達がおずおず挨拶を返す。何となく彼女達の顔が青く見える。
安心しろ、さっきの話を聞いていたのは『義妹と呼ばれたくないの~婚約者の妹に迫られた官能の夜~』のヒロイン役の麗だけだ。
「麗さん、ちょっといいかな?」
明彦は社員の前では麗を呼び捨てしない。
内と外の区別は当然のものとわかっていても麗は、それが、何となくむず痒く感じる。
「わかりました」
まだ何か押さないといけない判子でもあるのかと、麗は明彦に着いていこうとした。
「須藤役員、待ってください!」
呼び止めたのは同期の正木だった。
「何でしょうか?」
明彦が外面用の笑顔で彼と向き合った。
「あの、その……」
明彦を呼び止めた時は激しかったトーンが急激に大人しいものになる。
どうしたというのだ、緊張しているように見える。
「新規事業や業務改善等のご提案でしたら、今度社内コンペの時間を作る予定ですので、その時に是非なさってください。楽しみにしています」
応援している口ぶりだが、二の句を継げない男性社員を明彦が早々に見限ろうとしている。
「どんなことをご提案なさるんですか? 楽しみです」
さっき庇ってもらった礼に、麗が助け船を出すと、彼は決意した顔で首を振った。
「……提案ではありません。聞きたいのです。あなたは純粋で初心な麗さんを騙し、前社長と組んで、麗音さんを追い出して会社を乗っ取ったんですか?」
明彦が麗を庇うように手を引いてきた。
さっきまで、噂をしていた女性達が、私達が噂をしていたんじゃありません。とばかりに揃えて手を横に振った。
凄い、振り方、角度、タイミング全てが揃っている。
「……私が突然現れ、麗さんが社長になったことで、そのような事実無根の噂が出回っていることは把握しています」
「本当に、事実無根なんですね? もし、真実ならば、前社長と同じくあなたは子供達の幸せを作る子供服を売る権利はないと思います」
「疑問に思うお気持ちはわかります。倫理観のない上司に付くのもお嫌でしょう」
麗は心配したが、明彦は気にしている様子もなく淡々としている。
「ええ、麗さんには悪いですが前の社長で、もううんざりです」
大丈夫、家族が一番うんざりしているから、親の悪口を言われたと怒るわけがない、と麗は心の中で自嘲した。
「あなたが会社を乗っ取ったわけではないという証拠はありますか? 言葉だけでは信用できません。麗さんが心配です」
麗にしかわからなかったと思うが、何が琴線に触れたのか明彦はその途端、苛立ったのを感じた。
「麗の心配をするのは私の役目です。それにしても、難しいことをおっしゃいますね。信用は仕事を通じて得ていくつもりでしたが、麗音と関係がなかったことを証明して欲しいだなんて悪魔の証明では?」
明彦が五木を睥睨している。
元々五木は麗をかばってくれていたのに何故こうなるのか。
「確かに麗音さんと私は高校時代からの友人ではありますが、恋愛関係に陥ったことは一度もありません。私が麗さんと結婚したのは、麗さんをとても大切に思っているから、それだけです。私にとって麗さんはずっと特別な女性でしたから」
「えっ?」
麗は、ゆっくりと人前でされた明彦の告白じみた言葉に顔が赤くなっていくのを感じていた。
「それでは失礼。仕事がありますので」
明彦に肩を抱かれ、強引に連れ出されながら、麗は明彦の顔を見た。
(ずっと、っていつから……?)