三章
「あれ、麗ちゃん髪切ったんだね」
麗が代表取締役判子押す係の仕事をしていると、実はロックンローラーだった営業部長が社長室に入ってきた。
「おはようございます。実はそうなんです」
社長になったものの、彼らとの関係は変わらなかった。
代表取締役社長という地位ではあるが、実際の社長は明彦だというのは社内の共通認識で、麗は社長の豪華な椅子に座っているだけだからである。
「いいねー、似合ってるよ」
営業部長は麗を褒めているのに、瞳を輝かせていた。
(あれだ、女の子が髪を切った事に気付いた自分を偉いと考えてるパターンだ)
「部長が気づいてくださって嬉しいです」
「女の子の変化に気付くのは男として当然だよ」
その割には随分得意気である。へへん、と子供のように鼻を掻いている。
「そんな事ないですよ、なかなか難しいことだと思います。流石、部長です」
取り敢えず麗が褒めると、満更でもなさそうな顔をしている。
「そうかな?」
「はい、ありがとうございます。それで、何かご用件がおありなのでは?」
麗は、にやつきながら頬を掻いている部長をせっついた。
「そうそう! 今CM作ろうかって話になっているんだ。それで、 映像製作会社の人が創業家の話も聞きたいらしくてね。悪いんだけど今度来るから、お相手してくれる?」
「かしこまりました」
CMを作っていることすら初耳だし、何を話せばいいか全くわからないが麗は了承した。
「お茶菓子は用意した方がよろしいですか」
「お願いできる?」
「勿論」
麗は秘書は断っており、買い出しは自分でしている。
麗は頭の中で幾つか店の候補を思い浮かべた。この感じだとそんなに高価なものでなくてもいいだろう。
「ごめんね、手間かけて」
「須藤百貨店の近くに予定がちょうどありましたので、問題ありません」
麗は昼休みに、病院の面会時間に合わせて、父に雑誌や新しいパジャマや下着をメーカー指定で買って病院まで持ってくるように指示されていたのだ。
「そうなの? 良かった。須藤百貨店と言えば今、北海道物産展やってるよね。あれボク大好き。わくわくしちゃうよね。イクラ丼もソフトクリームも好きだけど、生チョコレートが売ってるとついつい買っちゃうんだよね」
ダンディーキャラは諦めたのだろうか、北海道物産展という言葉に部長がキラキラと目を輝かせている。
「私はバターサンドが好きです」
何年か前に明彦が麗にお土産にくれたバターサンドは特に美味しかった。
麗音の分は別にあるからお前が一人で食べる分と言って五個入りのバターサンドをくれたので、麗は一日一個ずつ味わうつもりが、つい止まらずに全部ペロリと食べ切ってしまい、自分で自分に驚いた覚えがある。
勿論、カロリー表示の書かれた表紙は見ずに捨てた。
「バターサンドも美味しいよね! 今度ボクも家族で行こう。娘もきっと喜ぶ」
娘の笑顔を想像しているのだろう。部長はとても幸せそうな顔をしている。
「娘さんがいらっしゃるんですね。お幾つですか?」
「15歳なんだけど反抗期でね。困ってるんだ」
一転、部長がショボくれたので、麗はちょっと可哀想になった。
「パパの洗濯物と一緒に洗わないでって言い出したり、パパ臭いから臭い対策の石鹸買ってきたからあげるからしっかり洗ってねって言い出したり、パパ弱いからゲーム一緒にしてもつまんないし勉強するって言い出したり、最後にはパパ太ってきたから晩酌禁止って言い出すんだ!」
「とてもいい子に育ってらっしゃいますね」
自虐風自慢をされて、麗は心配して損したなと思いなが思いつつ、相づちを打ったのだった。
気乗りしなさすぎて重い足で、ナースステーションに着いた麗は女性の看護師に面会申請をした。
看護師が笑顔で応対しようとして失敗したような表情をしたので、どうせ父が何かやらかしたんだろうなと申し訳なくなる。
台湾土産の箱菓子を皆さんでどうぞと看護師に渡した後、個室の病室に行くと、扉が開いている中では看護師が父に点滴を打っていた。
筋肉がすごい男性の看護師だ。
女性の看護師にセクハラをした結果、この人が担当になったのでなければいいが。
「遅い! 入院している父親が呼んでいるのに何故すぐ来ない? この薄情者!」
開口一番怒鳴り付けられ、麗は溜め息をついた。
「しゃーないやろ、薄情なところはあんたに似てん。わざわざ買い物して来てたげただけでも感謝して」
修羅場かと困った顔をしているムキムキの看護師に挨拶し、買ってきたパジャマと雑誌を並べた。
「身寄りのなくなったお前を引き取ってやったのは誰だと思っている!」
「姉さん。因みに高校と短大に行かせてくれたのも姉さん。お前は遺伝子ばらまいた責任を放棄してただけ」
この男がしてくれた事と言えば、姉に強制されて麗を認知したことくらいだ。
「生活費は私が出してやった!」
「知ってた? 子供の生活費って親が出して当たり前なんだよ?」
「うるさい! 大体、お前の夫はどうした? 義父が入院しているのに見舞いにも来ないのか!?」
不利を悟ったのだろう、なおも癇癪が続く父の矛先が明彦に向かった。
「明彦さんはあんたがガッタガタにした会社のせいで忙しいの。姉さんに散々尻拭いさせておいて追い出して、次は明彦さんに迷惑かけて恥ずかしくないわけ? しかも私を社長に据えるとかどんたけ迷惑よ」
娘のことを可愛くて仕方がないとばかりに嬉しそうに話していた営業部長と己の父を比較してしまい、麗は苛立った。
「違う、あれは嫌がらせのつもりは……いや、もういい。それより、おい、誰がクロスワードパズルを買ってこいと言った! 経済誌を買ってこいと言った筈だ」
指定された雑誌ではなく、懸賞付きクロスワードパズルの雑誌を買ったのは麗の嫌がらせだった。
「どうせ経済誌なんか読まへんくせに? そもそも、あんたもう会社追い出されたんやで。大人しくそれやって時間潰し」
仕事が忙しくてなかなか会えないという実母の詭弁を信じていた子供のころは、次に会えるのを指折り数えて懐いていたし、会う回数が少ないため可愛がられていた。
だが、それも、母が捨てられるまでだった。
父にとって麗など、己が手間をかける必要がないから可愛がることができる愛人のペット扱いだったのだろう。
そのペットが噛みついて、己のテリトリーに侵入してからというもの、当然だが、扱いは変わった。
無視されればまだいい方で、父が恐れている姉がいない時は、怒鳴り付けてくる事も多かったが、病気になってからというもの余計に酷くなった。
「何だと! お前の今の裕福な暮らしがあるのは誰のお陰だと思っている!」
「明彦さん。ありがたいことに親元にいたときよりずっと幸せやわ」
「役立たずの癖に分不相応な生活をして随分と調子に乗りおって! こっちは、麗音ではなくお前なんぞを嫁がせたせいで、辞任させられたというのに!」
麗は父の言葉に息を詰めそうになった。
(辞任と引き換え? アキ兄ちゃんはやっぱり私なんか娶りたくなかったから交換条件をつけたの? ……違う、大丈夫。例え交換条件が本当だったとしても権力に固執している父を辞任させるための方便に使っただけ。こいつの言葉より好きだと言ってくれたアキ兄ちゃんの言葉を信じるべき)
「お陰様で、会社は上向いてきてるで。あんたがいなくなってお婆様の代に戻ったみたいやって言って、みんな明るい顔してるわ」
麗が祖母、麗華の事を持ち出した瞬間、我慢ができなくなったんだろう、クロスワードパズルが飛んできた。
当たりはしなかったので、麗は無視する。
「お前は、お前は…!」
父にとって、祖母と比べられることが一番我慢ならないのだ。
知りたくもないが、祖母と父の間にもまた確執があったのだろう。
「すみません! これ以上患者を興奮させないで下さい。出ていって」
看護師に怒られたので、麗はすみませんと看護師にだけ頭を下げ、床に落ちたクロスワードパズルをそのままにして病室を出た。