1-9
チュンチュンと今朝も台湾の雀が鳴いている。
国が違うのだから雀も別の鳴き方にチャレンジしてみればいいのにと、麗は寝ぼけた頭で雀にしてみたら意味不明で理不尽なことを考えた。
ぼんやりと体を起こすと、すぐ横で明彦が頬杖をついてベッドで横になっている。
どうやら、明彦は麗を起こさないように、消音にした英語のニュース番組を字幕で見てくれていたようだ。
「おはよう」
「……おはようございます」
「とりあえず風呂に入ってこい」
明彦の言葉に、麗は昨日タクシーの中でがっつり寝てしまったことに気づく。
二日連続で寝落ちしてしまったことになる。
だって、初の海外旅行で疲れていた、というのは言い訳だろうか。
「迷惑かけたよね? ごめん」
麗は昨夜何度か明彦に体を揺すられた記憶はあるが、起きた記憶がない。
「お前は、本当に気持ち良さそうに寝ていた」
麗はすばやくベッドの上で正座した。
もしかして明彦にお姫様抱っこをしてもらって、ホテルの部屋まで帰ってきていたとしたら恥ずかしすぎる。
(新婚さんかよ! いや、新婚さんやねんけど)
「すいません、何も覚えてないです」
「昨夜、麗はタクシーの中でよだれを俺の肩につけながら鼾をかいて爆睡していた」
「うそぉ!?」
タクシーの中でヨダレと鼾の合体技を出していたとは!
女として、と言うより人として色々とアレな行為である。
「嘘だ」
「嘘なの!?」
「麗は俺の肩に顔を乗せて、頭をグリグリと俺の首にすりつけながら寝ていただけだ」
何故そんな事をしたのだろうか? モグラになる夢でも見ていたのか?
「その後、半分寝た状態でタクシーから降り、俺にくっついていれば自力で歩けたから、部屋まで連れて帰って、後はベッドの上に落とした。そして、そのまま朝が来た。つまり、もう一度言う。風呂に入ってこい」
「申し訳ございません! 只今、行って参ります!」
麗は敬礼した後、風呂場へ急いだ。
どうやらお城に入るために王子様に抱き上げてもらうプリンセス展開は回避されたようだ、良かった。
しかし、洗面所兼脱衣所の見事に美しい装飾が施された鏡の前で、麗は固まった。
(ブラジャーのホックが外れている……!)
ぐるぐると麗は頭を動かす。
自力で外したのか、寝ているうちに外れたのか、明彦が外してくれたのか。
仮に明彦が外してくれたとしよう。
寝ているときまで締め付けられたら可哀想だろうという優しさだとして、問題はこのなだらかな体を、急勾配な体ばかり見慣れた明彦に見られてしまったかどうかだ。
(……いや、待て。アキ兄ちゃんはモテる。ブラジャーくらい服の上からでも片手で外せるはず。そう、そうに決まっているやん! 今こそアキ兄ちゃんのモテ度を信じなくてどうする)
明彦はブラホック外し大会に出場すれば、日本代表としてファンタジスタと呼ばれてもおかしくない逸材のはずだ。
麗は納得がいく結論が出たので、シャワーを浴びたのだった。
麗は更衣室でビキニを着て後悔した。
(食べ過ぎた……)
朝からシャンパンが提供される異空間での朝食が美味しすぎたのは勿論、昨日からずっと食べてばかりいるせいである。
麗は水陸両用のパーカーを羽織り、しっかりとチャックを閉め、現実に蓋をした。
この封印は解いてはならぬ。封印が解かれるとき、オマエに災いが訪れるだろう。
麗は脳内に住んでいる老婆の巫女の予言をありがたく聞きつつ、更衣室から出ると、眼前に現れたプールの美しさに麗はまたしても感嘆した。もう麗は何度感嘆したら良いのかわからないくらいだ。
青のモザイクタイルが一面に貼られており、遠目で見ると大きな花が描かれていることがわかる。
そして、そのプールで先に明彦が泳いでいる。
麗が着替えて出てくるまで時間があったので、明彦は軽いクロールでウォーミングアップをしているというところだろうか。
明彦がゆっくりと、あまり水飛沫を立てず、しかし美しいフォームで、一番端まで到達し、顔を上げる。
そして、遅れて更衣室から出てきた麗を見つけてプールから上がってきた。
水で濡れた髪を手でかき上げ、ほどよく日焼けしている筋肉のついた体を惜しげもなく晒して、プールサイドを歩いて麗に近づいてくる。
まさに水も滴るいい男である。
明彦の後ろで世界で最も権威のある音楽賞を受賞した歌手が、ポップな曲を生歌で披露していてもおかしくないくらいにはセクシーだ。
(正直、こっちに来ないでほしい)
麗は、素晴らしいモノを見ると人間というものは一斉におお! と本当に感嘆の声を上げるのだなと、プールの先客で、家族や友人、カップルでグループごとにポツポツと固まって座っている中の女性陣だけを観察して思う。
そして、その素晴らしいモノが連れている相手が自分だとバレるのは、明彦が女性に見られることを見ることに慣れている麗でも勘弁して欲しかった。
「麗、プールはさほど冷たくはないが、足からゆっくり入れよ」
母親か小学校の先生が子供にかけるような言葉を告げながら、明彦が麗の前に着いてしまった。
「はーい」
麗が返事すると、明彦を見ている女性達が囁く声が耳に入ってくる。sisterとか妹とかメイメイとか。
多分メイメイは中国語で妹という意味だろうなと麗は察した。
それにしてもメイメイという呼び方は……
「パンダみたい」
実際、現状の麗は大熊猫になっているが。
「パンダが見たいのか? なら、コンシェルジュに動物園の場所を聞こうか?」
違う、そうじゃない。
パンダは見てみたいが、そこではない。
「ちゃう、ちゃう。さっき聞こえてきた中国語がパンダの名前みたいで可愛いなって思っただけ」
麗は手を横に振った。
「そういえば、なんでパンダの名前って漢字の繰り返しか、浜をつけるんかな? 折角、日本で産まれたんやから花子とか太郎でもええと思うねん」
明彦の横にいることが嫌であることがバレるのは申し訳ないので、誤魔化すために言ったことだが、実際、麗がパンダの話題のニュースを見るたびに思っていたことでもある。
「漢字を繰り返す名前は、日本で最初に中国から海を渡って来てくれた二頭のパンダがそうだったから、それに倣ったためだ。そして、浜が名前に着く方は、海辺にある動物園にいるパンダだ。パンダは気に入った笹でないと食べてくれないから、飼育員は笹の調達に苦労しただけでなく、ちょっとしたストレスで病気にもなりやすい。それを乗り越え妊娠出産しても、今度はパンダの多くが双子で産まれてきて、弱い個体が育児放棄されやすい。それでも、母パンダに可愛い赤ちゃんパンダを二匹とも育ててもらう方法を飼育員が諦めずに模索した結果、その海辺の動物園は中国に次ぐ繁殖技術を持つようになり、そこにいるパンダは血の繋がった大家族になることが出来た。つまり、浜が名前に着くのは海辺の動物園で産まれた証なんだ」
思っていたよりもずっと詳細で長い回答に、麗の頭の中でプロジェクトパンダ。とエコーのかかったナレーションが響く。
地上の星の飼育員はとても苦労したようだ。
「へー」
麗はただの雑談のつもりだったのに、やけに明彦がパンダ情報に詳しいことが気になった。パンダ通とでも言おうか。
「パンダが気になるなら、今度観に連れて行ってやるよ」
「……楽しみにしとくわ」
これまでお付き合いした女性の中でパンダ好きがいたのかなと思うと深く聞くのも憚られ、麗はしっかりとアキレス腱を伸ばした。
プールに入る前にちゃんと準備運動をしておかなければならないからだ。
折角のプールだからと、麗は明彦に向けられる女性達の視線を気にするのは止めようと、明彦からそっと離れて泳ぎはじめた。
プールに入るのは何年ぶりだろうか。
高校の授業が最後だった気がする。だからだろうか、イマイチ上手く前に進まない。高校のころはもう少し早く進んだような気がする。そもそも、泳ぐのって結構疲れる。
「麗っ!」
突然、麗は誰か、明彦だ。明彦に後ろから持ち上げられた。
「大丈夫かっ!?」
後ろから抱き締めてくる明彦の顔を覗くと、見たこともないくらい焦っていた。
「何が??」
何故、明彦がこんなに必死な顔をしているのか麗にはわからなかった。
「溺れてたろ!?」
「ううん、泳いでた」
「あれで……?」
つまり、麗は明彦に溺れているのと勘違いされて救助されたようだ。
「悪い。右手と左手がせわしなく前に出て、進みもせずに足が沈んでいったからまさか泳いでいたとは思わなかった」
麗は謝罪されながらディスリスペクト、つまりディスられている気がした。
「私、クロールしてたやん」
麗は体を下ろしてもらって明彦と向かい合い、ちょっとむくれた。
「それは絶対に嘘だ。お前はまるで、大阪湾に沈められている途中のようだったぞ」
麗のクロールにはやくざが登場したらしい。
ドラム缶とコンクリートが登場しないだけ、まだましだと思いたい。
「いいか、クロールってのはな、簡単に言うと両手で交互に水を掻き、両足を交互に上下に動かすんだ。まずは足の動きからやってみようか。足の先だけを動かすんじゃなく、太股から動かすように意識してみろ」
(しまった、アキ兄ちゃんの教師モードが発動してしまった)
結局のところ明彦は、俺はお前の兄じゃないとか言う癖に何だかんだ面倒を見ようとするのだ。
麗は、この関係性は明彦のせいでもあると思ったが、口答えすると指導が厳しくなるので、黙ってプールのヘリを持ってバタ足を始めた。
しばらくして麗は、バタ足だけ、多大におまけしての合格点を貰えたが、明彦から次は手の動きだと言われ、トイレに行ってくると逃げた。
今のところ組長の愛人と組の金を持ち逃げしての逃避行をする予定はなく、原因がなければ結果もないため、大阪湾に沈められることもない。
だから、多少泳げなくても麗の人生に問題はないのだ。
そうして、明彦の教育ママっぷりも冷めたかなと思えるころにトイレのある更衣室からプールに戻ってくると明彦がナンパされていた。
明彦の隣を陣取った相手の女性はナンパをするほど自分に自信があるだけあって、スタイルが暴力的な美女だ。
彼女が世紀末救世主だとすれば、麗はヒデブ、と秘孔を突かれて殺される、世紀末のどこで売っているのかわからないトゲトゲした服を着た悪役モブどころか、ボロを着て虐げられている一般人である。
(さて、こんなときどうすべきか?)
1、「オイ、俺の女に何か用か?」と威嚇する。
2、「フラフラと俺以外の前で色気振り撒いてんじゃねーよ! 隙だらけなんだよ、お前は!」と明彦を詰りながら連れ去る。
3、「遅くなって悪かったな。誰? 知り合いか?」とすっとぼける。
4、「こいつ、可愛いだろ。気持ちは解るんだけど悪いな」と明彦の肩を抱いて穏便に断る。
答えは勿論5、放置だ。
自力でどうにかしてくださいコースで決定である。麗はとてもじゃないが少女漫画のヒーローにはなれない。
鬼コーチが捕まっている間に、プールで何秒浮けるか測って一人で遊ぼうかと麗が進路をプールに変えようとしたとき、振り向いた明彦と目が合ってしまった。
明彦が美女に何やら告げ、麗の元に歩いてきた。
「遅かったな」
「ああ、ごめ……」
ん、めんどくさそうだったから、つい。までは言えなかった。
明彦に頬にキスされたせいで。
そう、明彦が周りに見せつけているかのようにキスしてきたのだ。
「行くぞ」
明彦が固まっている麗の腰を抱いて、プールサイドのソファに移動したためされるがままだ。
丸形のソファにはカップルのために頭上に二人きりの世界を演出するかのような天蓋がついている。
そこに麗は腰を抱かれたまま座ったので、明彦にくっついた状態になった。
「いや、あんなとこでチューせんでもええやん!」
膠着状態から戻ってきた麗は恥ずかしさから怒った。
何故他人に見せつけるようにキスされなければならないのか。
「んー、お前が可愛いからキスしたいなと思って」
一方の明彦は余裕そうに笑っている。
「なっ! 変な言い訳せんといて。人をダシに使わなくてもナンパなんか自力でどうにでもできるでしょうが!」
赤くなっている顔を見られたくなくてプイと麗が反対を向く。
「言い訳だなんて心外だな。お前は可愛いよ。特に目が気に入ってる」
明彦は麗の顎を持ち上げて振り向かせた。
笑うのをやめて真剣な顔をしている。
「お前は、楽しい時にわかりやすいくらいに目が輝いて、見ていて飽きない」
明彦と近くで向かい合うのは、何だか恥ずかしくて、ドキドキする。兄のように慕ってきた明彦の男の部分が見えるようで動けない。
「俺はお前のその姿を見ていると一緒に楽しくなるんだ」
麗は自分の耳にまで心臓の音が聞こえてくる気がした。
(どうしよう? もし、この心臓の音がアキ兄ちゃんに聞こえたら……)
「麗、俺は」
「くっ、クロールの手の動きも教えて」
麗は強引に立ち上がり、プールへ走った。
これ以上見つめ合っていると、どうにかなってしまいそうだった。