プロローグ
「アキ兄ちゃん、待ってや! なんでそんな新婚さんみたいなことしてんのっ?」
それは結婚式を終え、初め夫婦として迎える夜。
関西有数の高級ホテルで挙式をした後、そのホテルの最上階のスイートルームで極上と言える男、須藤明彦に部屋に入った途端、後ろから軽々と横に抱き上げられ、佐橋麗、いや今日から須藤麗は、思わずツッコミを入れた。
「まさしく新婚さんだからだろ」
明彦が、何言ってんだこいつ。という顔をしているが、麗としては何やってんだお前。と言いたい状況だった。
鋭い切れ長の目に、後ろに纏められた黒髪。高い鼻筋に、薄い唇。
人一人を軽々と抱き上げてくる筋肉に見合った長い脚。
結婚式の夜にこんな素敵な男性に、こんなことをされたら、女の子なら、いや差別は良くないきっと男性だってときめいてしまうだろう。
だが、麗は今、ときめいている場合ではなかった。
「いや、あのさ、そこに山があるから登ってみようっていうチャレンジ精神は大事やと思うけど、そこに女がいるから抱いてみようっていうのはおかしいと思うねん」
麗はこの結婚で、自身の貞操が犯されることはないと高を括っていた、というより女として扱われることを想像もしていなかったのだ。
「そうやって簡単に体の関係を結ぶなんて、おかしいよ、ニッポンの若者の貞操観念!いや、世界の若者の貞操観念!! いつ改めるの、今でしょ!」
少々古い流行語を使いながら、なおも熱弁を振るおうとする麗に明彦は深く頷いた。
「なるほどな。確かに誰でも彼でもというのは俺も反対だ。ところで麗は今日俺の何になった?」
「……………………つ、つま?」
返事にたっぷりと時間を要したが、麗はついに観念して答えを言った。
婚姻届は既に提出済みな上、先程式場で、キリスト教徒でもないのに、白人の多分偉い片言なおじさんの前で形式的にキスもした。
因みにあれが麗のファーストキスだった。
「つまり、俺の貞操観念はおかしくないだろ。夫が妻を抱く。どこにも問題はない」
そうしてまた一歩明彦がベッドに向かって進んだため麗は足をバタつかせた。
「あるあるあるある! お飾りやろ、私! ツマはツマでも刺身のツマみたいなもんで、実用の妻ちゃうやろ!」
「その生々しい言い方を借りるなら実用の妻だが?」
明彦に睥睨され麗はむにゃむにゃと言い訳をした。
「ええ? だってその……結婚相手、姉さんならともかく私やで? アキ兄ちゃんとは全っ然釣り合わへんし……」
「結納の日、俺が言ったことを覚えているか?」
勿論、覚えている。何故明彦が麗と結婚したいのか考えるようにと言う質問だったはずだ。
「どうせあれやろ、明兄ちゃんは明兄ちゃんで、親戚からの結婚しろ圧力が強くて、とりあえず契約結婚してくれる都合の良い奥さん探してたとかやろ? ええとこの御曹司やからお家とか継がなあかんし、大変やね」
百貨店、公共交通機関、それに不動産業などを営む関西有数の優良企業である須藤ホールディングスの御曹司である明彦は、持ち込まれる沢山のお見合いに辟易していた。
どんな美女でも氷のような明彦の心を癒やすことはできなかったのだ。
しかし、ある日、美しくて控えめで虐げられている令嬢がお見合いの場にやってきて、最初は塩対応するものの、その健気さにかたくなな心がほぐれていって、次第に二人は惹かれ合い……。
麗は明彦の幸せな恋物語を妄想し、ひとり頷き、ぎゅっとガッツポーズを作った。
「そのうちきっと虐げられた美しい令嬢との素敵な出会いもあると思うで! 早々に諦めんと頑張れ!」
「今日! その! 虐げられた令嬢と俺は結婚したばかりだ!」
コテンと首を傾げ、麗は自分で自分を指さした。
「ええ? 私? 出自こそあれやけど、そこそこ幸せに暮らしてきた私が虐げられ令嬢名乗るなんて、虐げられ令嬢界に失礼やない?」
「まず何だ、その虐げられ令嬢界って」
「いや、知らんけど」
知らんのかと、軽くツッコミを入れつつ明彦は言葉を続けた。
「借金の形に好きでもない男、つまり俺に売られたんだから、十分不遇だろ?」
「いやいや、私、アキ兄ちゃんのこと大好きやで?」
好きでもないだなんてそんなわけない。
これまでどれほど明彦に世話になってきたことか。
「ラブじゃなくてライクだろ?」
「当たり前やん! 私ごときがそんな身の程知らずな恋するわけないわ」
麗は全力で手を横に振った。ないないと笑って否定をすると明彦に睨まれた。
「全力で否定するな、実はちょっと気になってたと頬を染めろ。傷つくだろ?」
「え、ごめん。モテ男のプライドを傷つけて。でも私、アキ兄ちゃんのことはほんまに大好きやで」
明彦はそりゃあモテる。ものすごーーーーくモテる。近くで見てきたのだからそれは確かで、麗一人くらいドキドキしなくても誤差の範囲内だと思うのだが、明彦はそうではないらしい。
「何位だ?」
「何が?」
「お前の中の俺の順位」
「ぇえーーー? 死者は順位に含みますか?」
バナナはおやつに入りますか感覚での質問に、明彦がはーーーーっと深い溜め息をついた後、目を眇めた。
「含まない」
「なら世界で二番目かな。ほら、一位は不動で姉さんやろ、私」
そう、麗は明彦のことがかなり好きなのだ。死んだ母の次くらいに。
「お前はいつだって、麗音のことしか考えていないな」
「うん!」
麗は元気に頷いた。姉は麗の生きる意味なのだ。
だが、明彦はその返事が気に入らなかったのだろう。つい、と視線を送られた。
「まあいい、欠片も意識されていないのはわかっていたことだ。まずは、そのアキ兄ちゃんって呼び方をやめてもらおうか。俺は麗の兄じゃない。夫だ」
明彦は心底嫌そうな顔をしている。呆れと怒りが表情から読み取れてしまい、麗は明彦に突き放されたような気がした。
「だって、その須藤さん? は……」
兄みたいに思っている。優秀な姉の友人。
麗なんかのことをずっと可愛がってくれていた。
お菓子をくれたり、勉強を見てくれたり、からかわれたり、頭を撫でてくれたり、気にかけてくれていた。
明彦だって妹みたいに思ってくれていると、思い上がっていた。
心もとなくて、寂しくて、姉が遠くに行ってしまったのに続いて、明彦もいなくなってしまう気がして俯いた。
「その呼び方もやめろ。麗も今日から須藤だろ? そもそも、麗は俺が大切な妻をぞんざいに扱うようなやつだとでも思っていたのか?」
「そんなわけないやん! アキにぃ、明彦さんのことは私さっき言った通り世界で二番目に好きやし、だからこそちゃんとお仕えするつもりで、家事とか頑張って……へぶぁっ!」
突如、ドサリとベッドに落とされて麗は変な声が出た。
スウィートルームのベッドはスプリングが効いていて体が跳ねたのだ。
「二番目と言われて俺が喜ぶとでも思ったか」
明彦と目があった。凄く近くで。覆いかぶさられているのだ。
(もしかして、アキ兄ちゃんは本当に本気なの?)
先程までは、余裕があった。
明彦も戯れ半分で、冗談のような言葉の応酬で終わるのだと思っていた。
だが、今の明彦の瞳は剣呑そのもので、麗を捕らえて離さない。
「あ……わ、たし……」
いつもならよく回るはずの舌がうまく動かない。
「今更後悔しても、もう遅いからな。すでに籍は入っていて、麗は俺のものになってるんだ」
「いや、その、わ、わたしは、えっと、わたしのもの、と、いいますか。……いや、姉さんのものなのかな? いや、私が私の意思で姉さんのものになっているといいますか……」
言葉が上滑りしている。麗は完全に状況に呑まれていた。
初めて明彦を怖いと思った。すっかり怯えきった顔をしている麗が明彦の瞳に映っている。
明彦の大きな手が麗の頬に触れようとしてきて、ビクリと震え、ぎゅっと目を閉じた。
「はぶっ」
鼻を摘ままれ、麗は目を薄く開いた。
「無理矢理したりはしない。だが、結納の日に俺が言ったことを今一度よく考えるように」
「あ……う」
「麗はもう、麗音のものじゃない。俺のものだ」