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第1話

「連絡先、教えてください」

 見目麗しい女性が、上目遣いでこちらを見つめながらそう懇願してくる。

 ふたりの距離は近く、手を伸ばせばその小さな肩に触れることも容易い。

 瞳に街灯の光が反射してキラキラと輝いている。

「あの、聞いてますか?」

 戸惑いのあまり反応できずにいると、無視されたと勘違いしたのか、女性がまなじりを釣り上げてにじり寄れば距離はより一層近くなった。

 こんな風に女性から迫られて連絡先を聞かれるような経験はこれまでの人生で一度もなかった。

 だからどのように対応すればいいのかわからず混乱して固まってしまったのだ。

「い、いえ、その、えっと……」

「連絡先教えてください。何度も助けていただいてお礼がしたいんです」

——お礼

 確かに今日だけで彼女の命を二度助けたことに間違いはない。

 お礼がしたいという厚意を無下にはしたくないのだが、悲しいかな正解の行動がわからず戸惑うばかりだ。

「こ、これも仕事のうち、なんで。お気遣いなく……」

 そう、自分にとっては当たり前のことをしただけでわざわざお礼をしてもらうほどのことでもないのだ。

「というわけで、これで……」

 そう言って彼女の元から離れようとするが、それは許されない。

 彼女は左腕を掴むと、抱きしめるように両腕を絡め、立ち去ることを阻む。

「それじゃあ私の気がすまないんです!」

 彼女の瞳に見つめられて、石になったように動けなくなる。

——どうしてこんなことになってしまったんだ

 今日一日の出来事を、白純潔しらずみいさぎはため息をつき思い返した。




 白純潔は不動産会社で営業として働いている。

 主に賃貸仲介を行っている会社で個人法人問わず店舗へ訪れたお客のために要望の叶う物件を探し、契約を結ぶ仕事を日々こなしている。

 潔にはもうひとつ生業がある。

 その報酬だけで不動産仲介の仕事をしなくても十分に生活できるのだが、なかなか就職が決まらず思い悩んでいたところを雇ってくれたことに対する感謝もあり、この仕事を続けている。

 そういうわけもあって本日も潔は店舗にて来客の応対をしている。

「ええと、それではいくつか質問をさせてください」

 椅子に座った潔の対面にはカウンターを挟み、中高年の女性と歳の離れた男性のふたりが椅子に腰掛けている。

 女性は鋭い眼光で潔の一挙手一投足を見逃さんと目を光らせ神経質そうに眼鏡のつるへ触れて何度も位置を直し、一方の男性は興味なさげに視線を落として潔の方を一瞥することもない。

「今回の借り主様は……」

 潔は手元の紙に視線を落とす。

 それは事前アンケートで物件を案内する前に細かい要望や借り主の情報を記入してもらうためのものだ。

 借り主の欄には男性の名前が書かれている。

「うちのゆうちゃんよ! 仕事が決まったから一人暮らしを始めるための部屋を探しているのっ」

 女性が店中に響く大きな声で答える。

「あ、は、はい、ご子息様でいらっしゃる?」

「そんなの見ればわかるでしょ!」

「そ、そうですね……」

 潔は女性に気圧されながらも、職務を全うしようと努める。

 アンケートに目を通して、物件の条件を確認する。

 部屋の広さにこだわりはないようだが、オートロックや二十四時間監視、管理人常駐、耐久性能などセキュリティに関してのこだわりが強いようだ。

「安全面に不安がおありですか?」

「はじめての一人暮らしってだけでこんなに不安なのに、こんなご時世だものなにがあるかわかったもんじゃないわ! だからとにかく安全な物件にしてちょうだい、あ、近くで事件でもあったらすぐひとが来てもらえるように警察に巡回してもらいたいわ。お願いできるかしら?」

「ええと、弊社からそういったことをお願いできないのでお客様ご自身で警察のほうへお話いただくことになります」

 女性は不満そうにフンと鼻を鳴らした。

「まったく、そんなこともできないの? 仕方ないわね!」

「す、すみません……」

 わざわざ潔は頭を下げて謝る。

 恐る恐る視線を戻し様子をうかがうと、これについては納得してくれている様子だ。

「……それとご予算のほうなんですが、ご希望のセキュリティがしっかりしている物件ですと家賃や管理費が相場よりも高くつきましてご希望よりもいささか高くなってしまうかと……」

「そこはあなたがなんとかしなさいよ! それが仕事でしょ!」

 これはここで説得するよりも実際に物件の候補を見てもらって現実を知ってもらうほうが良さそうだと潔は判断して、ひとまずこれ以上このことは掘り下げないでおくことにした。

「それと立地なんですが、ご希望のエリアは職場から近い地域なんでしょうか? 物件を探す際にもっと他のエリアもご提案できると思いますので」

 対象のエリアが広ければそれだけ物件の数が多くなるので条件に合うものも見つかる可能性が大きい。

 それに、希望のエリアは住宅街のど真ん中で戸建てばかりが建っている地域だ。単身者向けの賃貸はそもそも数が少ない。

「いえ、職場までは二時間くらいかかるわ」

 と、女性は平然とそう答えた。

「え? 二時間?」

 聞き間違えかと思います、潔は失礼と思いながらも疑問の声を上げてしまった。

「ええ、そうよ」

 聞き間違いではなかったのかと潔は戸惑う。

「通勤時間を減らしたくて職場近くで物件を探すかたが多いんですが、この地域で探している特別な理由があるんでしょうか?」

「うちから歩いて行ける距離がこのあたりなの」

 ここで言う『うち』というのは女性の住んでいる家のことだろう。

「……ご実家から歩いて行ける距離ということですか? 一人暮らしされるんですよね?」

 その質問がタブーだったのか、潔が知らぬ間に逆鱗へと触れてしまったのか、女性は猛然と話し始めた。

「ゆうちゃんは本当に不器用でわたしがついていないとなにもできないのよ! 掃除も苦手でちょっと目を離すと部屋はちらかっちゃうし、料理なんてもってのほか! だからわたしが毎日ゆうちゃんの好きなものばかり丹精込めて作ってるのよ。それなのにうちの主人が急に『そろそろ独り立ちしたらどうだ』なんて言いだしたのっ、わたしはそんなの必要ないって言ったのに聞く耳なんてまるで持たなくて! きっと誰かが余計なことを吹き込んだに違いないわ! だからだからせめてわたしがゆうちゃんのお世話できる距離でって、でもわたしは車も運転できないし歩いて通うしかないからこのあたりが限界なの!」

 まくしたてられ、最初こそきちんと相槌を打っていた潔だったが次第に反応は薄くなり、呆然と女性を見つめているだけだ。

 女性は「わかった?」と念を押すように鋭い視線を潔へ向かって投げつけ、ようやく潔は我に返る。

「は、はい、かしこまりました。ありがとうございます」

 語尾を震わせながら手元のアンケートに『立地が最重要条件』とメモを残した。

「ええと、そうですね。条件が少し厳しくすぐにご案内できる物件がないので、後日あらためてご案内でもよろしいでしょうか?」

 条件に合う物件を見つけることは難しいと思いつつも努力する時間は欲しく、潔はそう提案した。

「そうね、じゃあ三日後にまた来るわ」

「え?」

 一週間ほどは日にちの欲しかった潔だったがどうやらそれは叶わないらしい。

「わたしたちも急いでるの、お願いね」

 なんとか調整できないものかと潔が発言する前に、そう言い残してふたりは嵐のように去っていった。

「ふぅ」

 潔は小さくため息をついた。

 と、使い捨てのカップに入ったコーヒーが静かに机の上へそっと置かれる。

「お疲れさまでした」

 潔が声の方へ視線を移すと、女性が苦笑を浮かべ労いの言葉をかけた。

「あ、どうも」

 たどたどしく、ぶっきらぼうに潔はお礼を言う。

 一瞬だけ、潔は彼女の顔へ視線を向けたがすぐにそらして、空中をさまよっている。

 彼女の名前は岬撫子みさきなでしこ、潔と同じく営業として働いている。

 整った容姿と愛嬌のある立ち居振る舞いで社内外にファンが多い。なにより、誰に対しても分け隔てなく接するその態度は見習うべきところも多く、人付き合いの苦手な潔にも気を悪くすることなく今回のように気を回してくれている。

 ただし、一方の潔は女性に対して苦手意識が強く目を合わせることも会話をすることもうまくできず、いつも必要最低限のコミュニケーションだけで済ましている。

「いやぁ大変ですね、白純さんも」

 気安い口調で話しかけてきたのは上井うえいだ。

 撫子と同じように潔を労う態度を見せながら、その実は撫子と話す機会を目ざとく見つけてやってきたのだ。

「はっきり言ってこんな条件の物件見つからないですよ、断ったほうがいいんじゃないですか?」

 ニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべながら、困った客に無理難題を押し付けられた潔を小馬鹿にするように見下ろしている。

「難しいけど、これもお客様のご要望だから頑張るよ」

 潔は上井の態度に気づかないフリをしながらそう答えた。

「手伝えることがあったら言ってください、私も協力しますので」

「あ、あ、はい。そのときは、その、お願いします」

 撫子のせっかくの申し出に対しても、ろくな返事もできない潔だった。




 潔が作業をしているとまた新しい客が現れた。

 今度は若い女性だ、年の頃は若い。撫子とそう変わらないように見える。

「いらっしゃいませ」

 潔は椅子から立ち上がり、女性へ声をかける。

「こちらへどうぞ」

「あ」

 潔がカウンターを挟んだ対面の席を指し示すと、女性は小さくうなずいてゆっくりと座った。

 物音も立てず、その所作は軽やかだった。

「物件のお探しですか?」

「はい、そうです。仕事の都合で急に引っ越すことになって、やっと時間が作れたのでこちらに伺ったんです」

「そうですか、それでしたらまずはこちらの用紙に必要事項をご記入いただいて、お部屋の条件も記載お願いします」

 何枚かの紙を留めたクリップボードとペンを渡す。

 女性はそれを受け取り、早速記入を始めた。

 女性の苦手な潔でも、さすがに仕事ということであれば、苦手意識はなくならないまでも、なんとかコミュニケーションは取れる。

 何度も繰り返し練習したマニュアルを実践すれば、最低限の形になる。

 記入が終わるまで手持ち無沙汰な潔は見るともなしに女性の顔を見つめている。

 肩には届かない程度の長さの髪。日に焼けているのだろうか、少し赤みがかっていて茶色っぽく見える。

 まばたきの度に揺れるまつげは長く、紙面の文字を追って忙しくなく動いている瞳が日本人とは違う青い瞳であることに気がついた。

 元来、女性が苦手で目線を合わせることも避けがちな潔だったが、見惚れたように女性の顔へ視線を送ったまま目が離せない。

「——あの、これ」

 と、いつの間にか女性は記入を終え、用紙を潔の方へ差し出していた。

「あ、ああ、ありがとうございます」

 潔はそれを慌てて受け取り、気恥ずかしさから高鳴る鼓動を必死に無視しながら目を通す。

 名前は桧山ひやまカレン。職業は会社員で、年齢は二十四歳。潔とは八つの差がある。

 希望の条件は、『即入居可』の項目が選択されており、特記事項には『とにかく家賃を安く抑えたい!』と書かれている。

 女性にしては豪快な、勝ち気な印象を与える筆跡だ。

「お部屋の広さとか設備についてのこだわりはとくにございませんか?」

「はい、とにかく住める場所さえ確保できれば」

 カレンは「はぁ」とため息をついてから潔に向かって愚痴を吐き出す。

「本当に突然仕事が決まって、着の身着のままやってきていまは知り合いの部屋に泊まらせてもらってるんですけどずっと居座るわけにもいかないじゃないですか。本当なら会社が住むところの手配までしてくれるはずだったのに、間に合わなかったって言われてもう嫌になっちゃう。こっちは休みも返上してはるばる来たっていうのに」

 溜まっていたものを吐き出してスッキリしたのか、黙ったままカレンの言葉に相槌だけを打っていた潔にようやく気づいて、ハッと口元を手で抑え、頬は少し赤くなっている。

「ご、ごめんなさい、こんなこと急に言われても困りますよね」

「いえいえ、物件を探すヒントにもなりますので」

 そう言って潔は立ち上がると奥の棚から大きなファイルを持ってくるとそれを机の上に広げ、カレンにも中が見えるよう位置を調整する。

 そこにはさまざまな物件の間取り図や家賃の記載された紙が何枚も入っている。

「良さそうな物件をひととおり選びましょう」

「ありがとうございます!」

 そしてふたりはあれやこれやと言いながらファイルを眺め、いくつかの物件を候補として選び出した。

「いくつかのお部屋はこれから内見もできますけどお時間ございますか?」

 潔はピックアップした物件の束をまとめながらそう提案して、視線を紙の束から持ち上げる。

「ぁっ」

 バチッと視線がかち合った。

 カレンの切れ長の目は、カレンの本人の意志とは関係なく迫力がある。

 潔はとっさに目をそらしてしまう。

 いまの一瞬で鼓動が速くなり、身体が熱くなった。

 皮膚に汗が浮かぶ。

「大丈夫です、ぜひお願いします!」

 明るく笑顔を浮かべるカレンは、そんなことには気がついていない様子で元気にうなづく。

 いや、もしかしたらそんなことは日常茶飯事で、カレンからしたらもはや気にするようなことではないのかもしれない。


 潔は店舗近くの駐車場で軽の社用車に乗り込み、カレンを後部座席に乗せて内見へと向かった。

 車窓の向こうでは古ぼけた街並みが後方へ素早く過ぎ去っていく。

 潔がカレンの様子を伺おうとルームミラーへちらっと視線を送った。

 カレンは頬杖をついて窓の外を眺めている。景色が瞳の上を滑っていく。

 その表情に色はない。

 新しく住まう街への期待も、不安も、何も感じさせず、ただ流れゆく景色を眺めている。

「あ、あの! し、仕事……、お仕事はなにをされているんですか?」

 そんなカレンの表情を視界の片隅に捉えた潔は、不安にも似た焦燥感に駆り立てられ、それに物件までの道すがら無言で過ごすというわけにもいかず、話の種にでもなればと言葉を投げかけた。

「——え?」

 よほど深く物思いにふけっていたのか、心ここにあらずといった体でカレンはゆっくりと潔の方へ視線を向ける。

 質問については聞き取れなかったらしい。

「転勤が多いお仕事なんですか? 急に引っ越さないといけないなんて」

「なんでそれを……」

 つぶやくように小さな声を漏らしたカレンの顔へ次第に表情が戻ってくる。

「あ! ごめんなさい。私が言ったんでした」

 少し慌てたように声が上ずって、カレンは小さく頭を下げる。

「あ、いえ……」

 気の利いた返しもできず、もっと話の弾むようなことを言えればいいのにと潔は己の口下手ぶりが嫌になる。

「ええと、仕事、私の仕事についてですよね?」

「え、ええ」

「バイヤーなんです。いろんな商品の買い付けをやっていて普段から出張ばっかりなんですよ」

「へえ、かっこいいじゃないですか」

 カレンは自嘲気味に苦笑いを浮かべる。

「そんないいものじゃないです、肩書きだけカッコよくてもやってることはただの営業ですから。頭ペコペコ下げてお願いしますお願いしますって、それで売れたらいいんですけど売れなかったら仕入先からも会社からも怒られるんですよ」

 ガクッとカレンがうなだれるとよく手入れのされた髪の毛がはねて、キラキラと光が反射した。

「でもいいですよね、自分が見つけたもので誰かが喜んでくれるかもしれないんだから」

 潔にとってそれは素直な感想で、カレンを元気づけようだとかフォローしようだとかそんな打算的なことはなにも考えていない言葉だった。

「まぁ、そうですね」

 顔を上げたカレンはどこか気恥ずかしそうな表情を浮かべている。

「こんな時代なので私も私なりにいいものを届けたいって思ってはいるんです」

「いいことじゃないですか」

「……でも、こんな風に業務命令で突然引っ越し、なんてこともありますよ?」

 そう言ってルームミラーに映るいたずらっぽく笑ったカレンの表情はまるで子供のような純粋さを感じさせた。

「それは、大変ですね」

 潔は少し返答に困って当たり障りのない言葉を吐き出すと、ハンドルを操作して車は駐車場へと入っていく。

「最初の物件に着きました」

 車を停車させると潔の視線を追うようにカレンもその建物へと目を向けた。

 その青い瞳に映ったのは、風雨にさらされ、退色した塗装はあちこちが剥げてサビの浮いた古臭い二階建てのアパート。

 いや、有り体に言えばそれは『ボロアパート』と表現しても差し支えない建物だ。


「い、いやあ、これは思っていた以上に……」

 アパートを見上げるカレンの顔には戸惑いの表情が浮かんでいる。

 この物件は潔とカレンが数ある物件の中から選んだもののひとつであり、築古であることは当然承知していたのだが、実物を見るのとではやはり印象が異なる。

「ええと、私も実物を見るのは今回がはじめてなんですけど、その、管理会社さんはあまり外装に気をかけるようなタイプではないみたいです」

 潔はなんとか取り繕おうとするが、出てきた言葉はただ印象を悪くするものだった。

「まだこんな建物が残ってるんですね」

「そ、それだけ丈夫ってことです!」

「……」

 そのセリフに白い目を向けるカレンからとっさに顔をそらす潔。

「あの、では、中も見られますので、さっそく部屋の内見をしましょう。部屋は二階です」

 いたたまれなくなった潔はそそくさと歩きだし、金属製の階段を昇る。

 外階段に屋根はなく雨ざらしで、防腐の目的もあるだろう塗装はほとんど残っておらずサビがむきだしだ。細い手すりも踏板と同じようにサビだらけで、触れるとザラザラとした感触が心地悪い。

 軽く触れた潔の手のひらには鉄さびの細かい破片がいくつもこびりついた。

 潔が踏板に足を乗せるたびにカンと金属音が鳴り、それに混ざってギシギシときしむような音がする。

「——」

 このアパートにも入居者がいて、日常的にこの階段を使っているはずなので問題はないはずだが、どうにも心もとない。

 階段の傾斜もずいぶん急だ。

 カレンへ注意するよう声がけするために潔は後方へ振り返る。

「足元気をつけてください」

「え?」

 結果的にはそれがよくなかった。

 突然、声をかけられたカレンの意識は潔のほうへ向けられて、足元がおろそかになる。

 上げていた右足が踏板に引っかかって、カレンはバランスを崩してまった。

「あっ」

 とっさに右手で階段の手すりをつかんで崩れかけたバランスを保つ。

 が、老朽化した手すりはカレンが体重をかけたことでギギギと悲鳴を上げた。

 それだけで済めばよかったのだが、運悪くこの瞬間が寿命だったのかバキンと音を立てて根本から折れる。

「うそ!」

 予想外のできごとにカレンは目を丸くする。

 本来ならば預けた体を手すりが支えてくれるはずだった。

 それなのに無情にも手すりはその役目を果たすことなく朽ちて、支えを失ったカレンの体は中空へ投げ出される。

「——ッ!」

 階段を半ばほどまで昇っている。高さは二メートルほどだろうか。

 大した高さではないかもしれないが、体勢を崩したまま落下すれば大怪我をする可能性もある。打ちどころが悪ければ怪我だけでは済まないかもしれない。

 カレンの伸ばした手は虚しく空を掴んだ。

「きゃっ」

 悲鳴がカレンの口から飛び出そうとしたその瞬間。

「——風よ」

 潔が右手をカレンのほうへ向けて何事かをつぶやく。

「ぁ」

 ふわりと空中に投げ出されたカレンの体が浮き上がり、ゆっくりと地面へと降りていく。

 その間にカレンは体勢を立て直して足から地面へ降り立ち、無事着地する。

「よかった、怪我はなさそうですね」

 ホッと胸をなでおろし階段を下りる潔の顔には安堵の表情を浮かべている。

 内見中に怪我でもさせたら問題だ。会社にも迷惑をかけてしまう。

 そんな事態を避けられて安心したのだろう。

「いまのってもしかして白純さんが?」

 驚いた表情を浮かべつつ、歩み寄る潔を意味ありげに見つめるカレン。

「え、ええ、とっさのことだったんですがうまくいきました」

「……魔法使い」

 カレンが小さくつぶやく。

 約二十年前、世界はもうひとつの世界と突然繋がった。

 そのときに異世界の影響なのか現れたのが『魔法使い』と呼ばれる人間たちだ。

 この『魔法使い』と呼ばれるものたちはそれこそファンタジーの世界に登場する魔法使いたちの如く超常の力を操り、人類を脅かす異界の獣たちを退けた。

「ということは」

 けれど誰でも『魔法使い』になれるわけではない。

 条件は簡単だ。

 男性であること、そして齢三十を超えて性交渉経験がないこと。

 つまり、

「——童貞?」

「……」

 カレンのつぶやきに潔は閉口するしかなかった。

「あ! ええっと、ご、ごめんなさい! 別に他意があるわけじゃなくて、魔法使いのかたに会ったことがなかったのでつい……」

 カレンは慌てて両手を自身の前でブンブンと振り、己の失言を弁明しようとする。

「いえ、事実ですから」

 潔は努めて気にしていない風を装って、淡々と答えるがそれがかえってカレンを責めているように聞こえる。

「その、本当にごめんなさい。助けていただいたのにお礼も言わず失礼なことを言ってしまって」

 しゅんと小さくなったカレンは頭を下げた。

「ほ、ほんとうに気にしてませんから! 慣れてるというかそう思うのは仕方ないことなので」

 カレンの態度で潔は逆に恐縮してしまい、慌てて頭を下げる。

 ふたりはしばらくの間お互いに頭を下げあって、

「ぷっ」

 カレンが吹き出した。

「あはははっ、ふたりでこんなのって変ですね」

 つられて潔も笑う。

「ははっ、そうですね」

「とにかく、助けていただいてありがとうございます。おかげで怪我せずに済みました」

 あらためて頭を下げるカレンの仕草は、感謝を表しており、その所作は美しかった。

「いえ、これも職務ですから」

 潔も片手を上げてそれに応える。

「でも、この物件はやめておきましょう。管理会社には連絡しておきます」

「そうですね」

 潔は懐から携帯電話を取り出して、どこかへ電話をかけていま起こった出来事を伝えた。

 それが終わると潔とカレンは他の物件を回って内見を続けた。




 潔はひとり残業のため職場に残っている。

 今日来店した親子の希望に沿う物件を見つけるためにあれやこれやと調べものをしていたのだ。

 条件をいろいろと変えてみては、出てきた物件をひとつひとつ細かくチェックし彼らの要望を叶えられるような物件なのかどうかつぶさに調べていく。

 気がつけば時刻は十一時近くなっていた。

「ふぅ」

 流石に疲労が潔を襲う。

 良さそうな物件をいくつか見つけることはできた。あとはより良い提案ができるようほかの物件と比較して長所をまとめておこう。

 潔は荷物をかばんにしまい、店舗の戸締まりを確認してから後にする。

 夜遅い時間、出歩いている人間は少ない。

 駅へ向かう道。

 歩き慣れた道だ。

 潔はふと立ち止まる。夜の静寂に離れたところから電車の走る音が聞こえてくる。

 進路を変えて潔は歩きだした。

 最寄りの駅ではなく、ひとつ遠くの駅を目指す。

 時折、こうしてわざわざ遠くの駅まで歩きたくなる日がある。たまたま今日がそういう日だった。

 コツコツとアスファルトを踏みしめる音が響く。

 しばらく歩くと進路の先、建物の間に木々が見えてきた。

 小さな公園だ。

 日中であれば子供たちが遊んだり、大人たちの憩いの場になっていたりするのかもしれない。

 けれど、潔は夜遅い時間でしか訪れたことがなく、公園はいつも無人だ。

 そのため特段気に留めることはしない。

 もう数分歩けば何事もなく通り過ぎるだけだ。

 そのはずだった。

「キャアアーーー!」

 夜の静寂を悲鳴が切り裂いた。

 女性の悲鳴だ。

 当然その悲鳴は潔の耳にも届いている。

 潔は反射的に走り出した。

 悲鳴はどうやらあの公園からのようだ。

 呼吸も忘れ、潔は一心不乱に足を動かす。

 すぐに公園内の様子が見て取れる距離まで近づいた。

 おそらく悲鳴の主であろう女性がひとり、そしてそれと相対する異形の存在。

「——魔獣!」

 異界から現れた人類に害為す謎の存在、それが魔獣だ。

 生態や目的は不明で、そもそも生物なのかもわかっていない。

 魔獣が確認された当初、人類になすすべはなく抵抗虚しく蹂躙されるだけだった。

 だが、魔法使いが現れてからというもの魔獣の討伐が続けられており、確認される魔獣の数は減っている。それどもこうしてときどき街中に現れることがあり、場合によっては人命を脅かしている。

 女性に対面するのはおよそ三メートルほどの人型の魔獣。

 女性は恐怖のあまり腰を抜かして地面に座り込んで、ただ異形の怪物を見上げることしかできない。

 潔は手に持っていたかばんを投げ捨て、自身の体に風をまとわせ空中を舞う。

 それは目にも留まらない速度で魔獣の眼前へ立ちふさがった。

 女性を背後へかばう。

 魔獣は不思議そうに闖入者である潔を見つめているが、その表情から思考を読み取ることはできない。

「怪我はないですか?」

 背中ごしに女性へ声をかける。

「は、はい、大丈夫です」

 女性の震えた声がその恐怖を伝える。

「あ」

 この場にそぐわない間抜けな声を出す潔。

 女性には見覚えがあった。潔が今日会ったばかりの女性、カレンだ。

「…………」

 なにか気の利いたセリフでも言うべきか悩むものの言葉は出てこず、そんなことしている場合ではないと自らのほほを叩き、余計な思考を追い出す。

 いま考えるべきはそんなことでない。顔見知りの女性と偶然出会って気の利いた挨拶のひとつでもなんて道端でやるようなことだ。

 そんな様子を好機と見たのか魔獣は丸太のように太い腕を振り上げて、人間の頭ほどの大きさがある拳を潔目掛けて叩きつける。

 潔は素早くカレンを抱きかかえ、五メートルほどの距離を一息で飛び退き拳を躱した。

 腕を力任せに振るだけの攻撃に単純な物理攻撃手段しかもっていないのだと判断した潔は、カレンをゆっくり地面へ降ろす。

「ここから離れてください」

「え、でも、あっ」

 カレンはようやく自身を助けた人物が潔であることに気がついたようで、目を丸くしている。

 そしてカレンはすでに潔がこの怪物に対抗できる能力を持つ、特殊な人物であることを知っている。

「僕は大丈夫です、安全な場所まで行けたら警察に連絡してください」

 努めて落ち着いた声でカレンにそう告げる潔。

「……わかりました」

 そのおかげか、気持ちを落ち着かせたカレンは走りながら公園を出ていく。

「ふぅ、ひとまずは」

 カレンが離れていくことを確認して潔は一息つく。

 潔自身が魔獣と対峙すること自体初めてではない。

 そんな潔でもカレンをかばいながら魔獣と戦うことは、気にしなければならないことも多く簡単ではない。

「中型の魔獣がこんなところに現れるのは珍しい」

 潔へ向かって突進してくる魔獣を飛び上がって躱す。

 魔獣はその大きさで、小型、中型、大型に分けられる。

 小型の魔獣は、せいぜいが犬猫程度の大きさで中型はそれよりも大きく、二、三メートルほどの体長のものが多い。

 中型は小型に比べて人の目につきやすく、発見され次第、討伐されるため街中に現れることは珍しい。

 一方で、どのように魔獣が現れるかわかっていないために、突然人通りの多い場所に現れて甚大な被害をもたらすこともある。

 そういう意味では、すぐさま潔が発見したことは幸運だった。

 力任せに腕を振り回す魔獣に対して、潔は距離を作りつつ、時には中空へ浮かび上がって攻撃を躱す。

 まるで攻撃が当たらず、苛立たし気な魔獣は潔へ向かって突進しようと手を地面へついて踏ん張り力を貯める。

 それに対して距離を保って地面へ降り立った潔は魔獣に対して右手を向けた。

 途端に突風が魔獣へ向かって吹きすさぶ。

 まるで台風を思わせる突風は、潔が発生させたものだ。

 この局所的な嵐は激しく魔獣の体を打ちつけ、身動きが取れなくなっている。

 自動車すら吹き飛ばすような強力な突風に耐えるため地面へ指を突き立てている。

 身動きの取れずにいる魔獣に対して、潔は歩いてゆっくりと近づく。

 数メートルの距離まで近づくと、潔は風を解除した。

 風圧が突然になくなり一瞬よろめいたものの、動けるようになった魔獣は腕を振り上げる。が、それはもう何度も見せている動きだ。

 力は強いものの知能は低い。

 潔が素早く腕を振ると魔獣の腕が肘のあたりから切断される。

「————!」

 音にはならない魔獣の悲鳴を潔は肌で感じる。

 重い音を立てて落ちた腕は黒い泥のようになって形を失った。

 魔獣は残った腕を振り上げようとするが、それよりも速く潔は再度腕を振る。

 瞬間、切断された頭がゴトリと地面へ落ちた。

 それとほぼ同時に胴体も正中線で縦に断ち、核を一閃。

 魔獣の巨躯は地へ崩れ、地面が少し揺れた。

 その活動を停止した魔獣は切断された腕と同じようにドロドロと溶けて形を失った。

 そこに魔獣がいた痕跡は汚泥の跡のみだ。

 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。

 きっとカレンが警察へ通報してくれたのだろう。




 警察が実況見分をしている傍らカレンが潔へと話しかける。

「今日だけで二回も助けてもらっちゃいました」

 照れくさそうな表情を浮かべるカレン。

「お怪我もなくなによりです」

 潔としても客と営業の関係とはいえ顔見知りが魔獣に襲われたとなれば寝覚めが悪い。それが自分の行動範囲内の出来事だったならなおさらだ。

 今夜たまたま遠回りして帰った甲斐があったというものだ。

「あの、急なお願いなんですが——」

 カレンは一歩、潔との距離を詰める。

 上目遣いで潔を見つめ、かすかに頬は赤くなっているようだ。

「連絡先、教えてください」

 お礼をさせてください、と申し出るカレンだったが、潔からすれば自身に与えられた責任を果たしているに過ぎない。

 それは誰かに感謝されたいとか富を得たいとかそんなものではない。

 潔はわざわざそんなことをする必要はないとカレンに説くのだが、一向に聞き入れる耳を持たない。

 それどころか一歩も引かず、あまつさえ潔の腕を取り、引き止める。

「あ、あの、その、えっと……」

 潔は頭が真っ白になり、腕を振り払えばいいのかそれともお礼を受け入れるべきか、どうすることが正解なのかわからない。

「白純さん、すみません。実況見分をお願いします!」

 離れたところから警官が潔を呼ぶ。

 魔物に対処した魔法使いは、魔物の特徴も含めなにが起こってどのように対応したかの報告義務があり、警察の実況見分には最大限協力しなければならない。

「は、はい! いい、いま行きます!」

 潔は背筋をピンと伸ばし、呼ばれた方向へ答えた。

「す、すみません。そそ、そういうことなので、ごめんなさい!」

 右手で腕を抱きしめるカレンの手を解くと潔は慌ててその場を後にした。

「あ!」

 カレンは名残惜しそうに潔の後ろ姿を目線だけで追うが、ふと地面になにかが落ちていることに気がついた。

 革製の定期入れ。

 それを拾い上げ中身を確認すると、定期券と運転免許証、そしてもう一枚の身分証。

——特級魔法使い 白純潔

 カレンは目を細め身分証を見つめる。

「桧山さん」

 と、女性警官がカレンへ声をかける。

「少しお話をいいですか? 状況を覚えている範囲で構わないので教えてください」

「はい」

「……もし疲れているようでしたら後日でも構いませんが」

「いえ、大丈夫です」

 わかりました、と女性警官はカレンをパトカーへ案内する。

「白純、潔さん」

 カレンは定期入れへ唇を寄せて誰にも聞こえない小さな声でつぶやいた。

以前に読み切りで投稿した話の連載版です。

読み切り版は下のURLから読めます。

https://ncode.syosetu.com/n5715hr/


本当はこちらのプロットを先に作っていたのですが、このアイデアだけさきに投稿しておきたいなと考えて読み切り版をあとから執筆し投稿したという経緯があります。


……本当は他に書くべきものがあるのですがあまり寝かせておくのもなあ、と考えて今回投稿しました。

ちゃ、ちゃんと他の連載も書きますよ?

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― 新着の感想 ―
[良い点]  物語の導入も丁寧で、状況描写や、心理描写が上手く、とても読みやすかったと思います。  特に、白純潔が魔法を使うシーンが格好良く、「こ、これが童貞の力っ!?」と驚愕する読者がいる(いない)…
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