第8話 裏と表
千田の見たという動画が手元にないので、僕らには本当かどうかは分からなかった。これが千田による何かの策略という見方もできるだろう。もしそうだとしても、共謀者A、花道珊瑚に出会うことは必要なことだと比良川は説明した。
「文之、どうして俺がここに来たと思う?」
「千田が大したことのない人間だと思ったから、かな」
「それもあるが、今この瞬間が最高のチャンスだと思ったからだ」
「そう、チャンス、ね。この異常な人間と過ごす時間が」
僕は千田の方を見た。この男は見る限り本当に大したことのない男だけれど、人間というのは不思議なものだと思った。こんな男がとんでもない事を計画し、実行しようとしていたのだから。
千田と比良川の異常さは少し違う。偶然の異常と必然の異常と言えるかもしれない。もしくは無意識の異常と意識的な異常とも。
比良川は当然のように、自分が正しい事をしている、と思っているのかもしれない。そんな比良川は家の中を見渡しながら千田に話しかけた。
「宮乃の自殺計画。もうやらないのか」
「もう花道とは組む気はない」
「なら、花道に連絡だ。さっさと会う予定を取り付けろ」
「ちょっと待てよ、俺はもう花道と関わるつもりはないと言ってるんだ」
「だから俺は、少しぐらい罪を償えと言っているんだ。お前のくだらない妄想が生み出した現実の結果の罪を。当然分かるよな。お前は人間ひとりを実際に殺す段階にあり、さらにそれを当人に送りつけた。それが罪ではないと、言えるか。全部花道に押し付けるのか、千田」
比良川は縛られた千田を上から見下ろした。睨みつけることはなく、あくまでも自然な表情で。その怒りや憎しみのない顔は言葉と合致しなかった。比良川はただそうである事が正しいからそれをしている、そういう言葉を使うことが正しいからそれをしているのかもしれない。感情などなしに。
逆に縛り付けられている千田の方といえば、それでも比良川を睨むことをやめない。自分がどれだけ不利な状況に置かれているのかを理解しながら、それでも内側の感情がそれを拒んでいるように見えた。
「名前は?」
説明をすることはなく、千田は初対面の相手に対してむしろ正常とも言える反応を示した。
「比良川」
「下の名前も聞いていいか」
「生己。己を生きると書いて生己」
「己を、生きる...か」
千田は比良川と目を合わせることなく白い天井を眺めた。少しして床の木目を眺めて、そして比良川を睨みつけるように目を見て千田は口を開いた。
「親を恨んだことはあるか」
「待て。結論が先だ。花道に連絡するんだよな」
「俺の話が先だ。それ次第で連絡してもいい」
「ったく。この状況でまだ」
「比良川。お前の欲しいものを俺は持っている。いずれは手に入るかもしれないが、今はまだ遠い先の未来だろう。それでも早く手に入れたい。だからそうやって俺に圧力をかけた。なら、俺の方が優位だということだ。俺の質問に答えろ」
自信たっぷりに千田は言った。
「拷問してもいいんだぜ?」
「拷問?ははっ別にやりたければすればいい。俺もお前と同じように、己を生きているだけだ。その罪だろうが罰だろうが、俺に押しつけられるものは全部誰かに押し付けて逃げ切ってやる。俺は法律や社会のルールにサインした覚えはない。全部、勝手に社会を作り上げた誰かが決めたルールだ。俺みたいな人間に不利なようにな。そんなものを真面目に引き受けると思うな。比良川、お前は能力が高いようだから、そんな社会で幸せに生きてきたんだろ?」
「幸せねぇ」
「それに、ほら見てみろよ」
千田はいつの間にか紐を解いていた。かなりキツく締めたのに。
「親父によく虐められて、締められてたからな。この程度なんとでもなる。とりあえず質問に答えろよ、比良川」
比良川は腰を下ろし、千田と同じ目線でしばらくじっと顔を見つめた。宮乃はまた訳のわからないことを、と呆れたような表情で椅子に座った。僕は出口を塞ぐようにして立ったままだった。
「親を恨んだことだったな。もちろんある」
「いつの話だ」
「まだ8歳にもなっていない時からずっと今まで。そうだな、良いだろう。少し長くなるが話をしよう」
そう言って比良川は、小さい頃の思い出話を始めた。
「小学3年生の時、クラスメイトに仲のいい双子がいた。小さい頃は秘密にしていたんだが、俺の家は母子家庭でな。だから、誰かを家に呼んだのはその双子が初めてだった。だからそれぐらい大切な、唯一と言ってもいい友達だった」
「俺の母親は朝から夕方まで常勤の仕事、夕方少しだけ家に帰ってきて、その後、夜の7時ごろからのアルバイトを毎日していた。俺は小学生の頃から知りたい事が多すぎてな、百科事典に伝記、ありとあらゆる知識をまとめて頭の中に入れる子供だった。その頃の俺は高性能なパソコンが欲しいと言い出してな。それでわざわざアルバイトを始めてくれたんだ。優しい母親だったよ」
比良川はいつになく寂しそうな、罪悪感に苦しむような、それでいてどうしようも無く怒りが抑えられないような、そういう目をしていた。それはきっと比良川にとってとても大切な話で、そしてあまり思い出したくないような醜い話だったんだと思う。
比良川に父親はいない。というのも生物学上の父親に会ったことがないらしい。母親は妊娠が分かった時にはもう、ひとりで育てる決意をしたという。
「そんな母親がちょうど家に帰ってきて、遊んでいるその双子に名前を聞いたんだ。当然すぐに双子だと分かる。母親はその仲の良い双子の様子をしばらく見ていたんだが、急に泣き出してしまった。そしてその夜遅く、俺は真実を知った。俺は双子だったと」
「ひとりだけしか、育てられないと思っていたらしい。その腹にいるのが双子だということに気づいて、俺の母親はもう一人の俺を消した。減胎手術ってやつだ。法律では人間ではないらしいからな、男か女かも分からない。それでも俺は、母を『人殺し』だと思った」
比良川は口の端に笑みを浮かべていた。彼が笑っていたのは彼自身なのだろう。親から子供が生まれる、それゆえに子供というのは親にどうしようもなく振り回されてしまう。時に、生まれる事すら、難しい。
「その時、母はずっと涙を堪えていて苦しそうな顔をしていた。それでも、生まれようとする命を踏みにじった母を、悪だと思った。『ひとりの子供』が欲しかっただけで、別にそれが何だって良かったんだな、と初めて思った。そういう考え方をする母を心の底から軽蔑さえした。何度も、だからこそ俺のことが大切なんだと告げる母親の姿が哀れにみえた。何を言われたとしても、母のどんな優しさも全部、片側を殺してしまったことへの罪悪感と、もう片方の俺を産んだ義務に見えて怖くなった」
比良川もまた、違う意味で独りだった。何かを失った悲しみは、別の何かで埋められるとは限らない。それが自分の分身のような双子だったとしたら、ずっと失っていたことを自覚させられたとしたら。偶然違う場所にいたら死んでいたのは自分の方。長谷川生己はもう片方。比良川が母であろうと軽蔑したのは、己を生きずにはいられなかったからかもしれない。
「双子というのは、母親の体に強い負担をかける。もし順調に育っても自分が死んでしまったら?そもそも両方の赤ちゃんが死産になってしまったら?ひとりでも大変な育児なのに二人も同時に育てられる?家庭としての経済面もそうだが、そういうリスクは意外なほど高い。育児に疲れて自殺する人間も多い。妊娠した女がひとりで生きるとは、そういう不安を全部抱え込むということだ。そんなものは分かっている」
「それでも、どうして無理だと決めつけてしまったんだ、と思った。もっと色んな人が支えになってくれれば、もう片方は生まれてこれたかもしれない。妊娠して21週6日目までの赤ちゃんはまだ人間ではないと法律が決めつけて、そしてひとりで生きる妊婦の女を自由や自立という名の概念で縛り付けて。自分で全て申請させて、幾つもの試練を突破させて、長ったらしい手順を踏ませなければ、ひとりの人間を支える事さえしない社会。そんな社会が嫌いだ。それを受け入れた母親が嫌いだ、社会をぶっ壊して創り直してやる。それぐらいぶっ壊れた性能を持った人間になってやる。俺が2人分の人生を生きてやるとその時決意した」
「それまで遊んでいた時間は全部、知識の習得に費やした。俺はお前たちの2倍、生きてきた自信がある。俺の家庭は貧しかったとは言えない。それは俺の母親が働いたからだ。俺はお前たちの情報を知る能力がある。それは俺が無理だと決めつけなかったからだ。そうやって方法を見つけ出したからだ。それは感情なんてチンケなものにしがみついたからじゃない。正しい事が正しく為されることが正しいからだ。なぁ千田、それでも俺は幸せか、恵まれているか?」
「幸せだよ、お前は。恵まれてる」
千田はそれでも言い切った。その言葉の裏には千田の、長い人生があったのだと思う。
理不尽を受け入れるのか、それとも反抗するか。もしくは、受け入れたふりをして反抗したり、反抗するふりをして受け入れたり。この社会の理不尽に対して人間はいくつかの行動を取る。
比良川は受け入れたふりをして反抗したのだ。正しいことが正しく為される理想的な社会を創り出すこと。それがこの男の生きる目的だったのだということに、僕は気がついた。そのためにこの男は2人分の人生を生きてきて、今ここに座っているのだ。そうなろうと思ったこともないが、僕はどうしてもそんな人間にはなれないと思った。
そんな自分が、少し惨めに思えた。僕は理不尽に対して、受け入れたふりをして反抗する、そんなふりをしてただ理不尽を受け入れただけだったからだ。