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第6話 鎖

両親の仲が目に見えて悪くなっていったのは、僕、翠夜文之がまだ小学生4年生の頃だった。いつも家には張り詰めた空気が流れていて、他に行く場所もない、頼る相手もいない幼い僕に出来る事は、ただひとり静かに耐える事だった。


その頃、僕の頭にあったのは、彼らに仲良くして欲しいという思いだった。なんてことはない、それだけの事なのに。その願いは叶わなかった。そんな小さな家が、どうしようもない両親が幼い僕にとって世界のほとんどだった。


怒号が飛び交う、というほどではなかったけれど、彼らはお互いをまるで見えていないかのように無視しあい、時に口汚く罵りあった。そんな彼らを横目に、小学生の僕は机に向かって本を広げていた。


知らない世界を旅する冒険譚。全力で部活に取り組む高校生とその前に立ちはだかるライバル達、それらが織りなす青春群像劇。バンドを結成して、時には恋をしながら夢に向かって進んでいく登場人物達。勿論、現実の人間でないことは小学生の僕も分かっていたけれど、それでもそういう世界で輝く主人公達の物語なしで、ちっぽけな背中をした僕は生きられなかった。


今の僕はただ座って物語を読むしかできないちっぽけな人間だけれど、いつかは勇気を持って立ち向かえる日が来るはずだと。そう、たとえば高校生、いや成長の遅い僕なら20歳。20歳になって大人になったら、きっとその時の僕は、そんな物語のヒーローのような勇気を持っているはずで、彼らを仲良くすることができるんだとそんな幻想を信じていた。


中学生になる頃には、僕も彼らに仲良くしてほしいという感情は感じなくなった。毎日のように繰り広げられる彼らの醜い言い争いを前にして、もはや不可能だと悟ったのだ。その代わり、早く僕の知らない場所で2人とも勝手に暮らせば良いのに、という思いを感じるようになった。いっそ、この家に火をつけて、住む場所がなくなって仕舞えば、全て上手く行くんじゃないかとも思ったけれど、僕が行動に起こすことはなかった。


少しづつ、僕も変わっていった。それまでは言い争いを醜く感じていたのに、それが日常になるにつれ、彼らの存在自体に醜さを感じるようになっていったのだ。そしてずっと何もできないでいる自分自身にも。それでも、その嫌悪感を、そういう風に暴力的に露わにすることは、何か違うように感じた。


お金にはそれ程、不自由しなかった事もその原因のひとつだったかもしれない。それに、僕は暴力を振るわれたことはなかったし、ご飯を抜かれたこともなかった。そういう良い面、というべきかは分からないが、感謝している面があったのは事実だった。だからこそ、ただ彼らから遠くに離れようと僕は思った。


そこで、中学生の僕はエリート意識に毒された彼らをうまく利用し、偏差値の高い高校に合格する代わりに一人暮らしをさせて欲しいと頼み込んだ。最初は渋っていた彼らだったが、僕の希望はこれだけだった。最初に名前を出した高校より、少しばかり偏差値の高い高校を再提案したことで、ようやく彼らは受け入れた。


彼らの目に映ったその時の僕は、どんな顔をして頼み込んでいたのだろうか。笑っていたのか、真剣な表情だったのか、熱に浮かされたような顔をしていたのか、それとも、うつろな目をしていたのか。もしかしたら今にも家に火をつけそうな顔をしていたのかもしれない。僕にはわからない事だ。ただ、砂漠で遭難した旅人が通りすがりの行商人に縋り付くように、僕が全力で一握りの希望に縋りついていたのは確かだった。


そんな理由もあって、中学生の僕はただ高校に合格するために生きていた。彼らの元から離れれば、世界は変わるのだと信じて。自分の感情もわからず、友達もいない僕にとっては、彼らと本心で向き合うことなど不可能だった。だから”勉強”とは僕にとって都合のいい免罪符、言い訳だった。その結果、学業と読書だけの透明な時間を過ごし、無事、志望した高校へ入学を果たした。


合格発表の日、その合格者として僕の受験番号を目にした時、ようやく彼らから解放されるという安堵だけがあった。周りで喜びや悲しみの声が上がる中、そんな風に喜びも悲しみも何もない僕がひどく場違いに思え、こう感じたのを覚えている。


『あぁ、ここでも僕は孤独なんだ』


いつの間にか自分でガラス張りの空き箱に閉じ込めた僕自身を、僕は外に連れ出すことができなかった。ただ生身の僕だけが彼らの家から飛び出した15歳の3月末。それ以来、20歳になった今もなお、この街のこの安アパートで僕はひとり、暮らしていた。


---

「比良川、宮乃のことだけど。」

「まだ元カレの動きが読めないんだ。しばらくは適当でいい」

「いや、そうじゃなくって」


あの事件から約1週間が経った。僕は少しづつ宮乃と話をするようになった。そして、その中で気づいたことがあった。


「サンドイッチが嫌いなんだって」

「...だから何だよ」

「いや、知らないだろうなと思って」

「知ってるけど」

「でも、ホットドッグは好きなんだって」

「...そんなこと、どうでもいいんだよ!」


そう、僕は大した情報を入手できていない。


サンドイッチ。ホットドッグ。ははっ。


「まぁつまり、僕の方はあまり」

「昨日、宮乃と一緒に昼飯食べてきたんだろ。他の情報はないのかよ」

「うーん...あ、ハンバーガーは大好きなんだって」

「食の好みはどうでもいいんだよ!」


ハンバーガー。はははっ。


昨日は金曜日だった。行きつけのカフェのハンバーガーが美味しいから、一度食べてみないかと僕が誘ったのだ。駅の改札で待ち合わせをして、それなりの世間話をしながら僕らはカフェに向かった。


「なにこれ美味しい〜」

「良かった。それで、実はまた聞きたいことがあって」

「なに?」

「えっと、焼きそばパンは好き?」

「嫌い。炭水化物ばっかじゃん」

しまった。外したか。


「じゃ、カレーパン」

「ちょっとパサっとするんだよね」

これも外した。


「うーん、じゃ、ピザは?」

「美味しいと思うけど。これ何の時間?」

「いや、実は聞きたいことは別にあって。ちょっと聞きづらい話なんだけど」

「うん」


惣菜パンも豊富に取り揃えているこのお店だが、残念ながらピザは置いていない。僕の、「美味しいものをいくつか食べさせて口を軽くさせる作戦」はすでに失敗に終わった。


焼そばパン、カレーパン、ピザ。ははっ。


「協力してほしいことがあるんだ。少し複雑な状況で、説明が難しいんだけど...」

宮乃さんの元カレとその共謀者Aが、再度宮乃さんを自殺に追い込もうとしていること。また、この町では今年に入ってから奇妙な自殺現象が起きており、謎の人物Xがその真相を知るための手がかりであること。そして、共謀者Aと謎の人物Xには関係があるということを伝えた。


「勿論、勝手に色々と探ったことは謝る。それでも僕はこの現象を解明したいと思っているんだ。そのために協力してくれないかな?」

宮乃さんは、残っていたハンバーガーを食べ終えるまで黙ったまま考えているようだった。僕があの男の姿を見たその席で、同じように窓の外を行き交う人々を眺めていた。


「もうひとつ」

「え?」

「もうひとつ、ハンバーガー奢ってくれたら協力する」

「いいの?」

「正直、元カレの話まで知られてた時は、キモって思ったけど。もしその話が本当なら、私自身の問題でもあるじゃん」

「多分、本当だと思う」

「うん、少し思い当たることがあるし。その話は多分本当。それに...」

「それに?」

「私も君に悪い事しちゃったし」

殺人犯呼ばわりしたとか、そのせいで彼女の友達が僕の写真を拡散したとか、そういえばあった。そうか、そこに付け込めばよかったんだ。


「そうだね。僕はあの時すごく悲しくって...」

「嘘つくのやめてもらえる?ハンバーガーに追加で、来週は美味しいピザね」

「...たかられてる」

そう言いながらも、僕はハンバーガーを追加注文しようとして、はじめて気づいた。僕の手は、ずっとハンバーガーの包み紙を握りしめていた。完全に無意識だった。僕は、どうしてこんなに緊張していたのだろうか。


「ハンバーガーふたつ」

僕がそんなふうに困惑している間に、宮乃さんが勝手に注文していた。しかもふたつ。


「あ、それからね」

「まだあるのか...」

「君のことはミドリでいいよね?翠夜って言いづらいし。協力者、なんでしょ?」


懐かしい響きだった。僕は内側から溢れてくる、ぐちゃぐちゃとした感情を感じた。

「うん、よろしく。宮乃」

僕はその声に、どんな感情を込めたのだろう。


「このふたつ目のハンバーガーは、私たちが互いの協力者になる契約の証だから。そういう意味を持って、ここで並んで食べたんだってこと、胃の中に刻みつけておくように」

そう茶目っ気たっぷりに宮乃は言った。


---

「という訳なんだ。情報自体はまだ聞いていないんだけど、とりあえず宮乃の協力は取り付けた」

「ちょうどいいじゃないか。変に情報が入ってきてややこしくなるよりずっといい」


比良川はPCを睨みながらそう言った。比良川はいつの間にか、酒を手にしていた。

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