第5話 日常の形
放課後の図書館で、なんとなく近くに座って本を読んで、それとない話をしながら駅まで帰る、そんな静かな日々が続いた。話といっても、休日何してるとか好きな漫画とか、そういう話はほとんどしなかった。僕らがする話はきまって”退屈”とか”大人”とかのぼんやりとしたよく分からない話で、話をしたことで特に何かを得られる訳でもなかった。
その日も唐突に咲瀬が話を切り出した。
「人を殺したいって思ったことある?」
「俺はあるよ」
「僕はない、と思う」
たぶん。きっと。
「じゃ、生物なら。その辺に歩いている虫を思いっきり踏みつけたいとか思わない?」
「毎日のように踏み潰してる」
「気持ち悪くて、近づきたくないかな」
僕は常識のある人間のふりをしているのか、それとも心からそう思っているのか。
比良川は常識のない人間のふりをしているのか、それともただ本心を口に出しているのか。
咲瀬はなぜそんな話を始めたのか。
自分のことも他人のことも分からなかった。
「人を殺したいって気持ちは、誰だってあると思うけどな」
比良川はそう言いながら、コンクリートの歩道の上で死んでいた黄金虫を蹴飛ばした。よく、比良川は何かを蹴飛ばしていた。
「どうして」
咲瀬はよく、理由を聞きたがった。僕はその程度のことしか分からなかった。僕自身のことも、彼らのことも。しかし、それを悲しいと思うことは無かった。物心がついた時から、僕はそういう風に生きていた。
「人間は人間を殺す能力を持っているから。そういう状況、その能力の出番になると、感情が顔を出してくるのさ」
「さすがにそれは...」
「でもね、人を殺したら、スッキリできるんじゃないかって、よくそう思うの」
僕は彼女にどう反論すればいいのだろう。そもそも反論であっているのか。
「スッキリねぇ」
「そう。全部壊して、なくして仕舞えば、きっとスッキリするだろうなぁって」
「文之は、どう思うんだよ」
「僕は...。どうだろうね。やっぱり嫌だなと思うけど」
「どうして」
咲瀬はいつも通りに僕に尋ねる。僕はなんとか頭をひねって答えた。
「それは、前向きなスッキリさ、ではないような気がする、から」
「そうかな。暴力はきっととても楽しい事なんじゃないかな。いつもより成績が良いと優越感を感じるのと同じだよ。他人を打ち負かすことに喜びを感じるでしょ?」
咲瀬の偽悪的な言葉遣いが少し気になった。否定されたがっているのか、そうではないのか。
僕が何も言えないでいると、咲瀬はポツリと言った。
「どうしてかな。こんな感情なんて求めていないのに」
そんな風に、ポツポツと。1粒、1粒、蛇口から水滴が滴るように。僕たちが日頃から溜め込んだ何かが漏れていただけなのかもしれない。結論も何もなく、何ひとつ実用性もないぼんやりとした話を僕らは永遠と続けていた。
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梅雨の時期も明け、テスト期間を過ぎて、スケジュール通り夏休みを迎えた。とはいえ、プールに花火に夏祭りなんてイベントを心から楽しめる僕ではない。そして多分、比良川や咲瀬もそんな気がしていた。
「やぁ」
でも夏休みの初日。僕はなんとなく二人を花火に誘ってみた。スーパーで買ってきた手持ち花火だ。河川敷に集まって、小さくそういう事をしてみたかった。
集合時間ちょうどに僕が行くと、比良川が待っていた。
「早いな。それに比良川も買ってきたのか」
「あぁ。色々とな」
そう言って、比良川はその自転車のカゴに入った馬鹿みたいに大きいスーパーの袋を僕に見せた。
「ごめん、ちょっと遅れちゃった。ふたりとも、早いねー」
「あれ、歩いてきたんだ」
「うん。駅から。二人とも自転車なんだ」
ジーンズにパーカー。なんとなくおしゃれな服だった。
「今日、涼しいね」
どことなく、いつもより口数が多いような気もする。楽しんでるよ、という気遣いかもしれないけれど。
「あ、咲瀬も花火持ってきたのか」
「線香花火。一番好きなんだ」
咲瀬が持ってきたのは、高級そうな線香花火だった。
「よし。じゃ盛大にやろうぜ」
比良川が手に持っているのは爆竹だった。
「ちょ、それは、やめ」
数10キロ先まで届くんじゃないかという騒音が鳴り響いた。
「まだまだあるぞ、そーい」
謎の掛け声と共に、比良川があっちこっちに設置された爆竹に火をつけてまわる。多分これをするためだけに、ちょっと早めにきたんだ、こいつは。
爆発音が頭の奥にまで響いてくる。
僕はバカみたいな騒音に耳を塞ぐしかできないでいたけど、咲瀬はなぜか笑っていた。
比良川は爆竹が尽きると、勝手に手持ち花火で遊び始めた。
まだ少し、ビリビリとする耳をマッサージしていると、咲瀬が声をかけてきた。
「ね、どうして花火しようなんて言い出したの?」
「夏っぽいし、手持ち花火なら静かにできるかなって。比良川のせいで物凄い音だったけど」
「青春したいって事だよな、文之?」
比良川も火を付けに、こっちに来ていた。比良川が一気に何本も火をつけるもんだから消費が早い。
「青春、っていうかさ。花火、好きなんだよね。火を見てると落ち着くし」
「私も、火事現場に遭遇した時はすごい癒された」
「比良川の悪い影響受けてない?」
「全部壊れて、燃えていくのが最っ高」
そんな風にテンポの良い会話をして、僕は少し我に返った。
これで良いのか、僕は。こんな花火を囲んで、軽口を叩きあって。それを楽しいと思って、良いのか、僕は。僕らはもっと、冷え冷えとした関係で、僕はどうしようもない退屈にニヒリズムを貫くような人間じゃないのか。幻想に浸るような自分が嫌だから、そうやって生きていたんじゃないのか。
つい、口から言葉が出ていた。
「いや、本当は、そんな理由じゃないんだ」
咲瀬の持っている線香花火が、パチパチと火花を散らす。
「本当は、もしこの夏休みを退屈に過ごしていたら、咲瀬が、死んじゃうんじゃないかって。いつも、本当に、そのままふらっと消えてしまいそうな怖さが、あるから」
僕はいつもは隠していた僕の火薬を少しだけ燃やした。フィナーレを迎えた線香花火みたいな弱々しい火花しか出ないけれど。
「線香花火、ミドリ君もする?」
「ありがとう」
火をつけた花火の先がじんわりと赤く、丸くなって、パチパチと優しげな音を立てる。
「ミドリ君さ、私を軽く見過ぎ」
うんうん、と比良川もうなずく。
「私はね、確かに、生きる目的もなく、人を殺したいって思う少女。でもじゃ、どうして私は人を殺さないの。どうして自殺してしまわないの。それはね、私にも分からない」
「うん」
「ただね、ただ普通を続けていたら、突然からっぽの自分に気がついたんだ。この誰でもいいような自分に。ただ、私は、そうでありたくないと思ったの。これ以上、そんな風にからっぽでありたくない。だから、だから多分、大切に生きたいんだよ。死にたいとか、殺したいとか、生きる目的がないとか、そういうのは全部、もっと、もっと大切に生きたいって事なんだよ」
多分それが咲瀬の出した答えだったんだろう。僕にはまだ、分からなかった。僕はただ線香花火の、その今にもこの世界から消えてしまいそうな火花をじっと見つめていた。
「最後に激しいのやっとくか」
その少しばかりの静寂を切り裂くように、比良川が残っていた花火を全部取り出して、リュックから何やら取り出した。
「洗濯物干持ってきたから、この洗濯バサミで挟んで…」
あのいっぱい干せるタイプのやつだ。
仕方ないので、僕らはひとつひとつ洗濯バサミで挟んでいく。
「かんせーい、これどうやって持つの?」
「よし、一気に火をつけるからそのまま咲瀬が持ってろ。とりあえず手を伸ばしとけば大丈夫だろ」
なんて適当な。
比良川は僕にも手伝うように言って、素早く火を付けた。すごい勢いで、火花が噴き上がると同時に、咲瀬が回り出す。花火に振り回されているのか、花火を振り回しているのかよく分からない。
「全人類、燃やしてやる〜」
そう言いながら走ってきた咲瀬から逃げながら、僕らの小さな花火大会はフィナーレを迎えた。大切に生きたいと言った咲瀬の服からも火薬の匂いがした。
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「僕、一応、咲瀬を送ってくよ。方向も同じだし」
後片付けを終え、大量の花火の燃え殻をスーパーの袋に突っ込んで自転車に乗せた。
「そうか、俺はもう少しここに居るから。何かあったら呼んでくれ」
比良川はこの河川敷で何を考えるのだろう。今日を思い出すのか、それとも明日に思いを馳せるのか。もしくは戻れない過去を振り返るのか。
「じゃ、おやすみー」
咲瀬の澄み切った綺麗な声が、夜の河川敷に響いた。
時計を見ると、20時を過ぎたぐらいだった。暗い道を僕らは並んで歩いていたけれど、しばらく無言が続いた。何かを考えているような、そんな雰囲気だった。
駅が近づいてきて、咲瀬はようやく口を開いた。
「ミドリ君は今日、楽しかった?」
「久しぶりに花火を見たのは、面白かったけど」
楽しいか、楽しくないかと聞かれると、やはりよく分からなかった。
「私はね、ちょっとだけ、楽しかったよ」
彼女が白い指先でちょっとを強調した。楽しかった、ということは、きっと良い事だと思った。
「また、誘ってねっ」
それじゃ、と言って咲瀬は改札に走って行った。それが本心なのか、それとも気遣いなのか。相変わらず僕には分からなかったけれど、そう言ってくれるならまた誘おうかなと、僕は誰も待っていない自分の家に帰っていった。