表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/21

第4話 退屈と少年少女

僕が初めてあの女の子に出会ったのは、土砂降りの水曜日だった。


「あれ、比良川。その女の子は?」

「持ってきた傘を盗られたんだと。流石にこの土砂降りで傘なしって訳にいかないだろ」

「高校生にもなって、傘を盗む人間がいるのか」


その頃、僕は少し退屈した17歳だった。当時の僕は、17歳という年齢の人間は大抵、退屈を感じるものだと思っていた。


「折りたたみ傘とそうじゃないのどっちが良い?」

比良川はいつも折りたたみ傘をカバンに入れていた。


「かわいいから、こっちにしようかな」

そう言って彼女は折り畳み傘の方を指差した。白い布地に小さなサムライが寝そべったり、逆立ちをしたり、変なポーズをしていた。奇妙な傘だなと思ったけれど、何も言わなかった。そもそも僕は彼女のことを全く知らなかったので、いきなりそういう事を言うのは気が引けたからだ。


「比良川の知り合い?」

「知り合いというか、同級生ってことは知ってる」

「そっか。私のこと分かんないよね。咲瀬 美澄です。比良川君は目立つから知ってるよ、クラスは違うから話した事ないけど」


そう言って咲瀬は傘を広げた。背筋がスッと伸びていて、そんな仕草ひとつに華があった。雨は彼女が傘を広げるために降ってるんじゃないかとすら思った。


「比良川君と、そっちの君は...。ごめん」

「僕は翠夜 文之。クラスは2-A。こっちの比良川と同じクラス」

「翠夜って言いづらいから、ミドリって呼んでやってくれ」

比良川はその頃、いつだって僕を紹介する時はこの言い方をした。


「じゃ、ミドリ君でいいかな」

「あ、うん。そう言えばクラスどこ?」

「B組」

「Bって結構真面目なタイプ多いんだよなぁ。俺が行ったら睨まれるし」

比良川は大半の教師と生徒に嫌われていたけれど、一部からは好かれてもいた。


「教室に遅くまで残ってる子もいるよ。毎日すごいよね」

咲瀬は傘の持ち手を人差し指で触りながら、関心なさげに言った。


「そういえば、比良川君とミドリ君はこんな時間まで何してたの?」

「俺たちはいつも、図書館で本を読んでるから。咲瀬こそ教室で勉強か?」

「ううん、倉庫裏で、ちょっと考え事」


僕らの高校には、あまり人が来ないような場所がいくつかあった。倉庫裏もそのひとつだ。用務員さんが丁寧に掃除してくれているので汚くはないのだが、建物の影になっていていつも薄暗い場所だった。


「俺、咲瀬とは少し話してみたいなと思ってたんだよね」

「比良川君が?どうして?」

「消えてしまいそうな顔してるから」

「...そっか、君には分かるんだ」

確かに咲瀬には少し浮世離れした雰囲気があった。


「高校生ってさ、不自由だよね。私たちはいつまでこんな世界にいなきゃいけないんだろう」

「不自由ねぇ」

「比良川君は感じない?高校生はあっちではまだ子供、こっちではもう大人。自分ってのを持ったならルールがそれを私から引き剥がして、逆に自分を持たなかったら将来何がしたいんだ、お前の人生だぞって私に責任を持たせようとする。私ってこの世界でどういう存在なんだろうね」


とても静かに、咲瀬は僕らに語った。僕は黙って聞いていた。


「どうだろうな」

「勉強だけして教師の指示に従っていれば、学校は何も言わないよね。比良川君は頭良いし、結構自由に過ごしてるから、不満とかあんまりない?」

「不満ねぇ」

「さっきから曖昧な態度ばっかり」

そう言って咲瀬は傘をくるくる回し、膝を伸ばした変な歩き方をはじめた。最初は所作が綺麗だと思ったけれど、そうやって退屈そうにしている姿は年相応に見えた。


「いや、こういう話は俺も文之も好きだよ。な、文之」

「うん。比良川はこれで一応、考えてるんだ。少しづつ頭の中を整理してるだけなんだよ」

「本当かなぁ。じゃ、ミドリ君は不満とかないの?」

「僕は不満、というか、ただ退屈なんだ」

咲瀬は相変わらず、変な歩き方で歩いていた。


「退屈かぁ。たとえばどういうとこが」

「スケジュールが決まっていて、その通りに進行していく所。1年、また1年。明日も、明後日も誰かが決めた時間割通りに進んでいく。僕は、ただそれを受容する。そうして朝から夕方までこの緯度と経度の場所で繰り返し過ごす。そしていつの間にか18歳になる。この日本で昔から多くの誰かがそうしてきたように、そうやって同じような経験をする。僕が僕である必要性はそこには存在しない」

「うん」

「えっと、話は終わりなんだけど」

「え...」

咲瀬は呆気に取られたような顔をした。そんな顔をしている事がなぜか面白くて少し笑ってしまった。


「あ、からかってるんだ。わざと分かりにくい言葉遣いで煙に巻いたつもりでしょ」

「そんな事はなくて。ほら、比良川、お前なら分かるだろ?」

比良川の方を見ると、道端の石を蹴飛ばして遊んでいた。


「つまり、文之は、自分が大して特別な存在でもなく、特別な経験をするわけでもなく、そして多くの人間がそういう風に生きていて、自分の周囲に面白い事が起きないということが退屈なんだよな」

「そう、かもね」


僕は多分、そういうことを言いたかったのかもしれない。しかしそれの持つ矛盾点を僕ははっきり認識していた。面白い事とは確率的に少ないからこそ面白いのであって、確率的に少ないことが勝手に起こる確率はさらに少ないので、当然、滅多に面白い事は起きないのだ。


「私も退屈なのかも。でも比良川君はさっきの言い方だと、退屈だとは思ってないよね」

「どうだろうねぇ」

「あ、まただ」

多分、比良川も僕が考えていることに気づいていたのだと思う。


「俺には、文之の話より咲瀬の話の方が気になる。咲瀬は何か欲しいものはないのか?」

「欲しいもの?」

「そう。何も欲しくないんじゃないのか?」

「...あえて言うなら、生きる目的は欲しい、かも」

切実な表情で咲瀬は空を見ていた。


「今はない、と」

「そうだね」

比良川も空を見ていた。


こんな土砂降りの雨だから、そんな風に話してくれるんだろうと、そう思った。傘をさして、隣を歩く。それぐらいが人間同士のちょうどいい距離感なのかもしれない。


「でもさ、多分こんなのってよくある話だよね。自分の中に強烈な体験がないと、それほど生きる目的なんてのがはっきりしない。きっと多くの人は、それなりの体験からそれなりに考えて、それ程の答えを必要ともせずに生きていくんだろうね」

「生きる目的ねぇ。たとえば家族、とかな」

「うん。恋人、とか、友達、とかも多分そうだよね。一緒にいて楽しいから、一緒に生きたいって事だよね」

「それがモノの場合もある。理想の音楽を作りたい、とか。自分の理想を実現したいってのが生きる目的だったりする人もいる」

「でも私、どっちでもないんだ。中途半端だね。早く一人暮らしして家族と離れたいし、男の子とキスしたいとか、手を繋ぎたいとかも思わない。友達とそれ程一緒にいたいとも思わないし、自分の理想も良く分からない」

本当に困っているのか、困っていないのか分からないぐらい淡々と咲瀬は話した。僕はそれが少し怖かった。


でも比良川はそうは思わなかったみたいだった。


「そうだと思ってた。やっぱり面白いね、咲瀬は。人間は迷っている時が一番面白い。この先、どうなるのかなって。そのまま大人になっていくかもしれない、高校をやめて放浪し始めるのかもしれない。もしかしたらそのまま自殺してしまうかもしれないし、何か事件を起こすのかもしれない。そう、その瞬間に色んな可能性が渦巻いている。いいね、本当にいい。俺はワクワクしてる」

本当に楽しそうにそう言った。


「うわぁ、最悪だ」

それでも、咲瀬の目は出会った時と同じように空を見ていた。


「最悪ねぇ」

そう繰り返すと、比良川は突然立ち止まった。


「どうした比良川?」

「あと数メートルで駅の階段だ」

比良川はそのまま座り込んだ。確かに、数メートル先に駅に続く階段があった。それを上がれば、屋根があり、少し先に改札口。咲瀬も不思議そうに比良川を見た。


「よいしょ」

比良川は突然両方の靴を脱いで、裸足でスタスタ歩き出した。本当に、変なやつだ。


「ほら。立ち止まってどう思った?これから何が起きるんだろうって思わなかったか。俺がこの土砂降りの中、靴を脱ぐなんて思ってもなかっただろ。なぁ、思ってもないことが起きたぞ。今、君たちは退屈か?少なくとも土砂降りの中、突然裸足で道を歩きはじめたおかしな人間がここにいるぞ。なぁ、君たちはまだ退屈なのか?」


そうやって大袈裟な笑顔で僕らの方を振り向くと、そのまま比良川は颯爽と駅の階段を駆け上がった。多分、比良川は証明したかったんだ、人間の良く分からない可能性のようなものを。


「足が痛い...」

比良川が真剣な顔でそう言うので、咲瀬と僕はお互いの顔を見合わせた。咲瀬が浮かべていたのは初めて見る笑顔だった。だから僕は少し悔しかった。


「比良川君って魔法使いだ」

ポツリと咲瀬の声が聞こえた。


比良川はそのまま改札を通って裸足で電車に乗るつもりだったらしい。けれど流石に隣にいる僕が恥ずかしかったので、無理やり靴を履かせた。咲瀬はいつの間にか楽しそうに笑っていた。


あの時、僕らは一瞬だけ、一瞬だけだけど、退屈を吹き飛ばす魔法にかかった。魔法書も、魔法の杖も、呪文詠唱も必要なかった。それ以来、僕らはよく話すようになった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ