第2話 偶然と必然
次の日、僕はいつも通り大学で授業を受け、帰り支度をしていた。
「やぁ、文之」
どうも後ろの方で授業を聞いていたらしい。比良川が笑顔で挨拶をしてきた。僕らは一応、同じ大学の同じ学科だったので、こうして同じ授業を受けることがよくあった。
「何か用?」
「まぁね。文之に聞かせたい話があってさ」
「そう。話って何?」
「まぁ行こうぜ」
比良川はそれだけ言って、スタスタと歩き出した。仕方ないので比良川の横に並ぶ。同じ大学生たちと、流れるように僕らは駅に向かって歩いていた。
「今日も相変わらず退屈な授業だったよな、文之」
「そんな事ないよ。難しいことが多くて退屈してる暇なんてないさ」
「そうか?たいして頭の良くない平均的な学生にでも分かるように丁寧に説明してくれるだろう」
「なら僕はたいして頭の良くない平均的な学生以下だってことさ」
「ははっ、言えてる」
比良川があまりに自然にけなすので、僕もけなす事にした。
「黙ってろよ、人の心を持たない悪魔が」
「うわっ、きっつい言い方だな」
比良川は本当に楽しそうに笑う。本心はなんとも思っていないのが丸わかりだ。手足をぶらぶらさせながら歩く姿が、どことなく子供っぽい。そして、横を歩く僕は大人のふりをした子供であり、悪魔でもなんでもない通行人Aだった。
「でもさ、悪魔は時々、天使になるんだぜ」
「何言ってんだか」
僕はさっさと家に帰ろうと、駅に向かうペースを上げることにした。
駅前のカフェの前を通った時、比良川が声をあげた。
「ここにしよう。奥の席が空いてる」
「なんだって良いけど」
落ち着いた雰囲気のカフェだった。注文したコーヒーをそれぞれ受け取って店内の隅っこのテーブルに座るなり、比良川はタブレットを僕に差し出した。
「昨日の件について怪しい情報が入った。まずはこれを見てくれ」
画面には、いくつもの丸印がつけられたこの町の地図が表示されていた。丸印を触ると、日付が表示された。ある場所と日付を見て、僕は何となく、この地図が表しているものに察しがついた。
「昨日の場所に、昨日の日付ねぇ...」
そうだ、と比良川はコーヒーカップを片手に持ちながら頷いた。
「ここ最近、自殺のあった場所と日付だ。俺が独自に調査したものだからデータに間違いはない。お前にも見せておこうと思ってな」
「で、こっちはこの街の自殺者数の推移、か。随分と減ったもんだね」
「いい所に気づいたな。おかしいだろ?」
「...何か問題が?」
自殺者数が減った事が何かおかしいのだろうか。僕はちびちびと熱いコーヒーを口にしながら考えていた。
「減りの大きさだよ。減りの大きさが異常なんだ。去年と比べても、この街は大して変わっていない。景気も、給料も、自殺対策も。だから異常なんだ」
「知らない所で頑張っている人達がいるんじゃないのか」
僕はいたって素朴な疑問をぶつけてみた。
「まぁ他のデータも見てほしい。その下、自殺する瞬間を見たって人の数のグラフだ。今年に入ってから、異常に多くなっている」
「それが関連してるんじゃないか、そういう事?」
「関連、というより、誰か、がそう仕向けてるんじゃないか。そう俺は疑っている」
いつから陰謀論の信者になったのだろうか、普通の人間ならそう思うだろう。ただし、確かに自殺は減っているのに、自殺する瞬間を見た人数が増える、というのはおかしな話ではある。
「ところで、どうしてこんな調査を?自殺者数の推移ならともかく、自殺する瞬間を見た人の数なんて誰も調査していないだろう?」
僕は先ほどから疑問に思っていたことを尋ねた。
「偶然、興味があったから。俺が調査した限りのグラフだが、それなりの統計的手法を使っている信頼に足るデータだ」
「3年前からずっと?」
僕はグラフを見ながら、比良川に確認した。これは3年前からの情報が詰まっている。僕たちが出会ったあの春から。
「なに、別に大した事はない。現実は不思議に溢れているからな。偶然、その頃から興味を惹かれ始めた。それだけの事さ」
偶然、いやこれは必然だと僕は思った。しかし、僕は直接口に出さず、また統計の話に戻した。
「それはそうと、この年代分布。こっちの方が異常じゃないか?」
僕が指し示したのは、自殺発見者の年代分布、というタイトルのグラフだ。
「あぁ。発見者が10代、20代に偏っているだろう。それも重大なポイントだ。だから昨日、お前が言ったビルの上にいた人間、そいつに興味がある」
「そいつがわざわざ若い人間の前で自殺が起きるよう仕向けていると?」
「あくまで俺の想像に過ぎないけどね」
「他の発見者には、怪しい人間の目撃例はなかったのか」
「まあな。昨日が初めてだ。ただの偶然かもしれないが」
比良川は相変わらずニヤニヤとした笑いを顔に貼り付けたまま、僕に語りかけた。いつの間にか、僕が飲んでいたコーヒーは空になっていた。
「どうだ、きっとこの街で何かが起きようとしている。そんな感じがしないか?」
「......」
僕は記憶を整理して、昨日話さなかった偶然についての話をすることにした。
「昨日の話だ。あの男が死ぬ少し前。すぐ後ろを、綺麗な男が歩いていた」
「ほう」
「高級そうな灰色のカーディガンを羽織って、黒いジーンズを履き、よく磨かれた黒い靴を身につけていた。そうだな、顔も清潔感のあるスマートな印象だったと思う。モテそうな雰囲気の男だった」
「そいつが怪しいかも、そういうことか?」
「普通なら、あの不潔そうな男には近づかない気がしただけだ。でも、ただの偶然だとは思う。とりあえずの情報提供だよ」
「まぁ偶然だろうな。他に覚えていることはないのか?」
僕はビルの上にいた人間を再度思い出そうとするが、やはりぼんやりとしか、思い出せなかった。
「他にはないな。僕以外の目撃者といえば、可能性があるのはバイクを忘れていった女の子くらいか」
「バイクを忘れていった女ねぇ。当てになるのか、そいつ」
何とも言葉遣いが悪い男だ。
「全く当てにならないだろうね。それに連絡先も知らないし。僕を人殺し扱いする人だ。ただ...」
「話ぐらいは聞いてみたい、と」
「そうだな。帰り際に怪しい男に遭遇しているかもしれないし。それに弁明もしたい」
「でも、バイクを忘れていったなら、警察から連絡が入ってるだろ。お礼の電話とか来たりしないか?」
「可能性はあるけど」
僕は所詮、巻き込まれただけの人間。本当に裏があるのかもよく分からない事件の裏を探ろうだなんて、馬鹿げた事だ。ただの学生に何かできる訳が無い。
「まぁいい、少し甘いものでも頼まないか。昨日ケーキを買いそびれたんだ」
僕に彼女から電話が来なければ、比良川が僕をつけ回すこともないし、僕はまた平穏な日常へ戻っていくのだろう。そんな気がしていた。
「なら、俺はモンブランだ。文之はこのロマンティックパフェでいいな」
店員さんを呼び、比良川が勝手に注文した。あまりの早業に、僕は訂正できずに注文は通った。
「...ひとりで食べる量じゃないだろ、これ」
とんでもないパフェだった。そう、ボリュームが。というかカロリーが。ただ僕は、頼んだものは残さず食べる主義の人間だ。僕でもその程度の律儀さは持っていた。頼んではいないけれど、まぁ同じようなものだ。
「いい出会いがありますように...」
僕はいただきます、と手を合わせながら願掛けをした。
「ないない、ロマンなんて求めるな。諦めろよ」
「比良川が頼んだんだろうが...」
そう、こんな風に平穏な毎日を。20歳の誕生日に起こった出来事はすっかりしまい込んで。そんな風に死んでいく人間を見えない暗闇に放置して。暖かい日差しの入るカフェで、ちょっと大きなパフェを食べるような人生を、僕はまた享受するのだろう。
本当に、それでいいのか。忘れたのか、あの日を。
そんな声が頭の片隅に響いても、聞こえないふりをした。
しかし、偶然は僕を許さなかった。知らない番号からの電話。それは多分、僕が想像している人で間違いないだろう。
僕は静かに電話を取った。
『もしもし、翠夜さんの携帯電話で間違いないでしょうか』
「えぇ。翠夜です。どちら様でしょう?」
『私、宮乃と申しまして、昨日バイクを届けていただいた者です』
神様は本当に几帳面だ。誕生日の次の日にまで、僕にプレゼントを与えてくれるらしい。
「あぁ、昨日は災難でしたね」
『いえ、それで、実はその、また偶然というか災難というか』
「はい?」
何を言っているのだろうか、この人は。僕は変な声を出してしまって、口を塞いだ。
『今、カフェにいらっしゃいませんか?』
少しだけ寒気がした。比良川も動揺したように周りを見渡すが、それらしい姿はなかった。店内にいるのは、おとなしい女子高生の集団に、いくつかのカップル、あとは年配の夫婦ぐらいだ。僕もそれなりに周囲を気にしていたので、あの女の子が店に入ってきたなら気づくはずだ。
「...なぜ、それを?」
『いや、その、本当に偶然なんです。決してやましいことがあるとかではなくて。本当に偶然で。本当なんです』
彼女は偶然を繰り返した。
「宮乃さんも近くにいらっしゃるということでよろしいですか?」
『いえいえ、近くというか、私はその、』
相変わらずまごまごと彼女は繰り返した。
「あなたは、今、どこにいるんですか?」
僕は単語を区切って話してみた。
『えと、今はトイレに...』
「トイレ...?」
トイレという言葉が僕の脳内をリフレインし始めた。トイレトイレ...。
「その、少し状況が理解できないのですが、もう少し説明していただいても?」
『すみません、すみません。同じカフェにいるんじゃなくて』
「えっと、ひとつづつお聞きしますね。宮乃さんは、今僕と同じカフェにはいない。そうですね」
『はい』
そう、彼女は答えた。トイレにいる彼女は。
「でも、僕がどこのカフェにいるのか知っている。そうですね」
『はい』
「なぜですか」
『その、その、私の友達のSNSに翠夜さんの写真が上がっていて』
何となく僕は理解した。
「比良川、すぐ場所を移そう。あとで連絡する」
比良川も状況をすぐ理解したようだ。僕はマスクをつけて店を出た。
『すみません、すみません』
彼女は電話口で依然として謝罪を繰り返していた。
「つまり、あなたの友人が僕を盗撮し、SNSで拡散した。それを見て電話した。そういうことですか」
『その、昨日、翠夜さんが殺人犯だと思って友達に話していたのもあって』
面倒な人達だ。
「それで事情を知ったあなたは、僕に迷惑がかからないように電話をかけたと」
「はい。友達にはさっき消すように言って投稿を消してもらったんですが。画像の拡散は止まっていないみたいで。何か起きてしまうのでは、と」
彼女は落ち着きを取り戻してきた。連絡してくれた事自体は、とてもありがたい事だ。
「状況は理解できました。それについてはありがとうございます。一度、電話を切りたいので、また僕の方から再度電話をかけても構いませんか」
僕は小走りに駅に向かいながら告げる。周りを見渡しても、彼女のおかげで尾行などはされていないようだ。
『え、ええ。今日はいつでも大丈夫です。本当にすみません』
それでは、と言って僕は電話を切った。
「...結局、トイレのくだりは何だったんだ」
まぁ、偶然トイレで用を足していたわけでは無いだろうし、電話の出来そうな場所が必然、そこしかなかったのかもしれない。僕は本当にどうでもいいそんなことを考えていると、ちょうど電車がやってきた。
僕はとりあえず家に来てくれ、と比良川に連絡し、電車に乗りこんだ。