第10話 罪滅ぼし
月曜日。僕は変わらず大学の授業を受けていた。これだけの事を知りながら、今まさにその同好会とやらでやりとりが行われていることを知りながら、僕にはどうして良いか分からなかった。死を目の前にしながら、僕はどうしてこれほど呑気に、そして真面目に授業を受けているのか。学生の本分は勉強。確かにそうだ。ならば人間である僕は、ただの機械としての学生ではなく、人間である僕の本分はなんだ。きっとこれまでもそうだった。遠くであれ、近くであれ、僕は多くの人間を助けようともしなかった。そうやって生きてきた訳だ。
どれだけの数の人間を、僕は見捨てて生きてきたのだろう。
僕が誰かを救う事ができるだなんて。僕にはそんな能力もなければ気概もない。ただ人が死ぬ度に、不快感だけが僕の心を通り過ぎていくだけにすぎなかった。
そして今も、比良川のアドバイスを待っている、指示待ち人間、いや比良川的に言うと指示待ちヒーローと言うべきなのか。結局僕は、宮乃の危機を救ったわけでもなかったし、千田や花道を厳しく責め立てた訳でもない。ただ話を聞いて、そうかそうかと頷いていた。花道にモンブランをたらふく食べさせて、話だけ聞いて、満足した顔で帰らせた。その程度の人間だった。
花道 珊瑚。彼女は昨日、帰り際にこう言った。
「本当に、もっと深く知りたいのなら、明日の夕方、私に連絡して。そしたら色々とちゃんと教えてあげるから」
いつまで経っても僕は子供のままだ。こういう時、「ま、比良川が判断してくれるだろう」とすっぱり割り切ることも出来ないし、「そうやって考えている間にも人が犠牲になっているかもしれない。怖くてもまず深く知ることから始めないと、どうにもならないじゃないか」とも割り切れない。
そうやってぼうっと考えてたら、いつの間にか授業が終わっていた。天井の蛍光灯が点滅していてそろそろ替え時のようだ。僕も変わらなければいけないとは思うのだけれど、そうは言っても人がそう簡単に変わるのなら、物語なんてものは存在しない。人間が葛藤と不安に苛まれながら、良いか悪いかも分からない一手を進めて、この世界の論理が、僕自身の物語が動いていくのだ。
「比良川」
僕は、通り過ぎようとした人間を呼び止めた。
「まだ考えてる。今日、文之が行くべきか、否か。判断にはまだ、もう少し時間が必要だ」
「そう」
多分、その役割は僕じゃなくてもいい。もっと適任がいたりする。そうした方が、社会のためだったりするかもしれない。そして僕自身のためになるかもしれない。
「あのさ、比良川」
なら、僕は、何のためにこうして生きているのだろうか。僕だけにしか出来ないことなんて、この世界のどこに存在するというのだろうか。
「その、興味があるんだ。もう少し、花道の事が、それに千田の事も。僕は大したことは出来ないけれど、ここまで巻き込まれたんだ。花道の話を、本当の話を聞きに行こうかなと、少しだけ思っているんだけど」
「少しだけ?」
「そう、少しだけ」
「ま、なら別に良いか。はい、決定」
そんな軽いノリで決定した。こんなものは言ってしまえば罪滅ぼしだった。どこまでも受動的な行為で、主体的な、そういうどうしてもやらなければいけないと思ったとか、使命だとか、ミッションだとか、そんなものじゃない。自己犠牲的な精神だとか、高い志を持って選択した訳でもない。何となくのもので、代わりもいれば、どうとでもなる問題に過ぎなかった。
そう、ただ、僕が知らずに見捨ててきた人間に対する罪悪感を少しだけ軽くしようとする、自己中心的な罪滅ぼしに過ぎない。意識的に、そして無意識的にも視界を小さくして生きてきた自分自身に対する、そういうものでしかない。
「きっと、そんなに悪くないよ」
すっとそんな言葉が出ていた。花道を信用していた訳ではないし、比良川を安心させようと思った訳でもない。ただ、どうなっても、まぁそんなに悪くないかなと思っただけだった。
「ぎりぎりの所で帰ってきて、文之が、やっぱりやめとけば良かったなって言う姿が目に浮かぶ」
「もしかしたら、そうかも」
「ま、気をつけてな」
そう送り出された僕は、背中を丸めながら花道に連絡をとった。
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「本当に連絡してくると思わなかった」
「まぁその、ちょっと興味があってさ」
「翠夜くんも興味あるんだね」
「仕事自体にね」
花道は私服だった。昨日と同じように、ストリート系ギャルと言えば良いのか、そんな感じの服装。真っ赤なスニーカーがクール。でも花道の場合、血がついても大丈夫なように赤にしてるんじゃないかと思ったりする。
「千田くんの前にもさ、偶然、説明してあげようとした人がいたんだ」
「もしかして、その人、スーツに赤いブーツで来たりして」
「そうなんだよ、よく分かったねぇ」
あのボサボサの髪の男も、何かを知ろうとしたのかもしれない。
「結局、怯えて帰っちゃったけどね」
そう言いながら、僕たちの目の前に1台の黒い車が止まった。濃いめのスモークが窓にかかっている、見るからに怪しそうな車だった。運転席に初老の男性、助手席にはビジネスマンのような普通のスーツに不釣り合いなサングラスを掛けた男が座っていた。
「あ、おにーちゃん」
「おにぃ...ちゃん?」
「初めまして。花道 蒼海です。私たちの事を探っている人が居ると聞いて、ね」
何となく警戒されている気がしていた。
「警戒しなくても大丈夫ですよ、翠夜文之さん。物騒な事はしないので。死ぬのはご自身の役目ですからね」
薄いサングラスを掛けた向こうの目は、笑っていた。
「死ぬのは僕の役目?」
「いえ、別に。そういう依頼人が多いもので」
「依頼人...?」
「ま、車の中で話をしましょう。どうぞこちらへ」
そう言って、丁寧にドアを開けてくれた。僕は少しだけ迷って、後部座席に乗り込み、隣に花道が座った。鍵がかかる音がして、閉じ込められた気がした。
「こちらの方は?」
「プライベートな運転手なのでお構いなく」
「そうですか。それで依頼人、というのは?」
「まずは、全裸になってもらえます?」
「はぁ、全裸に」
「大丈夫ですよ、ちょっと秘密の場所やら、秘密の話やらをするので、単なる持ち物検査です。珊瑚、さっさと済ませてしまおう」
「はーい。まずはそのカバンこっちに渡して」
そう言って、僕のカバンを奪い取った。連絡手段を何重にも散りばめるはずの比良川が、僕に何もよこさなかったのは、こういう展開を予想していたのかもしれない。
「あの、持ち物検査なら上から触れば問題ないと思いますが」
「あぁこれは、ただの趣味です。私ではなく、珊瑚の」
「カバンは問題なさそうね。はい、上着脱いでね」
「はぁ」
人は裸になると、精神的優位を失うものらしい。想像してほしい、どこかの国の大統領の演説、そこでいきなり大統領が裸になったとして、人は同じような姿勢で大統領の話を聞き続けられるだろうか。服を着ている、というのは意外と大事なことだ。だから僕はあまり脱ぎたくなかった。
「はい、下も脱いで」
嫌だなぁと思いながら、僕は従った。車内に隠しカメラが仕掛けられていて、後で脅されるのかもしれないが、もう仕方ない。
「はい、携帯のロックも開けてね」
「...ロックも」
幸い、僕は普段会話する人間がいない。そして比良川は多分それも先読みしていたのだろう。昨日の時点で、僕の携帯電話には細工が施されていた。
「千田くんと、宮乃さんしか知り合いがいないのね」
「そうだね」
「話も大した話は無し、と」
「まぁ、重要な話は会って話す方だから」
「メモにも記録はなし、と」
「使いこなしていないとも言える。文系だから」
そもそも僕は知り合いはいないし、人と大した話をしないし、スマホを使いこなしていないから、嘘ではなく本当の話ではあった。ただの経済学部の大学2年生に、そこまで警戒する必要はないと思ったのだろうか、結局何もなく、服を着てもいいよ、と言われた。
「なんだ、本当に知りたいだけだったんだ。残念だね、おにーちゃん」
「翠夜くん、これが何か、分かりますか?」
そう言って刃渡りの長い、ナイフを僕に見せた。刃の部分は綺麗に磨かれていて、よく切れそうだった。その切っ先を僕の顔に近付けて目の前で止めた。突然のことに、僕は瞬きをするしかなかった。
「私たちのことを知ってどうします?」
花道蒼海は僕に静かな口調で問いかけた。本当に僕を殺すとは考えられないけれど、かと言って常識の通じる相手ではないことは確かに感じた。
「警察に通報するか、ネットに晒すか。まぁ私たちが通報されたら捕まる可能性は高いでしょうね」
「えっそうなの」
花道珊瑚はとぼけた声をあげた。
「僕は、何もしない」
「何もしない...?じゃ、何をしにきたんでしょう?」
「僕は、社会の正義を貫きたい訳じゃない。ただの個人的な感情だ。知るだけ知って帰る、それが僕がしに来たことだ。君たちが人を殺してようが、自殺を促してようが、僕は何もしない。そういう罪はさ、僕が何もしなくても勝手に誰かが見つけて裁いてくれるんだ」
未だにナイフの切っ先を僕の方に向けるのを花道蒼海はやめなかった。何のためにそんな事をしているのか、僕にはさっぱり理解できなかった。
ははっ。知るだけ知って帰る。
「殺したいなら殺せばいい。別に僕は生きたくて生きてる訳じゃない。いつ死んだっていい。生きなくちゃいけないから生きているだけだ。それに、どうしても話したくないなら話さなくていい。本当に僕はただ知りたいだけだ。何なら約束しようか?もし君たちが逮捕される、なんていう状態になったら逃亡の手助けをすると。まぁ僕にできることは何もないと思うけど」
つい興奮して言葉が出た。もしかしたら僕の本心かもしれない。嘘、かもしれないけど。本心ならきっと軽蔑すべき本心なんだろう。
「君は...死にたいんですか?」
「いえ。まぁ生きようかなぐらいには」
「ならなぜ、こんな誘いに乗ったのですか?」
「罪滅ぼしだよ。僕が見捨てた、そしてこれから見捨てていく全ての人間に対する」
「罪滅ぼし...?私たちを知ることが?」
「それが多分、重要なことだと僕は思う」
僕がそう言うと、花道蒼海はナイフを下ろした。
「分かりました、『消去者』の話をしましょう。何、大した事はありません。よく言われる話です。電車で人身事故が起きた時、『誰にも迷惑かけずに死ねばいいのに』っていう方がいるでしょう。でもそれはとても難しい事です。だからその需要に応えるお仕事です。死ぬ、以外で誰にも迷惑をかけずに死ねる、私がやってるのはそんなサービスですよ」




