第1話 始まりの日曜日
中途半端な高さのビルの屋上からこの街を見ていた。
美しくもなく、惨たらしくもなく、ただ雑然と合理的なふりをした四角いビルが立ち並ぶ街。大義も、情熱も、その景色の中には存在せず、中途半端に空に向かって手を伸ばす平凡な建物の群れに覆われ、そして見下ろされて生きてきた。
それでいいとは、どうしても、思えなかった。
ゴミ捨て場にすら辿り着けなかった薄汚れたビニール袋がまたひとつ路地裏に落ちた。
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17:00。もうすぐ夕焼け空になろうかという時間帯だった。
「大人って何だ?」
まだ温かいコーヒーを飲みながら、僕は小さな独り言を呟いた。僕の声など届きはしないカフェのガラスを挟んだ向こうを行き交う人たちは、どことなく楽しそうに見えた。日曜日の夕方。そこには大人に対する疑問などあるはずも無く、そして彼らは必要としていなかった。
ふと、傘を持って歩くひとりの中年男の姿が目に入った。今日は朝から晴れていたはずだったのに。寝癖のついたままのボサボサの髪で、不潔な印象を受けた。その不潔な中年の真後ろを100人中90人は『清潔感がある』とか言いそうな若い男が歩いていた。非情だ。
僕が居たのはそんな日常だった。街を歩く人達を眺めて何かをしたかった訳ではない。ただぼんやりと外の景色を見ていた。
しばらく眺めていたガラス越しの街に、髪の長い女の子と何処にでも居そうな男のカップルが見えた。彼らが楽しそうにこの店を指差しているのが見えて、僕は何とも言えない気持ちになった。
「恋愛ってのもよく分かんないなぁ。今日で20になるのに」
恋だとか愛だとか。積み木のようにちょっとした事で崩れるものを、どうして信じられるのだろうか。そんな誰にも聞こえない小さな愚痴を吐いていると、さっきのカップルがこの店に入ってきた。
「すみませんお客様、現在満席になっておりまして...」
「そうですか、どうする?」
「座って待ってようよ」
別に聞こうとした訳でもないのに、こういう話し声は耳に入ってくる。店内を振り返って見渡してみたが、誰も席を立つ気配はない。僕はひとりでテーブル席に再度深く腰掛けた。僕も特にあのカップルに譲りたい訳でもないし、多少待つぐらいは彼らも想定済みだろう。
「でもなぁ、なんか気になるんだよなぁ」
カップに残っていたコーヒーを勢いよく喉に注ぎ込み、僕は足早にCASHIERと書かれた空間へ向かった。帰り際、ちらっとカップルの方に目をやるが、こっちをみる事はなく2人の世界に入っているようだった。僕は馬鹿だ。
「何をしてるんだか...」
扉を開けると春の暖かい空気が顔を撫で、僕の心残りを攫っていった。モヤモヤとしていた気分が晴れて、風にあたっているだけで少し気持ちよくなった。
「せっかくの誕生日だ。ケーキでも買って家で食べるか」
何だか良いことが起こりそうな予感がして、そんな風に突き動かされて、僕は近道の路地裏へ入った。暗い路地裏だった。
「それにしても、この辺りはゴミが多いな」
そこには、折れた割り箸やら、くしゃくしゃの紙袋やらがあちこちに転がっていた。ゴミぐらい自分の家で捨てればいいのに、と不満に思うが、僕も街を綺麗にするためにその辺のゴミを拾って回ったりはしないのだから、その不満もおかしいと言えばおかしい。『ゴミぐらい綺麗にしてあげたら良いのに』なんて言われたらうまく反論できる自信がない。
そんなことを考えていた時、ふと、僕の前を薄汚れたビニール袋が舞い上がった。つい目で追ってしまい、上を見る。
僕の目の前。男が降ってきて、潰れた。ズシンという地響きで、雨樋に溜まっていた赤く錆び付いた金属を浮かせた水がポタポタと音をたてる中、僕は呆然と空を眺めていた。
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それは一瞬だっただろうか。そんな僕を、誰かがビルの上から見ていた。しかし僕はただ呆然とするだけだった。
少しの間、思考停止していた僕の後ろ。バイクを押してきた女の子が声を上げた。
「何か、大きな音がし......。し、死んで、い、いやっ、えっ人殺し...」
僕はその声で我に返った。
「ち、違う!そうだ、救急車、まだ助かるかも。あれ、携帯が、ない...」
「ひ、人がっ、しっ、あああっ」
女の子はパニックになったのか、バイクを残して逃げていった。
「あっ、ちょっとっ。いや、誰でもいい、誰か助けてもらえませんか!」
僕がこれまでの人生で出したことがないような大声を上げると、少し小太りの中年のおじさんが走ってきてくれた。しどろもどろになりながら事情を説明すると、おじさんは救急車に連絡してくれた。
おじさんが連絡している間、僕はじっと死んだ男の顔を見ていた。あちこちから血を流し、口からも黄色い液体をだらっと流すその男。そんな汚くて見たくもないはずのものから、目を離せずにいた。
カフェでガラス越しに見かけた、ボサボサの髪の男だった。
僕が出した大声を聞きつけたのだろう。野次馬がわらわらと集まってきてまた僕は呆然とした。大人がどうだなんて、生々しい死の前で、どんな意味を持つのだろうか。僕は馬鹿だ。
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警察官に事情聴取を受けて、僕はようやく自分の家に着いて床に崩れ落ちた。カバンの中のものが散乱する。無くしたと思っていた携帯は、なんてことない、自分のカバンの中に入っていた。
「最悪の誕生日だよ...。なんだこれ」
僕は未だに信じられなくて仰向けになった。無機質で白い天井が、少し怖く思えた。
「それにしても、殺人犯呼ばわりかよ、あの女」
何だか無性に、バイクを忘れていった女の子に腹が立つ。ただし腹が立っても、特に何も出来やしない。僕が虚無感に浸っていると、電話が鳴った。
「なんだよ、こんな夜中に」
『やあ、文之。なんか悪いことしたの?』
「する訳ないだろ」
『いやさ、SNSで文之が殺人犯ってことになってるぜ。俺の送ったURL見てみな』
僕の連絡先を知っている友人は1人しかいない。いや友人というのは少し違うのだけど、滅多に連絡して来ないくせに、この比良川という男はその滅多な時というのが大抵面倒な話を持ってくるのだ。
比良川からきたURLをクリックすると、実に数千もの返信がついた一つの投稿が表示された。そこにはあの死んだ男と、その男の隣で呆然と座っている僕の写真があった。
「えっと、『人殺し現場見ちまった』...ねぇ」
→"こいつが犯人?"
→"黙って死体見つめてたよ。やっぱ殺人犯ってぶっとんでるわ"
延々と投稿についたコメントを見ていると、どうやら僕は殺人犯確定らしい。本当にくだらない話だ。
「で、何。何でこんなバズってんの?」
『さぁな。俺もちょっと聞きたいことあるから家行っていい?』
無視していると15分ほどして、比良川が家にやってきて呑気な声を響かせた。
「やあ。びっくりしたよ」
「びっくりしたのはこっちだ。というかニヤニヤするなってのも無理ないか。別に死んだ人間は比良川にとっては赤の他人。社会にとってはよくあること。そうだろ?」
「まぁね。逆に俺が真剣な顔してたらどうする?」
「嘘つきにしか見えないな」
「そういうこと」
「まぁ、とりあえず上がれよ。誰かに話したい気分ではあったから、ちょうど良いよ」
そういうと、比良川は目を輝かせてメモ帳を取り出して、軽い口調で話し始めた。
「で、結局何があったんだよ。文之はどうせ巻き込まれたんだろ?」
「大体、そんなとこだな」
「神様ってのは不思議な誕生日プレゼントを与えるもんだ」
「配慮ってもんができないのは知ってるけど、もう少し言い方ってのがあるんじゃないか?」
僕はとりあえず口を尖らせておいた。
「いやぁ、ごめんごめん。申し訳ない」
「ったく、だから友達できないんだよ」
「何言ってんの? 文之もいないじゃん。えっ、友達いたっけ?見た事ねぇなぁ」
「...うるさいよ。説明しないぞ」
「すみませんでした、説明してください、お願いします、翠夜さん」
「ったく、1回しか説明しないからな」
深いため息をついてから、比良川に一通りの事を説明した。ただし比良川は面倒な男だから、一通りでは満足できない。
「その屋上に居た奴、怪しいんじゃないか?」
「怪しい?何が」
「そいつが突き落としたんじゃないかって事だよ」
「適当なこと言うもんじゃないよ」
「降ってくる時に声とか聞こえなかったのか?」
「そういうことはなかったな」
「特徴とかも覚えてないのか、その屋上人間の」
「僕の見間違いかも。あの時少し混乱していたし。自殺じゃないかもとは思ったけど、それは勝手な推測ってもんじゃないか?」
僕は比良川の野次馬根性に疲れ始めていた。しかし、まだ比良川は話を続けた。
「とある情報筋によると、死んだ男には借金もなく、本当に普通の男だったらしい。未来に絶望するような事があったという話もない。職場では存在感のない男だったらしいがな」
「どこから仕入れた情報だよ。ただまぁ絶望というか...希望を持てなかったのかもな。それほど苦しいこともないけど、これといって楽しいこともない。そんな生殺しの人生をこれからも生きていくことに疲れた。そんなとこだろ」
自分でも驚くほど非情に、口の中に残った味のしないガムを吐き捨てるように言葉が出た。
「人のこと言えないが、文之も人情味のない男だよな。もっと涙流すとかねぇ訳?」
「悲しいというより、ショックは受けてる」
そう僕の口から流れる言葉は、おそらく嘘。
「文之のさっきの言い方。終わりに『全く単純だよな。これだから馬鹿は...』みたいな言葉がついてるように聞こえたけど?」
「うるさいよ。別にそんなこと...。少し疲れたから、そろそろ帰ってくれないか」
「最後に忠告な。しばらくはマスクをつける、人気のない道に入らない。これぐらいの用心はしておいた方がいいと思う。思ったより投稿が拡散されてる。何があるかわかんないからな」
「はぁぁ、とんだとばっちりだ」
僕はベッドに沈み込んだ。