四話
虫が鳴くような微かな物音と共に開かれた障子に永琳が視線を移す。
永琳の視線の先には、覇気の無い表情の妹紅が見えた。
「終わったのね」
永琳の口から溢れた声色が平坦なものだったのは、あらゆる感情が無秩序に飛び交うが故に、感情の優先順位を体が判断しかねた結果だった。
「私は……謝るべきなのか?」
あまりにも頼りない妹紅の声が、この場に収拾を付け得る人物が自分しかいないとの自覚を永琳に齎した。
「廊下は冷えるでしょう。こっちにいらっしゃい」
優しく永琳が語り掛けると、人一人がギリギリ通れる程度に小さく開いた障子の縦桟に、妹紅が落とした肩を擦らせながら、障子を閉める事も忘れて部屋に入り、静かに座り込む。
「謝罪は必要ないわ。寧ろこちらがお礼を言うべきよ」
妹紅はしばらく黙り込んでいたが、やがて、意を決して正直な心境を述べた。
「私は…輝夜を許したわけじゃないんだ。あいつを殺した理由が憎しみなのか情けなのか自分でも分からないんだ」
永琳の全身が一瞬だけ震えて、苦々しく唇を噛み締める。
既に挨拶は済ませてある。永遠の責め苦から解放されて輝夜も本望だろう。だからと言って割り切れる物じゃない。妹紅の口から殺したという単語を聞いた瞬間、永琳は居ても立ってもいられなかった。
これでは従者失格だ。
本来なら、主人の名誉を守ることを優先させるべきなのだろうが、一刻も早く彼女の元に駆け付けたい衝動に駆られた。
しかし、自分の気持ちだけ優先させて、深い傷心状態にある妹紅を放置するのは流石に身勝手が過ぎる。
まずは最低限の役目を果たさなければならない。
「妹紅。これを貴方に渡しておくわ」
永琳がズボンのポケットから、小さく簡素な白色の封筒を差し出す。
「これは?」
「慧音が貴方に残した手紙よ」
「っ!慧音から!?」
永琳の言葉を聞くと、虚ろだった妹紅の目が大きく開いた。
「私は少し席を外しておくわ。邪魔になっても悪いしね」
慌てて手紙の封を切ろうとする妹紅の横を通り過ぎ、退出し、障子を閉めた永琳はすぐさま輝夜の元に向かった。
輝夜のいる部屋の扉を開くと、既に息を引き取った輝夜が、安らかな顔のまま仰向けに眠っていた。
「輝夜…………」
最愛の人の名を無意識に呼んでいた。
最愛の人の体を無意識に抱きしめていた。
「輝夜………輝夜…輝夜!!アァ…………」
永琳はボトボトと大粒の涙を流しながら、何度も鼻をすすり、何度も輝夜の名を呼び続けた。何度も、何度も。
部屋に一人残った妹紅は、封を開いて中の紙を取り出すと、食い入るように書き記された文字を目で追っていた。
【妹紅へ。この手紙を読む時、私はこの世にいないだろう。挨拶も無しに先立つ勝手を許してほしい。そしてどうか、輝夜を責めないでやってくれ。彼女には損な役目を押し付けてしまった。さて、私がこの手紙を書く事になった原因だが、妹紅も知っての通り、外の世界から兵器が流れてきた事件が切っ掛けだ。酷い事件だった。大切な人達の命が理不尽に奪われて行くのは耐え難い悪夢だった。何かを作る為には多大な時間と労力が掛かるが、壊すのは一瞬だ。そしてそれが、この世の理なのだと改めて思い知らされた私は、無礼な同情心かつ過剰な干渉である事を自覚しつつも、不老不死である蓬莱人の背負った運命が如何に残酷なものかと恐怖した。どうにかして私が力に成れないかと思っていたところ、私の歴史を隠す能力が蓬莱の薬を打ち消すかも知れない可能性を見出した。しかし、やはりこれは度を超えたお節介なのだろうか。私の善意は真の意味での善行なのだろうか。なにせ私は、身勝手な正義で己の大切な友を殺す方法を求めていたのだ。我ながら酷い話だ。私は自分が恐ろしい。自分を恥じてこの考えを忘れようとしていたところに丁度、永琳が訪ねて来た。珍しく永琳が私を尋ねて来た理由を聞くと、彼女はなんと、今までの私の考えと同じ旨を口にした。私は協力を求める彼女の言葉に承諾した。郷の復興に追われる生活の傍ら、私と永琳は思い付く限りの実験を行った。しかし、実験の結果は振るわなかった。諦めかけていた私は偶然、多忙の余り処分しきれなかったであろう永琳の実験結果を記した未処分のレポートを発見した。私は未処分のレポートに目を通した時すぐに、蓬莱の薬の解毒方法に気が付いておきながら、彼女がそれを口にしなかった理由を理解した。彼女は最後まで反対していたが、半ば強引に押し切ったよ。だから、永琳の事も悪く思わないでほしい。全ては私のわがままなんだ。実を言うと不死の罪から妹紅を救いたいなんて言葉もただの建前だ。結局のところ、私はただ妹紅と同じ時を歩みたかっただけだ。だけど、私には不老不死の運命を自ら受け入れる覚悟は持てなかった。自分の命を差し出して少しでも不安を取り払うのが精一杯だった。私には妹紅の隣に並び立つ資格なんてないのかも知れない。本当にすまない。我ながら身勝手にも程があるし、卑怯なやり方だったかも知れない。今の君がどんな心境に有るのかは計り知れない。もしかしたら私を軽蔑しているのかも知れない。だいぶ長くなってしまったな。もう少し簡潔に済ますつもりだったが、いまは正直、すこしばかり混乱している。自分でも何を書いているのか分からなくなって来た。ここから先を書くのは許されないかも知れない。それでも、これだけは私の正直な気持ちだ。私、上白沢慧音は、藤原妹紅が何よりも大切で大好きです。もし許されるのなら、いつかの輪廻の中で再び貴方と出会いたい。さようなら妹紅。いままでありがとう】
手紙にはところどころ涙の痕が滲んでおり、いつもは綺麗な慧音の字体は酷く乱れていた。不老不死である己の存在がどれほどの負担を彼女に背負わせてしまったのだろうか。一度しか無い初めての死を自ら受け入れるのはどんな気持ちだったのだろうか。
謝るのは自分だ。身勝手なのは自分だ。永く生きて全てを悟ったと思い上がっていた。自分はただ子供みたいに泣き喚いて当たり散らしているだけだった。
止め処ない涙と感謝と謝罪の言葉が溢れだす。
やがて、時計の針が丑三つ時の終わりを指し示し、妹紅がある程度の落ち着きを取り戻した頃、障子の奥から木製の部位を叩いたであろう軽いノック音が聞こえてきた。
「妹紅?入るわよ」
永琳の声に相槌を返すと、両手に湯呑みを持った永琳が中に部屋に戻ってきた。
「永琳も…今夜には逝くんだな」
やや緊張した面持ちで、妹紅は少しばかり姿勢を正した。
「勘違いしないで。ただのお茶よ。喉が渇く頃だろうと思ってね」
永琳が小さく溜息を吐きながら、片方の湯呑みを妹紅に差し出す。
「あ、そ、そうなの?」
小恥ずかしい気持ちを覚えながら差し出された湯呑みを両手で受け取る。
「とはいえ、今夜死ぬつもりなのには違いないわ」
妹紅の隣に正座で座り込んだ永琳が、透明な液体が入った二本のビーカーを胸ポケットからチラつかせると、再び妹紅の表情に緊張が満ちていく。
「………すこしだけ話しましょう。夜明けにはまだ時間がある」
ビーカーをしまい込み、湯呑みに両手を添え、お茶に口を付ける永琳に続き、妹紅もお茶を口に含んだ。
「ってまた玉露かよ」
「使い切らないと勿体ないでしょう。せっかく無理言って譲ってもらったんだから」
「まぁ…その気持ちは分かるけどさぁ」
湯呑みに満ちた高級品らしい玉露の嵩が僅かに減ったところで、手近にあった机に妹紅は湯呑みを置いた。
コツ、と湯呑みを置く音を最後に、体感時間にして約十分強、実際の時間にして五分弱の静寂が流れる。
「目、赤くなってる」
妹紅が自分の目を指差しながら、半ば独り言のようなニュアンスで永琳に語りかけ、両手に湯呑みを持ったまま姿勢を斜め下に落としていた永琳の顔が自分の方に向いたところで、言葉を続ける。
「私も泣いたよ。今までなかったくらい」
「謙遜とか無しにして、客観的に見て私が天才の部類である事は承知している。けど……力が足りなかった」
「何言ってんだ。感謝してるよ」
十秒ばかりの間を開けてから、永琳は両手に持っていた湯呑みを机に置き、体ごと妹紅の方へ向き直る。
「ねぇ妹紅。ひとつだけ言い訳を聞いて欲しいの」
改まった態度を取る永琳に応え、妹紅も体ごと向きを変えてから、話しを続けるように促す。
「慧音が居なくなった後、輝夜が敢えて、貴方に挑発的な態度を取り続けたのには理由があるの」
永琳の言葉に、妹紅の目付きが僅かに鋭くなる。
「理由?」
「えぇ。慧音を失った妹紅は間違いなく悲しみに飲み込まれる事になる。それを避ける為に、悲しみを少しでも忘れさせる為に、わざと妹紅を怒らせるんだと輝夜は言っていた」
怪訝な声色と表情で妹紅が質問する。
「どういう事だ?」
「悲しみは人を消沈させる。消沈し切って気力を失った人間は廃人になる。怒りは逆に人の気力を掻き立てる。仮に怒りに呑まれたとしても、復讐を果たせばある程度は怒りが収まる。同じ負の感情でも、少しでも廃人になる可能性の低い方へ誘導する為に、輝夜は必要以上に悪役を演じた。妹紅が蓬莱人になってしまった原因は自分にあるのだから、妹紅を人間に戻す役目もまた自分にあると輝夜は言っていた」
「ちょっ、ちょっと待てよ!マジで言ってんのか!?」
信じがたい永琳の言葉に、妹紅が思わず声を荒げる。
「本当は輝夜には黙っていろと言われたのだけど…輝夜の名誉の為に言わせてもらったわ」
なるほど。永琳が改まった態度を取るのも無理はない。
「は……まじかよ…は…ハハハハ」
思わず笑いが込み上げてくる。
「全部私の独り相撲だったってわけだ!最初からあいつの掌の上だったなんて!ハハハハハハ!」
妹紅は天を仰ぎ、片手で顔を覆いながら豪快に笑い声を挙げる。
「完敗だ!そりゃ王子様達も手玉に取られるわけだわ!まったく恐れ入ったよ!」
ひとしきり笑った後、妹紅は再び永琳に視線を戻し、明るい声色で話しかけた。
「教えてくれてありがとな永琳。なんか、肩の力が抜けたよ」
心からの感謝だった。背負っていた不必要な重荷は勝手に転がり落ちていった。
「本人に言ってあげて。きっと輝夜も喜ぶわ」
「そりゃ良いや。顔を真っ赤にさせながら照れるだろうな」
輝夜の眠る部屋に二人が戻り、妹紅が輝夜にお礼の言葉を言い終えた頃には、時計の針が四時三十分を指し示していた。
「そろそろタイムリミットね」
永琳は改めて、事実を確認する言葉を呟いた。
「妹紅、手を出して」
言葉に従って手を差し出し、浄罪の滴を受け取る。
「輝夜を弔ったら私も薬を飲むわ。お別れよ妹紅」
「弔う?土に埋めるつもりか?」
それ以外に何があると言うのか。思わせぶりな妹紅の言葉に、永琳が首を傾げる。
「悪いな永琳。ちょっと家を壊すぞ」
妹紅が片手を振り上げると、小さな火の鳥が飛び出して、天井を貫き飛び立っていく。
天井に開いた穴からは小さな火が揺らめき、それが徐々に燃え広がっていく。
「なっ!?なんのつもり!?」
天才の頭脳を持ってしても理解しかねる蛮行に、思わず永琳が声を荒げる。
「土の中になんか埋めたら、故郷が見えなくなっちまうだろう。それに、お前達を追い出した奴等にも見せつけてやるんだ。輝夜と永琳は、ちゃんと自分の手で、自分の罪に片を付けたってな」
「け、けどこんな事をしたら収拾が付かなくなるわ!」
永琳の言葉はもっともだ。穴から広がる炎はみるみる大きくなっていく。
「竹林には燃え移らないようちゃんと火加減はしてあるさ。何年炎を操っていると思ってんだ。けどまぁ、永遠亭は全焼しちまうがな」
「呆れた……貴方って本当に乱暴ね」
「せめて豪快と言ってほしいね」
やったもん勝ちと言わんばかりの態度を取りながら、妹紅がビーカーを永琳に近付ける。
「なに?」
「最後に乾杯しよう。あんたには色々と世話になった」
妹紅の言葉を聞くと、永琳はわざとらしくお手上げのジェスチャーをしながら、いやでも聞こえるような溜め息を吐いた。
「はぁ〜……貴方ってほんと学が無いわよね」
「なっ、なんだよそれ!?」
「最後じゃないわ。ただの節目でしょう」
「ただの節目……か…そうだな。ただの節目だな」
ビーカー同士を軽くぶつけてから二人は薬を一気に飲み干した。
すぐに酔いの回った二人は、輝夜を挟む形で畳みの上に寝転がった。
燃え広がっていく炎は永遠亭と三人の体を焼き尽くし、煙となって天に昇っていく。
彼女達の肉体は消滅した。
しかし、魂はただ死後の世界に向かっただけだ。決して彼女達の存在が完全に消えて無くなったわけではない。魂は輪廻の輪を回り、やがて新たな肉体へと宿って未来を紡いでいくであろう。より良い世界を目指し、生命はどこまでも巡り続ける。
凍り付いていた時は溶け、彼女達も再び歩き出したのだ。聖地に住まう月の民と言えど、彼女達の誇りを蔑む事は許されない。
月まで届け
不死の煙。