二話
「家中探してもいないからと迎えに来てみれば、随分と手痛くやられたようね。輝夜」
東の空が白み始める頃合に竹林を訪れた永琳は、惨殺死体との表現が一番適切であろう肉塊へと、呆れた様子で声を掛けた。
「永琳?永琳なの?」
美しい顔が無惨に破壊された輝夜の頭部は、再生過程にある頭蓋をカタカタと鳴らしながら言葉を紡ぐ。
ずっと研究室に籠りっぱなしだった永琳が外に出てきた事の意味を知っているからこその吃驚だった。
「ただの気分転換よ。どうしても外の様子が気になったものでね」
「ああそうなの。急いで再生するから、もうすこしだけ待ってて」
全身の再生を終えた輝夜は、先程までの死闘が嘘であるかのような、いつもの綺麗な身なりへと戻っていた。
「呆れたわね。本当にあれから毎日殺し合っていたの?」
「ええ。妹紅の怒りを受け止めるのは私の義務だからね」
機械のように淡々と受け答えする輝夜の様子に、永琳は自らの胸をキュッと締め付けるような思いの内を吐き出した。
「あなた、変わったわね」
「そうかしら?」
「変わったわよ。今のあなた酷い目をしている。とてもじゃないけど見れたものじゃ無いわ」
永琳の言葉に輝夜は一瞬、全身を硬直させた後に、納得したかのように小さくため息を吐き、体の緊張を緩めた。
「妹紅がね、私を見てくれないのよ。たぶん、今のあいつの目的は、蓬莱山輝夜を殺すことなんかじゃなくて、溢れんばかりの激情をどこでもいいからぶち撒けたいだけなのよ」
「いまさら泣き言を言うつもり?全部覚悟の上だったんでしょう」
思いもしなかった突き放す言葉に、輝夜の胸中を哀しく冷たい風が駆け抜ける。永琳なら全てを受け止め、優しく包み込んでくれると想っていたのに、なぜ?なぜそんな意地悪をするの?沸沸と湧き上がる冷たいマグマが乱れた呼吸と共に外界へ顔を出し、輝夜の焦燥を露わにする。
「………いえ、ごめんなさい。今のは意地悪だったわね。あなたにそこまでさせる妹紅の奴に嫉妬してしまったわ」
「………無理もないわ。千年以上も密室に籠もっていたのだから」
永琳の言葉を聞くと、安堵と同情心と共感と罪悪感を同時に抱いた。
不安なのは彼女も一緒だ。与えられるだけでは駄目だ。自分もまた、少しでも明るい感情を彼女に与えるべきなのだ。
輝夜の腕が優しく永琳を抱きしめる。
「それにね、貴女も私の大切な存在よ。永琳」
「輝夜…………輝夜!!」
永琳も力一杯輝夜を抱き返した。
普段はあまり感情を表に出さない永琳だが、この時ばかりは溢れる涙を隠す事は無かった。
やがて朝日が完全に登り、迷いの竹林にもチラホラと妖精の姿が見え出したところで、二人は永遠亭への帰路についた。
落ち着きを取り戻してみれば先程の行為は頬を赤らめざるを得ないほどに小恥ずかしい。孤独を駆り立てる闇にも似た新月の夜が二人を惑わしたのだ。そういうことにしておこうと言い訳する永琳を輝夜は執拗に弄り倒していた。
口ほどに物を言う荒みきっていた瞳が時間の経過と共に柔らかくなっていく過程には感慨深い感動があったが、如何に親しい仲に有るとはいえ、たまたま表面に出てしまっていた乙女心を土足で走り回る輝夜の蛮行に、永琳の怒りはピークに達しようとしていた。
「姫様?あまり調子に乗っていると今日は御飯抜きですよ?」
三大欲求のひとつである食欲が人の心に与える影響は大きい。いままでカップ麺や睡眠で食欲を誤魔化していた輝夜にこの言葉は大いに効いたであろう。
千年ぶりの親しい者との食事。しかも、所謂おふくろの味とすら言える永琳の手料理だというのに、それを享受する機会を一方的に取り上げられるのは、あまりにもご無体な仕打ちである。
速攻でかつ深い反省を述べてなんとか許しを請う輝夜であった。
必死の謝罪の甲斐あって永遠亭についた頃には永琳の機嫌も直っていた。
永琳が料理のため台所に立っているあいだ、輝夜は居間で待機していた。
長いあいだ日常と呼べる生活から離れていた為に、料理を待つ時間というものを持て余していた輝夜は、ただ呆然と庭を眺めていた。
いたずらに振り回されて怒った鈴仙がてゐを追いかける騒がしくも微笑ましい日常は遠い過去の憧憬だ。逆には流れぬ時間を回想にて追いかける内に、自分達の日常を破壊した忌まわしき記憶が不意に蘇る。
約千五百年前、突如として幻想入りした近代兵器によって幻想郷は壊滅的な被害を蒙った。
多くの見知った人間、妖怪、果ては神までもが悪魔の兵器によって死に追いやられる中で、蓬莱人の永琳、妹紅、そして輝夜は、いつもの如く、死そのものに拒絶されていた。
大混乱の中、半年近くかけて、幻想郷の顔役達が行った調査の結果、外の世界から流れ込んできた兵器による被害は幻想郷の80%近くにも及んだ。
壊滅状態の郷とは相反し、かすり傷ひとつない己の体を見た三人の蓬莱人は、改めて不老不死の恐ろしさを心に刻み込まれた。
酷い話だが、破壊兵器が齎した被害の規模が、終の住処である幻想郷の八割の崩壊程度で済んだのは不幸中の幸いだった。
もっと強力な兵器が外から流れ込んで、幻想郷そのものが吹き飛んでいたらどうなっていたことか。
もし死ねない体のまま宇宙空間に放り出されていたらどうなっていたことか。
大罪人である輝夜は月に帰ることもできない。輝夜と同じ不老不死の罪を犯した妹紅も歓迎はされないだろう。大罪の片棒を担いだ永琳もそれは同じだった。
万が一、月から恩赦を得られたとしても、月もいずれは時間経過によって消滅する運命だ。
宇宙すらもいずれは滅ぶ。
例外なのは蓬莱人だけだ。
そうなった後は、もうどうしようも無い。
比喩でもなんでもなく、文字通り、永遠の虚無の中で、肉体と精神に永遠の苦痛を受け続けるだろう。
都合よく無意識の奥底に閉じ込めていた破滅を、一瞬にして再認識させられた破壊劇は地獄という言葉すら生温い絶望の塊だった。
「や………や…ぐや……輝夜」
永琳の声に反応した輝夜の体が、びくりと肩を大きく跳ねさせてから、自身を呼ぶ声の主へと振り返る。
「なに呆けているのよ。準備できたわ。御飯にしましょう」
どこまで察しているのか、小さな微笑みを湛えながら、優しくも軽い口調で席に着くよう永琳が促す。
行儀の良さ故に、耳を澄ましてもかろうじて拾うのがやっとな程の、か細い僅かばかりの音を数回だけ立てながら食事を続けるなか、永琳が静かに静寂を裂いた。
「味は如何でしょうか、姫様」
わざとらしく固い口調で質問する永琳に、怪訝な表情で輝夜が言葉を返す。
「永琳あなた……ビックリするほど腕を落としたわね」
ガーン、という擬音が大音量で聞こえてきそうなほどに、整った顔を驚愕に歪めながら永琳が硬直する。
「え?いや……し…しかたなくない?だって千年ぶりの料理なのよ?いくら私が天才だからって常に完璧な結果を出し続けるだなんて流石に不可能でしょ?ましてや料理なんて数学とかと違って正解がひとつじゃないわけだし、こんな曖昧なもので私という人間にマイナスの評価をつけるだなんて愚かしいことこの上ないと思わない?」
永琳はしどろもどろになりながら支離滅裂な返答を輝夜に返す。
自らを天才と名乗る言葉が増長や冗談の類いでもなく単なる事実である完璧超人の永琳が、これほどまでに取り乱す姿などまずあり得ない。
取り立てて注意するつもりは無かったものの、向こうから味についての意見を求めてきたので正直な感想を述べてみれば予想以上に面白い反応が返ってきた。
続けて用意しておいた言葉のタイミングをわざと遅らせたい衝動に駆られるが、再びヘソを曲げられてはかなわない。
「けど、出来合いものや、そこらの店よりは全然おいしいし、あなたと過ごす時間はなにより楽しいわよ」
「無理にフォローするのはやめてちょうだい。優しさが痛いわ」
「いや本心なんですけど!?」
誤解を解き、食事を終えた後も永琳は落ち込んだままだった。完璧主義であるが故に料理の腕が落ちたという事実にへこんでいるのだろう。
永琳は空になった食器を持ってすごすごと台所に歩いて行く。輝夜もまた、それに続き台所へと足を運んだ。
「あら、どうしたの輝夜」
「どうしたのって、私も洗い物を手伝いに来たんだけど?」
輝夜の言葉に永琳は目をぱちくりさせ、少しの間を置いてから、ちいさく微笑んだ。
「どういう風の吹き回し?お姫様に洗い物なんて似合わないわよ」
「姫がどうとかなんて今更だし、大切な相手と同じ時間を過ごしたいと願うのはそんなに悪いことかしら?」
「仮に駄目だったとしても、それでおとなしく引き下がるの?」
「断るつもりも無いくせに」
たわいもない掛け合いを繰り返しながら、二人は洗い場の前に立った。
洗い場に立ってからは、不思議と言葉数が少なくなっていった。
話したいことは山程ある。だが、多過ぎるあまりどれから話せばいいのか分からない。
言葉が出てこないなら無理に話す必要もないと、自然体のまま、二人は黙々と作業を続ける。
身を切るように冷たい水が作業の手を遅らせるが、それでも終わりが見えてきたところで不意に、輝夜が核心に迫る言葉を投げかけた。
「ねぇ、本当はもう完成しているんでしょう」
輝夜の言葉に、永琳の作業の手がピタリと止まる。
「なぜ分かったの」
「永い付き合いじゃない。永琳の事は良く分かっているつもり。蓬莱の薬を完成させた時も、気分転換だと言って未完成な素振りを見せながら研究室から出てきたわよね」
「輝夜……私は……」
「人が嘘を吐く行動原理は、己が利益を得る為か、己の不利益を隠す為。今回は後者の理由みたいだけど、あなたが罪を感じる必要は無いわ」
「恐ろしいの…凄く…恐ろしい……こうする他なかったとはいえ、私の手で貴女を殺すことになるなんて…」
永琳の静止していた身体が小さく震えはじめるのとは対照的に、輝夜は落ち着き払った様子で言葉を続ける。
「桜の亡霊や騒霊楽団は貴女も良く知っているでしょう。死んだからといって消えて無くなる訳じゃない。ただ、少しばかり長い眠りにつくだけ。なんなら今の内に閻魔に根回しでもしておこうかしら?」
軽い冗談を吐いてみるものの永琳の表情は暗いままだ。最後のは余計だったか。
「今夜は一緒に眠りましょう。貴女は良く頑張ってくれたわ。今度は私が頑張るから、もう少しだけ見守っていてちょうだい。次の新月までよろしくね」
洗い終えた皿を水切りカゴに入れ、最後の一枚である永琳の手にした皿に手を伸ばすが、皿に触れた輝夜の手はやんわりと拒絶される。
永琳は再び、洗い物をする手を動かし始めた。
「新月までじゃなくて、死んだあとも…でしょ?」
「………えぇ、そうだったわね」