雪
私は長らく妻に人を助けるか自分が助かるかを選んでしまうような時が来たら、自分は死ぬのだと、だからあなたはそんな私を見捨てなさいと、そう申しておりました。
私は人の助けを貰うことは得意ではありません。何か心の奥で踏ん切りがつかない部分があったのです。簒奪とまではいかないまでも、何か悪いことをしているような気持ちが私を襲うのです。
8月も半ば、蝉が電車と喧嘩をするような、そんな昼間のことで、ふと、妻の「どうされましたか。」という声が頭に響くと、「いや、なんでもないんだ、ただ、」の後に言葉続かぬまま、白昼夢の中に自分は吸い込まれて行きました。
「心臓は治りそうかい」
「死にはしないさ。でも持病だから、一生付き合うことになるだろうね」
と言うと、みぞれから変わる雪に降られるのを案じでもしたのか、病院から出る私を出迎えた妻は少し寂しそうな顔をして、
「じゃあずっと薬は飲まなきゃいけない」
「そう言うことにはなる。でも大丈夫だ、自分は十分働けるし迷惑はかけない」
「そういうことを聞きたいわけではないのよ」
と少し怒っているようにも見えたのでした。
夢から私は眼を覚ますと、またか、と扉に向かって独り言でも言いながら、妻がよく入れる茶を淹れて自分の正気を取り戻そうとして、
「病院は、よくないな。私は嫌いだ」
すると私のちょうど真後ろから、
「どうして。お父さんは病院に行かなかったら、死んじゃうんじゃないの」との声が聞こえたので、
「それはそうだ。私はわかばが立派な大人になるまでは、死ねないからね。」とわかばに、何回も何回も咀嚼するように言いました、
「病院は、私の病をごまかすことはできても治すことは出来ないのさ。」そう言うと、娘は
「ふーん、私はここ数年病院のお世話になってないよ。お父さんの反対だね」とりんごのようなほっぺを膨らませ、笑うのでした。
私はその笑顔のおかげで、ここまで生きてこられたのだと、今では思うのです。
そしてその後繰り広げられた娘の小学校の愚痴を聞きおわって、また私は白昼夢の中、それも人生最悪の夢に没入しました。時計は2時をちょうど指しているようで、時間も分からぬまま、椅子の軋む音だけが響く部屋の中での事でした。
雪降る病院前にて、もらった傘を差しながら、
「みぞれはすっかり雪になったね。天気予報なんて信じてはいられんよ」と愚痴を言うと、
「私は正午の天気予報を見て、ここに来たのですよ。あなたの考えはいつもどこか古いのよ」
などと夢の中の妻ではない、誰とも知らない女は言い返して来ました。
その10秒後のことです。
私の目の前で、女の方向へスリップして猛スピードで滑ってくる車を確かに見たとき、ふと刹那、時間が全て止まって、私はどうしようもない悪寒におそわれました。
あれは、まるで8ヶ月前のあの出来事のようなシチュエーションだったのです。
そしてさらに、今は確かに、自分の身をもってして、その女を助けることが可能なほどのわずかな時間があるのです。
私は、今がその時であるように思えました。今回ばかりは、瞬間、天を仰ぎたくなったし、実際に仰いだかもしれません。
ああ、私は選ばないのでなく、選ぶことすら、出来なかったのだと。
私は、微笑する娘を横にして、女を見殺しにしました。雪降る中、私はぽかんとその女の死体を見つめるだけでした。
「起きて、おやつの時間だよ、早く頂戴」
その声で起きた時には、また発作を起こしたのでしょう、胸が針に刺されているかのように痛んでいました。もうそこからは、よく覚えてはいません。
やがて季節は紅葉からまた、あの頃の冬へと移り変わり、私はただ、本棚に積もる埃を、庭を覆う雪を、もう既に落ちて跡形もなくなっている枯れ葉を、ただ眺めるような生活を続けていったのでした。
私たちはどちらからともなくというわけでなく、そういう結論に至ったので、全てはあの雪のせいということにして、2人で、それはそれは大盤振る舞いで、たくさん美味しいものを食べて、目的もなく放浪の旅を続けました。
さて、この文をあなたが手に取る頃には、私とわかばはこの世には、もういないのでしょう。人とは、そういう生き物なのですからね。