家庭訪問
蝉の声が騒がしい日々が続く。俺は職場であるN小学校から、滴り落ちてくる汗を厚手のハンカチで拭いながら、長い坂道を歩いていた。
「暑い……」
一人で何度も同じ言葉を呟きながら、目的の場所へと向かっていく。今日は、俺の担当する生徒の家庭訪問の日だ。約束の時間までに生徒の家に着かなければいけないが、この暑さの中では、なかなか足取りも上手く進まない。
「そもそも、この時期に家庭訪問することがおかしいんじゃないか?」
俺は疑問に思いながらも、時間に間に合うように少し小走りで歩いて行った。
訪問先に着いた時は、すでに全身が汗まみれであった。話を終えたら、早く帰ってシャワーを浴びたい。強く願いながら、玄関にあるインターホンを押した。
スピーカーからは母親と思われる女性の声が響く。
「はい。どちら様?」
「本日、家庭訪問に参りました」
その一言で、すぐにスピーカーから音は途絶え、玄関の扉が開かれた。
「こんなにも暑い中、わざわざありがとうございます。中にどうぞ」
何度か、授業参観の時に見たことのある顔のご婦人が出迎えてくれた。整った顔立ち、無駄な贅肉のついていない体型。髪は長く、この暑い日差しをうけて輝きを放っているかのようだ。一瞬見とれている自分に気付き、すぐに声をあげた。
「ありがとうございます。本日は宜しくお願い致します」
玄関から入り、リビングへ通されるとすぐに、窓の向こうの沢山の花々に眼を奪われた。色とりどりの花がところ狭しと植えられておりまるで、訪問者を歓迎するかのように見える。
「きれいな花々ですね。お一人で手入れをされいるのですか?」
「はい。そうなんです。小さな頃から、花が大好きで、気づいたらこんなにも花を植えていたんです。今は、手入れが大変ですけど
それもやりがいがあって」
「そうなんですか。私には奥様のように、ひたむきに向き合える趣味を持ち合わせていないので羨ましい限りです」
奥様の話し方が柔和である為か、始めは緊張で固まっていた俺の表情は、自然とほどけていった。
ソファーへと案内され、腰かける。黒色で革張りのソファーだ。座った瞬間に歩いてきた時の疲れが一気に吹き飛ぶ感覚に陥った。
こんなに安らげるソファーは初めてだ。さぞ値段がはるのだろう。さらに、奥様から自家製であるハーブティーまでふるまわれた。
香りが良く、日課である寝酒を辞め、毎日このハーブティーを飲んで眠ることが出来れば、どれほど幸せであるだろうかと感じた。しかし、深い余韻に浸っている訳にもいかない。今日の目的を果たさなければ。
俺の向かい側に奥様が座られる。息子さんの姿は見られない。
「すみません。今日、息子は友達と遊びに行かれてまして」
「いえいえ。大丈夫です。お気になさらないでください」
「ありがとうございます。早速ですけど、学校内での息子の様子はどうでしょうか。周りの方々に迷惑をかけていませんか?」
「学校内での様子につきましては……」
淡々と会話が進む。何度も家庭訪問を行っていたので、やりとりについては自分でも自信を持てる程だ。話続けて、もう30分は過ぎたであろうか。そろそろ終わりの時間だ。
「本日はありがとうございました。とても有意義な時間を過ごすことが出来ました。また、息子様について、何かございましたらご連絡ください」
「こちらこそ、ありがとうございます。また、次の家庭訪問を心待ちにしています」
玄関から飛び出すように俺は出て行った。もう二度とあの家には行きたくなかった。
あの自宅は二階建てであり、案内されたソファーに座ると、丁度二階へと続く階段が見える。
その階段にずっとニヤニヤと笑みを浮かべた男が座っていた。会話中に、何度も奥様に男について尋ねようとしたが、全く気付いていない様子であり、さらにその男は俺が目を離す度に、徐々に距離を縮めていた。
初めは階段を一段ずつ降りてくる。次は、奥様の座られている横にある観葉植物の陰に立つ。
最後は、俺の真横にまで来ていた。頬に生温かい息がかかるのが分かる。奥様はそれでも気付いていない。目の前にいる存在がいないかのようにずっと話を続けていた。俺は話を続けながら、地獄のような時間を過ごした。
数年後、俺が自室でテレビを見ていると、あるニュースが眼に飛び込んだ。近所の自宅の庭で男性の遺体が見つかったという内容だ。
容疑者である人の名前を見た時に、数年前に家庭訪問を行った自宅の奥様であることに気付いた。ニュースキャスターが張りのある声で原稿を読み上げる。
『N市の自宅の庭にて、遺体が見つかりました。近所の方から、異臭がするとの通報があり、警察が捜査を行ったところ、容疑者は犯行を自供。自宅内で首つり自殺をした夫の遺体を庭に埋めたとのことです。自殺したことを周りに知られたくない為、遺体を隠蔽したとのこと……』
テレビの音が耳から遠ざかり、俺の背中を冷たい汗がつたっていく。
訪問先で近づいてきた男の首には何も跡は無く、胸に深々と包丁が突き立てられていたからだ。