いつでもないいつか、どこでもないどこかで
夏のはじまりのこと
彼女が死んでしまったのではないかと、ぼくは思った。
ドリンク二人分を手に戻ると、彼女はデッキチェアの上に身を横たえ、パラソルの作る影の中、死んだ小動物のように丸くなっていた。水着に包まれた腹は呼吸に軽く上下しているように思えたが、さだかではなかった。ぼくはドリンクのなみなみと注がれたグラスを傍らのテーブルに置くと、彼女の口元に耳を近づけた。微かな息の音が聞こえた。彼女は生きていた。眠っているだけだ。その表情からは、いかなる種類の苦悩も読み取れず、まるでこの世の不幸すべてを免除されているかのようだった。
穏やかな風が彼女の髪をなでた。本格的な夏はまだ少し先だ。恐ろしく穏やかな、七月の午前十一時、プールサイドに人影はまばらだった。遠くで波の音が聞こえた。頭上にはまだ年若い青空が広がっていた。それはあまりにも軽やかで、まるで曇りや雨を経験したことのないような青空だった。
ぼくはまだこどもだった
ぼくらは、はた目からどう映ったことだろう。ぼくら、いや、少なくともぼくは、自分が完全な一人前とまではいかなくとも、もうほとんど大人の仲間入りをさせてもらっても構わない程度には大人だろう、くらいには思っていた。振り返ってみると、そんなものは青臭い思い違いであることが嫌というほどわかる。むしろ、その思い違いこそが青二才の証左だったのに違いない。
しかしながら、若気の至りは誰もが通過するイニシエーションのようなもので、だからこそある程度まで人はそれに寛容なのだろう。多くの場合、そんな勘違いをしたぼくを、腹の中ではせせら笑いながらかもしれないが、世間は受け入れてくれていた。そして、それがぼくの勘違いを助長していたのだ。
「保護者の方と一緒か」とその建物同様ひどくくたびれたフロント係の中年の男はさも面倒くさそうに言った。ペンをもてあそび、クルリと回した。「同意書がなければお泊めすることはできません」
ぼくらはそのホテルに、ホテルというにはいささか寂れすぎているとは言え、リゾートホテルを名乗っているそれのフロントで、ぼくらの宿泊は一度断られたのだった。
ぼくの感覚とは裏腹に、ぼくはひどく子供に見えたであろうし、事実子供だったのだ。その夏は、高校生活最後の夏だった。ぼくはニキビ面をした子供だった。誰もそんな子供を部屋に泊めたいとは思わないだろう。
そう、ぼくは子供だった。自分がどのくらい子供か分からないほど。自分にどれほどの事ができるのかも知らなかったし、自分が何になりたいのか、どこに行きたいのかも知らなかった。真の友情も知らなかったし、愛の本質も知らなかった。セックスについても知らなかったし、死というものを抽象概念としてしか知らなかった。ぼくは何も知らなかった。
大人の世界がぼくの前に立ちふさがる
そんな状況を前に、ぼくは立ち尽くしていた。どうしたらいいのかわからなかったのだ。それまでの人生で、そうした経験をしたことはなかったし、対処法を学校で教わってもいなかった。そもそもそれは学校では教えてもらえないことだ。その後、ぼくは度々そんな場面、様々な拒絶や反発、葛藤や不快に出くわし、立ち尽くすことになる。そうすることで自分が子供であること、そして、身を持って学び、時には苦い経験をし、傷つきながら、自分が少しだけ大人になっていっていることを実感することになるわけだが、それはまだ先の話だ。
ぼくらが旅に出る理由
ぼくらはクタクタにくたびれていた。そこに至るまでに艱難辛苦をなめたわけではないにせよ、まだ子供のぼくらにとって、その道のりは少なからず冒険的であり、そもそもの話、ぼくらは前夜からほとんど一睡もしていなかったのだ。その時、ぼくらには休息を取る場所が必要だった。柔らかなベッドと、清潔なシーツを求めていた。
そこに至るまで、ぼくはほとんど夜通しバイクを走らせていた。窮地に立たされたフロントから振り返ると、ぼくのバイクが見えた。ぼくはそこまで駆けていき、それに飛び乗って一目散に家に帰りたい衝動に駆られていたが、彼女の手前そんなことはできなかった。子供なりに、いや、子供だからこそ、見栄も意地もあった。
少年/少女
もしかしたら、ぼくたちが恋人同士だと思った人もいたかもしれない。若い男女が二人でいれば、そんなことを考えたとしてもおかしくない。残念ながら、と言っていいのか、ぼくと彼女は恋人同士ではなかった。友人ですらなかった。のちにそうなることもない。ぼくはあの瞬間、放課後の下駄箱で、彼女に声をかけられるまで、彼女とろくに会話をしたことすらなかった。あるいは、彼女の立場から言えば、ぼくなどいないに等しかったのではないだろうか。
そんなふたりが一体なぜそんな状況に置かれていたのか、ぼく自身不思議でならない。
ぼくはそれが何なのか知らなかった。それ、とはぼくと彼女の行動のことである。ぼくは自分が何をしようとしているのか、彼女が何をしようとしているのか、まるっきりわかっていなかった。ぼくはどこに行こうとしているのか、何をしようとしているのか、何も知らなかった。それを知るのは世界中で彼女だけだったはずだ。そもそも、それは彼女の発案によるものだった。どこにいくのか、ぼくは彼女の指示通りにバイクを走らせていただけだった。いや、もしかしたら、と考えるのはこうして時間がたってからのことなのだけれど、彼女もまた、それがどういった種類の行動なのか、どこへ行こうとしているのか、知らなかったのかもしれない。これもまた、少なからず年を取って思うことなのだが、人生という航海は、舵の壊れた船に乗ってのもので、その航跡を指さして「このようにここまで来たのだ」ということはできるかもしれないが、「なぜこう来たのか」には答えられないのだ。
実際の所、ぼくはこれがなんなのかもわかっていない。これ、とはこうして今、書いていることだ。時がたてば答えが出ることなのかどうかも分からない。多くの事柄がそうであるように、答えなど用意されていないのかもしれない。
世界のおよそすべて/学校
大人の世界の拒絶という、それまでに経験したことのない事態に直面し、狼狽えたぼくは隣に立つ彼女を横目で見た。何かつかめるもの、船が沈み、漂流する人がするように、ぼくは何か確かにつかめるものを探していた。見渡す限りの大海原に、それは彼女の横顔以外にはなさそうだった。
あるいは、それはぼくにとって見慣れたものだったから、不安な気持ちを落ち着かせるために、彼女の横顔にすがったのかもしれない。
教室では、彼女は窓際の席で、ぼくはその斜め後ろに座っていた。
ぼくは授業なんてうわの空で窓から空を眺めてばかりいたから、彼女の横顔もまた嫌でも目に入った。彼女はいつも右手にペンを持ち、左手で頬杖を突きながら退屈そうに授業を聞いていた。ペンが動く気配はなかったから、おそらくノートをとってはいなかったのだろう。それでいて、彼女の成績はとてもよかった。ぼくらの通っていた学校は、様々な因習の残った山奥の村、古いミステリー小説に出てきて、多くの人が殺されるような旧弊の残る村のように古臭い学校で、制服の着方についてやたらとうるさかったし、試験の結果を廊下に貼り出すような野蛮なことまでしていたから、ぼくら生徒たちはお互いの成績がどんな具合なのかを知っていたのだ。見る限り、彼女の成績は胸を張って誇れるもので、ぼくの成績はわざわざ言うまでもないかもしれないが最悪だった。当然だろう、授業なんてうわの空なんだから。
ぼくは劣等生ではあったが、問題児ではなかったのではないかと思う。毎日毎日学校に来て、窓から外を眺めているだけの無害な存在。前髪が目にかかっているのをとがめられれば翌日には切っていったし、成績不良者に半ば強制された補習には文句ひとつ言わずぼく一人毎回ちゃんと出席した。劣等生であることが問題だ、と言われれば返す言葉もないが、扱いづらい生徒ではなかったと思う。
それと比べると、彼女は成績こそ優秀だったが、おそらくとても扱いづらい生徒だったに違いない。彼女はとても大人びた空気をまとっていて、クラスメイトたちからは少し浮いた存在だった。文化祭の準備は何かと理由をつけて不参加だったし当然本番にも姿を見せなかった。体育祭の時には欠席した。同級生であるぼくらの行いを子供じみたばか騒ぎとして冷めた目で見ていた。学校内で誰かと一緒にいるところや、仲良くしゃべっているところも見たことがない。果たして、そうした友人と呼べる人間が学校にいたのだろうか。いなかったのだ、とぼくは思う。当時の彼女を知る人ならみなそう答えることだろう。それでいて、それを気に病むようなそぶりもまるで見せなかった。彼女は正真正銘の一匹狼だった。そんな生徒を教師たちが持てあますのも無理もないことだろう。何しろ彼女は野生の狼なのだ。手なずけることなど不可能だ。教科書を読み上げるのを拒否し、不服があればかたくなに自分の意見を曲げなかった。彼女に対しては、多くの教師たちが及び腰で接していた、というのがぼくの印象だ。
はっきり言って、ぼくと彼女の間にはいかなる接点もなかった。永遠に交わることのない平行線、いや、そもそも同一平面上に、同じ次元に、ぼくと彼女はいなかった。ぼくはそう思っていたし、おそらく彼女もそう思っていたことだろう。それが何の因果か肩を並べ、ともに窮地に、少なくともぼくにはそう思えた状況に、立たされていた。なぜこんなことになったのか。
ぼくのバイク
「高橋って、バイク持ってるの?」と彼女はそう尋ねた。
放課後の下駄箱で、ぼくはスニーカーを履こうとしていた。グランドでジョギングをする野球部の掛け声が聞こえた。演劇部が発声練習をしていた。吹奏楽部が楽器を鳴らしていた。
「バイク、持ってるの?」彼女はもう一度そう尋ねた。ぼくが答えなかったからだ。それは彼女がぼくに話しかけた初めてだったように思う。
「バ、バイク?」
「うん、バイク。バイク、持ってるの?」
「うん」とぼくは答えた。「持ってるけど、何?」
ぼくらの通っていた学校で、バイクの免許を持っていて、さらにバイクまで持っているというものはかなり稀だった。進学校というわけではなかったが、大体の生徒はとりあえず大学に進むような学校で、みんな熱心に部活もしていたから、校則で禁じられたアルバイトをわざわざし、免許を取ってバイクを買おうというのはかなり奇矯な振る舞いだったといってもいいだろう。事実、ぼく以外にぼくらの学年でバイクの免許を取っている者はいなかったはずだ。
バイクを所有するというのは、高校生の経済力から考えればかなり大それたことのように思えるだろうから、何か強い欲求をぼくが抱えていたものと思われるかもしれないが、別にぼくにバイクに対する憧れがあったわけではない。ただ単純に時間をもて余していただけだ。
他の生徒たちが、あるものは部活に精を出し、あるものは受験に向けて勉強をし、またあるものが健全にグレているということが、ぼくには理解できなかった。いや、理解できなかったというと語弊があるかもしれない。それは全く別のものなのだ。例えば、エラ呼吸をする生き物が、肺呼吸をする生き物の気持ちを考えるみたいに。自由に空を飛び回る同級生を頭上に仰ぎ見る、ぼくは水の中を泳ぐ魚だった。もちろん、どちらが優れているということはないだろうけれど。
高校生の頃のぼくは、とにかく日々を無為に過ごしていた。放課後になると、普通の人間なら苦痛なくらいに何もすることがなかったが、ぼくはぼんやりと過ごしていた。
兄について
ぼくがそうして無気力に、何もせずに過ごせていたのは、兄の存在があったからだ。両親はどちらかと言えば教育熱心だった。父は一流の大学を出て銀行に勤めていたし、母は母で有名女子大を出たあとアパレル関係でそれなりに働いていた人だ。ふたりとも努力をすることが身に染み付いていると言ったらいいか、我が家の文化として、読書することや、きちんと予習復習をすることは当たり前のことだった。
もちろん、それを受け継ぐ人間がいてこそ文化は文化となり得たわけで、その継承者こそが兄だった。
兄はよく本を読む子供だった。誕生日やクリスマスのプレゼントには種々の図鑑をせがみ、毎月のお小遣いを使って自分でも本を買っていたので、兄専用の本棚があり、それはちょっとしたものになっていた。お気に入りは恐竜、動物、昆虫の図鑑で、飽きもせずにそれを眺め続けていた兄の姿を覚えている。
学校の勉強の方も、きちんと予習復習をし、真面目に勉強に取り組んで、当然と言ったら兄は少なからず憤慨したかもしれないが、当然学校の成績もすこぶるよかった。
それに引き換え、ぼくはと言えば、飽きっぽく、落ち着きがなく、何事もサボりがちで、自分から始めたいと駄々をこねてまで入団した幼稚園のサッカークラブでさえ数週間で放り出してしまったし、学校にあがってからもそれは改まることなく、前にも書いたことだけれど、授業をちゃんと聞いていないものだから成績は惨憺たるものだった。これには両親も頭を抱えてしまって、あれこれと手を焼いてどうにか改善できないものかと頑張ったものだが、どうもぼくの方にそうした意欲がなく、高校生になる頃には両親の方が諦め、まあそれなりの人生、他人に迷惑をかけない程度の人生しか求めなくなっていた。
全ての期待を一身に背負っていたのは兄だった。そして、兄はその期待にちゃんと応えてみせたのだ。ぼくの高校一年生の頃に兄の大学受験があって、兄は見事に両親の望んでいた、そして自らも望んだ学校に合格してみせたのだ。
もちろん、それはやすやすと成し遂げられたことではない。もしかしたら、両親や、兄の友人たちは、「あいつなら当然だよ」くらいに思っていたかもしれないが、それが血もにじむような努力の末に得られたものであることを、少なくともぼくだけは知っていた。ぼくら兄弟にあてがわれた子供部屋で四六時中一緒に過ごしていたから、ぼくはその努力を目の当たりにしていたのだ。その頃のぼくの記憶では、兄は常に机に向かっていた。常に、本当に常に勉強していたという印象だ。いつ眠っていたのか首を傾げるくらいに。
夜中、通っていた学習塾から帰ってくると簡単に夕食を済ませ、休む間もなく机に向かい、ぼくが布団をかぶって眠りにつこうとするときにもまだ勉強をしていた。朝ぼくが目覚める頃、それは遅刻ギリギリの時刻なのだけれど、その時には兄の姿はもうなく、学校に行ってしまっていた。早めに学校に行き、自習するのだという。
そんな出来すぎた兄を持つぼくはぼくで、両親に体面を保つためだけに机に向かっていた。出来すぎた兄を持つのも楽ではない。しかしながら、机に向かっていたとは言っても、ぼくはと言えば、ヘッドホンで音楽を聴きながら漫画を読んでいたのだけれど。もちろん、母が突然部屋に入ってきたりすれば慌てふためくことになるわけだ。
「ねえ」と、ぼくは兄に尋ねたことがある。
「ん?」
「よくそんなに勉強するね」
「お前は全然しないな」と、兄は微笑んだ。ぼくもまた笑った。
「楽しい?」
「ん?」そして、兄は少し手を止め考えた。「考えたこともないや」
「ふーん」
「お前は楽しい?」
「何が?」
「漫画」
「うーん」とぼくは腕を組んで唸ってから答えた。「全然」
「なんだそりゃ」そう言って、兄は笑った。
ぼくらはどちらかと言えば仲の良い兄弟だった。幼い頃には玩具の取り合いやテレビのチャンネル権争いで取っ組み合いの喧嘩もしたが、そんなことはどこの兄弟にでもよくあることだろう。お互いの所有するCDや漫画を貸し借りし合い、少なからぬ影響を相互に与え合っていた。フィッシュマンズはぼくから兄へと伝播したものだったし、つげ義春は兄からぼくへと伝わったものだった。もちろんお互いの趣味が合わない部分もあって、兄は『ワールドイズマイン』を受容しなかったし、ぼくはレディオヘッドの良さが理解できない。まあ、そんなものだ。
わざわざ連れ立って遊びに出かけることもなかったし、趣味が合うわけでもなかったが、とりとめなくいくらでも会話を続けることができた。ぼくは兄について全てとは言わないまでも、かなりの部分を把握していると思っていた。もしかしたら、それは両親も同じだったかもしれない。兄には明確な反抗期というものがなかったし、夕食の席で家族が顔を合わせればその日あったことを話していたからだ。その光景を切り取ってきて写真にし、額装でもすれば、きっと誰もが「幸福な家族」という題名を付けたことだろう。そこには不幸の影など一片も見つからなかったに違いない。実際、そこに一緒に収まっているぼくですら、そう思っていたのだから。
日常は簡単に切断されうるということ
だから、兄が自ら命を絶ったとき、ぼくはその事態をうまく飲み込むことができなかった。あまりに突然の出来事すぎて、あるいは悲しむことすらできなかったのかもしれない。
それは誰にとっても唐突な出来事だった。兄の大学三年になったばかりの春のことだ。桜が散り始めるころ。ぼくは大学受験に失敗し、予備校に通い始めていた。落胆したかと問われると、そうでもなかったと答えざるを得ない。むしろそれが当然だろうな、と納得さえしていた。入試直前になっても、ぼくは相変わらずで勉強しなかった。受験勉強をするためということでアルバイトをやめたにも関わらず。さすがに両親もやきもきしていたが、その空気が伝わってきてもぼくの姿勢が変化することはなく、案の定、ぼくは不合格の通知をもらい続け、浪人になった。さすがに両親にこっぴどく説教されたあと、ぼくが自分の部屋に戻ると兄が励ましてくれたのを覚えている。
「まあ、気を落とすなよ」
「落ちたよ」とぼくは答えた。「どの大学も」
兄は笑った。ぼくは笑わなかった。
「大丈夫、生きてりゃ必ず上手くいくさ」
その数日後、兄は命を絶った。風船が破裂するみたいに、一瞬で兄はいなくなってしまったのだ。パンッとはじけて、静寂がやってくる。耳の痛くなるくらい静かな、静かな世界。ぼくは目を閉じる。良く晴れて、暖かい日差しの降り注ぐ、風の無い日だった。
「何か変わったところはなかった?」兄の葬儀の際に、何人もの親戚にぼくはそう尋ねられたが、できることは首を横に振ることだけだった。
葬儀特有の静かなざわめき、人は声を潜めて話し、まるでそこにいないかのように振る舞う。ぼくはその中で、孤独を感じることのないほど一人きりだった。親戚に何か尋ねられるたびに、ぼくは逃げ出したくなった。まるで責められているような気分になった。
「あなたなら救えたんじゃない?救わなければならなかったんじゃない?」
もちろん、彼らにそんな意図は無い。それはぼくもわかっていた。彼らはただただ知りたかったのだ。なぜ兄が死んだのかを。兄は順風満帆の人生を歩んでいた。少なくとも、はた目からはそう見えた。一流の大学に入り、そこでの学生生活も順調で、そのまま行けば、就職にしたって安泰だっただろう。とても幸福な人生を歩めるに違いない。それでいて、それなのに、なぜそれを選んだのかを知りたかったのだ。ゴシップ的な興味ではなく、かといって純粋な好奇心でもなく。そうしたことが起こりうるのだということに理由がほしかったのに違いない。理由があって、納得ができれば、それを恐れなくてすむから。
兄であれば、それに答えられただろうか。なぜ死んでしまったのか。なにせそれを選んだ当の本人なのだ。答えられるはずだ。そうでなければおかしい。いや、あるいは、兄にもわからなかったのか。人生とは漂流船のようなものなのだから。どちらにせよ、兄は死んでいた。
遺影の兄は微笑んでいた。そして、ぼくは孤独だった。
兄は大学に進学してから、家庭教師のアルバイトを始めたり、フットサルサークルに入ったりで、それまでほど勉強机に噛り付いていなくなった。子供部屋で過ごす時間は激減していた。多少なりとも兄弟の会話が減っていたのは事実だ。しかし、それでも、死を選ぶほどの変化であれば気付けるはずだ。誰もがそう思ったのだろうし、ぼく自身そう思った。
それを、兄の死んだ理由を、一番知りたがっていたのはぼくだった。誰よりも強くその答えを求めているのに、それは見つからない。それなのに、次から次へとその質問を、ぼくの知りたい質問をされる。ぼくこそがその答えを求めているのに。
ぼくは思い出せるだけの兄の姿を思い出した。そこに何らかの予兆が無いものか、死の気配が無いものか。いくら思い出しても、そこには死の影などみじんも感じられなかった。いつもと変わらない兄しか思い出せなかった。いつも朗らかで、サッカーが上手で、友人たちの輪の中で笑っている兄。アルバムの写真を眺めていくように、いくつもの兄の姿が思い浮かべられる。その中の、古い思い出の一つに、ぼくは目を留める。
近所の草の生え放題になった空き地、膝まである雑草の中に立っている兄の姿だ。ぼくの記憶の中で、その様子は印象派の絵のように美しい。
遠い記憶の中、兄は立っていた
それはまだぼくらの幼い頃、ぼくが小学生、兄が中学生だった頃のことだ。
「兄ちゃんのさ」と、ぼくのクラスメイトが授業の合間の休み時間に話していた。どちらかと言えばヤンチャで、いつもどこかに擦り傷を作って絆創膏を貼っているような子だった。みんなの輪の中心で、この時も机に腰かけた彼を何人かで囲みながら話を聞いていた。「エロ本見付けたんだ」
「マジかよ」
「マジマジ。すっげえぜ。おっぱい丸見えだから。それも超デカイの」そう言いながら、手振りでそれを描いて見せる。
「えー、いいなー」と、それを聞いていた子供たちは感嘆の声を上げた。その輪の後ろの方で、ぼくもそれを聞いていたが、うまくそれに参加できてはいなかった。人一倍ナイーブなぼくは、教室の反対側にいる女子たちの視線が気になってしようがないのだ。ぼくの眼からは、女子たちはこそこそと何かを耳打ちしあい、眉をひそめているように見えた。ぼくはその輪から少しあとずさった。それでいて、そうした性的なものに対する興味も人一倍強かった。コンビニエンスストアの成人向け雑誌のコーナーを遠目に眺め、股間を固くしたり、レンタルビデオショップの暖簾の向こうに恋い焦がれたりしていた。しかしながら、その一歩を踏み出す勇気の無いのがぼくだった。そして、その時もまた、ぼくは遠巻きにその話を聞くともなく聞いていた。
「兄ちゃんの机のさ」と、それを話す子は女子が眉をひそめていることがかえって面白いようで声高に話した。「引き出しの奥に隠してあったんだ。うちに来れば見せてやるよ」
「マジ?行きてえ」
「行きたい行きたい」
「ちょっと、男子!うるさい!」女子のリーダー格の子が怒鳴った。「どっか別のとこでやって!」
「なんだよ」とやり返す。「お前も見に来たいか?」こうしてあとでホームルームが開かれるほどの大喧嘩に発展したのは別の話だ。
家に帰ると、ぼくは兄の机の前に佇んだ。それはぼくのものと同じ型の机だったが、ぼくのものとは違って兄の机は整理がちゃんとされていて、まるで広告の写真の机みたいだった。「この机で勉強すればいい成績が取れます」と言っているみたいだった。
時計を見る。兄の帰ってくるのは部活動があるからまだもう少し後になるのがぼくにはわかっていた。兄の机を漁るのには十分な時間がある。しかしながら、ぼくには自分の兄がそうした本を隠しているとは思えなかった。自分が兄の年になるころにはわかることだが、そうした性的好奇心は高まっていって当たり前で、中学生だった兄がそれと無縁であると考えるのはおかしな話だった。しかし、その時のぼくには、いや、それからだいぶ年を経てもなお、もしかしたら今になってみても、ぼくにとって兄はそうした性的なものから切り離された存在のように思えているのかもしれない。無色透明な存在としての兄。そうしたものとはかかわり合いにならないような、何か超然とした雰囲気を、兄は持っていた。それでも、ぼくは兄の机の引き出しを開けずにはいられなかった。もしかしたら、という思いがあったからだ。ぼくの頭の中は性的なものでいっぱいだった。ぼくは兄の机の引き出しを引いた。それは音もなく開いた。鼓動が高まる。少なからぬ期待があったのは確かだが、それ以上にそれは他人のものを盗み見るというその行為自体からくる興奮だったように思う。
息を潜め、そっと引き出しを開ける。ぼくは息を呑んだ。そこにあったのは露わになったおっぱいやおしりなどの写真ではなくて、様々な昆虫や、干からびたカナヘビやカエルの死骸だった。それが引き出しの中に整然と並んでいる。ぼくはさらに息を殺した。それをほんの少しでも、息で動くくらいほんの少しでも、動かしてしまったら、兄はそのことに気付くに違いないと感じたからだ。どの一つの死骸も、とても丁寧に置かれていた。置かれ方を見るだけで、それが繊細な作業の賜物であることが見て取れた。それぞれに適切な置き方があるのだろう。兄がそれを苦心しながら探す姿がぼくの目に浮かんだ。画家がキャンバスに絵の具を塗り、少し離れて全体像を確かめる。そんな姿が思い起こされた。それはまるで霊廟のようだった。どの一つの死骸も、そうして丁寧に扱われることで、非常に満足しているようにぼくには思えた。ぼくはそれにみとれた。それがあまりにも美しかったからだ。美しい、という言葉でしか言い表せない。もちろん、それを単体で、カナブンの足を折り畳んだ死骸や、干からびたカナヘビが美しいとは思えなかっただろうが、それがそうして兄の手で置かれることで、美しさを獲得していた。ぼくは不思議な幸福感を覚えていた。あるいは、それは永遠の手触りだったのかもしれない。死ぬことが怖くなくなるような、そんな気分だった。そして同時に、ぼくは見てはいけないもの、それは隠してあったエロ本などよりもはるかに見てはいけないものを見てしまったという念に捕らわれた。それは罪悪感というよりも単純な恐怖に近かった。とても深くて、底の見えない穴を覗き込んだような、そんな感じだ。なぜそう思ったのかはわからない。あとでこそ考えられることだが、それが兄という人間の核心部にとても近いものに思えたからかもしれない。ぼくは引き出しを慎重にしめ、兄が帰宅してもそれを見たことは決して言わなかった。
それから数日の間、ぼくはもしかしたら兄がそれを見られたことに気付くのではないかと、兄の様子を窺ったのだった。
「なんだよ?」
「いや、別に」
「変なやつ」
兄にはそれをぼくが見たことに勘付く気配は無かったが、もしかしたらわかっていたのかもしれない。そんな気がする。兄という人なら、そうやって気づかないふりをしそうだ。
それまでに、ぼくは何度か兄が近所の原っぱにひとり佇んでいるのを見かけたことがあったのだ。それが、兄の葬儀の時に思い出された記憶だ。その時にも、何をしているんだろうと疑問に思ったが、声をかけることもしなかったし、結局後になってそれを尋ねることもしなかった。その時はさほど気にも留めなかったのだ。そして、霊廟を覗き見ることで全て合点がいった。兄はそこに納めるべき死骸を探していたのだ。あるいは、納められるのを待っている者たちを。その記憶は、とても曖昧だけれど、その時の兄の横顔は、まるで別の世界を見ていて、目の前のものが何一つ見えていないようだったように思う。とても遠く、それは目で見ることなんて不可能なくらい遠くを見ようとする眼差しだった。
彼らの横顔を、ぼくは見ていた
彼女はいつもどこか遠く、それも物理的な遠さではない、どこか遠くを見ている、そんな感じだった。ぼくの記憶の中の彼女の横顔、それはつまり教室の、授業中で、窓の外の空を背景としたそれのことだ。とはいえ、それはこうして振り返ってこそ考えられることだし、もちろん、ぼくにその時、宿泊が断られようとしている時に、そんなことを思う余裕なんてのはこれっぽっちもなかった。
及び腰で、今にも逃げ出そうとしているぼくとは対照的に、彼女は一歩も引こうとはしていなかった。
「お願い」と彼女はフロントのカウンターに肘をつき、前のめりになりながら言ったのだ。「私たちを泊めて」
フロント係はすでに彼女に気圧されているようだった。確かに隣に立つぼくから見ても彼女には一種鬼気迫るものがあった。フロント係は額に浮かんだ汗をぬぐった。「そう言われましても」とフロント係は口ごもる。
「お願い」彼女はもう一度そう言った。「ずっと引き込もっていた弟がやっと外に出て来れたの。せっかくの旅に、水を差さないで」
もしもの世界/別の世界で
彼女のした話では、ぼくらは姉と弟で、大学で心理学を学ぶ弟想いの姉である彼女は、長いこと引き込もり、自室からさえ出てこなかった弟であるところのぼくを、天の岩戸よろしくついに引きずり出し、気分を一新するためにこの旅行に出たというのだ。それまでは苦難の道のりだった。ぼくは発作的に暴れ、壁はボコボコに殴るし、両親に暴力を振るいもした。父親はぼくをそうした子供たちを矯正する訓練施設に放り込もうとしたが、それを彼女が止めたのだ。
「私が心理学を学んで、きっと解決するから、って」
フロント係はぼくを舐めるように見た。つま先から、頭のてっぺんまで。ぼくはどうしたらいいのかがわからずにどぎまぎしていた。こういう時、引き込もりは微笑むのか、それとも仏頂面をしているものなのかわからなかったからだ。
「学生証は」と彼女は続けた。「今は持ってないの。そういうものは、この旅行にはいらないじゃない。私と、弟が一対一の人間として向き合うための旅なんだもの。色々と邪魔なものは置いて来ないと。たとえば、大学生であることとか」そして、彼女は声を潜め、フロント係に囁いた。「この子、高校受験で失敗したのがきっかけで引き込もっちゃったの。そういう、学歴みたいなものがあると良くないと思わない?」
「ええ、まあ」フロント係は彼女の話を信じつつあるようだった。「しかし」
「ねえ」とさらに詰め寄る彼女の迫力には同じサイドにいるはずのぼくまで圧倒された。「これでまた弟が引きこもっちゃったら、私、あなたを許さないから」
ぼくは洗面台の鏡にうつる自分の顔を見ながら彼女に尋ねた。「引き込もりに見えるかな?」
「え?」彼女はベッドに飛び込み、トランポリンで遊ぶみたいにそこで弾んでいた。「何?」
「いや、別に」
ふふふ、と彼女は笑い声を漏らした。「なんだね?引き込もり君」
ぼくはベッドに横たわる彼女を見下ろし、息を深く吸い込んでからため息をついた。「いや、いいんだ」
波音がする
彼女の必死の努力の末にぼくたちの通された部屋からは、海が見渡せた。遠くに半島が見えた。それがなんという半島なのかはわからなかった。自分たちがどの辺りにいるのかも、正直なところはわかっていなかった。ぼくの地理の成績は悪い。ただ、海の広いのが心地よかった。そこにはいかなる予備知識も必要とされなかった。ぼんやりと海を眺めていた。海の果ては空の果てと交わり、それは継ぎ目なく繋がっていて、どこまでが海で、どこまでが空なのか、一目ではわからなかった。ぼくはそれを見極めようとしていた。いや、本当はそんなことはしていなかったのかもしれない。ただ目の前に広がる空間を眺めていたのかもしれない。
窓を開けると波の音がする。下を見ると、波打ち際がすぐそこまで迫っていた。ぼくは窓を閉めると、部屋の出口に向かって歩き出した。
「どこ行くの?」ベッドの上で横になり肘枕した彼女が尋ねた。
「海」とぼくは立ち止まって答えた。「海、見に行ってくる」
そして、ぼくがまた足を進めようとした時に彼女が言った。
「待って」
ぼくはまた立ち止まり、彼女を振り返った。
「私も行く」
砂浜を駆ける
砂浜には、海の果ての方から風が吹いていた。耳元で風が鳴る。彼女の髪が暴れ、しきりにそれを耳の上にかけてまとめようとするが、風はそんな彼女の思惑などお構いなしにたちまちそれを崩していく。彼女が風に目を細めた。耳たぶに小さなほくろがある。雲がぼくらの頭上を飛んでいく。
波音が高まるにつれ、ぼくの胸も自然と高まった。別に海が好きなわけではなかったが、海とはそういうものなのかもしれない。ぼくは思わず駆け出した。彼女もそれを見て慌てて走り出した。砂に足が取られて上手く走れないのがおかしくて、ぼくが笑い声を上げると、彼女も何が面白いのかわからないだろうにつられて笑った。波打ち際のギリギリで止まろうとしたのに、思ったよりも波が寄って来てスニーカーがずぶ濡れになった。ぼくのあとについてきていた彼女の靴もまた、波に洗われてずぶ濡れになった。
「ちょっと!」と彼女は抗議する。「靴濡れちゃったじゃん」しかしそこに非難の調子は無い。
「うん」とぼくは履いていたスニーカーと靴下を脱ぐ。
「うんじゃないよ」と、彼女も履いていた靴を脱ぐ。そして、裸足になった足で水をぼくに向かって蹴りあげる。ぼくはそれをまともに浴び、Tシャツがずぶ濡れになる。
「ああ!」とぼくには珍しく声を上げた。
彼女はしたり顔をする。ぼくは両手を水に潜らせ、それを彼女に向かってかける。彼女が悲鳴を上げ逃げる。水しぶきがキラキラと輝く。彼女は笑う。ぼくも笑う。
「青春だな」と通りがかりの犬の散歩をしていた人が呟く。
彼女が声を上げて笑っていた。ぼくはそんな彼女の姿をその時初めて見たのだ。それは学校では決して見られないものだった。そもそも、ぼくと彼女の関係性、つまり無関係な関係では、絶対に見られないものだっただろうし、それはぼくに限らず全校生徒についてあてはまることだろう。
ぼくの目の前には、一人の女の子がいた。それはぼくのそこで初めて出会った女の子だった。そして、彼女は笑っていた。
下駄箱でのこと
彼女がぼくの前に立っていた。その顔に表情はない。ぼくは何か苦情を申し立てられるのではないかと反射的に身構えた。わが身を振り返っても、苦情につながるようないかなる理由も見当たらなかったが、それでも、彼女がぼくに声を掛けるとしたら何かそうした理由に違いないと、ぼくの思考が最短距離で導き出したのだ。
「バイク持ってるなら」と、下駄箱の前で彼女は言ったのだった。思い返してみると、その姿は、確かにぼくの姉だったとしてもおかしくないくらい大人びていた。「乗せてくれない?」
ぼくは彼女が何を言っているのか理解できずにポカンとしていた。それは完全に想定外の言葉だったからだ。
「ねえ」彼女はそんなぼくを見て言った。「聞いてるの?」
「へ、ん、ああ」と、ぼくは間の抜けた返事をした。「乗せて行くって、どこに?」思ってみれば、これがすべての始まりだったのだ。
ぼくの鼓動が微かに高まった。
物事には始まりがあり、そして終わりもある
正直な話、微かな期待が無かったと言えば嘘になる。もしかしたら、彼女が自分に惚れていて、それでそう誘われているのではないかという、そういう期待が少なからずぼくの中にあった。いやいや、そんなわけあるかよ、と打ち消してももたげてくる考え。ぼくは冴えない奴だったから、そんな経験、誰かに好かれるような経験はそれまでの人生において一度も無かった。バレンタインデーはいつも母親からのチョコレートか良くて義理チョコだけだったし、中学の卒業式では密かに想っていた女の子が学年で人気者の男子に第二ボタンをもらいに行くのを遠目に眺めていた。そもそも、ぼくは女子と話すのが苦手だった。友達と呼べるような日常的に言葉を交わす女子もいない。だからこそ、それはぼくの想像力の範疇外にある考えだったのだ。しかしながら、いや、もしかしたら、とつい思う。彼女の姿を思い描く。まあ、悪くないよな、などと、どの面下げてと言われるべきことを考え、また、いやいや、と打ち消す。
「何ニヤニヤしてるんだよ」という兄の声でぼくは我に返った。振り返るとぼくらの子供部屋の入り口に兄が立っていた。赤い顔をしている。
「お帰り」とぼくは言った。
「ただいま」と言った兄の息は酒臭かった。日付が変わろうとしている時刻だった。大学に入ってから、兄はたまに酔っ払って帰って来た。兄はまだ未成年だったから、両親はあまりいい顔はしなかったけれど、ある程度まで黙認されていたのは両親もまたかつて大学生だったわけで、彼らは彼らで人並みにそうした、大学生らしい大学時代の思い出のひとつやふたつあるわけで、そうした子供たちにはわからない何かが、兄のそうした行動を咎めるのをほんの一瞬躊躇わせ、その一瞬の隙が致命的な遅れとなり、結局強く言うことができなくなってしまうのだった。それに、そもそもの話、両親は兄を信用していたのだと思う。兄なら間違った道に踏み込んで取り返しのつかないことをしでかしたりしないだろうという信頼が。
そしてなにより、兄はその瞬間青春の真っただ中にいたのだ。
「何ニヤニヤしてんだよ?」兄はもう一度尋ねた。
「いや、別に」
「なんだよ、隠し事か?」と言って兄はニヤニヤしながらぼくにふざけてチョークスリーパーをかけてくる。背中にのしかかった兄の体がとても熱かった。兄は酔っ払うと普段ある生真面目な固さがなくなった。そんな酔っ払った兄が嫌いではなかった。なんだかちょっと昔に、まだふたりとも幼く、じゃれあっていた頃に戻ったような気分になれたからだ。
先にも書いたように、兄が大学に進んでからというもの、ぼくは兄との間に自然と生まれた隔たりを感じていたので、そうやってじゃれあえることが少なからず嬉しかった。どこかに「まあ、歳を取れば少しずつ距離もできるよね」という諦念もありながら、それでも一抹の寂しさは消せずにいたのだ。
首に巻き付く兄の腕と格闘しながら、ぼくは思い出していた。あの夏の兄の手も、とても熱かった。汗ばんでいて、強く握っていないとすぐに自分の手から逃げていってしまうのではないかと、ぼくは不安に駆られていた。それはぼくの物心ついたばかりの頃、記憶の最古層にある出来事だ。
夏休みはもう戻らない
お盆休みにはぼくらは家族で母方の祖母の家に行くのが恒例だった。ぼくらの「おばあちゃんち」はコンビニエンスストアに行くのにも車が必要になるくらいのド田舎だった。四方を山に囲まれ、見渡す限り畑しかない。
「あの川で」と、父の運転する車の助手席で母がその川を指さしながら言ったものだ。「子供の頃、河童を見たことがあるんだよ」
「ねえ、母さん」と、小学校に上がったばかりの兄が笑いながら言った。「その話、前も聞いたよ」
手を伸ばせば雲がつかめそうなほど空が近かった。山は青々と木々を茂らせ、それは緑を通り越して黒に近く、見つめていると飲み込まれそうだった。セミの声が土砂降りのように降り注いでいた。日差しは目眩を催すほど強かったが、木陰にはいると心地よい風が吹いていた。
ぼくは兄に手を引かれ、細い道を歩いていた。
「カッパ見てみたい」ぼくは兄の持っていた妖怪図鑑を見せてもらい、河童について教わったのだった。「カッパ」
昼食にそうめんをおなか一杯食べたあと、縁側に吹く風は心地よく、まぶたが重くなったが、それを妨げようと、セミたちは懸命に騒ぎ立て、どこかへ行こうといざなうのだった。夏がその両手を広げ、その胸に飛び込んでこいと呼んでいた。
積乱雲の白さをぼくは覚えている
青空に真っ白な入道雲が聳えたのを、ぼくは覚えている。道に覆いかぶさるように枝を伸ばした木々、風で葉が揺れ、真夏の光線が真っ黒なアスファルトの上できらめく。そして、兄の手。それはとても熱かった。考えてみれば、まだほんの子供の小さな手だったわけだけども、さらに幼かったぼくからすれば、それは頼りがいのあるそれだった。兄の手さえ握っていれば、何の心配もいらないのだと、幼いぼくには思えていた。きっと兄が導いて行ってくれる。ぼくは何も考えていなかった。聳える入道雲を見ていた。それはまるで巨大な岩山のように現実的で、手を触れることや、掴むことさえできそうに思えた。ぼくは自分がそれをよじ登って行くのを想像していた。ずっと見つめていると、あまりの白さに目が痛くなった。
そうして空を見ていると、ぼくは空を飛んでいく何かを見た。まだ幼かったぼくの語彙は貧弱で、その貧弱な語彙の中に使える言葉を見つけるとぼくは嬉しくなった。その時、ぼくが見た空を飛んでいく何かは、ぼくの語彙の中にあるものだと、ぼくは思った。ぼくはそれを見て「ヒコーキ」と口に出した。「ヒコーキ」そう言って、ぼくは空を指差したのだった。「ヒコーキ」
「どこ?」と、兄はぼくの指差す先を見た。「どこ?」兄にはそれが見つけられなかった。
「あそこ、あそこ」と、ぼくは必死になってそれを指差す。
「どこ?」しかし、兄にはそれが見つけられない。「飛行機、どこにいるの?」
「ほら、あそこだよ」と、ぼくは兄を力一杯引っ張る。揺さぶる。どうにか自分の発見を認めてもらおうと必死になる。
「飛行機いないよ」
「いるよ!」
「どこにもいないよ」と、兄は困った顔をした。
「いるもん!」と、ぼくは一歩も譲ろうとしない。「絶対いる!」
「でも、もう行っちゃったんじゃない?」
「いる!」と、ぼくはそこから一歩も動かなくなった。兄がいくら引っ張って歩かせようとしても、頑として動こうとしない。ぼくとしては、飛行機がいることを認められなければ、何もしたくなかったのだ。いや、飛行機なんてどうでもよかったのかもしれない。ぼくはぼくを認めてほしかったのだ。ぼくの発見を、兄に。
「行こうよ」兄はそう言って、ぼくの腕を引っ張った。「河童見に行くんでしょ?」
「行かない!」ぼくは兄の手を振り払った。ぼくは怒っていたのだ。「行かない!」
兄はしばらく黙っていた。ぼくはうつむき、こぶしを固く握っていた。兄の視線を感じていたが、それを見ようとはしなかった。ぼくたちにはお構いなしにセミが鳴いている。
「じゃあ、もういいよ!」と言う兄の言葉に、ぼくは顔を上げる。期待していたところに兄の姿はなく、それはすでに先を歩く後ろ姿で、ぼくを振り返ることすらせずにどんどん行ってしまう。
「行かないもん!」と、ぼくはその背中に向かって叫んだが、それがどんどん遠ざかって行き、小さくなっていくのを見ていると、だんだんと心細くなってきて、溢れるように涙が込み上げてきた。
「行かない!」と、どうにか叫んだ。それは孤独な自分を鼓舞しようというものだったのかもしれないが、言葉は溢れてくる涙に押し流されてしまった。それでも、根気の無いくせに変なところだけは頑固なぼくは、兄を追おうとはしなかった。それは自分の敗北を認めることであるように思えたのだ。だからぼくは、兄に助けを乞おうとはしなかった。ただ、そこで立ち尽くし、あとからあとから溢れようとしてくる涙をどうにか押し止めようとするだけだった。セミが鳴いていた。日差しが舗装された道路を焼いていた。影が恐ろしく黒くはっきりとその上に焼き付けられている。鳥がけたたましく鳴いて、ぼくは心細くなっている自分に気付いた。あたりには誰もいない。気配すらない。入道雲はそんなぼくになどお構いなしに白く、もくもくと成長していっていて、それがとても憎らしく見えた。ぼくはそこでひとりきりだった。
世界の果てまで
「世界の果てにひとりで取り残された気分になった」と、彼女は言った。ぼくは腕時計を見た。待ち合わせた時刻を少し過ぎている。「宇宙の果てでもいいけど」
彼女の背後にはぼくたちの通っている高校があった。そこは宇宙の果てでも世界の果てでもなかった。そこはぼくたちの日常の住処だった。毎日通っている高校。見慣れたもののはずだ。けれど、真夜中の高校は真っ暗で、まるで廃墟に見えた。ぼくは自分の普段いる世界から、別の世界に紛れ込んでしまったような気分になった。それは瓜二つだけれど、何かが決定的に違う。間違い探しだったとしたら最高難度だろう。なにしろ、そこには一切違いが無いのだから。ぼくの目の前には私服姿の彼女が立っていた。制服以外の姿の彼女を始めて見た。なぜだろう、ぼくの鼓動は高まった。
ぼくはバイクにまたがったまま彼女をじっと見つめた。彼女の表情からは、彼女の言ったような心細さは読み取れなかった。ぼくに対する怒りや憤りも無かった。あるのは本当にぼくが来たということへの驚きと、少なからぬ安堵だった。
「ごめん」と、ぼくは言って、ヘルメットを彼女に差し出した。
彼女はそれを受け取りながら「カッコいいじゃん」と言った。「新聞配達みたいなバイクで来るのかと思った」
「ホーネット」と、ぼくは答えた。「ホンダ」
「本田って、誰?」
ぼくは黙り込んだ。
「自分で買ったの?」彼女はバイクを恐る恐る指先で撫でながら言った。
「うん」
「自分のお金?」
「バイト」
ガソリンスタンドの匂いが、ぼくは好きだ
校則に反してアルバイトを始めたことがわかっても、両親はそれを咎めたりやめさせようとしたりはしなかった。
高校一年の秋のことだ。夏休み明けのその日、ぼくはアルバイトを始めることにした。自分のしたことなのだけれど、正確な動機はわからない。それまで通り、無為に過ごすことも可能だった、とぼくは思っている。あるいは、長い夏休みをそうしてぼんやりとやり過ごすのは、さすがに堪えたのかもしれない。しかしながら、その時のぼくにはそうした動機のようなものは自覚できていなかった。とにかく、アルバイトを始めよう、そう思っただけだ。
両親が反対しなかったのは、強情で飽きっぽい自分たちの息子の性質を嫌というほど見てきたからだろう。反対すれば喧嘩になるだろうし、放っておけばどうせすぐにやめるだろうと高をくくっていたのに違いない。それが蓋を開けてみればどうだろう。一週間が一月になり、三ヶ月、半年と続き、結果的には受験勉強を理由に辞めるまで続いた。
「なんのバイト?」と兄が尋ねた。
「ガススタ」
「ふーん」受験生だった兄は言った。「楽しい?」
「まあまあ」
無愛想なぼくだったけれど、職場の先輩たちには可愛がられた。むしろ無愛想で不器用なところが好まれたのかもしれない。つまずき、どぎまぎしているぼくを見ると、放っておけない気持ちにさせられたのかもしれない。そうして可愛がられたことが、結局のところそこでぼくの働き続けた最大の要因だったのだ。仕事自体は楽ではなかった。言いがかりをつけてくる嫌な客もいたし、夏はうだるような暑さの中で立っていなければならなかったし、冬は凍えながら窓拭きをしなければならなかった。それでも、ぼくに良くしてくれる常連のお客さんもいたし、日一日と仕事に慣れていく自分が面白くもあったし、自分が周りに支えられているという実感も、そして少なからず役に立っているのだという充実感もあった。それはそれまでの学校という狭い世界では得られたことのなかった充実感だった。何かとても大きくて重いものを、見ず知らずの大人たちと一緒に持っているような感覚。もしかしたら、そうした感覚がぼくを自分がすでに大人の仲間だと勘違いさせた原因の一つだったのかもしれない。
働く意義はともかく、ぼくはそこで初めて自分の力でお金を稼ぐことになる。そうして自分で稼いだ金銭を、ぼくはもて余した。一緒に豪遊するような友達もいなかったし、これと言って欲しいものがあったわけでもなかった。そもそもの話、アルバイトを始めたのは時間をもて余していたからに過ぎない。もて余しているものが、時間から金銭に変わっただけのことだった。しかしながら、時間は貯めることができないが、金銭は積み上がっていく。黙々と働いていたぼくの預金は、一年もするとちょっとした額になった。
「免許でも取れば」と、アルバイト先の先輩に休憩時間に何気なく言われたことが、ぼくの脳裏に刻まれたのだった。
「免許か」
それはちょうど夏休みのことだったから、ただでさえもて余していた時間はさらにもて余されていた。うっかりアルバイトでもしようものならさらに金銭をもて余すことになる。免許を取りに行くというアイデアは、まさに渡りに舟のように、その時のぼくには思えたのだ。もて余している時間で、もて余している金銭を使う。一石二鳥じゃないか。
結局のところ、そうして取得した免許証とバイクを、ぼくはまたもて余した。それは少なからず両親のぼくを見直すきっかけ、三日坊主だと思っていた息子の初めての達成のように思えたということはあったが、それ以上には何物もぼくにもたらさなかった。なにしろ、ぼくはバイクに対して何の憧れも抱いておらず、ただ何となくそれを手にしてしまっただけだったのだから。
アルバイト先の先輩の紹介で手に入れた中古のバイクにまたがったものの、ぼくはそこで困ってしまった。果たしてどこへ行けばいいのか、ぼくはそれを知らなかった。教習所で教えられていたから、エンジンを始動することも、右左折時の注意点もわかっていた。しかしながら、それでどこへ行けばいいのかは、誰も教えてくれていなかった。もちろん、どこへ行ったっていいということはわかっていた。自由なのだ。しかし、頭でわかっていても、それを腹の底から、身に染みて理解していたかと言えば心もとない。ぼくの前には自由があった。それは免許を取る以前のぼくとは比べ物にならないほど多くの可能性だった。そして、ぼくはその自由をもて余していたのだ。
どこへでも行けるのに、ぼくはどこへも行けなかった。
どこか?どこへ?どこへでも?
「で」と、ぼくはうしろに座った彼女を振り返って言った。「どこに行けばいい?」
彼女はヘルメットを被るのに四苦八苦していてぼくの問いかけを聞いていなかった。ぼくは見るに見かねてそれを助けてやった。心の奥に一抹の不安がよぎる。彼女をうしろに乗せて事故を起こすことなく走れるだろうか。
「何?」と、ようやくヘルメットを被り、一息ついた彼女は言った。
「どこに行けばいい?」
「うーん」と、彼女は唸った。
ぼくは彼女の答えるのを待った。
「海」
「え?」
「海に行こう」
海がすきなわけじゃない
免許を取り立てだったぼくが最初に行ったのは海だった。別に海が好きだったわけでもないけれど、東京の西に暮らすぼくにとって、海まで出るというのはちょっとした旅行のような気分にさせるものだったからかもしれない。確かに頑張ればママチャリでも海にまで行くことはできないでもなかったし、中学の同級生には実際それを夏休みにやってみせ、真っ黒に日焼けしたヤツもいたけれど、それは間違いなくぼくらにとっては冒険の部類に入ることだった。そして、自由を手にしたぼくがその自由の自由さをまず試してみようと思ったのがそれだったのだ。
多摩丘陵を越えて、新百合ヶ丘、藤沢を抜け、江ノ島まで行った。道は出発の前に地図を見て覚えたつもりだったが、何度も迷って、そのたびコンビニエンスストアに寄って、地図を立ち読みし、行く先を確かめながら進んだ。その道すがら通った街並み、閑散としたものからちょっとした駅前の繁華街まで、それらは、ぼくのそれまで一度も訪れたことのない土地だった。そこにも人が住んでいて、自分の周囲にあるような日常があることがとても不思議で、とても新鮮だった。自分の知らないところで、誰かが夢破れて泣いているかもしれないし、恋が成就して歓喜しているかもしれない。そうした可能性を想像したことがなかったわけではない。テレビをつければ、地球の裏側で起こった悲劇が映し出され、海の向こうのスターのスキャンダルが報じられている。自分と自分の周囲の人間以外にも、この惑星には多くの人がいて、それぞれにそれぞれの人生を歩んでいる。そんなことはいくらぼくでもわかっていた。しかし、そこまで腹にしみて実感したことはなかった。自分の知らないところで、誰かがトイレットペーパーを買っているということや、子供を幼稚園に送っていっているとういことがありうるのだ。そして、それは自分にとっては見知らぬ土地でのことだが、そこの人々にとってはそれが日常なのだ。
そしてまた、ぼくにも日常があった。ぼくの日常もまた、それを知らない人から見れば不思議なものに映るのかもしれない。ぼくはそんなことを思った。
とはいえ、そのちょっとした冒険はぼくを大きく成長させるほどではなかった。なんとなくそんなこともあるんだな、程度のものしか、当時のぼくは感じていなかった。しかしながら、その冒険は少なくともバイクに乗る喜びの何たるかをぼくに教えた。そうして、ぼくは休日にひとりツーリングに出かけるようになった。もちろん、アルバイトもあったし、経済的な事情、平たく言えばバイクの維持費やガソリン代があったから、本当に自由にとまではいかなかったけれど。
頬杖をつきながら窓の外を眺め、授業そっちのけで次の休日にどこに行こうか考え、学校が終わればバイトをしにガソリンスタンドに向かう。家に帰れば、母がいて、やがて父と兄が帰宅し、みんなで夕食を囲む。夜更かししてだらだらし、朝寝坊して焦りながら学校へ自転車を飛ばす。そんな日々。それが幸福な日々なのか、平凡で退屈な日々なのかはわからない。
しかしながら、それがぼくの日常だった。そしてぼくは、その日々が永遠に続くのではないかと、そう思っていた。
日常/非日常
だが、その日常がある日突然切断されてしまったのだ。兄の死んだ日から、ぼくの日常は失われてしまった。活断層がずれ、大きな地震が起きるみたいに、それは何の前触れもなく、少なくとも日常という堅固な岩盤の上に自分は立っているのだと考えていたぼくや、両親にとって、それは寝耳に水の事態だったのは前に書いた通りだ。そして、それはぼくにあるひとつのことを突きつけた。結局のところ、ぼくは兄を理解していなかったのだ。理解しようとすら思っていなかった。それはまさに日常であり、当たり前にそこにあるものだった。
兄がいなくなってからも長い間、ぼくらの部屋に学習机は残されたままだった。両親は兄の所有物に手を付けることを嫌がったからだ。自室の扉を開くと、その学習机に向かっている兄がいるのではないかと、今でもぼくは思っている。すべてはウソだったのだ。全部作り事で、みんなしてぼくを騙そうとしているのだ。そうだ、そうに違いない。わかっているから、そろそろ種明かしをしてくれよ。兄を返してくれよ。ぼくの日常を返してくれよ。しかし、そんなことが起こりえないことはぼくが一番よくわかっていた。兄は死んだのだ。そして、それは絶対に取り返しのつかないことなのだ。
不在/存在
兄の葬儀には多くの人が参列した。ぼくの見知った顔もいくつかあった。兄の友人で、ぼくも会ったことがある人たちだった。それは大方小中学校時代の友人、まだ幼かったぼくも一緒に遊んでもらった人たちだ。しかし、それはごく少数だった。多くはぼくの知らない人たちだった。兄と同年輩のようだったから、大学での友人だったのかもしれない。ぼくは兄の大学での交遊関係を一切知らなかった。兄もまた、それをぼくに話そうとはしなかった。とはいえ、格段それが秘密であったようにも思えない。ただ単純に、それはぼくには関係の無いことだから、兄はそのことを話さなかったのだろう。参列者の中に、仲間に支えられていなければ歩けないほど泣き崩れている少女がいた。綺麗な顔をした子だった。もしかしたら、とぼくは思った。兄の恋人なのかもしれない。もしもぼくが兄に尋ねれば、兄は答えてくれただろう。
ぼくはぼくの傍らの、存在するはずなのに存在しない兄に尋ねる。「カノジョ?」
「うん、そうだよ」と、存在しているべきなのに存在しない兄は答える。ぼくの想像の中で。
実際、両親たちはそれなりに兄の大学での交遊関係を把握していた。サークルの友人のことや、ゼミの友人のこと。さすがにガールフレンドのこととまではいかなかったけれど、それだって両親の方から尋ねていれば兄は快くとはいかなかったかもしれないが、答えたはずだ。もしかしたら、少し照れながらかもしれない。そう想像して、はにかむ兄をぼくは思い出す。
まだ幼かった頃、ぼくにとって兄はヒーローだった。勉強も運動もできたし、優しかった。それは大げさに言えば人のあるべき姿、理想像としてそこにあった。少し大きくなるにつれて、そうした純粋な憧れは薄らいでいったけれど、それは仕方のないことで、年がそれほど離れていなかったから、どうしてもふたりは比較されてしまい、ぼくとしては素直に兄の優れた点を賛美できなくなってしまったのだ。しかし、根本のところでは、ぼくは常に兄を尊敬していたし、今度はぼくが恥じらう番になるのだけれど、それを覚悟の上で言えば、兄を愛してさえいた。
夏の朝、静かに風は吹いていた
まだふたりが小学生だった頃、こんなことがあった。
その朝、ぼくは珍しく早く目覚めた。夏休みのある日のことだ。いつも朝寝坊のぼくだったけれど、前日普段よりも早く床に就いたからだろう。まだ朝日の昇り始める時間帯で、夏の日差しの暴れ回る前だった。開けっ放された子供部屋の窓から吹き込んできた風は少し冷たくさえ感じられたほどだった。
ぼくの傍らでは、兄がまだ眠っていた。仰向けで、まるで死んだ人が横たえられているみたいだった。ぼくはしばらく兄の様子を窺った。兄は身動ぎひとつしなかった。その顔は、精巧に作られた兄そっくりの人形のように見えた。まぶたも、鼻梁も、唇も、生きた肉ではなく、何か化学的なもので作られた、肉に見紛うばかりの樹脂のようだった。ぼくはそっと兄の口許に耳を近づけた。微かだけれど、呼吸をする音が聞こえた。兄は生きていた。それは当たり前のことだったし、ぼくにもそんなことはわかりきっていたけれど、それでもなお、ぼくは少し安堵したのだった。兄は生きている。
ぼくの目の前には兄の顔があった。ぼくは息を潜めた。窓の外で小鳥がさえずっていた。肌理まで見えるほど近くで、ぼくはそれを見ていた。それは美しいと言っていい顔だった。和毛がぼくの息で揺れている。ぼくはさらに息を殺す。ぼくの顔のすぐそこに、兄の唇があった。ぼくはそれを凝視した。そして、そっとそれに自分の唇を重ねてみた。ぬめっとして、湿っていた。兄が身動ぎし、唇から息が漏れた。ぼくは慌てて自分の布団にもぐりこんだ。
くちびるを、みる
彼女の薄く開けられた唇から、ため息のようなものが漏れた。「なんで?」
ぼくはバイクのエンジンを切った。辺りに深夜の静寂が降りてきた。ぼくは改めて二人乗りで高速道路を走れない理由を説明した。学校の勉強は散々なくせに、教習所でならったことには幼い子供のように従順なのがぼくだった。
「バレないんじゃない?」と彼女は言った。
ぼくは首を横に振った。正直な話をすれば、そんな真夜中の高速道路を、彼女を後ろに乗せて、安全に走る自信がなかったのだ。
「絶対に?」
今度はぼくがため息をついた。それを見て、彼女もまたため息をついた。
「仕方ないか」と彼女は言った。そして、少し黙り込んで何かを考えていた。ぼくは待った。彼女が口を開くのを待った。きっと何か言うに違いない。そうして待っていると、ようやく彼女は口を開いた。「サービスエリア」
「ん?」
「サービスエリアに行きたかった。夜のサービスエリア」
まるで異世界にワープするみたい
ぼくら家族の夏の帰省は、自家用車で夜を徹して、とはいえもちろん夜を徹するのはハンドルを握る父なのでぼくらはその車中で眠るのだが、夜中に家を出て、一晩走って明け方祖母の家に着くような具合だった。思えば父もまだ若かったのだ。体力がなければそんなことはできない。
その夜のドライブがぼくは好きだった。うきうきして、前日にはよく眠れないほどだった。寝不足のぼくは、襲い掛かる眠気と戦いながら真夜中の車中を楽しむ。カーステレオから聞こえるラジオの音は、ぼくには何を言っているのかよくわからなかったけれど、そのノイズまで含めて大人の世界の音だった。車窓を流れていく夜の景色、高速道路を照らすのはオレンジ色の光りで、それが作り出す光の道を、車は飛ぶように走って行く。旅の出だしは家族であれこれとお喋りしているのだけれど、次第にみんな寡黙になっていく。父の噛んでいたガムをこっそりいただき、それのあまりの辛さに涙が込み上げてくるのを堪えるのに必死になる。タイヤと路面の奏でる音色、エンジンの、路面のちょっとした段差の、そうした様々な振動。どれもこれもまるで異世界のもののようだった。普段なら、夜更かしを咎められるのだけれど、この車中では大目に見てもらえ、むしろ普段口うるさく叱ってくる母の方が助手席で寝息を立てていたりするので、ぼくは時計のデジタルの数字が日付の変わることを知らせるのを見つめていた。ぼくにとって、それはまさに異世界としての時間のはずだった。「早く寝ないと、お化けが出るよ」と普段言われて脅されていたから、その時刻、真夜中午前0時はお化けの時間だと思っていたのだ。しかしながら、時計が日付の変わったのを教えても、辺りに変化は訪れなかった。それまでの1分と、そのあとの1分にはなんの違いもなかった。ぼくは安堵するとともに拍子抜けした。
光の帝国
今でこそテーマパークのように綺麗に整えられているが、当時のサービスエリアは簡単な食堂と自動販売機、トイレがあるくらいのものだった。それでも、サービスエリアはぼくらをワクワクさせるのに充分だった。夜の闇に包まれた世界の中で、それは光の島のようだった。その光る孤島に、ぼくらの車は滑り込んで行く。コツコツコツ、という方向指示器の音、流れを離れていく車。ぼくの脳内では、それはまるでSF映画の一場面のように描き出される。車輪とは別の技術で走る車が、未来都市、もしかしたら、宇宙ステーションかもしれないそれに滑り込んで行く。広大な駐車スペースには長距離トラックが何台か停まっている他に車は疎らだ。グラウンドを照らすような照明が低い音を立てている。時折バチッ、バチッと何かがはぜるような音がするのは、光りに集まる虫が照明にぶつかっていたのだろうか。夏の夜の空気は、ぼくを落ち着かなくさせた。もぞもぞと、尻のあたりで何かが蠢くような感じ。走り抜けていく車のタイヤの音がする。
手洗いを済ませ、自動販売機のスペースをブラブラする。コカ・コーラやスプライト、ファンタ、お馴染みの清涼飲料水の自動販売機だけでなく、カップ麺やハンバーガー、ホットドッグやたこ焼きの自動販売機まである。ぼくはその時それを初めて見たものだったから、それに釘付けになった。いったいどんなものが出てくるのか、好奇心がくすぐられる。母親にねだってぼくの買ってもらったのはチーズバーガーだった。ボタンを押すと、それはレンジで温められ、それが終わると小さな扉が開いた。中には紙に包まれたチーズバーガーがある。ぼくは手を伸ばし、それを掴む。それがあまりに熱くて落としそうになる。
包装紙をはがしていく。中から出てきたハンバーガーは、バンズはべちゃべちゃだし、ハンバーグはパサパサで、おそらくそれを美味しいという人間はかなりの少数派に違いないのだけれど、その時のぼくにはそれがそれまでに食べたどんなハンバーガーよりも美味しく感じられた。それは、夜のサービスエリアでのことだったからなのだろう。その時のぼくにとって、そこで口にするものはなんだって美味しく感じられたに違いない。そこは非日常、あるいは夢の世界だった。もしかしたら、それはその時ハンバーガーではなかったのかもしれない。異世界にいるぼくにとって、それは宇宙食か何か、未知の食べ物だったのかもしれない。
いまでも時々、ぼくはあのチーズバーガーの匂いを鼻の奥に嗅ぐ。
コカ・コーラの泡が弾ける
香ばしい匂い。「和風ハンバーグステーキです」とウェイトレスは言い、ぼくと彼女を交互に見た。言葉に少し訛りのあるような気がして、名札を見ると、外国の名前だった。ぼくらより少し年かさだろうか。もしかしたら、留学生だったのかもしれない。向かいに座った彼女がぼくの方を示した。ウェイトレスは和風ハンバーグステーキの載った鉄板をぼくの前に置き、次にライスを置いた。彼女はドリンクバーで淹れてきたコーヒーをすすっていた。ぼくの目の前のグラスではコカ・コーラが泡を弾けさせている。ぼくにはコーヒーの味が理解できないでいた。あんな苦いものを好んで飲むなんて正気の沙汰だとは思えなかった。明らかにぼくの舌は子供の舌だったのだ。彼女はミルクも砂糖も入れないでコーヒーを飲んでいた。ぼくは思わずそれをまじまじと見てしまった。
「何?」と、ぼくの視線に気づいた彼女は言った。ぼくは首を横に振った。彼女は窓の外を見た。ぼくもそれにつられて窓の外を見た。そこには見るべきものなど無いようにぼくには思えた。街道沿いの深夜のファミリーレストランはガラガラだった。窓の外に見える街道を、時折車が気だるそうに走り去っていく。
ぼくは大きなあくびをし、それから時計を見た。午前二時を過ぎたくらいだった。目をしばたいた。目がひどく重かった。目の前のハンバーグステーキは香ばしい匂いを立てていた。そんな時刻にも関わらず、ぼくは空腹だったのだ。バイクが大きな音を立てながら走り去っていった。もしかしたら、暴走族かもしれない。
「あとどのくらい?」と、ぼくが食べ終えると彼女は尋ねた。
「一時間くらいで」と、ぼくは言った。「江ノ島辺りには着く。海には着くよ」
彼女は時計を探し、時刻を確かめた。
「まだ朝になる前だね」
「うん」と、ぼくはうなずいた。「たぶん」
そして、彼女はコーヒーに口をつけた。「ねえ」と、彼女は言った。「眠くならない?」
「ん?」
「お腹一杯になったら」
「うーん」と、唸りながら、ぼくは自分でも不安を覚え始めていた。
そもそも、そんな夜中にバイクで走ること自体が初めての経験だった。いつもなら、休日を利用してちょっとした遠出をするくらいで、帰りが少し遅くなって辺りが暗くなってくるようなことはあったが、真夜中に走ることはなかった。そこまで無事に運転してこられたことに、実はぼくはちょっと安堵していた。そして、実は後ろに人を乗せて走るのも初めてのことだった。
二人乗り
「ヘルメット」と、ぼくに中古のそのバイクを紹介してくれたバイト先の先輩は言った。「もうひとつあった方がいいよ」
ぼくはその意味がわからずに首を傾げていた。
「カノジョできたら後ろに乗せるじゃん」
そんなことを言われ、二つ目のヘルメットをまんまと買わされたのだったが、それの出番がやって来る日が訪れようとは夢にも思っていなかった。
「少し寝れば?」と、彼女は言った。
「ん?」と、ぼくは降りかかってくる眠気を堪えながら言った。
「寝ていいよ。どっちか起きてれば、店員にも注意されないでしょ。起きてるから」
「ん、ああ」と、頬杖を突いていたぼくは崩れていき、自分の腕を枕にして寝息を立て始めた。
夏の匂い
目を覚ますと、辺りは見渡す限りの田園風景だった。窓を開ける。風の匂いが違う。
後部座席から見ていても、父の疲労は明らかだった。何しろ一晩中運転していたのだ。疲れない方がどうかしている。とはいえ、父はそうしたことに愚痴をこぼしたり、弱音を吐いたりする人ではなかった。どんなことでもじっと耐え、やり通す強さを持った人だった。口数は少なかったし、仕事で忙しい人だったから、普段息子たちと交流する時間や機会をなかなか持つことができなかった。だからこそ、それが持てる時にはできうる限りそれを有効活用しようとしているようだった。学生の頃はワンダーフォーゲル部にいたとかで、アウトドアの遊びは一通り知っていて、釣りの仕掛けの作り方や、幾種類もの縄の結び方、上手な火の起こし方を知っていて、それをぼくら兄弟に伝授してくれたものだ。その父がいたのだから、夏の帰省はぼくたち兄弟にとってもそうだし父にとっても何週間も前から心待ちにしたものだった。山歩きをし、川で釣りをする。今思い返しても、あれは完璧な休暇だった。
そうは言っても、さすがに到着したその日は義父母への挨拶と墓参りを午前中に済まし、昼食を終えると昼寝をしてしまったものだった。ごろりと横になった父の背中は、その田舎を取り囲む山々のように大きかった。暗くした部屋で、それは微動だにしなかった。力一杯押しても、びくともしなさそうだった。セミが鳴いていた。兄が呼んでいる声がした。ぼくは障子をそっと閉めた。
背中を見てきた
ぼくにとって、父の背中は大きいものであると決まっていた。それは確認するまでもなく大きなものだった。会社に出掛ける時の背広姿も、休日、キャッチボールをしていてぼくの投げた大暴投を取りに駆けていくTシャツ姿のそれも、とにかく大きなものなのだと、ぼくは思っていた。
だから、兄の葬儀の時に見た父の後ろ姿に、ぼくは驚いたのだ。それは確かに月並みな驚きかもしれない。子が親を越えていく。時の流れは常に残酷だ。子が育つのと同じ分の年だけ、親は老いていくのだ。実際、葬儀の頃には、ぼくの背丈は父のそれを抜かしていたのだ。そして、若い頃から体格の良かったという父親も、よる年波には勝てないわけで、分厚かった胸板も、逞しかった肩も、その頃には見る影も無くなっていたのだ。しかしながら、それはそうした必然以上の驚きをぼくにもたらした。そうした老いを勘案できないほどの間抜けでないぼくにとっての驚きとはなんだったのか。
ぼくの目の前、手を伸ばせば触れられるそこにあった父親の背中は、急な雨を耐え忍ぶ鳥に似ていた。ただそこにあって、じっと耐えている。雨の止むのを待っている。無力な存在としての鳥のようだった。嘴から雨粒がしたたる。目は閉じられている。老いや衰えだけでなく、巨大な哀しみがそこにあった。それは老いや衰えも包み込んだ哀しみだった。兄の死は、兄の喪失以上の何かを父に与えていた。それがなんなのか、ぼくには名指しできないが、ただその驚きだけはわかった。もしかしたら、父自身も驚いていたのかもしれない。自分の老いや、衰えに驚き、そして哀しみに驚いていたのかもしれない。
父は、ぼくら兄弟が躊躇いなく、恥ずかしげなく尊敬する人は父、と言えるくらい完璧な父親だった。人間の意志に全幅の信頼を寄せている人だった。意志の力をもってすれば、成し遂げられないことはないと考える人だった。実際、一度立てた目標は何があっても必ず達成する人で、高校の頃所属していた柔道部で全国大会に出場し、大学入試では難関大学に合格し、社会人になってからも着実に成果を挙げ、出世の階段を昇って行っていたのだ。そうした姿勢は、兄に受け継がれ、ぼくはその姿勢自体を継承することはなかったが、それは仰ぎ見、尊敬するには充分のものだった。
その父が、ぼくの目の前で打ちのめされていたのだ。そして、その冷たい雨を、耐え忍ぶ以外に何もできずにいたのだ。それがぼくにとって驚きだったし、ショックだったし、哀しかったのかもしれない。
ぼくはそれ以上に無力な存在であり、荒れ狂う海に放り出され、何かすがるものと掴んだそれもまた、無力で波に弄ばれる存在でしかなかったのだ。
儚いものたち
「結局」と、彼女は言った。「ふたりは何もできない無力な存在なのでした」
彼女はそう言うと口をつぐんだ。ぼくは彼女がまた口を開くのを待ったが、しばらくして、次の言葉が無いようだと思い、待つのをやめた。
ぼくたちはコンビニの駐車場の車止めに腰を降ろし、明けていく海を眺めていた。一見規則正しく、その実気まぐれに、波は寄せては返していた。風にしたってそうだった。強まったかと思えば弱まり、また強くなった。朝日が昇ってきている。それは世界を黄金色に染めていく。まるで、この世界を祝福するように。
彼女のちょっとしたお話を聞いて、ぼくはなんらかの感想を述べるべきだろうかと、そんな考えが脳裡をよぎったが、彼女の様子を伺うと、たいしてそんなものは求めていないようだったので、黙っていることにした。彼女が喋っていた時と同じように。
女の子と男の子
「ねえママ、何かお話をして」
「どんなお話?」
「幸せになるお話」
昔々あるところに、男の子と女の子がいました。それは実に平凡な男の子と女の子でした。誰にでもできることしかできず、誰にもできないことはできないような、普通の、平凡な男の子と女の子。そんなふたりがある時、ある場所で出会いました。なんの変徹もない平凡な出会い。けれど、ふたりにとっては奇跡的な出会いのように思えました。男の子から見た女の子は特別な女の子であり、女の子から見た男の子は特別な男の子でした。たぶん、ふたりの頭の中、脳内で変な化学物質が分泌されていたのです。私たちはだいたいにおいて、それの奴隷なのですから。と言っても、それは不幸ではありません。私たちがたとえ奴隷だろうと、囚人だろうと、ふたりにとってはどうでもいいことでした。奴隷であったとしても、幸福な奴隷は羨まれてしかるべきでしょう。幸福な出会いを果たしたふたりはその幸福な時間をもっともっと引き延ばしたいと考えました。罪のない考えです。誰だって、幸福な時間をなるべく長くしたいと考えますから。それに、なにしろふたりは平凡な男の子と平凡な女の子なのですから、そうした平凡な考えを持つであろうことはわかりきったことでした。
さて、ふたりはその時間を延長するために何をしたか。一緒に暮らすことにしたのです。平凡な発想だけれど、一緒にいて幸福なら、その一緒にいる時間をできるだけ長くすれば幸福な時間がさらに増えると考えたのです。部屋を借り、家具を揃え、あれこれ悩みながら食器を選びました。それはふたりで設えたふたりの楽園でした。誰も入ってくることのできない、ふたりだけの楽園。そして、ふたりはそれを空に浮かべました。現実に汚された大地を離れ、ふわりふわりと空を飛ぶことにしたのです。なぜなら、楽園が楽園であるには、大地との決別が必要だったからです。
空に浮かぶには、それなりのエネルギーが必要とされました。そのための燃料は愛なのだと、ふたりは考えました。愛に不可能は無いと、平凡な男の子と平凡な女の子は考えました。実際、それは最初上手くいっているように見えました。ふたりが日々愛し合うことで、楽園は空を飛び、楽園は楽園となっていました。ふたりはそこから大地を眺め、あくせく動き回っている人々をせせら笑っていました。もっと幸福に生きる方法があるのに、それをしないなんて愚かなことだと。
めでたし、めでたし、とここでなったなら、これほどめでたいことはなかったでしょう。ところがどんなに現実を嫌ってみても、ふたりの生きるのは現実の生であり、そこにはラストシーンやエンドマークはあり得ないのです。あるのは「つづく」の三文字だけ。ページをめくっても、めくっても、最後のページにはいたらない。とはいえ、もしかしたら、それは見ようによっては幸福なことになるのかもしれません。なにしろ、ふたりの時間に終わりが来ないのですから。
そうしてふたりは永遠の時間の中で幸福に暮らしましたとさ、めでたし、めでたし。
そうはいきませんでした。終わりの無い日々は日常となり、ふたりの感覚は次第にマヒしていきました。幸福を幸福として捉えられなくなっていったのです。幸福はそこにあるのにも関わらず。
そんなある日、ふたりは楽園の高度が下がってきていることに気がつきました。蟻のように見えていた人々の姿が少し大きく、気づけば手の届きそうな距離にまでなっていました。ふたりはそれぞれお互いのことを疑いました。相手の自分に対する愛が冷めてきてしまっているのではないか。楽園の燃料たる愛が不足してしまっているのではないか。その頃には、楽園にはそれが最初に空に浮かんだ時よりも多くのものが乗っていたというのも事実ではあります。自動車があったし、大型テレビや、ステレオやレコード、座り心地のいいソファー。そして、ふたりの愛の結晶である娘。それらが楽園の浮力を削いでしまっているのではないか。そう疑いもしました。とはいえ、そのどれもふたりには捨てることはできません。結局のところ、原因がなんなのかはっきりさせることができないまま、ふたりは疑心暗鬼になりながら暮らすことにしたのです。でも、それってとてもつらいことでしょう?だって、愛があるのかどうか疑っているなんて。
そして、次第にふたりの間に口論が増えるようになりました。お互いのちょっとしたしくじりを責め立て、態度をけなし、たとえ自分に非があるかもしれないという考えがよぎっても絶対に謝ったりはしません。楽園に不穏な空気が漂い始めました。愛で満たされていたはずのそれが、くすんでいってしまっていたのです。幸福の歌を口ずさんでいた小鳥たちは飛び去り、色とりどりの花は萎れ、枯れてしまいました。ふたりのため息と、娘の泣き声がこだまするのがその頃の楽園でした。果たしてそれを楽園と呼べるでしょうか。
ふたりは焦りました。もう地面はすぐそこです。楽園が墜ちてしまう。そうして必死になればなるほど、お互いに相手の足りないところばかりが目について仕方がありません。そしてまた、喧嘩が始まるのです。
ふたりの娘だけが、その状況を冷静に把握していました。つまるところ、楽園の浮力を支えていたのはお金だったのです。ふたりの考えていたみたいに、愛で浮力を得ているのではなくて、お金こそがその源だったのです。
しかし、気づくのがあまりに遅すぎました。だいたいの物事がそうであるように、気づいた時にはもう手遅れ。楽園は墜落してしまったのでした。
ひゅー、どっかーん!
目覚めよと、君は言う
大きな衝撃音でぼくは飛び起きた。自分がどこにいるのか咄嗟には理解できなかった。辺りを見回す。ファミリーレストラン?ああ、そうだ。ファミレスにいたんだ。時計が目に入った。針は夜明けに近い時刻を指していた。目の前には彼女がいた。窓の外を呆然とした表情で眺めている。その視線を追って、ぼくも窓の外に視線を移した。
それがなんなのか、すぐにはわからなかった。街道の貧弱な照明では、それがなんなのか、目覚めたばかりで、混乱しているぼくが判断するのは難しかった。何か黒くて大きな塊が道路の上にある。白いライトが光を放っている。真っ赤なランプが灯っている。塊は街灯でなまめかしく光っている。暗闇に目が慣れてくると、それがなんなのかがわかってきた。車だ。それも二台の車。たぶん、トラックと、ワンボックスカー。その二台が正面衝突し、まるで最初からそうだったかのように、ひとつの塊になっている。
ぼくは金縛りにあったみたいに身動きひとつできなかった。彼女もまた同じような状態だった。それがなんなのかわかってもなお、それがどうしてそんなことになっているのかがわからない。ファミリーレストランの店員が慌ただしく駆けていった。
「事故だ!」
しばらくすると、遠くから救急車のサイレンの音が響いてきた。それは次第に大きくなる。
サイレンが呼んでる
救急車のサイレンを聞くと、その頃の私はそれが自分を迎えに来たものではないかという淡い期待を抱いた。残念ながら、それは次第に遠ざかっていって、最後には聞こえなくなってしまうのだけれど。きっとどこかでそれを本当に必要としている人のところに行ったのだろう。結局のところ、私はそれを必要としていなかった。私の体にはどんな種類の異変も起きていなかった。少なくとも、医学的に見れば。だけど、そうだとしても、私としては自分にはそれ、救急車が、いや、霊柩車でもいいのだけれど、今いるところから連れ去ってくれる何かを必要としていた。あるいは、救いを。
月並みで、実に青臭いことだけれど、なぜ自分が生きていて死んでいるのではないか、私は不思議に思っていた。
「はい、こちら子供電話相談室」
「もしもし」
「もしもし、質問は何かな?」
「どうして私は生きていて死んでいるんじゃないの?」
無邪気に誰かに尋ねられれば何かが変わっただろうか。変わらなかったかもしれないし、変わったかもしれない。どちらかはわからない。それを誰かに尋ねようとはしなかったから。自分でもうんざりする青臭さを他人に嗅がせるなんて、死んでもしたくなかった。そして、私は生きていた。さらに言えば、それこそが問題だった。生きるべきか死ぬべきかの二択ならまだ救いがあったかもしれないけれど、私に用意されていた選択肢はひとつだけだった。生きている。生きている。生きている。それは永遠に続きそうにすら思えた。
あるいは、私は死んでしまいたかったのかもしれない。いや、違う。私は存在しなくなってしまいたかったのだ。まるでそもそも存在しなかったかのように。
その程度に、私は恵まれていた。
不幸としての不幸
端的に言って、私の不幸は不幸でないことだった。客観的に言って、私は満たされていた。
商社勤務の父親と専業主婦の母親の間に一人っ子として産まれた私は何不自由無く育った。家は庭付きの一戸建て、母親はガーデニングが趣味で、庭にはいつも季節の花が咲き誇っている。その片隅の犬小屋にはメスのゴールデンレトリバーがいて、まだヨチヨチ歩きの頃、初めて外に出した時には自動車を見て腰を抜かしていたのが微笑ましかった。駐車場には外車、父親の趣味は車だったから、家族で外出するためのものと、個人的に走りを楽しむためのオープンカーの二台が停まっている。まだ私が中学生の頃には、父親の休みがあると、その助手席に乗せてもらってドライブに出掛けたものだ。居間には大きな液晶テレビ、これも父親の趣味のオーディオ機器、私の部屋にはアップライトピアノがあって、三歳の頃から続けていたその腕前は我ながらなかなかのものだと思う。夕食は必ず母親の手製で、それもかなりの腕前で、一通りの家庭料理はもちろん、ちょっと手の込んだイタリアンなんかも作って出すことがあった。月に一度は家族で外食に、それもちゃんとしたテーブルマナーの要求されるようなレストランに行っていた。
もしも私が自分の不幸を嘆こうものなら、方々から批判の声が届くに違いない。もちろん、私もそんなことはわかっているから自分の不幸を嘆かない。ただため息をつくだけ。誰にも気づかれないように。
幸福論
私はいつもため息を必要とした。そうしないと息ができないから。息の仕方を忘れた人のように、私は息をした。それは意識的な行為だった。吸って、吐く。私の吐く息はため息になった。そんな呼吸はそれこそ息が詰まる。いつもあえぐように、私は生きていた。
頬杖をついて、黒板をぼんやりと眺める。自分がなぜそこでそんなことをしているのか、私にはよく理解できなかった。それは明らかに人生という限られた時間の浪費のように思えたが、ではそれを有効に使うということがどういうことなのか、私にはわからなかった。いい大学に進学して、いい会社に入って、自分と同じくらいいい大学といい会社の夫を見つけ、子供を産んでも仕事を続けて。果たして、人生とはそういうことのためにあるのか。もちろん、私はわかっていた。私が望めば、少なくともいい大学には入れるだろうし、何か大きな間違いを犯さない限りいい会社にも入れるだろう。結婚相手となるとかなりの部分運に左右されそうだけれど、それだってどうにかなりそうだ。私は鏡にうつった自分の顔を見る。まあ、悪くない顔だと思う。少し鼻が低いし、唇が薄い。けれど、悪くはない。それなりの相手が見つかるだろう。で、それで?
周りの生徒たちからは完全に浮いていたかもしれないけれど、それは望むところだった。私にとって、そこは蜃気楼の町だった。全ては現実ではなく、見せかけだけ。少なくとも私にとっては。そこで友情を育めるだろうか?無理な話だ。本当に存在するわけでない相手と手を繋ぐなんてできやしない。どうせ、あっちも願い下げだろう。
私の周囲では、幻の存在たちが必死で教師の黒板に書く文字をノートに書き写していた。中には居眠りをしているものもいたし、携帯電話をいじっているものもいたけれど、どれも結局のところはおなじことだ。
「きっと私は」と思った。「このまま静かに狂っていくんだろうな」
それは突然訪れた思い付きではあった。あるいは、言葉をもてあそんでいただけかもしれない。しかし、それは私の実感にすっぽりと収まるものだった。ちょうど、過不足無くすっぽりと。そして、そう感じるといても立ってもいられなくなった。私はやにわに立ち上がった。勢いで椅子が後に倒れた。教室中が呆気に取られて私を見つめていた。黒板に板書をしていた教師も、椅子の倒れる音に驚いて振り向いた。そして、呆然と私を見ている。
「このままだと狂っちゃう。それも静かに、気付かないうちに」
結局のところ、私の求めたのは劇的な狂気だった。全てがそこで破断されるような、稲妻か、爆発のような狂気だった。
「どうしました?」教師は私に尋ねた。「具合でも悪いの?」
私は何も答えず、椅子を直すとそれに座り、それまでと同じように頬杖をついた。教室が少しざわついていたけれど、私は表情を変えなかった。教師も訝しげに私を見ていたが、しばらくすると気を取り直して板書を再開した。そして私は決意したのだった。
「高橋って」と、私は彼に声を掛けたのだった。放課後の下駄箱、吹奏楽部が楽器を鳴らしていた、野球部の掛け声が聞こえる。演劇部が発声練習をしていた。「バイク持ってるの?」
どこか遠くへ行ってしまわなければならなかった。
「バイク」
そのままそこにいたら、静かに狂ってしまうから。
「乗せて欲しいんだけど」
逃走(何からの?)
バイクにまたがった。そこまでのほんの一時間ほどをそこで過ごしただけだったはずだけれど、なんだかそこはもう私のためにあるかのように、私には感じられた。そして、また四苦八苦しながら、彼に手助けしてもらいながら、ヘルメットをかぶる。振り返ると、警察官たちと消防士たちが駆け回っている。その中心にあるのは大きな金属の塊、事故を起こした二台の車だった。パトカーと消防車と救急車の回転灯が周期的に真っ赤な光を投げつけてくる。
空気がざわついていた。もしかしたら、それは私の心臓から発せられたざわつきだったのかもしれない。胸の奥で何かがざわついていた。それはその瞬間、二台の車が衝突するのを目の当たりにした瞬間からのことだ。まるでその衝突の振動が心臓と共振し、いつまでもそれが収まらない。もしかしたら、それは恐怖だったのかもしれないけれど、その時にはそれをそう名指すことができないでいた。それはあまりに衝撃的、物理的にも、精神的にも衝撃的だったから。私はその潰れた車を呆然と見つめていた。
「行こう」という彼の声で私は我に返った。
慌ただしく会計を済まし、バイクに乗ろうとした時にパトカーが到着したのだった。警官の一人が彼と私に気づいた時、バイクは走り出した。私は振り向いて赤い光の明滅を見ていたのだけれど、すぐにカーブを曲がって見えなくなった。
膜
本当なら、バイクのエンジン音があたりを包んでいるはずなのだけれど、私は静寂の中にいた。まるで私の周りだけ空気がなくなってしまったみたいに。音の波は触媒を失い、どこへも伝わることができない。その振動もまた失われていた。私のすぐ真下で駆動しているエンジンの鼓動は、一切伝わってこない。切り裂いて進んでいるはずの風も感じない。移動を教えてくれるのは、街灯の前から後に飛び去っていくことだけだ。光の点が向かってきて、すれ違い、後方に去っていく。腰に手を回している彼も実際の人間ではないようだった。それは私にとってバイクの一部と同じようだった。いや、彼がバイクの一部なのではなく、バイクもまたもっと大きな何かの一部で、彼はその何かの一部であるバイクのそのまた一部であり、そうやって何かの一部でないのは私だけだった。そこには私と私以外の大きな何かがあるだけだった。私はその中を移動していた。それはあくまでも抽象的な移動だった。どんな肌触りももたない、鼓膜を振るえさせることも、網膜を刺激することもない。まるで薄い膜に包まれているみたく。
思えば、私にとってこの世界自体がそういうものだった。私はその膜に包まれた世界に触れようとするのだけれど、それに私の指が触れることはなく、いつも上滑りしていく。私は常に部外者だった。どうせそんな風になるなら、最初から触れようとしなければいい。いつ頃からなのか、私にそういう姿勢が染み付き出したのは。中学生の頃?小学生の頃?それよりもっと前?私は自分の幼かった頃を振り返ってみる。そこにあるのは曖昧な記憶だけだ。薄く靄がかかっていて、はっきりと見ることができない記憶。幼い頃のことを事細かに話せる人を、たとえばテレビでやっていた有名人の人生を掘り返すような番組で、その有名人が自分の幼少期を語るのを見ると、私はむしろ彼らが作り上げられた過去を語っているのではないかとすら疑うのだった。自分の記憶を鑑みるに、そんなに鮮明に何かを覚えてなどいないし、まして語ることなんてできない。全てが曖昧なのだ。私は自分の記憶にさえも直接触れることができないのかもしれない。それに触れるきっかけに、過去の写真を見てみると、幼い女の子は満面の笑みを浮かべている。それはなんということのない場面、どこか旅行先とかですらなく、以前住んでいたマンションで、しかも私が着ているのは寝間着なのだから、それは日常のひとこまを何の気なしに撮ったもの、むしろなぜそんな写真を撮ったのか首を傾げたくなるようなものなのだ。そこにはいかなる意味もなかった。なんの記念でもない、もしかしたら、試し撮りの一枚。もちろん、私にはそれを撮られた記憶は無い。その頃のどんな記憶もない。当然、その時自分が、その像は自分なのだけれどまるで他人のように、何を考え、思っていたのか、まるでわからない。
別の写真にも、少女が写っている。それは私の幼い頃の姿に見える。背後には建設途中の公園が写っている。だいぶ色褪せた写真で、それもそのはず、写真の片隅に記された日付は四十年も前のもので、そうなると当然それは私の幼少期の写真ではありえない。まだ十数年しか生きていない私にとって、それは過去の過去の日付だ。そこに写っているのは、私の母親の幼い頃、まだ年端もいかない頃の姿。髪形や、着ているものに時代を感じさせるが、その顔立ちや体つきは私の幼い頃と瓜二つだ。なにしろ、当の本人である私自身、母親の幼い頃の写真を初めて目にした時、それは自分の幼い頃のそれなのだと勘違いしたほどだった。その二つの像は気味の悪いほど似ていた。目鼻立ちだけでなく、写真に写る限りの表情の作り方や、仕草までそっくりだった。
私たち母子はとても似ていた。それはその姿形もそうだが、それにまして仕草や表情、そしてなによりそのため息が。
ため息
それに一番早く気づいたのは当然私の父親だった。父こそは私たち、私の母と私の最も近くにいる観察者であり、そして、私たちにはまた別の言い分があるわけだけれど、父の認識としては彼こそがそのため息の被害者、穏当に言って受難者なのだった。彼はある時自分の妻と娘のため息がそっくり、それどころか同じものであることに気づいたのだった。もちろん、それが彼の耳に心地よかったはずがない。彼は私たちのため息を聞くたびに眉間にシワを刻んだ。ため息が聞こえ、妻がいるものと振り返ると娘が立っていた。それは彼にとってとても不快な出来事だったに違いない。そして、私たち、少なくともその頃の私が父親のこの内心を知ったとしたら、きっとため息を漏らしたことだろう。
「はぁ」
ある時期から、母親のため息が明らかに増えた。帰宅し、ドアを開けると、中からどんよりとした空気が流れ出して来たものだ。それは見るからに暗く、主成分がため息でできていることは一目でわかるものだった。初めてそれを目にした時には、私も驚き戸惑ったし、家に入ったものかどうか躊躇いさえした。それに触れることで、どんな悪影響があるのか恐ろしかった。
結局のところ、私は何が母親をそうして変えてしまったのかを知らない。それは聞くのに躊躇われたし、暗い空気の充満した家の雰囲気では特に不可能なことだった。家の空気が変わってしまったのだ。父の帰りの遅くなることが増えた。休日も仕事の付き合いだとひとりで外出することが増えた。家族で外食に行っても、会話は弾まず、みな黙り込んでいるような状態だったから、習慣化していた外食だったけれど、自然と廃れていった。何が原因だったのか、私は知らない。もしかしたら、知ろうともしなかったのかもしれない。私は私で思春期の真っ只中にいたわけで、そうなるとむしろ親たちは疎ましい存在なわけで、そうした家族揃っての行動が減るのはどちらかといえば望むところだった。そう、別に親たちがどうなったところで、家族がどうなったところで、私としては知ったこっちゃなかったのだ。少なくとも、私の認識ではそうだった。というか、何もかもがどうでも良かった。
幻肢痛
「絶対に離さない」と、彼は私の腕を自分の腰に回させ、そう言ってバイクを走らせたのだけれど、私はそれを離してしまったらどうなるかを考えずにはいられなかった。腕の力を抜き、体を脱力し、重力や慣性のなすがままになって、アスファルトに叩きつけられる。耳元で風が鳴る。ヘルメットが固いアスファルトを打つ。体を衝撃が駆け巡る。膝を、肘を、腰を、体のいたるところを地面に打ち付けながら転がる。その一撃一撃が肉をえぐり、骨を砕くのがわかる。彼が息を飲むのが聞こえた気がする。彼は驚いてバイクを急停車させ、私のもとに駆け寄る。私は体中傷だらけになり、血を流している。ぐったりとして、ピクリとも動かない。彼は恐る恐るそれに歩み寄る。そして私のそばに膝をつき、その顔を覗き込む。私の口に耳を近づけ、息をしているかどうかを確かめようとする。
死/死
「死んじゃったのかなあ」と、私は言った。ずぶ濡れになったシャツを絞っているけれど、それに何か効果があるかといえば、まあそんなことはない。気休めですらない。ただなんとなく、むしろそうして絞ることで、自分がどれだけずぶ濡れになっているのかを確認しているみたいだ。
「え?」と、彼の方はTシャツを脱いで上半身裸になっている。履いているデニムもずぶ濡れだ。歩くとスニーカーの中に入った水でガポガポ音がしたから、脱いで手に持った。私の靴もおんなじ具合だったから、私の靴も彼が持った。
「あの事故の人たち」
「さあ、どうかな?」彼はそう言った。彼としてはそうとしか答えようがなかったのだろう。どうだろう。死んじゃったかな。
「高橋は冷たいね」
「なんで?」
「だって、死んじゃってたら、かわいそうじゃん」
「そうだね」
私は少し考えた。彼は黙っていた。何かを考えていたかどうかはわからない。
「まあ、別にどうでもいいか」私は言った。
「そうだね」彼は言った。
「ねえ、確かフロントで水着を貸し出してたんだけど」
「そう?」
「服が乾くまで、プールに行かない?」
プールサイド小景
母は水着になるのをいつも嫌がったから、海水浴に行った時も、プールに行く時も、私の遊び相手になるのは父の役目だった。母は麦わら帽子をかぶって、白いTシャツにデニムを履いて、砂浜やプールサイドのパラソルの作る影の下で手を振っているのだった。私には何となくそれが不満だった。
その頃の私にとって、母は自慢の母だったから、そうして踏み入れられない場所があることが許せない、と言ったら言葉が強すぎるかもしれないけれど、それに近い気分になるのだった。できないことがあるなんてもっての他で、あるいは全知全能であるべきだった。実際、私にとっての母は全知全能とまではいかなくても、完璧と言っていいくらいだったから。
分数のわり算を理解させてくれたのも、逆上がりができるようにさせてくれたのも、全部母だった。父は平日仕事で遅かったから、宿題の手伝いなどは母がやっていたのだ。とはいえ、それらは大人になるまでにある程度できるようになっていることで、できたところでその優秀さの証明にはならないし、実際のところ母の学生の頃はどちらかといえば凡庸の部類に分けられるような少女だった。運動も勉強もそこそこで、特に人目を惹くほど眉目秀麗というわけでもなく、取り立てて明るい性格だとか、優しいとかいうこともなく、誰がなんと言っても平凡な少女だった。そして、そのこと、平凡であることがその本人を苦しませたり悩ませるということもなかった。平凡は平凡なりに平凡な悩みがあって、平凡であること自体に悩むなどという余地は残されていないのだろう。進路に悩み、恋に悶え、インカレサークルで出会った男の子の恋人になり、就職でまた悩み、就職してからも職場の人間関係や、日々の忙しさに恋人と疎遠になっていくのに苦しんだ。そうして悩み苦しむ彼女は彼女にとって特別な存在であり、まさかそんな特別な存在である自分が平凡であり、その悩みもまた平凡であるなどということは想像さえしなかった。悩み苦しむのは常に彼女だけで、それ以外の人たちには悩みなどなくて、自分は悲劇のヒロインみたいな気分になっていた。いたって平凡に。
それでも、平凡で、どこにでもいる人間で、簡単に交換ができる存在だったとしても、彼女は特別だった。少なくとも、私にとっては。
その平凡な女は、私の、たった一人の母なのだ。
母
母、母、母、教室の中にいるのは誰もかれも母親ばかり。それはちょっとした光景だった。もちろん、授業参観の日だってそうなるけれど、その時の母たちは背景になり、決して主役にはならない。それがその日は違ったのだ。
小学生だった頃、保護者たちの集まりが学校で絵本の読み聞かせをしたことがあった。母親たちが学校にやって来て、子供たちに絵本を見せながら朗読して見せたのだ。いくつかのグループになって、車座になって読み聞かせが行われた。教室のあちらこちらで朗読する声がする。あるところでは笑い声が洩れ、歓声が上がったりもする。私は周りの子供たちがそれらに聞き入っているのとは違って、自分の母親ばかりが気になった。母親たちは子供たちのグループを順番に回っていたのだけれど、私は自分のグループのことにはちっとも集中できなくて、自分の母の朗読している姿ばかり見ていて、担任にたしなめられるほどだった。母が私の方を見て、一瞬目があって私は慌ててそらす。自分のグループで読み聞かせをしている誰かの母親に集中しているふりをする。そして、しばらくするとまたチラチラと母の方に視線が行ってしまうのだった。
「昔々」母の声が聞こえてくる。聞きなれた母の声。私の耳はそれに反応する。私のまだ幼い頃、眠る前にはいつも母が絵本を読み聞かせてくれていた。「昔々」私はお話が好きだった。おかしな話でも、悲しい話でも、どんなものであれ、お話であればそれでよかった。「おしまい」という母の一言で、それは、そのお話の世界は消えてしまう。喜怒哀楽は余韻だけを残す。それは私を傷つけない。「めでたしめでたし」私は母がそう言うのを待っていた。そうすれば、私は救われるのだろう。
私は母が自分のグループにやって来るのを心待ちにした。
母がやって来るのを、私は待っていた。
宇宙の果てまで
「世界の果てで取り残された気がした」と私は彼に言った。「宇宙の果てでもいいけど」
本当にそんな気分になっていたのかどうか、今もって確証が持てない。別に彼のことなど待っていなかったような気がする。たとえ彼が来なかったとしても、待ちぼうけを喰わされたことに、もしかしたら、少しは腹が立つかもしれないけれど、それ以上にそれで当然だと思えたような気がする。それに、いつも私の期待は裏切られてきたのだ。自分をどこか遠くへ連れ去ってくれるなにかの到来を待ち、その兆し、とはいえそれは私が勝手にそう読み取った何かであることがほとんどだったのだけれど、そういった予兆のようなものに、私はいつも裏切られてきた。待ちぼうけにも、期待を裏切られることにも慣れていた。
だから、彼が本当に現れた時には、私はむしろ驚き、少し呆れさえしたのだ。彼のあまりの愚直さに。しかしながら、最初私に訪れた驚きの成分に喜びが含まれていなかったわけではない。私は彼の到来を喜んだ。新聞配達の乗るようなバイクを想像していた私の前に現れたバイクに乗った彼は、ちょっとかっこ良かった。待ち合わせ場所として指定した、高校の正門前。私は自分がそこにいることを喜んだ。ほんの数十分前までは、そこにいない可能性もあったのだ。私は迷っていた。自分から約束をしたはずなのに、私は迷っていた。
私の家は、これぞ閑静な住宅街といった場所にあったから、夜が更けると静寂に包まれる。時折車が通る音が聞こえるが、それも大抵は高級車で、実に静かに通りすぎていく。家の中はそれ以上に静まり返っているのが常だった。
その夜、父はまだ帰って来ていなかった。大方日付の変わった頃に帰ってくるのだろう。もしくは、帰らないか。私としてはどちらでもかまわない。
母はどうしているのか。私にはわからない。大体の場合は自分の寝室に行ってしまい、夫の帰りがどうとかはお構いなしに寝てしまう。もしくは、リビングでテレビを眺め、そのまま眠ってしまう。私は耳を澄ました。物音ひとつしない。おそらく母は自分の寝室で眠ってしまっている。もしくは寝室で眠りにつこうとしている。私は時計を見た。彼に告げた時刻、約束という体裁はとっていたが、あまりに一方的だったそれの時刻が迫っている。私の中にはふたつの相反する考えが浮かんでいた。「どうせ来ないよ」と「いや、来るかも」だ。
なにしろ彼の返事が実に曖昧だったのだ。「ああ」とか「うう」とか言って、要領を得ない。それに苛立った私が「じゃあ、そういうことで」と言って相手の返事も待たずにその場を後にしてしまったのだ。果たして本当に来るだろうか。この時の私は、彼の性格だとか、考え方を全然知らなかったから、彼がどう行動するか予測が立てられなかった。と言っても、その後も私は彼を理解することなどなかったし、深く知ることもなかったから、今予測を立てろと言われても相変わらず不可能なわけだけれど。
もしかしたら、来るかもしれないし、来ないかもしれない。彼が待ち合わせ場所に来たにもかかわらず、私がいなかったとしたら、彼は怒るだろう。まあ、彼が怒ろうが悲しもうがどうでもいいことではあったにせよ。私をそこに向かわせたのはなんだったか。淡い期待?それにしても、彼のバイクでどこかへ運ばれたところで、何が解決するというのだろう。その時の私にも、きっとそれはわからなかった。わかっていたのは、そこにそうして留まっていたら、きっと必ず気が狂ってしまうであろうということだけだった。解決が用意されていないとしても、私は行くしかなかった。
息を潜め、母の気配を窺う。当然ながら、そんな夜遅くに外出しようとすれば少なからず咎められるだろう。適当に言い繕うにしても、帰りがあまりに遅ければ母がなにがしかの行動に出る、たとえば極端な例として警察に捜索願いをだすとか、とにかく何か手を打とうとするに違いない。できるだけ、母に自分のいなくなったことに気付かれない、気付かれるにしてもできるだけ時間がたってから、遠くまでいってからがいい。それには私が家を出るところを見られるわけにはいかない。私は息を潜める。時計が時を刻む音が響いている。それ以外に音は聞こえないように思う。私はさらに耳を澄ます。耳を澄ましたところで、私の部屋と母親の寝室は家の中でも離れているから、まさかその息づかいが聞こえるはずがないのにもかかわらず、私は息を潜め、耳を澄ます。母の息づかいを聞こうとする。
息をする音が聞こえる
私は耳を澄ましていた。
あれはまだ私が幼かった頃、まだ母と一緒に寝ていた頃のこと。
私は夜中に目を覚ましてしまったのだ。夜中も夜中、真夜中だった。辺りは暗く、カーテンの隙間からほんのりと月明かりが射している以外に明かりらしい明かりはなかった。時計が時を刻んでいた。コツコツコツとそれは、まるで何かが歩み寄って来ているように私には聞こえ、その何かはきっととても不吉なものに違いないと感じられた。不吉で、不気味な何かが、私たちに向かって歩いてきている。不安に駆られた私は、母にすがろうとした。すぐ隣に寝ている母に。そして、私は母を見下ろしたのだ。眠っている母を。
思えば、それが私の眠っている母を見た最初だったかもしれない。私にとって、母は常に起きている人だった。私が眠りに就くときに絵本を読んで寝かしつかせてくれるのが母だったし、朝食の支度の整ったことを知らせて起こすのも母だった。昼寝をするところも、うつらうつらうたた寝をするところも見たことがなかった。
その、薄暗い部屋、ようやく暗闇に目の慣れてきた私の目の前、月明かりにうっすらと照らし出された母の寝姿が、私の初めて見る母の眠っている姿だった。月明かりの弱い光のせいだろうか。それ、私の母親には、生気が感じられなかった。仰向けになり、胸の上で指を組んでいる。あとで思うことだけれど、その姿勢は古代エジプトの王たちの棺のようだった。
しばらくそうして見ていても、母は身じろぎひとつしなかった。まるで死んでいるみたいに。そう、私にはそれが死んでいるように見えた。ちょっと手を伸ばせば、母に触れることができる。それは柔らかく、温もりを持っているはずだ。私が知り尽くした温もり、私のためにある温もり、生者の温もりを。しかし、私にはそのほんのささいな動作が躊躇われた。もしも触れて、冷たかったらどうしよう。もちろん、それが馬鹿げた考えだということは幼い私にもわかってはいた。母の様子に変わったところはなかった。突然死んでしまうなんてことはないだろう。
本当に?幼い私は、自分の眠るのにも、もしかしたら、このまま目が覚めることなく、眠ったまま死んでしまうのではないかという一抹の不安を抱えていた。布団に入るときにはいつもその不安も持って入ったものだから、私の寝つきはとても悪かった。私は人の生きるということに対して、少なからぬ疑念を抱いていた。あるいは、今も変わらずに。それはそこまで盤石のものだろうか。
私は息を潜めた。そして、母の呼吸に耳を澄ました。時計が時を刻んでいた。それが煩わしかった。私はそっと動き、母の口元に耳を寄せたのだった。母の呼吸を確かめるために。時計が時を刻んでいた。
時
コツコツコツと、何かを刻んでいるような音に気づき、その気づきが最初のヒビになり、そこから亀裂は広がっていき、私はゆっくりと目覚めた。コツコツコツ、何の音だろう。そこがどこなのか、自分がそれまで何をしていたのか、何もわからなかった。思いのほか深い眠りに落ちていたのだろう。眠りの底から浮上してくるのに少し時間がかかっていた。まだ夢うつつに片足を突っ込んだまま、薄目を開けた。
まず目にうつったのは赤い光、強く光って、弱まる。オレンジ色の光が点滅している。自動車のテールライトとウインカーだ。体が軽く揺さぶられる。コツコツ。横に振られる。私は自動車に乗っている。体を包んでいるのは車のシートだ。寝汗をかいた腕がそれに貼り付き、剥がれる。体が左の方向へと引っ張られ、目にうつる景色もまた左へと流れていく。聞こえるか聞こえないかというくらい小さな音量で音楽が流れている。
「パパ」と、呟いた。運転席でハンドルを握っているのは、父だ。体が後ろに引っ張られる。唸り声が高まる。エンジン。自動車の構造になど興味がない。エンジンがどう動くのかなんて、私にとってはどうでもいいことだ。魔法でだろうとなんだろうと、それが動き、働いてくれればそれでいい。父がアクセルを踏み込んだ。エンジン音が高まる。世界が加速する。景色が後ろへと流れていく。時が流れていくみたいに。時を置いてきぼりにするみたいに。
もちろん、そんなことができるはずがなくて、時の流れは世界を洗い、少しずつ確実に奪っていったのだった。
現に、それが父との最後のドライブになった。私が思春期に突入し難しい年頃になった。父は会社での責任が大きくなって時間が取れなくなった。理由を挙げればいくらでも挙げられそうだが、どれも決定的な理由にはなり得ない。実際のところ、それらは理由ですらない。納得するための言い訳に過ぎなかった。誰が納得するための?私と、父と、それ以外の人みんな。本当に真摯に言葉を口にするのならば、それはそうなるべくしてそうなったとしかいいようがない。なるべくしてそうなった。まるで運命。
ふたりはまったく言葉を交わさなかった。別にそれは珍しいことではなかった。それまでも、小学生の頃、初めてドライブに連れ出してもらった頃から、車中で言葉を交わすことはまれだった。父は運転に集中し、私は車窓を流れる風景を眺めていた。父にはお気に入りのルートがあったし、私は私でお気に入りの風景があった。父にとっても、また私にとっても、重要なのは移動だった。それはどこかへ行くための手段ではなく、それ自体が目的だった。実際、半日かけて日本海まで行き、すぐに踵を返してまた半日かけて帰ってくるなどという、見ようによっては愚行とも思えることすらしていた。移動こそがその目的だった。もしかしたら、それは私の方がより純粋だったかもしれない。父は運転をしているのだから、シフトアップやブレーキング、コーナリングもまた移動同様重要だった。それもまた彼にとっては悦びだった。しかしながら、私の指定席は助手席なわけで、私はただただ運ばれていく存在なのだ。私の移動による悦びは純粋に移動からのみもたらされた。
車は高速道路に入り、さらに加速する。夜の帳が落ちて来ている。それは夏休みの終わりの頃だったのかもしれない。夜の風には、隠しても隠しきれない秋の気配が漂っていた。
私は自分がどこへ向かっているのかを知らなかった。それもまた、ふたりのドライブではいつものことだった。行く先はすべて父に一任されていて、私の意見が反映されることがなかったどころか、それが求められることさえなかった。私に与えられた権限はトイレ休憩を求めるタイムアウトくらいで、それ以外、目的地やそこにいたるまでのルートは当然ながら、車内でかける音楽やラジオなどまで、すべて父の独裁状態だった。とはいえ、私にそれに対しての反発や異存があったかといえばそんなことはなく、むしろそうした諸々は父に選ぶ権利があると考えていたし、感じていた。ある意味では、それら、目的地、ルート、及び選曲は、私にとって所与のものであり、雨が降ることに不満を持ったり、月の昇るのに歓喜しても仕方がないことのように、まるで自然現象のようなものとして捉えられていたのかもしれない。
車は滑るように走って行く。心地よい震動。活きのいいエンジンが小気味良く回転している。それは父のアクセルワークに従順に反応する。賢い犬のように従順だ。私にはそれがわかる。すぐ隣、運転席に座る父のちょっとした挙動を、車は感じ取り、それに返事を返す。まるで溶け合うように。
車はいつしか海沿いの道に出ていた。私たちの車以外に走っている車は無くて、信号もほとんどなかったから、車はその能力を余すことなく発揮しながら走っていく。
海を見ていた。濃紺というにはあまりに黒く、深いそれを。空はそこに呑み込まれて行っているようだった。どこまでも、闇に包まれていた。それが心地よかった。
そんな闇の中に、光の島が現れた。それは前方はるか彼方にあったが、あっという間に近寄ってきて、そして過ぎ去っていった。すれ違い様、それを見た。
下品な電飾とネオンサイン。「パラダイスリゾート」
楽園へと続く道
ぼくの目から見て、というか、おそらく誰の目から見ても、そこがパラダイスだとは間違っても思わないだろうし、少しでも恥を知る人間であるなら、リゾートを名乗るなどおこがましいと考えるはずだ。推測の域は出ないが、よほど厚顔な人間がそこにはいるのだろう。もしかしたら、その人間の定義ではヤシの木さえあれば立派なリゾートなのかもしれないが、そこは夏であればうだるような暑さに包まれるだろうが、日本の大方の地域と同じように冬の寒さが訪れるところであり、本来の生えている場所とは異なる環境に植えられたそれは、葉は弱々しく枯れて垂れ下がり、むしろ厚顔無恥な誰かの代わりに謝罪でもしているようだった。白一色の外壁は、開業当時には真夏の青空に映えていたかもしれないが、少なからぬ年月はその輝きを奪っていてくすんでいたし、手すりの部分は錆び、その下には赤茶けた筋が走っていた。
彼女が数歩先で待っていた。呆然と建物を見上げるぼくを、苛立つこともなく、じっと。ぼくには落ち着き払った彼女が理解できなかった。ぼくの胸中は穏やかではなかった。それはどういう風貌ではあれ、一応ホテルを名乗っている。そんなものの中に、女の子とふたりで入るなどということは初めての体験だった。言うまでもないことかもしれないけれど、ぼくは童貞だった。あまりにも童貞的な童貞だった。もしも心のどこかに童貞を馬鹿にし、軽蔑する気持ちがあるとしたら、それはその人自身の童貞であった自分の羞恥のせいだろう。あまりの羞恥に、童貞全般を軽蔑しようとしているに過ぎない。なにしろ、誰もが童貞だったのだ。
童貞のぼくの胸中が穏やかであっていいはずがない。様々な手続きをへずに、ぼくの妄想はそこに直結していた。もちろん、その土台となるイメージはアダルトビデオや、エロ雑誌であり、生身の何かではあり得なかった。そして、だからこそそれは純粋で、純粋に間違っていた。そもそも正しい妄想があったとして。
童貞は罪ではないけれど、童貞の振舞いは往々にして罪深いか、良く言っても独善的である。それは想像力がある一方向に割かれてしまっているからなのだろう。童貞には想像力が欠けている。多くの場合。それはそこを過ぎ去って初めてわかることだ。そして、その想像力の欠如は往々にして人を傷つける。おおよそ全ての想像力の欠如が暴力的であるのと同じように。あるいは、と後になって考えざるを得ない。もしもその時童貞でなかったのなら、ぼくは彼女を救うことができたのかもしれない。想像力を駆使し、彼女に救いの手を差し伸べる。果たして、彼女はそれを掴んだだろうか。彼女もまた、年若かったのだ。彼女が若さという独善の中にいなかったと、誰に言えるだろうか。彼女は彼女でまた、若く、それゆえに救いを求めることができなかっただろう。いや、自分が救いを求めていることを知らなかったか、知っていてもそれを否認するために知らないふりをするか、知らないふりをしているということを否認していたに違いない。詰まるところ、ぼくと彼女はすれ違う以外になかった。結局、ふたりは同一平面上にいなかったのだ。
「高橋」と、彼女が暗がりで言う。それは胸焼けするくらい甘ったるい声だ。彼女がこちらに手を差し伸べる。「ほら、来てよ」
ぼくは従順にそれに従う。あたかもそれが自分の意思ではないかのように。
衣擦れの音。彼女が着ているものを脱いでいく。鼓動が高まる。体を揺さぶるくらい強く心臓が打つ。
「初めて?」彼女はそう言う頃には一糸纏わぬ姿になっている。もちろん、彼女の裸を見たことなどないし、彼女の水着姿さえ見たことがないのだから、現実に即した想像などできない。その裸はアダルトビデオの記憶からの借り物であり、それはおそらく彼女の実体よりも成熟した肉体であり、より蠱惑的で、より無駄にエロいイメージだ。そして肝心の部分はやはりモザイクがかかっている。なにしろ、ぼくの想像の基礎になるものには全てそうしてモザイクがかかっていたのだから。
ぼくは手を伸ばす。そして、その乳房に触れる。いかなる手応えもない。というか、触れそうになると遠ざかっていってしまう。あるいは、それは距離が縮めば縮むほど遠ざかってしまう。乳房までの距離の半分の距離をまた半分にし、それをまた半分にする。それは無限に繰り返され、ぼくの指先は彼女の乳房に到達しない。それはほんの目と鼻の先にあるようで、無限の距離の彼方にある。
ぼくの頭は一杯になる。セックス!セックス!セックス!
「ねえ」彼女の声がする。「ねえってば!」
ぼくは我に返った。目の前には彼女が立っている。その背後にはホテルの建物、日が燦々と照っていて、当然のことながら彼女は服を着ている。
「何してんの?早くしてよ」
「ああ」と、ぼくは何気ない風を装った。
「何か変な想像してたでしょ?」
「いや、別に」
トンビがぼくらの頭上高く、青空の中を旋回していた。あの夏、ぼくが見たと思った飛行機みたいに。
見上げた青空は深かった
あれは、と幼い頃の記憶を掘り起こして、ぼくは思う。兄の言う通り飛行機などいなかったのかもしれない。ぼくの見間違いだったのかもしれない。見間違いをしたとしても、なんら恥じることはないだろう。なにしろ、ぼくはまだほんの幼い子供だったのだから。もし、兄が今生きていたのなら、ぼくは兄にその話をしたに違いない。
「昔さ、あったじゃん」
兄は覚えているだろうか。それとも忘れてしまっているだろうか。
その兄はもういないのだ。確かめようがない。あの瞬間、あの場所にいたのは、ぼくと兄だけだった。ぼくと兄以外、あのことを知らない。そして、兄のいなくなってしまった後となっては、それを知るのはぼく一人、この広い世界、宇宙の中にたった一人だけなのだ。それは誰とも共有できない孤独な記憶。もしかしたら、生きるというのは、こうして孤独な記憶を抱えていくことなのかもしれない。そうして、それを抱えきれなくなったとき、人は死ぬのかもしれない。
ぼくにとって、兄の死は理解のできるものではなかったし、未だに理解できていない。兄はなぜ死を選んだのか。ぼくは永遠に、ぼく自身の死が、それがどういう形になるのか、ぼくは知らないけれど、どういう形であれ、死が訪れるまで、理解できないだろう。もしも答えのようなものが見つかったとしても、ぼくはそれをこねくり回し、最後にはダメにしてしまうに違いない。ちょっとした傷を見つけて、それが本物でないと否認するに違いない。その方が、ぼくにとっても都合がいいのかもしれない。それは謎でなければならないのかもしれない。謎であれば、それを認めずにいることができるかもしれない。
そして、それはいつか日常になるのだ。謎のまま日常になるのだ。兄のいないこと、その理由を求めること。日常となったそれに、ぼくを悲しませることはできない。悲しみを抱えた日常を生きうるほど、人間は強くはできていない。ぼくはそれが悲しい。
あるいは、ぼくは答えを求めてなどいないのかもしれない。ぼくが必要としていたのは、静けさ。
静まり返った世界で
通夜が終わり、みな寝静まった後、ぼくは足音を忍ばせながら兄の棺の傍らに立った。棺の中に横たえられているのが、正真正銘自分の兄なのだということが、ぼくには納得できずにいた。眠っているようにすら見えなかった。それは精巧に作られた人形のようだった。兄そっくりに作られた人形。ぼくはその顔をじっと見つめた。本当に良くできている、と感心すらし、そしてそれは精巧にできているのではなく、まさに兄なのだと気づき、天地の揺らぐような、目眩を催すような混乱に陥った。静まり返っていた。沈黙。それこそが死の証左なのかもしれない。耳を澄ました。生きている者を探した。そこにいるのは、ぼくと兄だけだった。あの夏の日と同じように。ただひとつ違うのは、兄は死んでいるということだけだった。
兄のその腕に触ってみようかと考え、しかし結局そうしないことにした。触れれば、兄の死んでいるのが納得できるかもしれないと、一瞬そんな考えがよぎったのだ。しかし、それが冷たかったとしたら、どうすればいいのかわからなかったし、もしも温もりがあっても、途方に暮れたに違いない。ぼくは自分の兄に触れられなかった。そこに横たわっている死を触れることができなかった。それが死であるのだと、ぼくにはわかっていたから。
しばらくそうして兄を見下ろしていた。そして、そっと兄の口元に耳を近づけたのだった。もしかしたら、兄の息をするのが聞こえるかもしれない。逆に、それが聞こえないかもしれない。
ぼくの耳はいかなる音も捉えなかった。兄は死んでいた。
死/生
ぼくは彼女の口元から耳を離すと、眠っている彼女を見下ろした。ぐっすりと眠り込んでいて、それもそうだ、ぼくは少しではあれ仮眠をとったが、彼女はここまで一睡もしていなかったのだ。ちょっとやそっとでは起きないくらい、深い眠りに落ちていた。ぼくは彼女の口元を見つめた。つい今しがたまで自分の耳を寄せていたそれだ。薄く開かれたそれは、良く見ると艶かしく、湿っている。自分の唇をそれに重ねても、とぼくは思った。彼女は気づかずに眠り続けるのではないか。それくらい、ぐっすりと眠っている。そんなことが頭に浮かんだが、すぐに打ち消した。というか、自然と消えてしまった。ぼくは彼女の寝顔を見つめていた。
「もしも姉がいたとしたら」とぼくは思った。「こんな感じなのかもしれない」
ホテルのフロントで彼女が自分たちは姉と弟なのだと主張したときは複雑な気分になったが、こうして落ち着いてみると、それはなんだかとてもしっくりくる気がした。彼女が姉で、ぼくが弟。確かに、ふたりはどこか似ていたかもしれない。全く違う性質を持ったふたりなのに。
そう思うと、その唇や、水着に包まれたささやかな胸の膨らみは、ぼくを惹き付けなくなった。それは単なる唇であって、乳房だった。それ以外の何かではなかった。それ以上の意味を持っていなかった。
彼女は眠っていた。ぼくは息を潜めた。彼女が起きてしまわないように。波の音がする。風がヤシの木の葉を揺らした。日射しが強い。ぼくはパラソルの位置を調整し、彼女の顔にそれが降り注がないようにした。そして、彼女の隣のデッキチェアに自分の身を横たえた。疲労のせいもあるのだろう、自分の体がひどく重く感じられた。デッキチェアがきしむ。彼女を窺う。相変わらずぐっすり眠っている。微笑ましくすらある。目を閉じる。瞼を通して、日光が刺さる。眠気はもちろんあるが眠りがすぐに訪れることはなさそうだ。大きなあくびをした。
ロストワールド
目を覚ましたのは家のガレージに着いた時だった。それまで体を包んでいたエンジンの鼓動が止まり、静寂が訪れたことで、私は目を覚ました。夜の闇が全ての音を吸い取ってしまっているみたいだった。どんな音もそれから逃れられない。どんな大きな叫び声も。まさか、もちろんそんなことはない。父がドアを開き、密閉されていた車内に外気が呼び込まれると、それに伴って音も入ってきた。夜の虫の声だ。秋の訪れをそっと納得させるべく囁いているようだった。私の側のドアが開く。父が開いてくれていたのだ。もしかすると、父は私がまだ眠っているものと思っていたのかもしれない。私は父を見上げた。背後の街灯のせいで、顔は影になっていてどんな表情をしているのかわからなかった。父は私の目覚めていることがわかると、一歩下がり、私が降りてくる道をあけた。私はシートに手をつき、体を持ち上げた。父が手を差し出している。差し出された手を取る。父の手を握るなんて、いつぶりだろう。私は考える。そのゴツゴツとした指はひどく懐かしく思えた。それは遠い記憶の中の出来事で、私にはまるで神話の中の出来事のようにすら思えた。
まだ私の幼かった頃、私は父が大好きだった。父が帰宅すると、それを出迎えに玄関まで駆けて行ったものだ。父はそんな私の頭をゴシゴシ撫で、抱き上げたものだ。私の脇の下に差し込まれた父の手は、とても大きく、まるで岩のようで、とても熱かった。それが軽々と私の体を持ち上げてみせる。脇に抱え、勢い余って私の顔が父の頬に触れると、髭がザラザラと痛かった。
幼い私には確信することができた。世界は全て正しい。もちろん、幼い頃のことだから、それを言葉に表すことなんてできなかったし、こうしてのちになって言葉を与えてもそれは十全ではないのだけれど。それは全く間違いがなく、全てが祝福されるべき世界。何も恐れることはないし、不安に震えることもない。私は幸福だったのだ。それは相対的なものではなく、絶対的なものとして。私は絶対的に幸福だった。その頃は。
あの頃
「あの頃は」と、朝日の昇る海を眺めながら彼女は言った。
ぼくはその後の言葉を待ったのだけれど、どうやらそんなものは用意されていなかったようで、どんな言葉も彼女の口からは出てこなかった。いや、もしかすると、出て来るべきそれは彼女の舌にのぼる前に飲み込まれてしまったのかもしれない。もしかすると、本当は何かを話したかったのかもしれない。しかしながら、その時のぼくにそんな可能性のあることがわかるはずもなく、彼女の沈黙は単なる沈黙なのだと、ぼくは思った。鈍感は罪ではない。そう思いたい。
ぼくたちは海を眺めていた。朝焼けに赤く染まったそれはただただ美しかった。美しかった、という言葉が野暮になるくらい美しかった。その美しさの前では、人は沈黙すべきなのかもしれない。そうして、ふたりはただただ海を見ていた。
ファミレスを出発し、しばらく走ると海に出た。海沿いの道を走っていくことにした。相変わらず目的地なんてのはなかったから、どちらへ行くのが正解なのかがぼくにはわからなかったけれど、そうして走っていくのがその瞬間のぼくにとって一番しっくりときた。それは正しいのかどうかはわからないけれど、そうなるべきなのだ。そしてまた、彼女もそれに異議を唱えることもなく、ぼくの腰に手を回していたから、ぼくはそれが彼女の無言の肯定なのだと捉えた。いくら鈍感なぼくでも、それは正しい認識だったに違いない。
そうしてしばらく走っていると、水平線が明るくなってきたのだ。朝日が昇る。いつも頭上にある、珍しくもなんともない太陽が昇ってくるだけの話なのだけれど、それでもぼくはうっかりそれに見とれそうになった。そこで、ちょうどあったコンビニエンスストアの駐車場にバイクを入れたのだった。
そのコンビニエンスストアは海を見下ろす高台にあって、駐車場からは海が一望できた。突然バイクを止めたにも関わらず、彼女はちっとも驚いた様子を見せなかった。エンジンを止めて、ヘルメットを脱いでいると、彼女も何も言わずにヘルメットを脱いでいた。そして、ふたりは朝日の昇るのを待った。それは音もなく昇っていった。考えていたよりも速く、スルスルと、舞台の書き割りみたいに。
「朝焼け見るなんていつ以来だろ」彼女が言った。ぼくは考えた。いつ以来だ?まだ部活に出ていた頃には、練習試合で遠征する時にはかなり早起きをした。あれはいつだろう。
「なんかさ、自分が幸せなのかそうじゃないのかわかんなくない?」
ぼくは考えた。どうだろう?そんなこと考えたこともなかった。
「たぶんさ、それって一番幸せなんだろうなって思うんだ。なんかそうじゃない?」
「うーん」ぼくは唸った。「そうかも」
「高橋ってさ」
「ん?」
「すっごく幸せだよね」
「なんで?」
「なんとなく」
「水谷は?」
「どうかな?わかんないや」
「じゃあ、幸せなんじゃない?」
彼女は声を上げて笑った。「そうなのかもね」
子供/子供
そう、きっと私たちは、すごく子供だったのだ。どんなにその青臭さを呪っても、その呪われるべき青臭さがあるからこそ呪えるわけで、それこそが青臭さの証明に他ならない。そして、それを認められないということまた、青臭さの証明なのだろう。私たちは子供だった。もしかしたら、ほんの年端もいかない子供だったのかもしれない。
現に、私たちは、私は、自分が子供であるが故の壁にぶつかったのだ。
そのホテルで、私たちの宿泊は拒絶された。本当に感じの悪いフロント係が、私たちの前に立ちふさがったのだ。
「保護者の方と一緒か同意書がなければお泊めすることはできません」
私たちは子供だった。泣きたくなるくらい子供だった。泣けないくらい子供だった。全てを諦められないくらい子供だった。信じられる何かがあるのだと信じられるくらい子供だった。絶望することに絶望するくらい子供だった。自分の前には広大な可能性の平原が広がっているのだと信じられるくらい子供だった。
死にたいくらい子供だった。
私はその頃の私、ホテルのフロントで拒絶されている私に、胸を焦がすくらい憧れている。
光
焼かれそうなほどの強い日射しで私は目覚めた。自分がどこにいるのかが一瞬わからなかった。まるでその記憶の納められている脳の領野が焼かれてしまったみたいに。ここはどこ?私はだれ?いっそ全部忘れられてしまえればいいのに。なんてね。デッキチェアに肘をついて体を起こす。隣のデッキチェアには彼が横になって目を閉じている。
「眠っているの?」私は囁くように尋ねる。彼は何も答えない。眠っているんだ。そう思おうとした瞬間に、彼は答えた。
「いや」そして、そういうとそれきりまた黙ってしまった。私はパラソルの位置を調節し、もう一度デッキチェアに横になる。心地よい風が吹いている。目を閉じる。眠りはやって来ない。セミが鳴いている。波の音がする。
日常
海が見渡せる。水平線が白み始めていた。ぼくと彼女はコンビニの駐車場の車止めに腰を下ろした。明け方の駐車場に車の姿はなく、車通りもほとんどない。彼女は紙のカップに入ったコーヒーをすすっていた。ぼくはカツサンドをかじっていた。若いというのは腹の減るものなのだ。
「たとえばさ」と、彼女は唐突に言った。「サワムラさんがあそこで働いてるのは日常なわけじゃん」
「誰?」
「サワムラさん」
「だから、誰?」
「コンビニの人」と、彼女は顎で示す。「サワムラさん」彼はその示された方向を眺める。レジの中には若い、大学生くらいの青年がいた。接客をしている。
「サワムラさん」彼女は言った。「サワムラさんにとってはこれが日常で当たり前なんだよね。じゃなかったらおかしいもん。そんなんだったら、たぶんそのサワムラさんは偽物のサワムラだよ、絶対。誰かがサワムラさんと入れ替わってるんだよ。そんなんだったらね。そうじゃなければ、サワムラさんにとってこれらは当たり前。でしょ?」
「うん」
「それって、すっごく不思議じゃない?」
「なんで?」
「だって、私たちの知らないところにも日常があるんだよ」
「そうだね」
「サワムラさんがチャリか原チャリでここまで来て、働いて、帰ってお風呂入ってご飯食べて寝るのは日常なの。それってすっごく不思議じゃない?」
ぼくはその不思議さを考えた。そして、劉さんについても考えた。
「劉さんって誰?」
「ファミレスの人」
「あの事故のあった?」
「うん」とぼくは答えた。「劉さん」
劉さんにも日常がある。どこか遠く、この国でないところで幼少期を過ごし、友情を育んだり、裏切りに泣いたり、恋をしたり、夢を抱いたり、もしかしたら絶望したりしたのだ。彼女には父母がいて、彼らにとって彼女はおそらくかけがえのない娘であり、彼女にとっては彼らは愛すべき両親なのだろう。それはぼくの知らない、どこか遠くでの出来事なのだ。ぼくはそれが不思議でならない。
ぼくは彼女の横顔を盗み見た。
「なに?」彼女は言った。
「いや」とぼくは答えた。「別に」
彼女のことも、ぼくには何もわからない。その事実は、なぜだかぼくを安心させた。
結論
父と母が離婚を決めた時、私は心底ホッとした。それ以外の表現ができないくらいホッとした。なんだか、頭上にずっとぶら下がっていたタライがやっと落ちてきた感じだ。それは重力によって落下し、私の頭を直撃して、それなりに派手な音を立てたし、結構痛くもあったけれど、私はそれですっきりした。人によって考え方は違うかもしれないけれど、頭の上にずっとそれがぶら下がっているよりはそっちの方がましだ、と私の場合は思う。もちろん、可能性としてはそのぶら下がっているタライが引っ込められることもあり得たのかもしれないけれど、またいつタライがぶら下げられるかわからない。そうならない保証はない。一度落ちてしまえば、もう二度とタライはぶら下がらない。二度離婚はできないからだ。
あるいは、その時私がそれなりの年齢になっていたというのは大きかったかもしれない。もしも私が小学生とかだったら、激しく動揺したかもしれない。
「お父さんと、お母さん、離婚しちゃうんだ」
そして私はグレてしまうのだ。髪を染めて、派手なメイクをして、エグザイルみたいな男の子たちと夜な夜な近所の公園で騒ぐのだ。補導もされてやろう。警官に悪態をついて、唾を吐きかける。名前を書けば入れるくらいの高校に行って、教師をぶん殴ってやる。周りの大人たちがみんなお手上げって感じにしてやるんだ。
くだらない。もしグレたとしても、そんなことはしなかっただろう。きっと、そして結局、私は私で私以外ではない。それこそが問題なのだ。
もしかしたら、家出くらいはしただろうか。今考えてみるとやっぱり不思議だけれど、その頃の私にとっても、その三人、私と父と母の三人は、ひとつのユニットだったのだ。それは継ぎ目のないひと繋がり。間違っても切り分けられることなんてない絶対のもの。たぶん、そんな風に思っていた。だけど、それは違った。夫婦も家族もとても脆く儚いもので、夫婦なんて赤の他人同士がなんの因果か一緒に暮らしているだけだし、親子だって、お互い相手を選んだわけでもない。その繋がりはとても弱いものだ。今ならわかる。
けれど、その頃の私はそれを知らなかった。なんでも知っているような顔をしていたけれど、なんにも知らなかった。なんにも知らないことすら知らなかった。もしかしたら、今だってそうかもしれないけれど。
あれは、彼のバイクで運ばれていくということは、もしかしたら家出だったのだろうか。家庭不和が原因の家出?そういう動機なら、きっと多くの人を納得させられるのだろう。それならそうでそう認めることに私もやぶさかではない。けれど、どうもその「家出」という言葉だと、しっくりこない気がする。じゃあ、なんならいいのか。わからない。私はとにかく逃げたかったのだ。何から?わからない。たぶん、私が私であるということから。
どこへ?どこへ逃げたところで、それから逃げおおせることなんてできない。
結局、あの私の試みは失敗だった。私はどこへも行けないことを証明しただけだった。少なくとも、彼のバイクでは。誰かの力で、どこかへ逃げることなんてできない。私を救える人間がいたとしたら、それは私以外いない。白馬の王子様が連れ去って助けてくれるなんて、そんな虫のいい話なんてない。
結論
「つまんない話だったでしょ?」と彼女は言った。それはぼくがどんな返事をしてもどうでもいい感じの問い掛けだった。おそらく彼女はただ語りたかったのであり、もしそこにいたのが野良猫であっても同じように語ったのではないだろうか。人には何かを語りたくなる瞬間があることを、ぼくは後々学ぶことになり、そしてそこから振り返ってそう思う。
「いや」
「別に?」と彼女は言った。それは僕の口をついて出そうになっていた言葉だった。「別に」
彼女はクスクスと笑った。「高橋の話す単語って、すっごく限られてるね。馬鹿なの?」
ぼくは肩をすくめた。何か喋ればまた足元を掬われるかもしれない。
「冗談だよ」と言って、彼女はまたクスクスと笑った。そして、大きく息を吸い込んだ。
朝日は音もなく昇っていた。それはぼくたちを赤く染めた。
「ありがとう」
「ん?」
「行こうか」立ち上がりながら彼女は言った。
「どこに?」
少し考えてから彼女は答えた。「ここじゃないどこかに」
いつでもないいつか、どこでもないどこかで
「どこに?」ぼくは尋ねた。
「海。海に行きたい」と彼女は答えた。
だからぼくらは海を目指した。理由などなかった。そこにぼくと彼女がたまたま存在し、たまたま海へ行きたかった。それだけだ。それ以上に理由は必要なかったし、そこから何かが得られることも期待していなかった。
それでいいじゃないか。
放課後の下駄箱、世界はざわめいていた。
陰りゆく教室
教室にコツコツコツという音が響いている。黒板にチョークの当たる音だ。教師が黒板に二次方程式の解の公式について板書していた。いや、もしかしたら分詞構文についてかもしれない。ぼくはそれをまったく聞いていなかったし、目を向けすらしなかった。ぼくは窓から外ばかり見ていた。いつものように。ぼくにはすべきことがなかった。いつものように。いつもと違うのは、そこにあるはずの横顔がなかったということだ。
彼女は学校を休んだ。
青空に、飛行機雲が白い線を引いていた。
ひこうき雲
空に白い線が引かれ、「あっ、飛行機」と内心思ったけれど、口には出さなかった。隣でデッキチェアに身を横たえている彼にそれを告げたところで、「うん」とか「ああ」とか、どうでもいい返事が返ってくるのが関の山だ。私はそう思った。私は盗み見るように彼を見た。彼もまた、空を見上げていた。もしかしたら、彼も飛行機に気付いたのかもしれない。しかし、私はそれを彼に確認しなかった。そのほうがいいと思ったから。
「あそこにさ」と、もしその飛行機の事で何か話すとしたら、私はそう言っただろう。「あんな空の高いところに誰かがいて、その誰かは何か意思を持ってどこかに向かっているなんて、すっごい不思議じゃない?その誰かは、私たちがここでこうしてその飛行機を見上げて、すっごい不思議だって思ってることを知らないなんて、それもすっごい不思議じゃない?」
もしも私がそう言ったとしたら、彼はなんと答えただろう。それは永遠にわからない。私は尋ねなかったし、無限の時間の中で、無限回その状況が巡ってきても、きっと尋ねることはないからだ。私たちは無限にすれ違い続けるのだろう。それでいい。
永遠
「死んじゃいたかったのかもしれない」と彼女は呟いた。それは誰かに聞かせるための言葉ではないようだった。そもそも音にしようという意思すらなかったのかもしれない。つい口をついて出たみたいな感じだった。
「うん」と、ぼくは言った。答えるべきかいなか迷ったが、結局答えた。彼女は答えを求めていなかったかもしれないが、ぼくは答えることを求めていたのだ。
彼女は立ち上がり、遠くを眺めた。海を眺めているのだ。ぼくも立ち上がった。海は夏の日射しを一杯に受け、キラキラと光り輝いている。眩しくてぼくは目を細めた。
「見つけた」と、彼女が言った。
「何を?」と、ぼくは言った。
彼女はフフフ、と笑い、そしてぼくの方を向くと言ったのだった。「帰ろうか」
「うん」ぼくは答えた。
永遠に似た時間
「つまんない話だったでしょう?」私は言った。
「そうだね」ぼくは答えた。
終