水上の舟
掌編です。
小さき舟は離れゆく。寄せては返す波に乗り、岸より見えるは伸びやかな腕を上げている、豆のごとき人の影である。天よりこぼれ落つるように垂れている、その重き雲のさらに下、男はなおも岸へ、腕を引きちぎらんばかりに手を振っている。
波が寄せては、黄に濁るにも似た砂色に吸い込まれ、浜先にすっくと立つは幾本か束ねて群れる小松原である。傍には玉の肌を曝す女がいる。肌の色が右の袖からちらりと見えた。女はなよやかな仕草で手を上げていたのだ。二度三度と振りながら、男の帰りを待ちわびている。一寸の間さえ、千年にも万年にも思い、女の心は千千に乱れている。胸元を抑えて、女は苦しげな息を漏らす。美々しい衣は女の涙にずんと重くなる。
男は曖昧模糊たる水上で夢幻のごとく消え失せた。
なおも立ち尽くした女が気をもちえたのはここまでのこと。風に舞う布のようについにひたりと地に落ちた。
ああ、この女は後に何となったのか。それを知る者は何処にもいないのであった。




