猫の恋
サークルの忘年会。宴もたけなわといった趣で、全員酔っぱらって騒がしくなってきた。しんみりと酒を呑みたかったが、酒を呑もうにもこんなにやかましかったら興が削がれる。俺はそっと抜け出し、外へ出た。
喫煙室に入った俺は、そこに置いてあるベンチに腰掛け、煙草に火を点ける。吐き出した煙は、天井に吸い込まれて消えていった。
「おじさん臭いですね、先輩」
声を掛けられ、目をそちらに向ける。扉の所に、文学部の後輩が立っていて、俺を見ていた。
「君は煙草を吸わないはずだろう?」
「吸わなければ来ちゃ駄目ですか?」
「そういう訳ではないがね」
なんとなく居心地が悪い。彼女はそんな俺を無視して、俺の横に座った。
「しみじみとした会話がしたくなりまして。私も抜け出してきました」
「そうかね」
俺は会話も気乗りしないので、ただひたすらに煙草をふかす。
「先輩」
「……どうした」
「先輩は私のことが嫌いなんですよね」
「……さあ、どうかな」
驚いた。まさかこんな風に察されるとは思わなかった。けれど、色に出すのも癪なので、俺は平静を保った。
二歳年下の後輩。俺はこの後輩が怖い。嫌いではない。ただただ、怖いのだ。
花のような存在。笑えばどんな男でも蕩ける彼女は、ただ容姿が優れているだけではない。彼女は優秀な人間だ。頭も良く、知識もある。しかし、それ以上に俺は、この傑物の、他人の心の底まで見通すような眼力を恐れていた。
「別に構いませんよ。私は先輩が好きですから」
「ふぅん。そうかね」
「冷めてますね。これでも私、いま告白をしているんですよ」
「……なにを言っているんだ?」
俺は訝しげに彼女を見つめる。すると彼女は、「やっとこっちを見てくれた」と呟くと、小さく微笑んだ。
「出会った頃から好きでした。私と付き合ってくれませんか?」
「意外と似た者同士なんですよ。私たち」
「そうかね。私はそうは思わないがね」
「分かりませんか?自信家で、嫉妬深く、他人の失敗はもとより自分の失敗も吐き気を覚えるくらいに嫌い。他人には、自分の素顔を見せようとはしない。ね、似てるでしょう」
間違いじゃない。俺はそんな人間だ。しかしまあ、よく知ってるものだ。
「分からんな。君はなにが言いたいんだ?」
「先輩は、ミュッセを知っていますか?フランスの劇作家です」
「知らないね。残念ながら」
「彼が書いた作品に、『戯れに恋はすまじ』という戯曲があるんです。その戯曲の中には、こんな台詞があります。『同じ悪徳と同じ煩悩とを持った二人の男が偶然に出会うようなことがあると、必ず大の仲良しになるか、さもなければ仇同士のようになる』。私と先輩には男女の違いがありますが、これに似たものがあるんじゃないでしょうか」
彼女は俺の顔を見つめつつそう言う。まったくもって似てない顔だ。俺は彼女のように美しくはない。俺は彼女のように響く声を持っていない。おそらく彼女は、そういうことを言っているのではないのだろう。しかし、俺は小さな反抗をしなければならなかった。
「そうだね。私と君、まったくの仇同士だ。君は剣を片手に闘うヒロインで、私は私利私欲を貪る悪の親玉だ。ビジュアルを見ればそうなる」
「けど、おかしいですね。ヒロインと悪の親玉のラブストーリーこそを私は望んでいるんです」
「馬鹿げているね」
「世界は広いんですから、一つくらい馬鹿げた話があっても構わないじゃないですか?」
「私は君が嫌いだ」
「私は先輩が好きです」
「愛は概念だ。すがるのは下らない」
「そうですね。すがるのは貴方にだけです」
「もっと顔のいい男に恋しなさい」
「その言葉を先輩に。ざっと見回しても、私以上の人間はいませんよ?」
「もういい。十分だ。君のような頭のよい人間と話すのは嫌いだ」
ふと気がつけば、手にしていた煙草はフィルターを焦がすまで短くなっていた。俺は灰皿に煙草を押し付ける。
「つまるところ、君は何が言いたいんだ?」
「そうですねぇ。『私の容姿と貴方の頭脳を持った子供を作りたいとは思いませんか?』」
「バーナード・ショーか。なら、返事も分かるだろう?『私の容姿と貴女の頭脳を持った子供が出来たらどうするんだい?』」
「大丈夫です。私、頭はいいですから。貴方の頭脳と私の頭脳。組み合わせれば、なんだって出来るでしょうね」
降参だ。ここまで追い込まれたら勝ち目がない。俺は呆れて首を振る。
「どうぞ。私の敗けだ。捕虜になろう。好きにしてくれ」
彼女は微笑んで、俺の手を握った。彼女の手は燃えるように熱く、冷えた俺の手を融かしていくようだった。
「好きです。先輩は私のことが嫌いでしょうが、これから好きにさせてみせます。どうか私に溺れてください」
「まるで詩人だ」
「伊達や酔狂で二年間片思いはしてませんからね。詩人にもなりますよ」
「君に溺れることはないかも知れない」
「いいです。溺れさせます。知ってますか、私は欲しいものを逃したことはないんですよ」
彼女は俺に微笑みかける。これだ。この笑顔がいけない。この笑顔を前にすると、柄にもなく心が動く。俺は、街灯に誘われる蛾なのかもしれない。絶対に言ってやらないがね。
「いつまでそうしているんだ?そろそろ手を放してくれないか?」
「駄目です。少なくとも、このまま戻りましょう。もう私のものになったんですから、皆に見せびらかさなきゃ」
唾をつけるというのだろうか。そんなものいらないだろうに。呆れたまま、動きだすのも億劫で、俺は手を握られたまま動かないでいる。
そっと指が絡み付く。俺も、ゆっくりと指を絡ませる。指から彼女が震えたのが分かった。
なかなかに、良いかもしれない。馬鹿にしていたが、甘美じゃないか。もしかしたら、俺はのぼせているのかもしれない。だが、それも面白い。
俺は彼女の横に並ぶ自分の姿を思い浮かべる。似た者同士、意外とお似合いなのかもしれない。
あまのじゃくで、敏感で、弱々しい二人。俺達はまるで猫だ。
思いの外、ゴールは近いのかもしれない。けれど、今くらいはゆっくりしよう。
俺達は二人手を握りあったまま、遠くに喧騒を聞きながら、ひっそりと夜を過ごしていった。