婚約破棄された私を慰めてくれた公爵様も、失恋したばかりでした
「エマ、君との婚約を破棄したい」
ロドルフ様は、私が差し出した杯を受け取らずにおっしゃった。
伯母の屋敷で催された初夏の夜会には、私たちの結婚式に来てくださる方も大勢いらしていた。その人たちが、次々にこちらを向く。私は行き場のなくなった杯を両手で持ち直した。
「ミレーヌ嬢を愛している。君も気づいていただろう?」
先ほどから彼のそばを離れなかった令嬢が、困ったように目を伏せた。けれどロドルフ様に手を差し出されると、ためらわずにその腕へ手を添えた。
来月には私の夫になるはずだった人。その隣が私の場所でなくなるまで、ほんの一呼吸しかかからなかった。
「……気づいておりませんでした」
近頃お忙しいのだと思っていた。手紙の返事が短くても、約束の日に来てくださらなくても、結婚したら一緒にいられるからと自分を納得させた。
いいえ、一度だけ寂しいと訴えたことがある。泣いて困らせないでくれと言われてから、言わなくなっただけだ。
「君には悪いと思っている。しかし君といても、私には君の気持ちが分からない。今だってそんな顔をして。ミレーヌはもっと素直に甘えてくれるんだ」
そんな顔、と言われて、私はようやく頬に力が入っていることに気づいた。
泣いてはいけない。人前で婚約者に恥をかかせてはいけない。そう思って、口元だけは笑う形に保っていた。三年間かけて覚えたことは、もう必要がないらしい。
「婚約の解消は、父にもお伝えくださいませ。私からも話します」
それだけ言うのに、ひどく時間がかかった。
ロドルフ様はほっとなさったようだった。給仕を呼んで私の杯を引き取らせると、空いた手にご自分の手を重ねようとされた。
「ありがとう。分かってくれると思っていた。皆にも、二人で話し合って決めたことだと説明してくれないか。君が私たちを祝福してくれれば、余計な噂も立たずに済む」
伸びてきた手を、私は避けた。
彼の指が空中で止まるのを見て、初めて少し怒ることができた。
「それは、お断りします」
「エマ?」
「私が今知ったことを、二人で決めたことにはできません。お祝いも、申し上げられません」
喉の奥が痛い。ここで息を吸いすぎたら、声が裏返ってしまう。けれど、どうして私が祝わなくてはならないのだろう。
昨夜まで、新居の窓辺に置く花のことを考えていた。あの家の東向きの部屋なら、朝は明るいだろうと。それを全部なくした人のために、私は笑顔まで差し出さなければならないのか。
「彼女を気まずくさせたいのか? 君らしくない」
「今夜は、私も気まずい思いをしております」
私の返事に、近くのご婦人が扇を閉じた。ロドルフ様は初めて周囲をご覧になり、唇を動かしかけて黙った。
そこへ伯母のオデットが来て、私の肩を抱いてくれた。
「クレール家への連絡はこちらでいたします。エマ、もう行きましょう」
「お待ちください、伯爵夫人。私はただ、互いに後腐れなく――」
「彼女に後始末まで頼むのは、やめた方がいい」
落ち着いた男の声だった。
アルヴェール公爵が、伯母の隣に立っていらした。二十七歳で公爵家を率いる方で、伯母の家の集まりでも、私は何度かご挨拶したことがある。いつも人の話をよく聞く、穏やかな方という印象だった。
「招かれた席で騒ぎを起こしたお詫びなら、君自身がすればいい。ベルシエ嬢の言葉を借りずに」
ロドルフ様の顔が赤くなった。すぐに何か言い返そうとされたけれど、公爵は私に向き直ってしまわれた。
「馬車を呼びましょうか」
「……はい。お願いします」
答えられたことに、まずほっとした。
伯母は私を庭へ出る扉まで連れていくと、迎えの馬車の手配と、屋敷の中にいる私の両親への説明を引き受けてくれた。近くには伯母の侍女もいる。もう一人でロドルフ様のお相手をしなくてよいのだと思うと、足から力が抜けた。
庭の石のベンチに腰を下ろして、ようやく私は息を吐いた。窓から洩れる明かりの中に、白いハンカチが差し出される。
公爵が、少し離れて立っていらした。
「泣いても、誰も困りませんよ」
どうしてそんなことをおっしゃるのだろう。
さっきまでは我慢できたのに、白い布を受け取った途端に涙が落ちた。あわてて顔へ当てると、次々に染みが広がっていった。
「申し訳、ありません。お借りしてしまって」
「そのためにお渡ししました」
「分かっているんです。あんなことをおっしゃる方と、結婚しなくてよかったと。きっと、皆そう言ってくださると思います。でも私、まだ……」
好きだった。
初めて会った日、緊張して転びかけた私を支えてくれた。翌日届いた手紙には、足を痛めていないかと書いてあった。あの手紙を嬉しくて何度も読んだ私まで、今夜ひどく愚かになってしまった気がする。
ずっと隣で暮らせると、本気で思っていたのだ。
「好きだったんです。明日になったら、もう平気になるでしょうか」
公爵はすぐには答えなかった。
慰めようがないことを聞いてしまった。そう思って顔を上げると、彼はベンチの端を見つめていた。口元だけが、少し歪んでいた。
「明日は……まだ、つらいかもしれません」
その声があまりに苦しそうで、私は自分の涙を拭くのを忘れた。
「私も、一週間前に婚約を解消したところなんです」
「公爵様が?」
「ええ。ほかに好きな人ができたと。せめてもう一度考えてほしいと頼んでしまって、彼女を泣かせました」
公爵の婚約者だった方は、セシルというお名前だった。仲睦まじいお二人だと聞いていたから、驚いた。
でも、それ以上に驚いたのは、彼の頬を涙が伝ったことだった。ご本人も意外だったらしく、手で拭こうとして、私の持つハンカチをご覧になった。
「失礼。慰めに来ておいて、これは……」
「ここ、空いております」
私はベンチの上で少し横へ寄った。
公爵が座るのを待って、手提げ袋から予備のハンカチを出す。母に二枚持つよう言われたときは要らないと思ったけれど、今夜は母が正しかった。
「まだ使っておりません。どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取った彼が、白地の隅を見て一度だけ瞬きをした。
「……兎ですか」
「猫です。刺繍は、まだ練習中でして」
耳を短くしたかったのに、糸を足すほど長くなってしまった猫だった。公爵は布へ顔を伏せた。肩が揺れたので、笑ったのかと思った。
そのあとで、小さく息が詰まる音がした。
私は聞こえないふりをして、彼の隣に座っていた。廊下にいる侍女が気遣わしそうにこちらを見たので、小さく頷く。急いで誰かを呼ぶ必要はないと思った。
こんなふうに声を抑えて泣くのは、きっと私たち二人とも、今夜が初めてではない。
「結婚したら、犬を飼おうと約束していたんです」
しばらくして公爵がおっしゃった。
「私は大型犬が好きで、彼女は小さい犬が好きで。二匹飼えばいいと、そんな話をしていた。今日、街で犬を見かけて、彼女に教えようと思ってしまいました」
それが、痛いほど分かった。
私も明日、きっと新居のカーテンの見本を開く。先週頼んだ布が届いたら、あの人に見せようと思ってしまうだろう。
「どちらの犬を見かけたんですか」
「大きい方でした。パン屋の前で、飼い主を待っていました」
彼はその犬の姿を思い返すように、庭へ目を向けた。つらいだけの話ならやめた方がいいのかもしれない。でも、途中で終わらせたくなかった。
「お利口な犬ですね」
「ええ。……お利口でした」
彼の手の中で、下手な猫がくしゃりと潰れた。
私には、公爵様を立ち直らせるようなことは何も言えなかった。ただ犬の話の続きを聞き、途中で彼が黙ってしまっても、席を立たずにいた。
迎えに来た伯母は、二人分の濡れたハンカチを見た。それから公爵のお名前を一度だけ呼び、何も尋ねずに温かいお茶を持ってくるよう侍女へ頼んだ。
帰りの馬車に乗るころには、顔が熱くて、目も腫れていた。それでも、ひどい顔をしているのは私だけではないのだと思うと、少し息がしやすかった。
* * *
三日後、私は伯母と一緒にアルヴェール公爵のお屋敷を訪ねた。
洗って返すだけなら使いを出せばよいのに、と母は言った。分かっていたけれど、私は自分でお礼を申し上げたかった。それから、あの方が食事を召し上がれているか、少し気になっていた。
公爵は客間で待っていてくださった。私が白いハンカチを差し出すと、彼からも薄紙に包んだものを渡された。
中には、洗われて平たくなった猫がいた。
「たいへんお世話になりました」
「こちらこそ。猫もお役に立てて、喜んでいると思います」
公爵が笑った。あの夜と違って、今度は本当に笑っている。
それを見たら、ここへ来てよかったと思った。
お茶にはレモンのタルトが添えられていた。私は一口食べて、思わず頬を緩めた。甘いだけでなく、ちゃんと酸っぱい。
「お気に召しましたか」
「はい。レモンのお菓子が好きなんです。もっと酸っぱくてもよいくらい」
「それ以上ですか」
公爵は自分の皿をご覧になった。すでに半分召し上がっていたのに、次の一口を前に少しためらっていらっしゃる。
伯母が気づいて、卓上の別の皿をそちらへ押した。
「あなたは昔から甘党だったわね。無理をしないで、こちらをどうぞ」
「無理をしていたわけでは……少し、しました」
私は笑ってしまった。公爵も困ったように笑い、クリームの入った小さなお菓子を取った。
その顔を見ているうちに、私も自分の皿の残りを食べられた。誰かの好きな味に合わせなくても、同じ卓を囲むことはできるのだった。
「ベルシエ嬢は、何をして過ごすのがお好きですか」
尋ねられて、私は少し考えた。
答えられないほど趣味がないわけではない。けれどお芝居が好きだと言ったとき、ロドルフ様には、よくあんな作り話で泣けるものだと笑われた。それからは、彼の前で芝居の話をしなくなった。
「観劇が、好きです。とくに役者さんの表情がよく見える、小さな劇場が」
「私も好きですよ。東通りの劇場にはよく足を運びます」
私がいつも行くのも、その劇場だった。重たい幕が開く前の、ざわめきに満ちた客席を思い出すと、話したいことが一度に浮かんだ。
「あそこでしたら、先月の喜劇をご覧になりました? 兄の帽子を勝手に借りたせいで、弟が花婿と間違われるお話です」
「見ました。あの帽子は、そもそも誰のものだったのでしょうね」
「私は、庭師のものだと思っています」
公爵は真剣な顔で聞いてくださった。
私が、第一幕で庭師がずっと頭を気にしていたと説明すると、彼は身を乗り出した。伯母もご覧になっていたので、三人で結末を思い返すうち、すっかりお茶が冷めてしまった。
帰り際、公爵は新しい演目が始まると教えてくださった。
「よろしければ、ご一緒しませんか。オデット夫人にも来ていただいて」
「ぜひ」
返事が早すぎたかもしれない。でも、言い直そうとは思わなかった。
次にお会いするとき、あの帽子の話をまたできる。馬車の中で思い出し笑いをした私を見て、伯母は何も言わず、膝の上の手を一度撫でてくれた。
それから二週間のうちに、私たちは二度お芝居を見て、一度公爵家でお茶をいただいた。
劇場では、笑ったところが違うと終わってから話が弾んだ。彼は脇役の老人を気に入っていて、私は舞台の端で怒り続けている女中が好きだった。お互いが見逃していた仕草を教え合うと、同じ芝居をもう一度見たくなった。
公爵が、ご自分をレオンと呼んでほしいとおっしゃったのは、二度目の観劇の帰りだった。
「役者の名前より、私の名前の方が呼びにくそうですね」
「まだ、慣れなくて。……レオン様」
「はい、エマ」
彼は一度私の名を呼ぶと、嬉しそうに笑った。
伯母が先に馬車へ乗り込んだので、私は差し出された彼の手に手を重ねた。手袋越しなのに、いつもより温かい気がした。
* * *
ただ、よい日ばかりではなかった。
三度目にお屋敷へ伺った日、お茶の途中で、執事がレオン様へ小さな包みを渡した。届け主の名を耳元で告げられた途端、彼の笑顔が消えた。
「申し訳ありません。少しだけ」
彼は席を外した。伯母がお茶を注ぎ足してくれる間、私は扉ばかり見ていた。
しばらくして戻ったレオン様は、何か話そうとして、卓の手前で立ち止まった。
「今日は、あまりよい話し相手になれそうにありません」
声を聞いて、庭のベンチを思い出した。
伯母は私たちを見比べると、客間続きの書斎へ、借りる本を選びに行った。開けたままの扉の向こうで、案内する執事と話す声がする。
「お一人の方がよければ、今日は帰ります。でも、ご一緒にいてもよいのでしたら」
帰ってもよいと申し上げながら、私は、どうかここへ座ってほしいと思っていた。
レオン様はようやく椅子に腰を下ろした。
「いてくださると、ありがたいです。今は、一人になりたくない」
彼が卓に置いたのは、包みから出した小箱だった。開いた蓋の内側に、小さな花の形のブローチが見える。石の色も、細工も美しい。私が知っている品ではなかった。
「セシルへ、去年の誕生日に贈ったものです。使わないまま持っているのも申し訳ないからと、返してくれました」
レオン様は指先で蓋を閉じた。それでもしばらく、その上から手をどけなかった。
「今日、届くとは知らなくて。もう平気だと思っていたんですが」
「私も、昨日は母と笑っていたのに、夜になると思い出しました」
彼が私を見たので、続けて話した。
ロドルフ様から初めてもらった手紙を、まだ捨てられずにいる。今夜こそ処分しようと思って引き出しを開けても、三年前の私が、あまりにも嬉しそうで。
「でも最近、お芝居の話をする間は、あの方のことを考えていないんです。レオン様がどこで笑われるのか、そちらの方が気になります」
レオン様の指が、箱の蓋から離れた。
私も思いがけず打ち明けすぎた気がして、膝の上で両手を重ねた。
「私もです。先日は、エマが女中の台詞を真似なさったのが面白くて、帰ってからも思い出していました」
「声を張りすぎましたでしょう」
「ええ。御者にも聞こえていました」
少しだけ笑えた。
そのあとで彼が、選んだブローチを喜んでもらえた日の話をした。私は途中で励まそうとせずに聞いた。ときどき言葉が途切れ、そのたびに、まだ話の続きがあることが分かったから。
話し終えたレオン様は、箱を脇の小卓へ移した。それから少しためらって、あのお芝居の女中をもう一度真似てほしいと頼んだ。
私は扉の向こうを覗いてから、女中そっくりに片手を腰へ当てた。
「奥様に見つかりたくないのでしたら、奥様のお部屋に隠れないでくださいませ!」
レオン様が噴き出すと、書斎にいた伯母まで笑った。思ったより声が大きくなってしまったけれど、彼が笑いながら目元を拭くのを見たら、今はそれでよかった。
帰り際、彼は玄関まで送ってくださった。いつもの礼儀正しいお辞儀の途中で顔を上げ、私を呼び止める。
「エマ。今日は、来てくれてありがとう」
普段より飾りのない声だった。
私は、彼の頬に疲れが残っているのを見た。今すぐ全部なくして差し上げられたらと願って、でも、そんなことはできないとも分かっていた。
「次も来ます。お誘いいただけると、嬉しいです」
そう答えたのは、慰めが必要だと思ったからだけではない。
彼の家に来る前は、何を話そうか考えるようになった。帰るときには、もっと一緒にいたかったと思う。今日だって、役に立てたから嬉しいのと、別れるのが寂しいのは、別々の気持ちだった。
レオン様はすぐに次の約束を尋ねてくれた。
伯母の予定も確かめながら日を決める間、私はずっと、顔が熱かった。
* * *
破談からひと月ほどたったころ、ロドルフ様が、私に直接謝りたいと申し入れてきた。
父は手紙で済ませてかまわないと言ってくれた。けれど私は伯母に立ち会ってもらい、一度だけお会いすることにした。あの夜に言えなかったことを、今なら自分で伝えられると思ったからだ。
伯母の客間に現れたロドルフ様は、花束を抱えていた。以前にも何度かいただいた、淡い桃色の薔薇だった。
私はその花を見ても、昔のようには嬉しくならなかった。それが少し悲しくて、同時に、ようやくここまで来たのだと思った。
「ひどい別れ方になった。申し訳ないと思っている」
向かいの椅子に座ると、彼は花束を卓へ置いた。
「母にも厳しく言われた。ミレーヌとの交際まで、歓迎されなくなってしまって。君に悪いことをしたという話ばかりなんだ」
「私に悪いことをなさったのは、事実です」
「それは認める。だから謝りに来た。君からも、もう気にしていないと一言言ってもらえれば」
伯母の手が、椅子の肘掛けを握った。
私は伯母を見て、大丈夫ですと頷いた。今度は自分で返事をしたかった。
「ロドルフ様。私は、気にしております。人前で婚約を破棄されたことも、平気なふりをしてお祝いするよう求められたことも、つらかったです」
「まだ、そんなに怒っているのか」
「怒っていますし、悲しかったです。ずっと好きでしたから」
彼の顔つきが変わった。椅子から少し身を乗り出し、卓の花束を私の方へ押してくる。
「ならば、もう一度やり直す余地もあるだろう。私もあれから考えたんだ。長く一緒にいたせいで、お互いに――」
「ございません」
彼は花束に触れたまま、私を見た。
その顔に浮かんだ戸惑いを見て、私はようやく分かった。好きだったと言えば、それだけでまた隣へ戻ると思われているのだ。
「あなたが寂しい思いをなさるのは嫌でした。嫌われたくなくて、言えなかったこともたくさんあります。でも、あなたは私を傷つけるとき、その後の私がどうなるか、お考えにならなかった」
「そこまで責めなくても」
「責める言葉を聞くのがお嫌でも、今度は最後まで聞いてください。私はあなたと結婚しません。ミレーヌ様との間で困ったことがあっても、私へ戻ってこないでください」
ロドルフ様は、花束から手を離した。
しばらく黙っていたので、伝わったのかと思った。けれどやがて、彼は低い声で言った。
「アルヴェール公爵のことを聞いている。君は立ち直りが早いんだな」
胸の奥が、かっと熱くなった。
あの庭で、レオン様は私の話を聞いてくださった。少しもきれいでない泣き方をしても、面倒だとはおっしゃらなかった。そのあとも、何度も会いたいと思える時間を一緒に過ごした。
その一つずつを、この人への当てつけのように扱われたくなかった。
「おかげさまで、また人を好きになれました」
私は薔薇を受け取らずに立った。
「その方とお会いしている時間に、あなたのことばかり考えていると思わないでください」
ロドルフ様も立ちかけた。けれど伯母が先に呼び鈴を鳴らすと、扉の外に控えていた侍女が入ってきた。
「お話は終わりました。贈り物はお持ち帰りください。今後の連絡は、ベルシエ家の当主へお願いします」
伯母の言葉に、ロドルフ様は私を見た。以前なら、彼が困らないように何か取りなしたと思う。
私は何も言わなかった。彼が花束を持ち直すのを待ち、伯母と一緒に見送った。
扉が閉まってから、伯母は私の手を握った。
「よくお話しできたわね」
「……はい」
少し震えた返事になった。
けれど、その晩、初めてもらった手紙を処分するときには、もう開いて読み返さなかった。
* * *
五日後、約束していた観劇に出かけた。
レオン様はいつも通り、私の話を聞いてくださった。劇場で買える砂糖菓子を勧めて、私が甘すぎると言うと、自分が食べるのを楽しみにしていたと白状した。
面会のことは、前もって彼にもお話ししていた。だから、芝居が始まるまで何度か言いかけてやめるのを見ると、何をお尋ねになりたいのかは、だいたい分かった。
終演後、伯母が知り合いのご婦人と話している間、私たちは玄関広間の端で待った。人が途切れると、レオン様が尋ねた。
「ロドルフ殿とは、お話が済んだのですね」
「はい。もうお会いしません」
彼の肩から少し力が抜けた。
それを見て、もしやと思った。けれど、都合よく思い込んで間違っていたら怖い。私もずっと、同じところで言葉をためらっていた。
「レオン様は、私が元の婚約へ戻るとお思いでしたか」
「戻ってほしくないとは、思っていました」
はっきりした答えだった。
私の手を取ろうとはせず、彼は続けた。
「あなたが誰を選ぶかは、あなたが決めることです。それでも、もう私に会いに来てくれなくなったらと思うと、怖かった」
舞台の上ではなく、目の前にいるこの人が、私のためにそんな顔をする。
嬉しかった。失ったものを話し合えるからだけでなく、私と会いたいと思ってくれていたことが、たまらなく嬉しかった。
「私もです。いつかお元気になったら、もう誘っていただけないかもしれないと思っていました」
「エマ、私は――」
「でも、それでは困るんです」
途中で遮ってしまった。きちんと謝るより先に、言葉が続いた。
「お元気な日もお会いしたいです。くだらないお話をして、お芝居を見て、レオン様が甘いお菓子を選ぶところを見たい。帰りたくないと思うのは、寂しいからだけではなくて……あなたが好きだからです」
レオン様は私を見つめたまま、しばらく何もおっしゃらなかった。
言ってしまった。そう思うと急に怖くなったけれど、今度は笑って取り繕わなかった。目を逸らさずに、彼の返事を待った。
「私も、あなたが好きです」
彼の声が、少し掠れた。
「あなたと会う約束がある日は、朝から落ち着かない。読んだ本も、街で見た面白いことも、次に会ったとき話そうと思う。あなたが楽しそうに話してくれると、終わらなければいいのにと思っています」
私はもう、頷くことしかできなかった。
次に会う日まで話を覚えておくのは、私も同じだった。帰り道に言い忘れたことを思い出して、早く次のお誘いが来ないかと待っていた。
「恋人として、これからもお会いしたい。そう願っていいでしょうか」
「はい。私も、それをお願いしたかったんです」
差し出された手を取ると、強く握り返された。
彼がほっとしたように目を細めた。その目に涙が浮かんだので、私はあわてて手提げ袋を開けようとしたけれど、片手がつながれたままでうまくいかない。
「離してくださらないと、ハンカチが出せません」
「すみません。少し待ってください」
待っているうちに、私まで泣いてしまった。
結局、伯母が戻ってくるまで二人とも手を離せなかった。伯母は私たちを見て足を止め、それからご自分のハンカチを取り出した。
「今度は、お祝いしてよろしいのかしら」
私たちは一緒に、はいと答えた。
* * *
夏が終わるころ、レオン様から求婚された。
お返事をすると、彼は私を抱きしめた。どちらからともなく結婚式の話を始め、その日のうちに両親へ会いに行った。
婚約をお披露目する日、私は自分で選んだ、鮮やかな青のドレスを着た。
伯母の屋敷へ着くと、レオン様が馬車の扉の前で待っていてくださった。手を借りて降りると、彼はすぐに褒めてくれた。
「よく似合っています。エマに会うのを、一日待っていました」
「私もです。朝から三度、時計を見に階段を下りました」
「私は六度ですから、今日は私の勝ちですね」
そんなことで競うのがおかしくて、声を出して笑った。
彼は私の手を腕に添えさせると、広間へ入る前に少し屈んだ。頬に落ちた短い口づけに、私が思わず彼の袖をつかむと、嬉しそうにもう一度名前を呼んでくれる。
返事をしてから、私は顔を上げた。
今夜はこの人と結婚することが嬉しいと、皆に、自分の言葉で伝えたかった。




