憧憬
あの子の顔、可愛いな。
始めは小さな憧れだった。
街ですれ違った女の顔。電車の中、自分の前に座る女。
私は何であの顔じゃないんだろ。なんであの子は持っているのに私には無いんだろ。
――可愛くない。
鏡を見るたび、同じことを思う。そこに映っているのは、見慣れた顔。
何年も付き合ってきたはずの、自分の顔。
可愛くない。
少なくとも、私が思う「可愛い」ではない。
写真を撮るともっとはっきり分かる。目の位置。輪郭。
どれだけ頑張ってメイクをしても光の当たり方ひとつで、すぐに崩れるバランス。
私だって始めは、工夫をした。
髪型を変えてみる。メイクを研究する。動画を見て、真似をする。
誰かに見せたいわけじゃない。褒められたいわけでもない。
ただ、鏡の中の私が、少しでも可愛く見えれば、それでよかった。
その一心でしばらく続けて行くと、今日の私は、昨日よりはマシ。
そう思える瞬間がたまにあった。
自撮り一枚、鏡に映った刹那の時間。
その数秒のために、丸々一日を使う価値はあった。
可愛くなりたい。
それは、恥ずかしいことじゃない。
私は、そう信じていた。
だから、この感情が憧れなんて綺麗な言葉で呼べるものじゃなくて、もっと濁った、重たいものだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
私がやっと可愛くなれる頃、日はもう暮れている。
でも、SNSの中では、私より可愛い子が、明るい時間を生きている。
……ああ、やっぱり。これは憎しみだ。
胸の奥から湧き上がる黒い感情。それを誤魔化す様に私はその写真にそっとイイネを付ける。
私は、その憎しみを誰かにぶつける事はしない。
だから、全部、顔に向けた。
直せばいい。
整えればいい。
足りないなら、足せばいい。
可愛くなれない理由があるのなら、それを一つずつ、消していけばいいだけだ。
誰にも見せない顔を、誰にも評価されないまま、
私は今日も、少しだけ良くしていく。
――まだ、大丈夫。
私は、まだ、可愛くなれる。
そうして私はついに整形に手を出した。
前から思っていたんだ。いっそこの顔の根本を変えてしまえば全部楽になれるって。
最初の施術はとても緊張したのを覚えている。今思えば簡単な二重手術。それでも生まれた顔を変える行為にちょっとの罪悪感と術後の期待感でいっぱいだった。
ダウンタイムが終わり、鏡を見たとき私は息を呑んだ。
気付かない人は本当に気付かないだろう小さな変化。でも私にとってはとても大きな変化。
もしかしたら人前に出ても恥ずかしくないのかも……。そう思えるようになった。
顔も変わったけど、心まで変わった。
それを裏付けるように鏡を見る回数が、少し増えた。前よりも、ずっと長く。
前は嫌だった。見るたびに、減点されていく気がして。
でも今は違う。探している。
どこが、良くなったのか。どこが、まだ足りないのか。
変わったのは、ほんの一部。
だからこそ、他が気になって仕方がない。
目が少し良くなると、鼻が気になった。鼻を意識すると、輪郭がぼんやりして見えた。
全部を一度に見ることは、もう出来なかった。
細かな、直せそうな箇所を、見つけてしまう。
私は写真を撮った。前よりもたくさん。
消す写真も増えた。前よりももっとたくさん。
残った写真は加工をする。最初は軽く。
ほんの少し、理想に近づけるだけ。
……でも、加工をすればするだけ現実を見つめてしまう。
SNSを開くと、同じ施術を受けた人が流れてくる。
ビフォー。アフター。
笑顔。
私より、うまくいっている人たち。条件は、同じはずなのに。
だったら、次だ。
そう思うのは、自然なことだった。
だって、もう変われると知ってしまった。しかもそれは、努力じゃなくて、簡単な決断一つだった。
痛みは、一時的。お金は、後でなんとかなる。
失うものなんてもう無い。
私は、自分を壊したいわけじゃない。ただ整えたいだけ。
前より良くなるなら、それは間違いじゃない。
そうやって私は、次のカウンセリングの予約を入れた。
――まだ、大丈夫。
これは、必要なことだから。
そうして私の顔の殆どに手が加わった頃、私はイイネをされる側になっていた。
「どこでやったんですか?」
「私も整形したいんですけど勇気が無くて……」
そんなコメントまで来るようになった。
その全てが私を満たした。
それから少しして、私に彼氏が出来た。
出会いはほんの些細な物だった。友達に誘われた合コン。そこに彼は居た。
どの男も可愛いって言う中で彼は一度も可愛いとは言わなかった。いや、言えなかった。
彼は私たちの顔が見たくても見えなかった。
それでも彼はとても前向きで明るくて、話せばこちらまで明るくなれるような、そんな人。
最初は、楽だったから話していた。見られていないなら、評価もされない。
可愛いも、可愛くないも、そこには無い。
なのに、不思議だった。彼は、私をちゃんと見ていた。
声の調子が違うこと。言葉を選ぶ前の、短い沈黙。笑う前の、息の吸い方。
「今日は、少し無理してる?」
そんなことを言われるたび、顔を整えるより、ずっと深いところを触られている気がした。
彼は、私を褒めなかった。外見の話を、一度もしなかった。
それなのに、私は彼の前でだけ、写真を撮らなくなった。
鏡を見る時間も、減っていった。
でも彼と話せば話すほど私は怖くなった。
私の顔は所詮偽り。それはいずれ目が見えない彼も知る。その時彼がどんな顔をするのか、それを考えると心の底から震えあがる。今まで黙っていたことを怒るだろうか、それとも盲目をいいことに騙したことを怒るだろうか。自分から言い出す勇気は私には無い。
僕の彼女は自分の外見に酷くコンプレックスを抱いていた。
でも彼女は、自分の心がどれだけ綺麗かを知らない。
誰かを羨ましがる時も、憎しみを抱いた時も、それを誰かに向けることは無く、全部自分の中で処理をしようとする。
そのやり方が、どれだけ不器用で、どれだけ優しいかを、彼女は知らない。
だから僕は、見えないふりをしている。
全く見えない訳ではない。本当は、少しだけ見える。
輪郭も、色も、曖昧だけれど、人の表情くらいなら、分かる。
彼女が笑うとき、僕の前で安心したとき、そして、誰かに顔を見られほんの少し怯える時も。
それでも、僕は触れない。
顔の話をしない。外見を評価しない。彼女が最も大切にして、同時に最も壊れやすい場所に、近づかないようにしている。
全盲だと思われている方が、彼女は楽だ。
そう思っている。
「見られていない」という安心の中で、彼女はやっと、言葉を落とす。
過去のこと。
自分を嫌いだった時間。
それでも、前に進もうとした話。
その話を聞く度、彼女の真の魅力は顔とは無関係なところにあると確信する。
僕は、彼女の心が好きだ。人の本質はそこにある。
見えないふりをすると人は露骨に態度を変える。まるで僕が何も出来ないお人形かのように過剰に気を遣ったり、あえて気を遣っていない態度を取って気丈に振舞ってみたり。
彼女もまた、いつもの怯えた顔ではなく自然に話してくれる。
だから、見えないふりをする。
――けれど。
分かっている。これは僕と彼女にとって最も都合のいい嘘だけど、間違っている。
見えていることより、見えないふりをしていることの方がずっと残酷だ。
彼女は「見られない」から、ここにいる。
もし、僕が見えていると知ったら。
彼女は、またあの顔に戻る。
それでも、嘘の上に積み重ねた安心はいつか必ず崩れる。
優しさの形をした逃げだと、自分でも分かっている。
だから、迷っている。
今、言うべきか。もう少し待つべきか。
彼女の心を守るために彼女に嘘をつくことが、本当に許されるのか。
次に会うとき、彼女の声が、いつもより近く感じたら。
そのときは、全部、話そうと思っている。
見えていること。 それでも、彼女を選んだこと。
そして――見えないふりをしていた理由だけは、誤解されたくないから。
いつもより、彼女の声が近かった。
距離が分かる。 呼吸の音が、はっきり聞こえる。
――今だ。
「……ねえ」
呼びかけると、彼女はすぐ返事をした。
いつも通りの反応。僕の言葉を聞き逃すまいとこちらを見てくる。見えていないと知っている筈なのに。
「君に、話しておきたいことがある」
一拍。彼女は、何も言わない。
「大した話じゃない、って言えたらよかったんだけど……」
「多分、君にとっては……そうじゃない」
自分の声が、やけに静かに聞こえる。
「僕は、全部は見えない」
「でも……全く見えないわけじゃない」
沈黙。
空気が、少し重くなる。
「輪郭と、色と……近くにあるものなら、分かる」
彼女の息が、止まったのが分かった。
「最初から、言うべきだった」
「でも……言えなかった」
慎重に言葉を選ぶ。
間違えたら、全部壊れる。
「君が、どれだけ見られる事に怯えているか、分かったから」
ここで初めて、彼女の体が、ほんの少し強張る。
「でも僕が見ていたものは君の顔じゃなくて君の心。すごく丁寧で、優しいって輪郭が分からなくてもはっきり分かった」
言ってしまった。もう、引き返さない。
「だから、見えないふりをした」
「君が、安心できる場所でいられるなら、それでいいと思った」
しばらく、何も聞こえない。
「……それは」
彼女の声が、少し震える。
「それは、優しさだったと思う?」
答えは、決めていた。
「いいや、優しくない」
はっきり言う。
逃げない。
「見えないふりをしていることで、君を嘘の上に立たせてしまってる」
また、沈黙。
彼女が、何かを考えている。
きっと、顔のことだ。
「それでも」
僕は続ける。
「僕がどんなに嘘をついていても、一緒にいた時間は、全部本当だった」
言葉が、落ちる。
「君が笑った時、怒った時。自分を嫌いだって言った時。僕が感じた君への想いは本物」
最後に、一つだけ。
「……君の全部を知った上で、それでも一緒にいたい」
返事は、すぐには来ない。
でも、彼女は逃げなかった。
それだけで、十分だった。
しばらく、何も言えなかった。
怒っているのか、泣きたいのか、どうしたらこの気持ちが言葉に出来るのか、分からない。
ただ、胸の奥が、ずっと痛い。
「……ひどいね」
自分の声が、思ったより低かった。
「一番、触れられたくないところ。そこだけ、きれいに避けてたんだ」
笑おうとするけど。ダメ。
「優しさだって言われたら、怒る理由、無くなるじゃん」
喉が詰まる。
私は、顔を作るために、どれだけの時間とお金と、覚悟を使ってきたんだろう。
それを、 最初から、見えていたのに。
「私ね」
一度、息を吸う。
「あなたの前にいる自分が、一番、楽だった」
これは、本音だった。
「今の自分が可愛いかどうか、考えなくてよかったから。それが、嘘の上にあったって知って」
声が、震える。
「……すごく、悔しい。でも私自身にもすごく怒ってる。あなたの目が見えない事、都合のいいように使っていたんだ」
自分と、ほんの少し彼に向けた怒りが、やっと形になる。
「でもね。あなたが、私を壊さないようにしてたこと。すごく嬉しい」
その上で。言わなきゃバレない事を彼が打ち明けてくれたのは。きっと本当に私の事を考えてくれたから。
「私が壊れるかもしれないって分かってて、それでも言ってくれた」
少しだけ、笑う。
「……ちょっと卑怯だけど、貴方は誠実だと思う」
涙が、落ちる。拭わない。
「ねえ」
声を、落とす。
「今度は、ちゃんと見て。私が、どんな顔でも」
それから、少しだけ時間が経った。
劇的に何かが変わったわけじゃない。
連絡の頻度も、会う場所も、前とほとんど同じ。
でも、距離は変わった。彼は、私の隣を歩くようになった。以前のように半歩後ろにはもういない。
隣を向くと視線が合う。少し開かれた彼の瞳は綺麗な茶色をしていた。
逃げない。それだけのことが、
こんなにも落ち着かないなんて思わなかった。
鏡を見る回数は減った。ゼロにはならない。
でも、前みたいに、自分の足りない所を探すためじゃない。
今日は、どんな顔をしているか。
それを、確認するだけ。
彼は、相変わらず外見の話をしない。
でも、もう「見えないふり」はしない。
私が表情を変えると、少し顔を近づけて、気づく。
その間が、妙に正直で、少しだけ可笑しい。
「今、怒ってた?」
そう聞かれて、
私はちゃんと、頷いた。
前なら、笑って誤魔化していた。
可愛く見える角度を探していた。
でも今は、違う。
「うん。ちょっとね。いつになったら可愛いって言ってくれるんだろって」
それだけで、済んだ。彼は、何も言わない。
ただ、隣にいる。それで、いいと思えた。
私は、まだ可愛くなりたい。その気持ちは、消えていない。
でも、それだけじゃない。彼にだけしか見せない可愛くも何ともない顔も大事にしてみようと思った。
人に顔を見られるとまだ心は揺れる。
それでも。ここに立っている私を見てくれている彼を信じることにした。
彼との距離は、今日も、ほんのわずか。
でも、その隙間に、嘘は、もう置かれていない。
「可愛いですよ」




