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やっと喧嘩

 焦げた土の匂いが、まだ喉の奥にまとわりついていた。

 智春は血に濡れた口端を指で拭い、そのまま笑みへと変える。


「こっからが本番や」


 肩幅に足を開き、重心を少し落とす。

 拳を握る音が、骨の内側で静かに鳴った。


 トルマンは細めた目の奥で、ぎらついた光を揺らす。それでも口元は、おかしそうに歪んでいた。


「何があったのか知らねぇが……まだやるんだな?」


 智春は息を一度だけ整え、短く頷く。


「ああ、行くで」


 トルマンは両腕を大きく広げ、獣のように吠えた。


「来い! 異物ッ!!」



 智春の足が、土を踏んだ。

 次の瞬間、身体が弾かれたように前へ出る。


 視界から輪郭が薄れる。

 残ったのは、踏み出した足跡だけだった。


(な、はやっ──)


 トルマンの思考が追いつくより早く、智春の右拳が腹に深くめり込む。


「ぐふっ──!」


 押し込まれた息が、濁った声と一緒にこぼれた。トルマンの巨体が後ろへ跳ねる。足が地面を削り、砕けた石と土が線を描いた。


 どうにか踏ん張ろうとして、大地に足を突き立てる。しかし勢いは殺しきれず、膝をついた瞬間、トルマンの口から血が落ちた。


「っ……は……!」


 肩を揺らしながら、トルマンは顔を上げる。


(おかしい……さっきまでと早さも重さも桁が違う……)


 智春は焦る様子もなく、飄々とした顔でそこに立っている。


 彼の周囲へ流れ込もうとした魔力が、触れる前に霧のように薄れて消えていく。空気が、そこだけ違う生き物のように揺らいでいる。


「何を……しやがった……」


 トルマンの問いに、智春は肩をすくめる。


「さぁな。俺もよくわからんねん」


 胸に手を当て、呼吸をひとつ確かめる。

 肺に入る空気が、やけに軽い。


「ただ……最高の気分や」


 目の奥が、どこか楽しげに光った。


(転生者の力か……?だが、そんなことは──)


 考えかけたトルマンは、そこで思考を切り捨てる。肩を回し、首を鳴らした。


「わからねえこと考えても無駄だな」


 智春は片手を前に出し、挑発するように指先を二度曲げた。


「そういうことや。……おら、来いよ」


 その仕草に、トルマンのこめかみが動く。


「調子に乗るなァッ!!!」


 トルマンが地面を爆破して踏み砕き、一直線に突進してくる。さっきまでは、反応できていなかった速度。


 だが智春は一歩、前へ沈むだけだった。

 肩の角度と足の向きだけで、軌道を読み切る。


「見えてるで……」


 すれ違いざま、トルマンの拳が頬をかすめて風を裂く。その一瞬の隙間に、智春の右拳が脇腹へ鋭く突き刺さった。


「ぐっ──!」


 腹の奥を殴られた衝撃に、トルマンの体がまた揺れる。それでも膝だけは決して折らない。

 地面を噛むように踏み締め、獣の根性でその場に踏みとどまる。


「っ、まだだァ!」


 トルマンが吠えるように腕を振り下ろす。

 巨岩を砕く一撃が、智春の頭上を狙って落ちてくる。


 智春は左腕一本を突き上げ、その拳を受け止めた。骨と骨がぶつかる鈍い感触とともに、足元の土が深く沈む。


 かかとが地面にめり込み、踏み締めた場所だけが小さな穴になる。


 沈んだ体勢のまま、智春は右腕をしならせて、そのまま顎めがけて振り上げた。


 拳が、獣の頭蓋を打ち抜くように突き上がる。


 トルマンの首がのけ反り、その巨体が仰向けに倒れ込んだ。

 大地が鈍く揺れ、砂と破片が跳ね上がる。


 智春に折られた角が、白い軌道を描きながら石の上を転がった。




 その光景を、見つめていたブレアは口が開いたまま、声が出ない。

 エリックは拳を強く握りしめ、低く唸る。


「智春くんに……何があったんでしょうか……」


 パットンは力の抜けた笑みを浮かべる。


「ふふ、不思議な子ね」




 土煙の中で、トルマンが上体を起こす。

 肩で荒く息をしながらも、その口元は笑っていた。


「はッ──ハハハハハハ!!」


 腹の底から噴き上がるような笑い声が、焦げた校庭中に響き渡る。血を吐きながら笑っているのに、苦しさの欠片もない。


「……久しぶりだな」


 折れた角の隙間から血を垂らしながら、それでも笑う。


「忘れてたぜ。このタイマンのひりついた感覚……

 

 最高だなぁ!!異物!!」


 智春も、鼻で笑う。


「お前もな」


 そして、少しだけ首を回して息を整える。


「ただ、流石に疲れたわ。……ケリつけよか」


 ふたりはゆっくりと、互いに歩み寄る。


 校庭の端で、傷だらけのアイゼンはパットンに肩を貸りて立ち上がった。

 まだ震える足で、それでも前を見据える。


「トルマンさんっ!!」


 その叫びに、トルマンは一瞬だけ視線を向け、すぐに智春へ戻した。


 ブレアは何も言わない。

 ただ、まっすぐ智春だけを見ていた。


 焦げた風が吹き抜ける中、智春とトルマンは笑いながら睨み合った。

 智春は低く沈み、拳を顎の前に構える。

 トルマンは大きく腕を広げ、全身で受け止めるような構えを取った。



 次の瞬間、ノーガードの殴り合いが始まる。


 智春の拳が頬を打つ。

 トルマンの拳が腹を抉る。


 殴られたら殴り返す。

 避けない。防がない。

 ただ、拳と拳でぶつかり続ける。


 しかし二人とも笑っていた。




 ブレアがかすれた声でエリックを呼ぶ。


「ね、ねぇ。エリック……」


 エリックは目を離さず答える。


「えぇ。トルマンが……魔法を使っていない……?」


 渡り廊下の上でヴェレスが低く言った。


「あいつの魔法は威力は高いが燃費も悪い。それを地面の原型がなくなるほど乱発したんだ。魔力が尽きるのも当然だな」


 冷えた赤い瞳が校庭を見下ろす。


「それに……」


 その先を引き取るように、窓辺の凱人が呟く。


「弱くなったな……」


 フィリーが振り返る。


「どういうことです?」


 凱人は煙を吐いた。


「あの野郎、獣人族を束ねてからまともに戦闘してねぇだろ。鈍ってんだよ、あのバカ」


 フィリーは校庭を見る。

 それでも、目の前で起きている光景が信じられない。


「それでも……普通、一年の人間があそこまでトルマンとやれますかね」


 凱人は口元だけで笑った。


「さぁな。まぁ、この喧嘩で少しは勘を取り戻すかもな」




 その間も、智春とトルマンの殴り合いは止まらなかった。

 頬が腫れ、唇が切れ、血が飛び散っても、二人とも笑ったまま。


 トルマンは心の中で舌打ちしながら、同時に笑う。


(こいつ……本物だな)


 智春もまた、殴られながら目を細める。


(こいつ……ほんまにやばいな)



 拳と拳がぶつかるたびに、その思いだけが、さらに強く刻まれていった。

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