まだ死んでへんぞ
パットンの肩を掴んだ手は、血で濡れていた。
振り返ったパットンは、一瞬だけ呼吸を止める。その視線の先で、智春が立ち上がっていた。
全身が血まみれだった。顔も、腕も、制服も、もはや元の色がわからない。
膝は笑い、足元はふらついている。
まともに歩けているとは言い難い。
だが、その両目だけは死んでいなかった。
智春はゆっくりと、よろけながらもトルマンへ向けて足を動かす。
その姿に、校庭に残っていた全員の視線が吸い寄せられた。
ブレアが思わず息を呑む。
エリックは眼鏡の奥で目を細めたまま、声を失っていた。
獣人たちや人間たちも、誰一人として軽口を叩かない。
さっきまで殺される寸前だった男が、まだ前へ出てくる。それだけで、この場の空気はもう普通ではなかった。
トルマンはゆっくりと振り返る。
智春は血を吐き捨てるように口を開いた。
「どこみとんねん」
声は掠れていた。
それでも、低くはっきりと響く。
「お前の相手は俺やろ……」
トルマンは鼻で笑う。
「なんだ、まだ死んでねぇのか」
智春は肩で息をしながら、口元だけで笑った。
「あぁ、まだ終わってへんからな」
トルマンは智春の身体を上から下まで見た。
どこをどう見ても満身創痍だった。
「腕も折れてる。脚もまともに動いちゃいねぇ」
トルマンの声は冷たかった。
「その出血だ。普通の人間ならとっくに死んでるぜ」
一歩、智春へ近づく。
「いまさらテメェに何ができんだよ」
「さぁな。でもなんでやろな……」
自分の拳を見下ろす。
「身体が勝手に動くんや」
「テメェもその手のバカか……」
次の瞬間、その視線が横に落ちる。
地面に倒れたままのアイゼンを見下ろし、無造作に蹴りを入れた。
鈍い音が響き、アイゼンの身体が土の上を転がる。
「こいつもテメェに感化されたわけだ」
智春の眉間に深い皺が寄る。
ゆっくりと顔を上げ、トルマンを睨み返す。
「お前が強いのはよーわかった」
智春は足を引きずりながらも、さらに一歩踏み出した。
「でも……ちっさいなぁ」
トルマンのこめかみが動く。
「あぁ?」
「下のもんを踏むのが上に立つやつのやることなんか?」
トルマンは短く笑った。
周囲の獣人たちを顎でしゃくる。
「はっ。こいつらはただの兵隊。駒だ。
ドワーフどもを落とし、凱人の野郎を……」
視線が校舎へ向く。
窓辺に立つ凱人の姿。
そのさらに上で見下ろす三年たちの気配。
「その次は、上でふんぞり返ってやがる三年どもを引きずり下ろすためのな」
智春は吐き捨てるように笑った。
「だっさい王やな……
他の奴ら兵隊につけて上に挑むのがお前のやり方なんか!」
「あぁ」
迷いも恥もない声だった。
「あいつらさえ殺せればなやり方なんざなんでもいいんだよ!」
その言葉に、獣人たちの間からも低いざわめきが起こる。
「何いっても無駄みたいやな……
ダサい奴が上におると、下が腐んねん」
校庭に、その言葉だけが真っ直ぐ落ちる。
「お前がそんなんやから、あそこにおる獣たちもだっさい喧嘩しかできへんなったんやろが!」
獣人たちの顔が強張る。
智春は血に濡れた拳を握る。
「上に立つ奴はなぁ、下を踏むんやない。
……背負うんや」
トルマンの口元がわずかに歪んだ。
「言うじゃねぇか、小僧。
背負う、か……綺麗事だな」
智春は肩をすくめるように笑う。
「あぁ。俺らは不良少年やからな」
傷だらけの顔で、それでも不敵に言い切る。
「今更器用なフリなんかできへんやろ」
一歩、また一歩と距離を詰める。
「やから……綺麗事でもなんでも自分の筋だけは曲げれへんねん」
トルマンの目が細くなる。
「なんでも筋通せたらさぞ気持ちいいだろうな。小僧、この学園はそんな甘くねぇぞ……」
拳が強く握り締められる。
「負けは全てを失う」
一歩、踏み出す。
土が沈む。
「勝つしかねぇんだよ! どんな手を使ってもな!」
智春は、そこでほんのわずかに首を傾けた。
「なんや……失うのが怖いんか……?」
その時、トルマンの顔から余裕が消えた。
「やから守るんやろが!」
智春は睨みつけたまま続けた。
「筋を曲げて……下を蹴って……自分は矢面にたたんと上に喧嘩売って……」
智春は真正面からトルマンを見据える。
「お前……何をそんなに怯えとんねん」
その瞬間、トルマンの顔が歪んだ。
「ふざけたこと言いやがる。俺が怯えてる……?」
喉の奥から獣のような声が漏れる。
「俺が何に怯えてるって言うんだ! 答えろ小僧!」
智春は笑った。
「はは、図星つかれて必死やないか」
トルマンの顔がさらに歪む。
智春は構わない。
「お前や獣人たちに何があったんかは知らん……正直興味もない……」
血まみれの拳を上げる。
「でも、お前の折れ曲がった性根は俺が叩き折ったるわ。ほら、来いや」
傷だらけの歯を見せて笑う。
「まだ死んでへんぞ」
——その瞬間だった。
焦げた風が巻き返すように揺れ、智春の周囲だけがかすかに震えて見えた。
エリックが目を見開き、思わず声を漏らす。
「な、何か……変じゃないですか……?」
パットンは鼻先をひくつかせ、肩を震わせる。
「……ええ。空気が変わった気がするわね」
ブレアは胸元を押さえながらつぶやく。
「なにこれ……魔力が……」
渡り廊下から見下ろしていたヴェレスは眉をひそめ、空気の流れを読むように片手を上げた。
「あいつの周りで、魔力が薄くなっている……何が起きてる?」
凱人の元に移動していたフィリーは拳を握り、喉の奥で息を詰まらせた。
「こんなの……見たことがない。
凱人さん……わかりますか?」
凱人は煙を吐き、智春のほうを凝視した。
「……俺にもわからねぇ。
あいつが、魔力を含む空気を異常な速度で燃やしているようにも見えるが……」
深く息を飲む。
「こんな現象、聞いたことがねぇな……」
全員が息を呑む中、智春はまるで別の空気の中にいるように、静かに立ち上がっていた。
トルマンの目が大きく見開かれる。
「……お前、魔法は使えねぇんじゃねえのか?」
智春は肩を回し、軽くその場で跳ねてみせる。満身創痍のはずの体が軽い。
さっきまで全身を支配していた痛みが、どこか遠くへ押しやられていく。
折れているはずの骨の存在すら、意識から薄れる。
智春は鼻で笑った。
「魔法? 使えるなら使いたいわ」
呼吸が噛み合う。
肺に入る空気と、筋肉の動きが合わさる。
この世界の空気が、ようやく自分の身体に馴染んだ感覚。
遅れてきた何かが、ようやく追いついてきた。
「……少し、慣れてきたわ」
智春が呟く。
トルマンは困惑した息を漏らした。
「俺の重さに……慣れたってのか?」
智春は首を横に振る。
「いや、ちゃう。」
「強いて言うなら……世界やな」
深く息を吸い込む。
胸の奥に落ちてくる空気が、さっきまでとはまるで違っていた。
「この世界の空気……こんな美味かったんやな……」
トルマンは舌打ちし、苛立ち半分に声を荒げる。
「訳のわからねえことを……!」
智春の足が、一歩前へ沈む。
それだけで、土が深く沈み込んだ。
智春は顔を上げ、獣のように笑った。
「待たせたな」
血に濡れた歯を見せながら、楽しそうに目を細める。
「こっからが本番や」




