獣人の王
トルマンが振り下ろした拳を、智春は両腕で受け止めていた。
鈍い轟音が体育館中に叩きつけられる。
その一撃だけで、人間と獣人の乱戦が止まった。
衝撃は床を突き抜け、二人の足元を深く沈ませる。
板張りの床が悲鳴みたいに軋み、ひびが何本も走った。
智春の腹に巻かれた包帯に血が滲む。
それでも、智春は腕を下ろさない。
トルマンを真正面から睨みつけた。
「お前……えぇ加減にせぇよ」
トルマンの目が細くなる。
「誰に口聞いてんだ?」
鼻先がぶつかりそうな距離で、低い声が落ちた。
「だいたい、てめぇはなんで突っかかってくるんだ」
智春は歯を鳴らすように息を吐いた。
「正直……お前をしばかなあかん理由はあんまなかったんやけどな」
言いながら、受け止めていた両腕に力を込める。
トルマンの腕を外へ弾いた。
巨体の腕が逸れ、空気が揺れる。
智春は一歩踏み込んだ。
「今の一発で、もう理由はできた」
目だけが鋭く細くなる。
「覚悟しろよ」
トルマンが首を傾ける。
「あーーーーーーー」
長く、鬱陶しそうに息を吐いた。
「イライラするぜ」
腕を回す。
肩の骨が鳴った。
「お前みたいな舐めたガキ見てるとよ……」
そのまま、トルマンは背を向けステージから飛び降りた。
着地の衝撃で床が沈み、近くにいた獣人たちは思わず距離を取った。
トルマンはそのまま、壊れた入口の方へ歩き出す。
振り返りもせず言う。
「わかった……殺してやるよ。
来い。場所変えるぞ」
智春が眉をひそめた。
「なんや、ここでやらんのかい」
トルマンは肩越しにだけ答える。
「今の俺がここで暴れたら吹き飛ばしちまうだろうが。
自分の縄張りを自分で壊すわけにはいかねぇ」
少しだけ首を巡らせた。
獣人も人間も、誰もが二人を見ている。
トルマンの口元が歪んだ。
「あと、野次馬どもにきっちり教えてやったほうがいいだろ」
智春は鼻を鳴らした。
「野次馬? まぁ、なんでもええか」
智春は振り返る。
倒れ込んだアイゼンのもとへ歩き、身体を抱え起こした。
さっきまで人間と獣人が入り乱れていた空間は、今や奇妙な静けさに包まれている。
智春はアイゼンを壁際まで運び、そのまま寄りかからせた。
アイゼンの瞼が薄く開く。
「ち……はる……」
声はかすれ、息も荒い。
智春は短く答えた。
「行ってくるわ」
アイゼンの指が震えながら制服の内ポケットへ伸びる。
取り出したのは、少し潰れた煙草の箱だった。
一本だけ摘み、智春へ差し出す。
「俺と……ケリつけるまで……死ぬなよ……」
智春は何も言わない。
ただ、その煙草を受け取り、口に咥えた。
そして、アイゼンが指先を立てる。
かすかな熱とともに赤い火が宿る。
その火を、智春の煙草へ近づけた。
先端が赤く燃え、細い煙が立ち上る。
智春は一度だけ吸い、ゆっくりと吐いた。
それから、何も言わずに立ち上がる。
トルマンの背を追い、壊れた入口へ向かって歩き出した。
二人が体育館の真ん中を進む。
さっきまで殴り合っていた人間と獣人は、争いを止めて左右へ割れた。
自然と道ができる。
その道の端で、パットンが手を上げた。
「かましてきなさい。智春ちゃん」
「ああ」
智春はその手に自分の手を打ちつけた。
その横で、エリックが眼鏡を押し上げた。
「君は本当に不思議な人ですね」
呆れたような声だったが、どこか笑っている。
「最低限、応援はしますよ」
智春は煙草を咥えたまま言った。
「すまんな」
その後ろで、フィリーが低く呟く。
「あんな体で、大丈夫なのかよ」
エリックは肩をすくめた。
「さぁ? 僕が何を言っても聞きませんから」
夜の校庭へ出る。
学園の校庭は、ただの運動場とは思えない広さだった。
石畳の中庭とは違い、地面は黒い土で固められている。
無数の足跡と、昼間の喧嘩で抉れた跡が、月明かりの下で不気味な陰影を落としていた。
校庭の向こうに、三つの城壁のような校舎が夜の闇に並んでいた。
それぞれの建物を渡り廊下が繋ぐ。
さらに奥には、赤レンガの塔が夜空へ突き刺さっていた。
雲は薄く流れ、切れ間から星が覗く。
智春にとって見慣れた夜空ではなかった。
星の色も数も違う。
青白い星。
赤く瞬く星。
尾を引くように流れる光まである。
夜風が吹き抜け、血と汗と煙の匂いを攫っていった。
校庭の端では、獣人たちと人間たちが自然と別れて並んでいた。
さっきまで殴り合っていたはずだが、今はどちらも口を閉ざし、二人の動きを見守っている。
トルマンは足を止め、校舎を見上げた。
「ここなら存分に暴れられる。
それに……あいつらにもよく見えるだろ」
智春もつられて目を上げた。
校舎の窓。
その一つに、長い黒髪の男が立っていた。
守邦凱人。
学園の人間を束ねる2年生の勇者。
煙草の火だけが、暗闇の中で小さく赤い。
口元に笑みを浮かべたまま、じっと校庭を見下ろしている。
渡り廊下には、ブレアの姿があった。
柵を強く掴み、心配そうにこちらを見つめている。
さらに屋上の縁には、腕を組んだ赤い鬼の影。
塔の上にも、誰かの気配がある。
夜の学園そのものが、二人の決闘を見下ろす観客席のようだった。
智春は視線を戻した。
「見学人はどうでもええ……」
煙草を地面に落とし、靴裏で揉み消す。
「俺とお前、どっちが強いか……
今はそれにしか興味ないわ」
トルマンが鼻で笑う。
智春が手招きした。
「ほら、こいや」
「あぁ?」
トルマンの肩が揺れる。
「お前が来いよ」
智春の口元が上がった。
「上等や!」
次の瞬間、地面を蹴る。
智春の身体が一瞬で間合いを詰めた。
トルマンの瞳がわずかに開く。
「あぁ……速ぇな」
智春の迫る拳をトルマンは左腕で受けた。
鈍い音が響くが巨体は微動だにしない。
そのままトルマンは、ゆっくりと右腕を持ち上げた。
「アトミック……」
月明かりの下で、筋肉の塊みたいな腕が振り下される。
「ブラストォォォオオ!!!」
智春は反射で横へ飛んだ。
トルマンの右腕が地面へ炸裂する。
その瞬間、地面が爆ぜた。
文字通りの爆発だった。
轟音とともに校庭の土が吹き上がる。
土塊が夜空へ舞い、空気が遅れて弾ける。
観客たちの髪や制服が爆風で大きく煽られた。
校舎の窓が震え、地面には巨大な穴が空く。
そこを中心に蜘蛛の巣のような亀裂が何本も走っていく。
智春は直撃を避けていた。
だが、爆発そのものには巻き込まれた。
爆風に身体を持っていかれ、何度も地面を跳ねながら吹き飛ぶ。
土煙の中を転がり、ようやく片膝をついて止まる。
「なんやあれ……」
口の端から血を垂らし、穴の向こうを睨んだ。
「他の奴らと魔法の規模違いすぎるやろ!」
土煙の中心で、トルマンがゆっくりと顔を上げる。
その表情には、苛立ちを通り越した獣の凶暴さだけが残っていた。
「我慢の限界だ……」
一歩踏み出す。
足元の地面が砕ける。
「今の俺は手加減できねぇぞ……」
さらに一歩。
首筋に青筋が浮き上がる。
両の拳が、震えるほど強く握り締められていた。
牙の隙間から荒い息が漏れる。
目は血走り、理性と怒りの境目がもう薄くなっている。
足が地面を踏み砕き、そのたびにひびが走る。
完全に、頭に血が上った獣の目だった。
それでも、その巨体はぶれない。
王として立ち、王のまま暴れようとしている。
トルマンが空を裂くように吠えた。
「塵一つこの世に残らねーと思え……!!!」




