楽々航海③
多分ここでの生活八日目。釣具屋の床で目が覚める。
数日前におばあさんに島のことを聞きながら、砂浜周辺の生活インフラを教えてもらっているときのこと。たまたま目に入ったのがこの釣具屋だった。
えらく頑丈な造りだったのだろう、倒壊してはいるものの建物の外見を随分と残している。おばあさんの話によると、崩壊の日よりも結構前からこの町にあった釣具屋のようだ。
ただでさえ店内は暗いので、いつもは夜が来る前に見回っていたのだが、想像以上に美品が多い。
今日もおばあさんに夜ご飯をご馳走してもらった後、泥棒よろしく忍び込ませてもらって再度物色。
そしたらいつの間にか爆睡していたというわけだ。
「んん、まだ早い時間だとは思うんだけど……」
外を見るとまだかなり暗い。でも乱反射する白っぽい日差しは朝の特徴そのもの。
時間を知るために時計があればと思うことは、まぁある。
そんな望みも虚しく、信用できる時計にまだ会えていないのが現状。
それなりの期間旅をしてきた自負はあるんだけどなぁ。
時計があっても追われる時間がないので血眼で探していないのも理由だが、なんか微妙に時間が合っていない気がするのだ。コンパスも同じ感覚。
「おばあさん、起きてるかなぁ」
もそもそと起き出して、目星をつけていた釣具をそこらにあったバックにごっそり入れていく。
魚釣りは生活と娯楽を兼ねる素晴らしい趣味と化している。強化できたのは嬉しい。
まぁ、今回に限っては釣り以外の用途に集めた道具も多いわけだけど。
外に出ると街の異様さが目に付く。砂浜に向かって歩いている途中にある、様々なかつての『なにか』。
それは建物だったり、物だったり、死体だったり、船だったりするわけだが。
あまりに綺麗に形が残っている。
もちろん大破こそしている。しかしなんというか、この世界にしては不自然で、整備された箱庭のように感じてしまう。
まぁ、気の所為の一言で終わらせてしまっていいような、そんな微かな違和感でしかないのだけれど。
砂浜に到着したが、おばあさんがいない。いつもなら砂浜周辺でなにに使うか不明な端材や機械類を集めているのに。
親切に七輪の上には焼き魚が一枚。ありがたくいただいておこう。
美味しいよありがとう!
って心で念じつつ手に取る。
「さて、今日はどうするかねぇ」
信頼関係をさらに築くためにも日頃の感謝を示すためにも、おばあさんのお手伝いをした方がいいのかなと迷う。
でも、今日はしたいことがある。空についての研究だ。
『空が天に浮かぶ海と繋がっているのか』を知る、そのための実験。
この世界の根幹に関わることだ。知っておきたい。
迷いに迷いながら口をもぐもぐさせる。やはりおばあさんの焼き魚は絶品だ。
しばらく考えた結果、やはり空のことが気になる。
ごめんなさい、今日はやることがあるの!
と心で念じて手を合わせる。
いいよーって聞こえる気がした。よし、やろう。
ちょっとした罪悪感を感じながらも、色々な物質を集めて実験の準備をする。
さて、『空が天に浮かぶ海と繋がっているのか』を調べる方法だが、『もの』を『近くの空』に投げ落としたからといって、素直に『もの』が『近くの海』に落ちてくるかも分からない。
海の仕組みも空の仕組みも崩壊の日以前のままとは限らないわけだし、抵抗だの質量だの自由落下だのといった従来の物理法則は何も通用しない。
まぁ、何を言っていても始まらないから、色んなものを投げ込んでみるしかないんだろうけど。
誉ある第一投は、とある宝石商から拝借したダイアモンドだ。名を知らぬものはいない宝石界の王。旅の序盤で見つけて拾ったのだが、今となっては石ころ同然の価値。
世界一硬い物質らしいから、もうちょっと大きかったら生活上の用途もあったんだろうけど、指輪用だから使い物にならない。
投げ込んでも無反応。強いていえば、すっと落ちて消えていく。
当たり前といえば当たり前なのだが、特に特徴的なこともなく実験は過ぎていった。
タイヤ、干物、石、服、亡骸、流木、ペットボトル、様々な釣具。
どれも空に飲み込まれて行くだけで、天に浮かぶ海からの反応は無い。
「うーん、暖簾に腕押しとはまさにこのこと」
拾った暖簾を空に投げ入れる。あっけなくすーっと落ちてゆく。
いや、落ちてゆくには落ちてゆくのだが。何だこの奥歯にものが挟まったようなこの感覚は……。
他にもドライヤー、イス、スマホ、本、ティッシュなどを投げ入れてみる。
そしてやはり感じる違和感。
ティッシュの落ち方が……すーっ?
試しに手元にあった釣竿の釣り針にティッシュをつけて勢いよく投げ入れてみる。
すーっと落ちていくティッシュと釣り糸。そしてルアーを巻くとき、信じ難い感覚が襲う。
「ねぇねぇねぇ嘘でしょ無理無理無理、無理なんだけど。信じたくない」
自分を否定したい、そんな思いが膨らんでいく。とりあえずルアーを巻ききってティッシュを回収。
見た目は変わらないただのティッシュなのに、不自然にぐっちょりした感触。手についたそれからは、不自然な振動を感じる。一定のリズムでいて、それは……鼓動?
早鐘打つ心臓と逆立つ髪。
もし、もし私の推測が正しければ、これは……。
焦り散らかしながら釣り糸にブリキのバケツを括り付けてセットする。
震える手で慎重に釣竿を垂らしていくと、相も変わらずすーっと落ちていくバケツ。目視で見えなくなったところでルアーを巻いて回収する。
見た目上は何事もない。でも明らかにおかしいバケツの中身。
無色透明、そこにあるのは無に見える。しかしながら世の理から明らかにズレたそれ。
触れなくても見つめていれば分かる。バケツとの歪な境界。歪み。
サラサラとした液体のようにも見えるし、ドロドロとしたスライムにも見えるソレは。
あぁ、そうか。
空は『体』なのだ。
しばらくするとバケツの中に小さな雲ができ、底から光が指す。
バケツの中に生まれた新たな空。ミニ空。
増殖したのか、複製したのかそんなのはどうでもいい。
窒素がとか酸素がとか、そんな当たり前の化学の話もどうでもいい。目の前で起きていることが事実。
意志を持つのか持たぬのか、海のふりをしている空。とりあえず、こいつが私の知っているそれではないことだけは分かる。
「む、む、無理無理無理無理無理きききききききききもきききもちわるいいいいいいいいいいい」
胃の中身は即リバース。脳が痒くてたまらない。
知らない方が良かった、理解できないこと。
体験しないと分からないんだろうな、空という生命体を認知したときのオーバーフロー。
人間の知覚領域をゆうに超えている。
空はもう、私たちの知る空ではないのだ。




