ちいさなすいそう④
「えい。起きるのよ。えい。おーい、起きるのよ」
ぱしゃ、ぱしゃ。
水をかける音が微かに聞こえる。全発私の顔にヒット。
「うびゃびゃびゃ」
変な声が出てしまった。窒息を目論む水を手でぬぐい取り、顔を上げる。私の生んだ篝火はまだ、勢いを落としながらも燃えていた。眠ってからあまり時間は経っていないようだ。
「くあぁ、やっぱり人魚さんの歌って綺麗で、眠くなっちゃう」
「あら、眠くなる歌って言われると微妙な気分だけど、褒め言葉として受け取るのよ」
綺麗って言ったのに、捻くれた捉え方をされる。
「いや、なんか、意識外のところから眠くなるというか、そういう効果を感じるというか……」
「もしかしたら、人魚の歌にはそういう力もあるかもしれないのよ。まぁ、あってもなくてもどうでもいいことなのよ。もしそういう力があったとしても、あなたに快眠を提供するだけなのよ」
適当な返事。彼女はあまり自分の能力には興味がなさそうにしていた。
水面に爆ぜる火の粉を目で追いながら、水でちゃぷちゃぷ手遊びしている。
「そういえば、やっぱり人魚さんって食べたら不老不死になれるの」
気になっていた質問をぶつける。
「あー、まぁ、そう思っている人間が多かったからそうなのかもしれないのよ。でもこの通り人間はほとんど滅んでいるわけで、それが人魚を食べた人間がいないからか、はたまた完全な不死身にはなれないからかは分からないのよ。まぁ、人魚族に限ってはほとんどの子が不老不死かつタフネスだと思うのよ。だって人間がそういう風に想像した生き物なんだもの。あたしもそう。1500年以上軽くは生きてるのよ、これでも」
少し誇らしげな人魚さん。
私は彼女の実年齢に驚きすぎて一瞬外れた顎を急いで戻す。
こうなってくると弱点とか知りたいぞ。
「え、最強種族じゃん人魚って。でも、火には極力近づいてなかったよね。やっぱり熱に弱いの?」
「まぁ、半分魚だから、そりゃそうなのよ。皮膚がすぐ乾燥するし、なにより本能が避けるのよ」
「じゃあ、あんまり焚き火できないね」
「まぁ、週一くらいやりたいと思ってるのよ。無理してまではやらないのよ」
「毎日やったら、流石にマングローブ森の資源が尽きそうだしね。生魚に飽きたときように干物も作っとくといいよ」
「それはいい考えなのよ」
他にも様々な話が弾んだが、一区切りしてしばしのクールタイム。
言葉は途絶えたが、自然の音が響いている。
人魚さんは少し伸びをして、鼻歌を奏でる。
知らないメロディーだが、いつまでも聞いていたい、そんな思いにさせられる。
私が微睡み始めたのに気づいてか、人魚さんが私に声をかける。
「ねぇ、あたし、人魚の歌が人を眠りに誘うのかは知らないのだけれど、人魚の歌は海を伝ってどこまでも聴こえるってことは知ってるのよ」
「え、テレパシーみたいな感じで、どこにいても聞こえるってこと?」
「いや、海の中かその近くにいなきゃ聞こえないのよ」
「あ、流石にね」
「それだけじゃなくて、あたしたちの声は、『あたしたちが声を聞かせたい人』か、『あたしたちの声が聴きたい人』にしか聴こえないのよ。もし誰でも聞こえたら、海に来た人全員に歌を聴かれることになって恥ずかしいのよ」
「じゃあ私は、人魚さんの『声が聞きたい人』だったってことかな?」
「逆に、あなたこそあたしが『声を聞かせたい人』だったのかもしれないのよ」
穏やかな笑顔で話す人魚さん。彼女は何かを懐かしむように無表情な海を見上げている。
「本当はもっと仲間といたのよ」
いきなりの話で動揺。聞き返す。
「仲間?」
「人魚族のことよ。当たり前だけど、人魚は基本的に海にいる。世界崩壊の日、あたしだけたまたまこの湖にいて、仲間とはぐれたのよ」
「すごい偶然……。それまたなんで湖に」
「あたし当時、とある人間の男に恋してたのよ」
話が見えてこないが、先を促す。
「好きになった彼がこの湖の湖畔の家に住んでるって聞いたから、追いかけてきちゃったのよ」
「つまり、湖畔に住んでた男の人に恋してこの湖に?」
「そう。イケメンの人間。画家をしてたのよ。あたしが浜辺の近くで泳いでいるとき、彼は海の風景画を描きに来てたみたいなんだけど、それはもうかっこよくって。彼が海からも繋がるこの汽水湖周辺に住んでいるって知ったから、いてもたってもいられなくなって、川登してやったのよ」
「た、たくましい」
「そういう種族なの。前が見えなくなっちゃうのよ」
彼女は寂しそうに笑う。
「人魚って長寿のくせに、若い男に惚れる面食いなのよ。それでいて異種好き。おかしな話なのよ」
「確かに異種族恋愛か。ちょっと面白い性質なのかも」
「これが案外笑えない問題なのよ。生命力がえげつなくて、なのに水中でしか生きられなくて。恋をしたら基本陸に上がりたくなるから、乾燥して干からびるまで苦しむ羽目になった仲間がたくさんいるのよ」
「む、むごい」
「童話の人魚姫みたいに泡になれるなら幸せってもんなのよ。あたしの場合は、干からびる前にこの世界も彼も消えちゃったんだけど」
「……」
「ほぼ不死でも、ほぼ不死だからこその悩みなのよ。痛覚はあるから死のことなんて考えたくもないの。恋にでも夢中でない限り」
哀愁漂う彼女の横顔を見つめていると、不意に問いを受ける。
「そういえば、あたしたち人魚族は、世界崩壊の日、あたし以外みんな全滅したと思う? それともどこかで生きてると思う?」
唐突ゆえ面食らっている間に、彼女は考えを述べる。
「多分、みんな流されちゃったのよ。真上に広がる海に。そして、地上に戻ることもできずにいる」
いつもの変わらない天の景色、一面の海。気を緩めたら吸い込まれそうなほどの圧。
「死んでるはずがないのよ。不老不死の象徴と言われるくらいの生命力。あたしたちの生命力はあたしがいちばん知っているのよ。でもなんでか歌が聞こえなくなって、一度も経験したことがなかった孤独を感じた。1500年の長い人生の間、目の前が見えないほどに焦がれた一瞬の恋の間も、聴こえていたみんなの歌。それが、聴こえない、聴こえないのよ」
少し嗚咽がまじる声、抑えてきたものが弾ける音だ。
「歌が聴こえないのなら、天に広がる海が、海じゃないとしたら、何なのよ、何なのよ『アレ』は。お空に落ちたら海へと繋がりみんなに会える、そんな単純な話じゃない気がするのよ。『アレ』はもっと別の」
彼女が呼ぶ『アレ』は沈黙を貫き、静かに揺れている。
「あたしたち、お魚半分の所詮は人間。あんな馬鹿げた『アレ』の中でどうやって生きていけるのか、想像つかないのよ。くじらさん同様に息継ぎも必要だし、みんながみんな適応できたと思えないのよ」
人魚さんは諦めたように呟く。
「多分、どこにいても生き地獄なのよ」
私は、かける言葉もなく、俯いているだけだった。
生き地獄、まさにそれはこの世を指すにふさわしい言葉だから。
そのとき、記憶にある音が鳴る。
ビシャ
「鯛……?」
「確かに、あたしもそう見えたのよ……。何回も上から海水が降ってきたから、ここには海の魚も生息しているのよ。でも鯛が跳ねるなんてあたし、生まれてこの方見たことないのよ。もし事実なら、これは相当」
「「めでたい」」
顔を見合せた瞬間、刹那にして寒気が襲う。
幸せを感じる寒さだ。温かくて冷たい初めての感覚。
「凍る、湖が凍っちゃうのよ」なんて言いながら、人魚さんはゲラゲラ笑っている。
ひとつやふたつ、憑き物が落ちてくれたような。そういう、希望の声色。
ひとしきり笑い終えたあと人魚さんは私に宣言してくれた。
「あたし決めた。ここで歌い続けるのよ。たとえ湖が干からびようとも。あたし思うのよ、あたしの歌は仲間のみんなに聞こえてるって。みんなの声はあたしに聞こえないけど、それでもいいの。きっと、この小さい海も繋がってると思うのよ。だって、海だから」
私たちの笑い声が届いていたのか、海の水面は珍しく揺れていた。




