2, 父とチチ
お昼過ぎ、図書館から帰ってきた茜がダイニングとリビングに続くドアを開けると、茜の母、百合子が食事をしているところだった。
「おかえり茜、今日の味噌汁、美味しくできているじゃない」
味噌汁を啜ってから、茜の顔を見るとまだパジャマ姿の百合子は開口一番に言った。
「私もそう思う。私って天才かも」
「まあ、私の娘だから当然だね。これは干し椎茸の戻し汁が入っていると見た!」
「流石お母さん! 当たりだよ」
自分の推理を得意げに口にする百合子に茜は彼女を持ち上げる様に答えた。
「あっ、茜。さっき橋下先生が来たよ」
「えっ? 先生、家にも来たの?」
茜は、今朝自分に会ったと言うのに、母親にまで会いに来た高江にわずかな憤りを感じた。
「朝早くにね。あの先生、随分と熱心だねぇ」
高江が家に来たのは九時過ぎだろうから、決して朝早いとは言えないのだが、夜が遅い百合子にとっては早朝と呼べるほど早い時間なのだ。
百合子は高江のことを感心した様に言っているが、茜は百合子の睡眠が妨げられたのではないかと心配になる。
百合子はこのマンションから歩いて五分ほどの場所で「花衣」と言う名の小料理屋を経営している。夜遅くまで営業しているので午前中は百合子にとって貴重な睡眠時間なのだ。
「えっ? お母さん寝てたんじゃないの?」
「うん、だけどまた寝たから大丈夫」
百合子は何でもないことの様にさらりと言った後「やっぱり朝は納豆ご飯に味噌汁だねぇ」と呟いた。
「朝?」
「そう、私にとっては朝だね」
茜が既に十二時を回った時計を見ながら首を傾げると百合子は当然のことの様に答える。
『納豆ご飯を食べる百合子さん……可憐だ……』
ソファーに座ってずっとうっとりした目を百合子に向けている黒猫の声が茜の耳に届いたが、茜はいつものことだと聞こえなかったことにする。
(確かに自分の母親は美人の部類に入ると思う。でも、パジャマ姿で納豆ご飯を食べるお母さんに可憐だなんて言う輩はこの黒猫だけね)
卵かけご飯に味噌汁という質素な昼食をとりながら茜は心の中でそう思った。
この黒猫、名前はチチと言う。
猫が話すわけはないのだが、実はこの猫、猫に見えるが中身は猫ではないのだ。猫の中に人の魂が宿っているのだ。しかも、その魂は茜の父親らしい。
らしいと言うのは本人の自己申告によるからだ。茜は生まれた時から父親がいなかったので会ったことがない。だからから本当に自分の父親なのか判断がつかなかったのだ。
しかも、いくら中身が父親であるとは言え、見た目が黒猫なので父親だという実感があまりなかった。
茜が初めて会った父親はもう既にこの世のものではなかった。つまり幽霊と呼ばれるものだったのだ。とはいえ、この世のものではないと言うのは多少語弊があるかも知れない。なぜなら、本人曰く死んだかどうかさえわからないということなのだから。
それは、十年近く前のことだった。
その日は百合子の仕事が休みで、まだ二~三才だった茜は百合子と共にリビングで子供向けの映画を見ていた。日頃の疲れが溜まっていたのか、途中で眠ってしまった百合子のそばで茜もいつの間にかうとうとしていた。
ふと、何者かの気配に目を覚した茜。
「だ……れ? おじちゃん、だれ?」
茜は寝ぼけ眼で、ソファーの上で眠る百合子を覗き込んでいる若い男性に向かって声をあげた。
その男性は、ゆっくりと茜の方に顔を向けて驚いた様に目を丸くしていた。
『君は……僕が見えるのか? そうか……やはり、君は僕の子だ。僕が持つ特性を受け継いでしまったようだね』
茜は男性の言葉の意味がわからず首を傾げた。
よく見るとその男性の体は、透き通って見えた。
『僕はね、君の父だよ……』
「ちち……?」
『そう、君のお父さんだ。君の名前は?』
「あかね……」
『そうか、あかね……茜か……』
茜の父親と名乗った男性は愛おしそうに目を細めると茜の頬に手を伸ばした。
だが、その男性の手は茜の頬をすり抜ける。
『僕はもう百合子さんにも茜にも触れることはできないんだね……」
茜を見つめる瞳には哀愁が浮かんでいた。それは幼い茜の胸にも届いて、何故か茜の心も切なくなった。
『茜、また会いにきてもいいかな? やっと君たちの元に来れたんだ。これからは僕に君たちを守らせてほしい』
「うん、いいよ」
茜は屈託のない笑顔で頷いた。
父と名乗った男性は、再び茜の頬に手を伸ばして、途中でその手を止めた。
『ああ……このままじゃ君にも百合子さんにも触れられないんだった……また来るよ』
そう言って、その男性は茜の前からスッと消えたのだった。
それから数日後、百合子が小さな黒い子猫を抱えて帰ってきた。
「茜、あなたのお友達よ。名前は……そうねぇ……」
百合子が顎に手を当てて考えていると『茜、僕だよ。君の父……えっと、お父さんだよ。覚えているかなぁ?』と茜の耳に数日前現れた父親と名乗った男性の声が聞こえた。
茜が黒猫をじっと見ると、その横に声だけではなく男性の姿も現れた。その姿は以前よりも透き通って見えたが、確かに数日前に見た顔と同じだった。そして、すぐにその男性は黒猫の中に吸い込まれる様に消えた。
その瞬間、茜が「チチ!」と叫んだ。
「チチ? その名前がいいの?」
「うん! だってお父さんだから! あのね、このニャンちゃん、チチで、お父さんなの」
まだ幼かった茜は、拙い言葉で何とか黒猫の中に父親の魂が入っていると伝えようとした。
でも、百合子には茜が本当に伝えたかったことがちゃんと伝わらなかった。
寂しげな瞳で茜の顔を見つめると「お父さん……やっぱり茜は父親が恋しいのかしら?」と呟いた。
そして、百合子は一生懸命に伝えようとする茜に「分かったわ。この子はチチと言う名前にしましょう」と微笑んだ。
こうして茜の家に「チチ」と言う名の黒猫が家族として加わったのだった。
それから数日後、百合子は「茜にとってお父さんなら、私にとっては夫になるのかしら? ならば私は徹さんって呼ぼうかしら?」と言って、茜の父親であるかつての恋人の姿を想い、黒猫のことを「徹さん」って呼ぶことにした。その時初めて、茜は自分の父親が「徹」と言う名前であることを知った。
百合子は未婚の母である。茜も自分の父親は生まれた時からいないことを知っていたが、それがどんな事情によるのかは知らない。知っているのはいずれ結婚をする予定だったらしいと言うことだけだ。
茜は幼い時に父親のことを聞いたこともあったが、その度に寂しげに瞳を揺らす百合子の姿を見て子供心に聞いてはいけないことだと感じ、次第に父親のことを口にすることはなくなった。
一方、百合子の夫(実際には夫になるはずだった)であり茜の父親である黒猫は、百合子と茜に触れたいがために、瀕死の子猫に体を借りたそうだ。チチはそう言っていたが、幼い頃と違って今の茜は本やネットでの知識がある。だから、借りたのではなくて結局それは「憑依」をしたことなのだと茜は理解していた。
今では、百合子も茜が霊が見える体質だと知っているが、茜は黒猫が父親だとは話していない。それは、チチに言わないでほしいと頼まれたからだった。
すっかり普通の黒猫だと思っている百合子は、チチを抱きしめたり、頭を撫でたり、頬擦りしたり、しまいには一緒に寝たりしている。
チチはそんな百合子との触れ合いがなくなるのを極端に恐れていた。
それに自分がどう言う経緯で、魂だけ体から離れてしまったのかも覚えてないのだと茜に話していた。
死んでしまったのかどうかさえも覚えてないのだと……
茜は魂が体から離れたのなら、当然のことながら死んだのではないかと思ったが、どうやらチチの言うことにはそうとも限らないそうだ。
(生き霊だということだろうか? それでも、ずっと肉体を離れてしまっているのならやはり死んでいるのでは?)
そんな疑問が茜の頭に過ったが、哀しそうにそのことを話すチチに直接言うことはできなかった。
チチが覚えていたのは百合子のことだけ。
茜はそれほど母のことを想ってくれていたことに喜びを覚えたが、ならば何で母から離れてしまったのかと憤りも感じた。
それでも、幼い頃からずっとチチと暮らしてきたせいか、今ではすっかりチチを頼りにしている面が大きかった。
特に茜の幽霊が見える体質についての相談にはとても頼りになった。茜の体質は父親から受け継いだのだと知り、茜はことあるごとにチチの助けを借りることになったのだった。