15, エピローグ
「香澄さん、料理ずいぶん上手になったね。この酢の物も、香澄さんが作ったんでしょ?」
「材料を切っただけだけどね」
「でも、きゅうりが繋がってない! 前は切れてなかったもんね。やっぱり上達したよ」
「やだ、茜ちゃん。その話はもう忘れてってば」
厨房の片隅、姉妹のように笑い合う香澄と茜の姿を、百合子はカウンター越しに目を細めて見つめていた。
香澄が「花衣」で働き始めてから、もうすぐ一年になる。 かつてのトラブルが嘘のように、今では常連たちにもすっかり馴染み、彼女の明るさと丁寧な接客は多くの客を惹きつけていた。
百合子と茜にとっても、香澄はもう“家族”のような存在だった。
「香澄ちゃん、そういえば……栗田システム、倒産したらしいわよ」
「え? 栗田システムって……私が一年前、クビになった会社……ですよね?」
「そう。そして、あなたの元彼の父親が経営していた会社よ」
「うそ……本当なんですか?」
「本当よ。昨日、香澄ちゃんが休みのときに大野さんが話してたの。ニュースでも出てたらしいわ。やっぱり“因果応報”ってあるのね。人を貶めた報いは、ちゃんと自分に返ってくるのよ。怖い世の中よねぇ」
大野というのは、「花衣」の常連客で、現在は引退生活を送っている初老の男性。 百合子の料理を目当てに、月に二~三度は店に顔を出している。
「…………」
香澄は静かに箸を置き、少し俯いた。
「あ、ごめんね。余計なこと言っちゃったわね。せっかく忘れかけてたかもしれないのに……」
「ううん、気にしないでください。百合子さんが言わなくても、きっとどこかで耳にしていたと思うし……。ただ、あの人、大丈夫かなって……ちょっと思って」
「香澄ちゃん、優しすぎるわよ。自分を裏切った人の心配なんて、普通はしないもの。“ざまあみろ”って思ってもいいくらいよ?」
「うん……確かに、嫌なこともいっぱいあった。でも、全部が全部そうだったわけじゃなくて……。楽しかったことも、思い出も、あったから……」
「香澄ちゃん、ほんっとにいい子!」
百合子は感極まったように、カウンター越しに香澄へ抱きついた。
「お母さん、ちょっと酔いすぎ!」
茜が百合子をたしなめる。
「香澄ちゃんが迷惑してるでしょ」
「迷惑なんて……でも、ちょっと飲みすぎかもしれませんね」
「香澄ちゃんまでそんなことを……ううっ」
百合子が、涙ぐんだふりをして香澄の方をじっと見つめる。
「泣き落としも効かないよ。お母さん、今日はもうおしまい」
「茜ちゃん、冷たい~!」
百合子が“ちゃん”付けで茜を呼んだ時点で、茜は確信した。
(ああ、これは完全に酔ってるな)
茜は静かに日本酒の瓶を片付けた。
『にゃあー』
そのとき、百合子の膝にチチが飛び乗り、一声鳴いた。
「あら、徹さんまで……飲みすぎだって?」
『にゃあー』
チチがもう一度、短く鳴く。
そのやり取りを横で見ていた茜は、ふと首を傾げる。
(……もしかして、最近のお母さん、チチの言ってること……本当に分かってるんじゃ……?)
だって、本当にチチは「飲みすぎ」と言っていたのだから。
笑い声が小料理屋に広がる。 いつの間にか、そこには温かな“日常”が戻っていた。
ーーーー 完 ーーーー