14, 助言
黒猫は静かに、由真の後を追った。彼女の足取りはふらつき、どこか現実感のないまま、歩き慣れた道を進んでいく。
やがて、彼女は母と暮らしていた古びたアパートへと辿り着いた。
鍵を差し込み、重たく感じるドアを開ける。その隙間から、黒猫がするりと部屋へと入り込んだことに、由真は気づいていなかった。
「ふふっ……あはは……」
部屋に入ると、由真はそのまま床にへたり込み、笑いとも嘆きともつかない声を漏らした。
「道化ね……本当に、バカみたい。私……社長令嬢どころか、あの人の娘ですらなかったなんて……。笑っちゃうわ、もう」
静かな部屋。誰もいない空間。電気もつけず、ただ虚空を見つめる由真の瞳には、生気がなかった。冷たい空気も、闇に沈む部屋も、今の彼女には何の意味もなさなかった。
(生きている意味なんて、もう……ない)
思考は次第に闇に沈んでいく。
母が見ていたのは、自分ではなく“あの人”だった。自分を、かつての恋人の娘に仕立ててまで、母は過去にしがみついていた。その愛情の延長線上に、果たして“自分”という存在はあったのだろうか。
(私は、ただの代替品……?)
思考は加速度を増して絶望に向かっていく。
(そういえば……以前、眠れなくて病院でもらった睡眠薬、まだ残っていたはず……。全部飲んでしまえば、もう、目覚めることも……)
キッチンの引き出しを開け、紙袋を取り出す。その中には、数錠ずつパックされた薬が静かに並んでいた。
「この薬を飲めば……」
その瞬間、ふいに耳に届いた声が、空間を震わせた。
『本当に、それでいいのかい? ようやく母親の呪縛から解かれたばかりなのに──自分の人生を諦めてしまうのかい?』
「……だれ?」
由真は辺りを見回す。誰もいないはずの部屋。
すると、静かに扉の裏から一匹の黒猫が現れた。
「……猫……? まさか、あなたが喋ったわけじゃ──私、とうとうおかしくなったの?」
思わず笑ったその顔には、涙がにじんでいた。
『君は、君自身の人生を諦めるつもりなのか?』
今度は、はっきりと猫の口から声がした。
由真の瞳が大きく見開かれる。
「本当に……喋ってる? 夢……? ……でも、もうどうでもいいわ。私には、生きる意味なんて……ないから」
『本当に、そう思っているのかい? 母親の呪縛からようやく抜け出せたというのに』
「……母親の……呪縛……? 何のことよ」
『君はずっと、母親が語っていた“父親像”に縛られて生きてきた。真実を知らぬまま、母の言葉だけを信じて。その幻想は、母の過去への執着だった。でも、今やっと自由になれたんだ』
「でも、私はあの人の娘じゃなかった……。母が望んでいたのは、“あの人の娘”であって、私じゃなかったのよ」
『どうして、そう決めつける? 母親はいない。ならば、これからの人生をどう生きるかは、君が決めることだ』
「私は何のために生まれてきたの? 生きる意味なんて……あるの?」
『君は、君のために生まれた。ただそれだけ。意味は、自分で作っていくものだよ。親のためでも、誰かの期待に応えるためでもない。君自身が、どう生きたいか──それだけなんだ』
「私だって……一生懸命生きてきた。必死だった……でも、何もかも上手くいかなかった……」
『うまくいかなかったのは、出発点が“他人の幻想”だったからかもしれない。これからは、自分の足で、自分の意志で、歩いていけばいいんだよ』
「……どうして、私にそんなことを言ってくれるの?」
『茜が君のことを気にかけていた。君を包んでいたオーラが、あまりに黒く濁っていたからね』
「茜……? あの場違いな少女?」
『ああ、僕の娘だ』
「娘? ……あなた、猫でしょ? 本気で言ってるの?」
『見た目が猫でも、本質は違うさ。僕は茜と百合子さんを守る存在。今は“この形”を選んでるだけ』
「夢……なのかしら」
『夢でも現実でも、構わないよ。君が、ほんの少しでも前を向けるなら──それでいい』
「……」
『君はもう自由なんだ。母の言葉からも、父の影からも。君が前に進もうとしたその瞬間から、運命は動き出す。幸せになれるかどうかは、君次第だよ』
「……私次第、ね……」
『信じても、信じなくても構わない。でも、心のどこかで覚えていて──君は、君でいいんだよ』
「あなた……一体、何者なの?」
『僕? 解呪師さ』
そう名乗った時には、黒猫の姿はもうそこにはなかった。
しばらくの間、由真は茫然とその場に立ち尽くしていた。そして、ぽつりと呟く。
「……自分のために……私が幸せになれるかどうかは、私次第……」
その言葉を、何度も反芻する。
──ピンポーン。
突然、玄関のチャイムが鳴った。
「……!」
由真はビクリと肩を揺らし、我に返る。
──ピンポーン。
再び鳴るチャイムに導かれるように、玄関へと向かう。
扉を開けると、そこには郵便配達員が立っていた。
「郵便物が溜まっていて入らなくて……。お母様の名義で届いたものです」
そう言って手渡された封筒。由真は礼を述べて扉を閉め、封を開けた。
中には、保険会社からの通知書。そこには、由真を受取人とする死亡保険金の詳細が記されていた。
「……お母さん……」
その名前欄を見た瞬間、由真の目に涙が浮かんだ。
(お母さんは……私を要らない娘なんかじゃなかった……)
心の奥に、ほんの小さな光が灯った気がした。
***
由真が「花衣」の店を後にしたあと、店内に静寂が戻る。
「……嵐は、去ったようね」
百合子が、静かに呟いた。
「本当に……百合子さん、このたびはご迷惑をおかけしました」
「巻き込んでしまって、ごめんなさい……」
真也と梓が深々と頭を下げる。
「気にしないで。それよりも、無事でよかった。何より、香澄ちゃんが元気そうで」
百合子の言葉に、香澄もようやく微笑んだ。
「パパ……私、一瞬だけど、本当に疑っちゃった」
「まあ、無理もないさ。あれだけ堂々と言われたら、誰でも混乱するよ」
真也は照れたように苦笑した。
「私も……ごめんなさい」
梓の言葉に、真也は軽く息をつきながら答えた。
「いいんだ。でも、ちゃんと伝えておくよ。由香里さんとは、大学時代に付き合っていた。それは事実だ。でも、社会人になってからは数回、仕事の関係で会っただけ。梓と出会った時には、もう過去のことだった」
「……そうだったのね。私……もっとあなたのことを信じていればよかった」
「これからは、疑わずに頼ってくれたらいいさ」
夫婦の間に流れる、静かな温もり。その様子を見ながら、香澄もほっと息をついた。
(よかった……)
そのとき──
「チチ、どこに行ってたの?」
茜が足元に座った黒猫に気づいて、声をかける。
『うん、ちょっと最後の仕上げをしにね』
その言葉に、茜は小さく首を傾げた。
──けれど、チチの目は遠く、何かを見据えているようだった。
――由真の未来は、まだ白紙のまま。でも、彼女は今、自分自身の足でその道を歩き始めようとしていた。