表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/15

12, 生き霊の主

 小料理屋「花衣」の入り口には、開店前の印としていつもの藍色の暖簾はかかっていない。

 店先の行灯もまだ灯っておらず、それでもこの店には不思議な温かさが漂っていた。

 けれど、その温かさを感じる余裕など、彼女にはなかった。


 ビルの陰に身を潜めて、冷ややかな視線でじっと店先を見つめる女性──由真。

 その表情からは、すっかり人としての温もりが失われていた。


 数日前、偶然通りがかったこの場所で、香澄が店に入っていく姿を見た。

 あの日、雨に打たれていた香澄を保護したというのが、この店の女将だ。それを知って以来、由真は仕事帰りに何度もここに足を運んでいた。


 なぜ、こんなにも香澄のことが気になるのか、自分でもよく分からなかった。

 けれど、同じ父を持ちながら、あまりに違う人生を歩む妹の存在が、由真にはどうしても許せなかった。


(父のことを何も知らず、のうのうと幸せそうな顔をして……)


 香澄に真実をぶつけてやりたい衝動が、日増しに強くなっていく。


(突然、姉だと名乗ってみる? あの子、どんな顔するかしら)


 けれどそのとき、由真の胸に突然、重い衝撃が走った。

 心臓の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚。足元が揺らぎ、思わず店の外壁に手をつく。

(……なに、これ……)


 由真には知らないことだったが、それは茜が“生き霊”を使って由真の存在を探った瞬間だった。


 まだ動悸の収まらないまま、ふと視線を戻すと、暖簾のない入り口から香澄が箒を手に出てきた。


 香澄は穏やかな笑みを浮かべながら、店前を掃き始める。

 その姿に、由真は歯を噛みしめた。


(なんで、そんなに楽しそうにしてるのよ……! 恋人に振られ、会社もクビになったっていうのに!)

 由真の胸に、怒りと嫉妬が交錯する。


(きっと父のことを何も知らないからよ。なら私が教えてあげればいい。……そう、“親切な姉”として)

 その時だった。香澄に近づいてくる二人の男女に、由真の目が釘付けになった。


「……あれは……」

 スーツを着た男性と、品のある装いの女性──間違いなく、あの二人は自分の父・真也とその妻、梓だった。

 笑みを交わしながら香澄に歩み寄る姿に、由真の中で何かが決壊する。


「ふふ……ちょうどいいタイミングね。せっかくだから、家族にご挨拶でもしましょうか」

 そう呟くと、由真は店の前へと踏み出した。


「お父さん!」


 大きな声と共に、三人のもとへ駆け寄る。香澄の父である真也に近づくと、再び顔を見上げて呼んだ。

「お父さん……!」


 

 ──その少し前、香澄は店の前で掃除をしていた。ふと、足元に影が落ちたことに気づき、顔を上げる。

 目の前に並ぶのは、優しく微笑む両親の顔だった。


「パパ、ママ! 時間通りね。ここが百合子さんのお店なの。素敵でしょ?」


 香澄が笑顔で声をかけた、その直後。


「お父さん!」


 父親の背後から、聞き慣れない女の声が響く。

 驚いて振り返ると、自分と同年代に見える女性が真也に向かってまっすぐ走ってくる。

 香澄には見覚えがない。


(誰……? 今、“お父さん”って……)


 視線を巡らせるが、自分の父親以外に“お父さん”と呼べそうな人物は周囲にいなかった。

 梓も真也も、予期せぬ声に呆然としている。


「真也さん……?」

 不安げに眉を寄せた梓が真也の名を呼ぶ。


「君、何を言っているんだ?」

 真也が、由真を咎めるような口調で言葉を放つ。


「パパ? この人、“お父さん”って……なに? 本当なの?」

 香澄の目が真也に注がれる。


「真也さん……」

 梓もまた、夫の顔をじっと見つめた。

 妻と娘からの疑念に、真也は明らかに動揺した。


「私は……君のことは知らない。何の話をしているんだ?」

「お父さんが覚えていなくても、私は覚えているわ。あなたは、私のお父さんなのよ」

 その言葉に、香澄はハッとした。


(この顔……どこかで──あっ!)


「あなた……!」

 香澄は思わず声を上げた。茜が念写で写し出した、あの“生き霊の女”とそっくりだったからだ。


「なによ……!」

 由真も思わず一歩後ずさる。


「やっぱり……あの時……見た生き霊、あなたね。やっぱり、どこかで私を見ていたんだわ」

「……何よ、生き霊? 訳の分からないこと言わないで!」


「茜ちゃんが言ってた。無意識に生き霊を飛ばす人もいるって。あなた……自分で気づいてないのね」

 会話の温度が上がる中、真也は言葉を挟めず、梓も心配そうに見守っている。


「何よそれ……ふざけないで! あなたたちの“幸せ”は、私たちの“不幸”の上にあるのよ!」

 由真の叫びが響いたそのとき──


 ガラリ、と店の引き戸が開いた。


「香澄ちゃん? どうしたの? 大きな声が聞こえたけど」

 店主・百合子が顔を出し、周囲の空気が一変する。


「百合子さん……その、あの……」

 香澄はどう説明してよいか分からず、視線を彷徨わせた。


「とりあえず、中に入りましょう。ここは人目もあるし、落ち着いて話しましょ」

 百合子の促しで、香澄、両親、そして由真は静かに店の中へ入っていった。

 

 扉が閉まると、百合子は一人一人の顔を順に見渡した。

「……お騒がせして申し訳ありません。私は香澄の父、早瀬真也と申します。こちらが妻の梓です。娘が大変お世話になりまして……」


 そう名乗ると、真也はすぐ隣の女性に視線を移した。


「この方は……我々とは無関係の人間でして、突然……」

「無関係じゃないわ! 私はあなたの娘よ!」

 真也の言葉を遮るように、由真が怒鳴るように叫ぶ。


 百合子はふぅ、とひとつ息を吐いた。

「……正直、私が介入していい問題か分からないけど──状況を整理しましょうか。それに……この方が香澄ちゃんに憑いていた“生き霊”の主であるのは、間違いないと思うの」


 視線の先には、店の奥にいる一人の少女──茜。そして、彼女の腕に抱かれた黒猫、チチ。


「茜、徹さん、そうよね?」

「うん。間違いない」

「にゃあ」


 その返事に、場の空気が凍りついたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ