12, 生き霊の主
小料理屋「花衣」の入り口には、開店前の印としていつもの藍色の暖簾はかかっていない。
店先の行灯もまだ灯っておらず、それでもこの店には不思議な温かさが漂っていた。
けれど、その温かさを感じる余裕など、彼女にはなかった。
ビルの陰に身を潜めて、冷ややかな視線でじっと店先を見つめる女性──由真。
その表情からは、すっかり人としての温もりが失われていた。
数日前、偶然通りがかったこの場所で、香澄が店に入っていく姿を見た。
あの日、雨に打たれていた香澄を保護したというのが、この店の女将だ。それを知って以来、由真は仕事帰りに何度もここに足を運んでいた。
なぜ、こんなにも香澄のことが気になるのか、自分でもよく分からなかった。
けれど、同じ父を持ちながら、あまりに違う人生を歩む妹の存在が、由真にはどうしても許せなかった。
(父のことを何も知らず、のうのうと幸せそうな顔をして……)
香澄に真実をぶつけてやりたい衝動が、日増しに強くなっていく。
(突然、姉だと名乗ってみる? あの子、どんな顔するかしら)
けれどそのとき、由真の胸に突然、重い衝撃が走った。
心臓の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚。足元が揺らぎ、思わず店の外壁に手をつく。
(……なに、これ……)
由真には知らないことだったが、それは茜が“生き霊”を使って由真の存在を探った瞬間だった。
まだ動悸の収まらないまま、ふと視線を戻すと、暖簾のない入り口から香澄が箒を手に出てきた。
香澄は穏やかな笑みを浮かべながら、店前を掃き始める。
その姿に、由真は歯を噛みしめた。
(なんで、そんなに楽しそうにしてるのよ……! 恋人に振られ、会社もクビになったっていうのに!)
由真の胸に、怒りと嫉妬が交錯する。
(きっと父のことを何も知らないからよ。なら私が教えてあげればいい。……そう、“親切な姉”として)
その時だった。香澄に近づいてくる二人の男女に、由真の目が釘付けになった。
「……あれは……」
スーツを着た男性と、品のある装いの女性──間違いなく、あの二人は自分の父・真也とその妻、梓だった。
笑みを交わしながら香澄に歩み寄る姿に、由真の中で何かが決壊する。
「ふふ……ちょうどいいタイミングね。せっかくだから、家族にご挨拶でもしましょうか」
そう呟くと、由真は店の前へと踏み出した。
「お父さん!」
大きな声と共に、三人のもとへ駆け寄る。香澄の父である真也に近づくと、再び顔を見上げて呼んだ。
「お父さん……!」
──その少し前、香澄は店の前で掃除をしていた。ふと、足元に影が落ちたことに気づき、顔を上げる。
目の前に並ぶのは、優しく微笑む両親の顔だった。
「パパ、ママ! 時間通りね。ここが百合子さんのお店なの。素敵でしょ?」
香澄が笑顔で声をかけた、その直後。
「お父さん!」
父親の背後から、聞き慣れない女の声が響く。
驚いて振り返ると、自分と同年代に見える女性が真也に向かってまっすぐ走ってくる。
香澄には見覚えがない。
(誰……? 今、“お父さん”って……)
視線を巡らせるが、自分の父親以外に“お父さん”と呼べそうな人物は周囲にいなかった。
梓も真也も、予期せぬ声に呆然としている。
「真也さん……?」
不安げに眉を寄せた梓が真也の名を呼ぶ。
「君、何を言っているんだ?」
真也が、由真を咎めるような口調で言葉を放つ。
「パパ? この人、“お父さん”って……なに? 本当なの?」
香澄の目が真也に注がれる。
「真也さん……」
梓もまた、夫の顔をじっと見つめた。
妻と娘からの疑念に、真也は明らかに動揺した。
「私は……君のことは知らない。何の話をしているんだ?」
「お父さんが覚えていなくても、私は覚えているわ。あなたは、私のお父さんなのよ」
その言葉に、香澄はハッとした。
(この顔……どこかで──あっ!)
「あなた……!」
香澄は思わず声を上げた。茜が念写で写し出した、あの“生き霊の女”とそっくりだったからだ。
「なによ……!」
由真も思わず一歩後ずさる。
「やっぱり……あの時……見た生き霊、あなたね。やっぱり、どこかで私を見ていたんだわ」
「……何よ、生き霊? 訳の分からないこと言わないで!」
「茜ちゃんが言ってた。無意識に生き霊を飛ばす人もいるって。あなた……自分で気づいてないのね」
会話の温度が上がる中、真也は言葉を挟めず、梓も心配そうに見守っている。
「何よそれ……ふざけないで! あなたたちの“幸せ”は、私たちの“不幸”の上にあるのよ!」
由真の叫びが響いたそのとき──
ガラリ、と店の引き戸が開いた。
「香澄ちゃん? どうしたの? 大きな声が聞こえたけど」
店主・百合子が顔を出し、周囲の空気が一変する。
「百合子さん……その、あの……」
香澄はどう説明してよいか分からず、視線を彷徨わせた。
「とりあえず、中に入りましょう。ここは人目もあるし、落ち着いて話しましょ」
百合子の促しで、香澄、両親、そして由真は静かに店の中へ入っていった。
扉が閉まると、百合子は一人一人の顔を順に見渡した。
「……お騒がせして申し訳ありません。私は香澄の父、早瀬真也と申します。こちらが妻の梓です。娘が大変お世話になりまして……」
そう名乗ると、真也はすぐ隣の女性に視線を移した。
「この方は……我々とは無関係の人間でして、突然……」
「無関係じゃないわ! 私はあなたの娘よ!」
真也の言葉を遮るように、由真が怒鳴るように叫ぶ。
百合子はふぅ、とひとつ息を吐いた。
「……正直、私が介入していい問題か分からないけど──状況を整理しましょうか。それに……この方が香澄ちゃんに憑いていた“生き霊”の主であるのは、間違いないと思うの」
視線の先には、店の奥にいる一人の少女──茜。そして、彼女の腕に抱かれた黒猫、チチ。
「茜、徹さん、そうよね?」
「うん。間違いない」
「にゃあ」
その返事に、場の空気が凍りついたのだった。