1, プロローグ
外から聞こえる通勤や通学に通う人々の足音や車の走る音からは朝の慌ただしさを感じる。
レースのカーテンを通して差し込む柔らかな日差しが、ダイニングテーブルにぼんやりとした影を落とし、まるで外とは別世界の様に静かな空間を醸しだしていた。
茜はいつもの様にテーブルの上に用意した、納豆ご飯と味噌汁を前に箸を手に取った。
一口分の納豆を乗せたご飯を口に運ぶとゆっくりと噛み締める。ふっくらとしたご飯の甘みと納豆の旨みが口いっぱいに広がり顔が緩む。
続けて、豆腐にネギを浮かべた味噌汁を口に含むと、出汁の旨みと程よい塩加減に満足した。
「流石、私。今日の味噌汁も美味しくできた」
茜は自画自賛しながら、朝食を食べ進める。
窓から差し込む光はさっきよりも明るくなり、カーテン越しでも外には青空が広がっていることがわかった。
お腹が膨れて満足した茜はポットにお湯を沸かし、いくつか並んだハーブティーの茶葉が入ったガラス瓶の中からカモミールとレモングラスを選んだ。ティーポットに茶葉を入れ、コポコポとお湯を注ぐと爽やかな香りが部屋の中に漂う。
愛用のピンクのマグカップに注ぐと、茜は席に戻ってそっと口元に運んだ。爽やかな香りが口の中に広がると自然に肩の力が抜けてホゥっと息が漏れた。
ふと壁にかかった猫形の時計に目を向けると、すでに八時半を過ぎていたことに気がついた。
「もうこんな時間、そろそろ出かける準備をしなきゃ」
特に時間の制限があるわけではないが、だらけてしまわない様に茜は自分自身に決まりを設けていた。
毎日、決まった時間に図書館に行って勉強すると言ったたった一つの決まりである。最初からそうだったわけではないが、少し前まで家に引きこもっていた茜は、社会に置いていかれそうな気がして、何とかしようとたどり着いたのが毎日図書館に通うと言うことだった。
茜は現在十二才。
本来なら中学一年生である。
四月半ばにもなり、平日の今日は学校に行くのが当たり前である。だが、茜は諸事情により登校拒否を貫いている。まあ、諸事情と言っても単に学校に行く意義を見出せないと言うのが大きな理由なのだが。
茜はまだ寝ている母を起こさない様に、なるべく音を立てずに朝食の後片付けをして出かける準備をする。
ジーパンにパーカー、紺色のリュックに文房具などの必要な物を詰めていく。
マンションのエントランスの自動ドアが開くと、ひんやりと冷たい空気を含んだ風が吹き込んできた。
四月とは言え、朝はまだ肌寒い。
通勤通学のピーク時間は過ぎ去った様で、人通りは大分少なくなっている。茜がこの時間を狙って家を出るのは、もちろん極力人にあわないためだ。
「今日も天気がいい。それもきっと私の日頃の行いがいいからだ」
マンションの外に一歩踏み出した茜は一言つぶやくと、白い煉瓦造りの建物を背に歩き始めた。
少し先にある桜の木から風に乗ってきた花びらが、足元まで来て舞い降りた。
柔らかい日差しが包む街の中を歩いていつもの場所へ向かう。目的の場所である図書館までは約十分。
ウォーキングには丁度いい時間だ。
茜が住むマンションは街の中心部にあり、徒歩圏内に必要な公共施設や店などはほとんど揃っていて、とても住みやすい。
所々に植えられた街路樹が無機質なビルの谷間を彩り、時折小鳥のさえずりが聞こえるのはこの街が「杜の都」と言われる所以だろう。
交差点の手前で茜はふと足を止めた。道路を挟んだ向こう側に見慣れた女性の姿を捉えたためだ。
その女性は二十代後半に見えるが、実際はもう少し若いのかも知れない。と言うのもメガネをかけて後ろに一つに結んだ黒髪は真面目さを通り越してお堅い感じがする上に、チャコールグレーの地味なパンツスーツ、さらにうっすらと目の下にあるクマが実年齢以上に思わせている節があったからだ。
「あっ、先生……」
茜は立ち止まると、交差点を渡り近づいてくる女性に向かって思わず声を発していた。
その声に気づいた女性は、ホッとした様子で茜に駆けよって声をかける。
「香月さん、よかったわここで会えて。少し話せないかしら?」
茜はついつい女性の言葉を聞いた途端、声をかけてしまったことを後悔した。
とはいえ、どうせ声をかけなくても、顔を見れば何度か会っている茜に気づかないということはないだろう。
「橋下先生、今日も学校ありますよね。遅刻しますよ」
茜は、目の前に近づいてきた女性の言葉を受け取ると皮肉混じりに答えた。
茜が家を出たのは九時少し前。学校はもうすでに始まっている時間である。それなのになぜ教師であるこの女性が茜の目の前にいるのか。そんなことは茜にも分かっているのだが、うんざりしてしまうのは茜の中に「何度来ても無駄なのに」という思いがあったからだ。
茜の前に現れた女性教師の名は橋下高江と言う。この春中学生になった茜の担任の先生である。それからずっと、こうして度々高江は茜のもとを訪れる。
目の前に現れた女性教師は、まだ一度も学校に行っていない茜を何とか登校させようと奮闘しているのだ。
茜にとって正義感を掲げた迷惑な熱血教師と言うわけだ。
「先生、私、忙しいんです。これから勉強するために図書館に行くんですから。私の邪魔をしないでください」
茜はわざとらしく勉強という言葉を強調しながら高江に言った。
「香月さん、勉強したいなら学校に行くのが一番効率的よ。今からなら高校の受験にも余裕で間に合うわ。それにお友達も作った方がいいわよ。生涯の友を作るのなら学校に行くのがおすすめよ」
正論を説く高江に茜は溜息を吐いた。
高江が言うことは多くの者にとっては正しいのかも知れない。でも、茜にとってはそれが正しいとは思えなかった。
そもそも茜は小学五年生の時にいじめにあった。そのせいで学校で生涯の友が現れるというイメージが湧かない。
いじめの原因は茜の母親がシングルマザーで、しかも水商売をしているという理由だった。実は茜は知らないが、いじめの理由はそれだけではない。
若い頃からモデルにスカウトされるほど巷では美人で有名な母親の血を受け継いだ茜は、成長と共に次第に母親に似ていった。いじめの最大の理由は嫉妬によるものだったのだ。茜自身はそのことに全く気づいてはいなかったが。
見かけによらず元々気が強い茜はやられたらやり返すという信念のもと、本当にやり返してしまった。相手に怪我をさせたわけではなかったのだが、掃除していた時のバケツの水をそのいじめっ子に頭からかけてしまったのだ。
そのせいで咎められたのは手を出した茜の方だった。どんなに無視しても、仲間はずれにしても、悪口をSNSに流しても、茜の持ち物をゴミ箱に捨てても、いじめた方は被害者になったのだ。
茜はそれ以来、学校や先生を信じることを辞めた。幸いだったのは、茜の母親が茜よりも憤り、母親の方から「そんな学校辞めちゃえばいいじゃない」と言ってくれたことだった。
義務教育である小学校を辞めることができるのかどうかは定かではないが、茜はそれ以来学校に行くことを辞めた。
茜は高江が言うように、いじめられる様な学校では生涯の友どころか、一瞬の友さえ現れるなんて到底思えなかった。それに、強く逞しく生きる自分の母親を見て、学校で得る知識よりも生き抜くための知識の方が必要だと思った。
生き抜くための知識は学校では教えてくれないのだ。
「橋下先生、私、高校には行きません。だから受験は関係ないんです」
「香月さん、そんなことを言ってはいけないわ。高校くらいは絶対に行くべきよ。将来どうするつもりなの? 高校くらい行かないと就職先にだって困るのよ。ずっと引きこもりだった香月さんでも今ならまだ間に合うわ」
高江はあたかもそれが常識だと言う様に茜を説得する。
「心配しなくても大丈夫ですよ。私、就職する気もないですから。それに私、引きこもりじゃありません。今だって勉強するために図書館に行く途中なんですから」
「そっ、そうね。でも、勉強したいならやっぱり学校の方が効率的に学べるわよ」
「先生、いじめられるかも知れないと怯えながら学校に行ったって勉強に集中できるとは思えません」
「それは……」
茜は言葉に詰まる高江に目を向けた後、その後ろにいる女性に極力目を向けない様に視線を逸らした。
(やっぱり今日もいる。多分、先生の知っている人だ。……どうしよう? 何かめんどい。よし、放っておこう。特に害はないだろうし……)
高江を正面で見るとどうしても目に入ってくるいつも彼女が連れている女性。全く生の鼓動が感じられないその女性は既にこの世の者ではない。
だが、これは茜にとって珍しいことではない。茜には幼い頃から普通の人には見えるはずのないものが見える。つまり、幽霊ってやつだ。
そして、高江の後ろに立つ女性は間違いなく幽霊と呼ばれるものだった。ショートヘアの白髪混じりの年配の女性で伏せ目がちな女性は後悔に苛んでいる様にも見える。
(何か訴えているみたい? ……視線を感じる。先生に伝えるべきか? いや、べつにいいか……今は図書館に行く途中だし、そのうちいなくなるかもしれないし……それに橋下先生は絶対に私の言うことを信じなさそうだし……)
いろいろ理由をつけて茜は見なかったことにした。
「じゃあ、先生。私、勉強の時間がなくなるから」
何か言いたそうにしている高江をスルーして、茜は再び目的地へ向かって歩き始めたのだった。