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奪う  作者: 夜桜冬希
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「ミコトさんは、どんな風に人を殺してるんですか?」

 深夜のとある道の駅。彼の車の助手席で、先程自販機で購入した缶コーヒーを開けながら、カナデが脈略なく唐突に尋ねてきた。

 彼はカナデを一瞥し、同じく缶コーヒー、ではなく、ペットポトルタイプのカフェオレを開ける。瞬間、その見た目でカフェオレとはギャップを感じて惚れ直しそうです、と心底胡散臭い表情のカナデに感想を述べられた数分前の出来事が脳裏を過った。どの見た目ならギャップを感じないというのか疑問である。

 適当なことを宣うカナデを雑に遇うか否か一瞬だけ迷ったが、詐欺師相手に駆け引きのような真似をしても勝率は低いと判断し、彼は素直に応じた。

「相手に殺され方の希望があればできるだけそれに沿いますが、なければその時の気分でどう殺すか決めています」

 彼は淡々と言い、カフェオレに口をつける。ホットではなくアイスでいい季節になっていた。

「わざわざ希望聞いてあげるんですか?」

「死にたがっている人間限定ですが」

 そう付加すると、まだ一人だけではあったが、確かに自分は自殺志願者ではない人間も殺したのだということを改めて実感した。

 その人間には何も聞くことなく、好き放題に殺していた。希望を尋ねるという選択肢すらなかった。言うまでもなく、死にたがりではないからだ。死にたがりではない人間にどう殺されたいか問うたところで答えなど出るわけがない。無駄である。

「希望ってどんな希望があるんですか?」

 カナデは缶コーヒーには口をつけず、また質問を繰り出してきた。やけに質問が多いような気がしないでもない。

 カナデに誘われドライブをし始めてからずっと、そんなことを聞いてどうするのかというような取るに足らないことを尋ねられていた。何か企んでいるのか、何か吐かせようとしているのか、猜疑心を抱いてしまいそうになりながらも、彼は冷静に、下手に嘘は吐かずに答えた。

「血が嫌いだから血は出さずに殺してほしいとか、苦しまずに死にたいからそうしてほしいとかですね。好きに殺していいというのも確かありました」

「それをどのようにして叶えてあげたのか聞いてもいいですか?」

「構いませんが、今日は凄く好奇心旺盛ですね」

「惚れた相手と長時間車内で二人きりですからね。ミコトさんについてたくさんの情報を得る絶好のチャンスです」

 コーヒーで口内を濡らすカナデの横顔を見つめる。裏があるのかないのか分からなかったが、それを疑ってしまう時点で彼はまだカナデを内奥では信じ切れていないのかもしれない。深く知ろうとしてくるカナデも同じだろうか。

 互いの背中を預けられるくらいの信頼関係がなければ、きっとどこかで綻びが生じる。彼もカナデのことを知る必要がある。

「後で俺にもカナデさんのことを教えてください」

「俺に興味持ってくれてるんですか? 物凄く嬉しいです。ミコトさんには何もかも正直に打ち明けますよ。約束します」

 カナデが彼の方を向く。彼は目を合わせた。瞳孔が開いていた。

 裏切ったら殺すと事前に伝えている。嘘を吐いても同様である。それをカナデが忘れていなければ、自分を騙すような真似はしないはずだ。殺されたくなければ。

 彼は甘いカフェオレを飲み、キャップを閉めて片手を空けた。その手をカナデに向けて伸ばし、無防備な首を掴む。カナデは驚くこともなく彼を凝視する。冷静だった。抵抗一つしない。

 急所である首を掴まれても全く動じない人間は初めてだ。自殺志願者であっても、多少のリアクションはする。緊張や期待、中には恐怖もあったかもしれない。

「ノーリアクションですか」

「殺さないと分かってますから」

「俺は一応何人も殺してますよ」

「俺を殺す予定で来てくれた時に身につけていた手袋を今はしていませんし、俺はミコトさんを裏切ってもいませんから」

 その答えが聞けたら十分だった。カナデは覚えている。その上で、今このタイミングで殺されるわけがないと確信している。それは彼を信頼している証左でもあるように思えた。

 彼はカナデから手を離す。カナデの首には彼の指紋がべったりと付着しているだろう。予定にない殺しはしない。衝動的な殺しはしない。そのことを、手袋の有無で見破られている。思っている以上に、彼はカナデに信用されていた。

 閉めたばかりのキャップをまた開ける。カフェオレは好んで飲んでいるが、喉の渇きを潤す飲み物としては向いていない。それでも飲んでしまうのは、単純に美味しいからである。理由など、それだけだ。カナデと手を組むことを決めたのも、人を殺したい彼にとって利益があり、美味しい話だからだ。途中でその味が変わってしまわないように、カナデに繋いだ手綱は決して離さない。

「血が嫌いな人は首を絞めて殺しました。苦しまずに死にたいという人は急所を狙って殺しました。希望がない人は殴り殺したり絞め殺したりするくらいで、特に凝った殺し方はしていません」

 カフェオレを飲み、気を取り直して話を戻す。普通であれば通報されるような会話が続いていても、大きな枠組みとしては同類のカナデが相手であればその心配もない。

「良い意味で誰にでもできる殺し方なわけですね」

「そうなりますね」

 下半身のものを切り取って食わせる所業もしたが、わざわざ後付けする必要もないだろう。その方法も、誰にでもできないわけではない。死体をバラバラに切断して処分するような人間もいるのだから、それと比べると彼の犯行など可愛いものである。

 切断、と考えて、彼はふと思う。死体を切断したら気持ちいいかもしれない。生きたまま切断するのも気持ちいいかもしれない。機会があれば、他の犯罪者のようにバラバラに切断してみるのもいいかもしれない。そうしてみたい。やってみたい。どうせ殺すのなら、まだ未経験の方法で殺ってみたい。殺りたい。

 殺しのモチベーションが上がった。既に埋まっている予定、カナデの檻の中にいる金蔓でいろいろと試してみたいものである。後輩カップルがコンビニに来た時に思いついた刺殺に加えて切断。まだまだ新たな感覚を味わえる可能性がある。

「ミコトさんが人を殺すところを見てみたいんですが、いいですか?」

 カナデの意表を突く発言に、彼は無言で横を向いた。室内灯のおかげで見えている顔は胡散臭く微笑っているが、冗談を言っている顔ではない。全くもって突拍子もない。好奇心が行き過ぎている。深夜テンションにでも入ってしまったのだろうかと彼は的外れなことを思ったが、冷静に会話を続けた。

「見てもいいことはないですし、カナデさんが今引っ掛けている金蔓を殺す時に見ようと思えば見られませんか」

「それはそうですが、いつになるかまだはっきりとしていませんし、何より事前に生で見ておきたいんです。言葉だけでは十分には伝わらないミコトさんの本領を」

 カナデの言い草が少々気になった。まるでこれから殺しをしてもらおうとしているような、そんな気配を感じる。

 彼は一呼吸置き、カフェオレを飲んだ。口を冷たくし、落ち着いた調子で問う。

「まさかとは思いますが、これからすぐですか」

「よく分かりましたね。そのまさかですよ。今日を逃したら、またしばらく会えないかもしれませんから」

「それは難しいお願いです。直近で誰かを殺す予定は今のところありませんので」

「それなら、これから予定を作って殺しに行きませんか?」

 予想だにしない提案に、彼は思わず言葉に詰まってしまった。これから予定を作って殺しに行くとは大胆不敵であり、慎重に事を進める節のある彼にとっては信じられない行動である。

 殺すこと、それ自体に抵抗はないが、思いつきで殺すことには抵抗があった。今日は殺人をするつもりではなかったため、その準備などできていない。カナデに言われるがまま適当な予定を作って即実行したとて、衝動的な行動とほぼ変わらないのではないか。

 断るべきである。流されて、殺しに行って、どこかでミスでもしたら元も子もない。しかしながら、殺したいという欲求が芽生えていることも事実であった。

 暫しの間、頭を悩ませる彼は、ひとまずカナデが作ろうとしている予定を聞いてから判断しようと口を開いた。

「一体どんな予定を作るつもりですか」

「今は肝試しのシーズンですから、人目につきにくそうな心霊スポットにでも行って、そこにいる人を全員殺すとかどうですか?」

「この近辺に心霊スポットがあるかどうかも、そこに人がいるかどうかも一か八かじゃないですか」

「でも可能性はゼロではないと思うんですよ。心霊系YouTuberというジャンルもありますし」

「心霊系YouTuberですか」

 向かった先でそのようなYouTuberがいたとしたら、一人二人ではない確率が高そうである。複数人をほぼ同じタイミングで殺したことは、父娘を殺したあの一回しかない。それも二人だ。三人以上だった場合は未知である。何の用意もしていない中で、相手が自分たちの人数よりも多い時、全員を始末することができるのか。一人でも殺し損ねたら今までの行為が全て水の泡になる恐れがある。カナデは殺しを見たいだけで、自分が殺すことはきっとしない。それができる人であれば、そもそも金蔓を最終的には殺してほしいと自分に頼むはずがなかった。人を騙すことはできても殺すことはできないと本人も言っていた覚えがある。とどのつまり、殺しを見ることはできても実際に殺すことはできない人なのだ。できそうな人なのに、それはできない人なのだ。

 彼自身、殺すことに罪悪感はなかった。恐怖心もなかった。懸念事項はそれではなく、誰一人取り逃がすことなく殺せるか否かである。逃げられたら追いかける必要があるが、足の速さに自信があるとは言えない。そのため、逃げられたら終わりだと考えるべきだ。終わりにさせないために、絶対に逃げられないよう詰めなければならない。それには一人では限界がある。カナデの協力が必須だ。

「もし本当に殺しに行くのなら、カナデさんも手を貸してくれますか」

 コーヒーを喉に通すカナデを見遣る。喉仏が上下して、飲み口からゆっくりと唇が離れた。その唇が、徐に開く。

「もちろん何でもしますよ。殺しているところを見たいとミコトさんに無理を言っている自覚はありますから」

「自覚があるなら撤回してほしいですが」

「それはできないですね。もう見たくて見たくてたまらなくなっています。ミコトさんも殺したくなっていませんか?」

 目を合わせられる。彼は思わず視線を逸らす。否定はできなかった。できなかったが、見透かされていることが妙に癪に触った。

 詐欺師に口では勝てないと分かりきっているため、煽られても無駄な口論をしたくない彼は息を吐き出した。殺したい気持ちはある。冷却期間は十分に設けた。人を殺したい。殺せるのなら、殺したい。自分は決して、善人ではない。そして今は、コンビニ店員でもない。

 彼はあれこれ考えるのをやめ、欲求に従うことを決めた。我慢できなくなって暴走してしまうよりも、自制が利いている時にしっかり満たしておく方が賢いだろう。今までもそうして来た上に、今回はカナデがいる。一人ではない。

「言い出しっぺとしてそれなりのことをしてもらいますが、いいですか」

「どうぞ。何でも指示してください。殺すことはできませんが、それ以外なら喜んで引き受けますから」

 互いの意思を確かめ合うように二人は見つめ合った。不穏な空気が流れていく。彼は間を置いて、人差し指を立てた。

「とりあえず一つだけ、絶対に失敗してほしくないことがあります」

 前置きをすると、それは何かとカナデが先を促した。彼は淡々と続けた。

「相手が複数人いた場合、俺が一人を殺している間に、一目散に逃走しようとする人が出てくると思います。その逃走を必ず阻止してください」

「逃走者が何人もいた場合はどうしますか?」

「その時は、殺すのを後回しにして、ひとまず全員の動きを封じることを優先します。瀕死にさせておけば、そう簡単に身動きは取れないはずです」

「分かりました。とりあえず、何があっても全員をその場に留めさせておけばいいわけですね」

 彼は頷き、阻止する時は足を狙うのが定石です、と付け加えた。足を痛めつけ、膝をつかせることができれば、逃走のペースは大幅に落ちるはずだ。四つん這いでは二足歩行よりもスピードは出ない。

 上手くいくかどうかは分からないが、やるべきことは決まった。あとは向かった先の心霊スポットに人がいるかどうかだ。いなければ殺すのも、殺しを見るのも、諦めるしかない。もしいたら、全員を殺すだけだ。

「俺から言い出したので、責任持ってちょこっと心霊スポットを調べてみますね。少しだけ待っていただけると助かります」

 カナデは缶コーヒーを飲み干してから、空になった缶を膝の上に置いた。両手が空いたところでスマホを取り出し、画面に指を滑らせ始める。片手では素早い操作はできないと踏んだのだろう。

 余裕のある態度は崩さず、しかし意外にも集中して検索するカナデを尻目に、彼は残りのカフェオレを飲んでペットボトルを空にした。キャップを閉める。自分も心霊スポットを調べようかと思ったが、二人が同じことをするのは効率が悪い。検索はカナデに一任し、彼はその間にゴミを捨てに行こうとカナデに声をかけた。

「その空き缶、俺のと一緒に捨てて来ますよ」

「本当ですか? ありがとうございます。優しいですね。普通に惚れ直します」

 相変わらずの惚れた何だの発言を流した彼は、カナデから空き缶を受け取り車から降りた。

 車外からカナデを盗み見る。人を殺すところを見たいなど変わっている人だと彼は思ったが、殺人が快楽に繋がる彼自身も大概普通ではなかった。

 殺人鬼の彼も詐欺師のカナデも、明らかに良心が欠如している。人を殺すことも、人を騙すことも、彼らからすれば食ったり眠ったりする行為と同じであった。だからこそ、まるで買い物に行くように人を殺しに行こうとしている。人を殺す人を見に行こうとしている。殺される人間に、ほとんど焦点は当てていない。

 設置されている分別用ゴミ箱に缶とペットポトルを捨てた彼は、まっすぐ車に戻った。

「ミコトさん、ここどうですか?」

 乗り込むや否や、待ち構えていたようにカナデにスマホを向けられた。コンビニで後輩に画像を見せられた時の記憶と重なったが、カナデのスマホの距離感は後輩と違ってちょうどいいものである。近くもなく、遠くもない。

 スマホの画面には、見た人の恐怖心を煽るかのようなおどろおどろしいトンネルの画像が映っていた。あまり整備されていない印象だ。人の手がほとんど加えられていないことが窺える。ここに人が来ることなどあるのだろうかと疑問に思うが、それはどこの心霊スポットを見ても感じることであるかもしれない。故に、場所はどこであっても一緒であった。

「俺はどこでも構いません」

「でしたらこのトンネルにしてみます。ハズレを引いても恨まないでくださいね」

「ご心配なく」

 彼は車のエンジンをかけた。カナデにそのトンネルの住所を教えてもらい、ナビを設定する。

 ドライブの予定が、途中で殺人の予定に変わるとは思っても見なかったが、人を殺せるのなら通常の方法と違っていても良しとした。新鮮な気分を味わえるかもしれない。

 彼は緊張感や高揚感を胸にシートベルトを締め、早速車を道の駅から出した。

「誰か人はいると思いますか」

「いたらラッキーくらいの感覚ですね」

「同感です」

 車を走らせながら短い会話を交わす。人がいた時に殺ることは決定したが、それを実行できるかどうかの確率は限りなく低いだろう。それでもゼロではない。そのゼロではない可能性にカナデは賭け、突飛な提案をしたのだとすると、ギャンブルが過ぎるようにも思う。詐欺師はそのような賭けに強そうではあるものの、運が味方するかどうかは結果が出るまで誰にも分からなかった。

 カナデと一言二言話しつつ、ナビに従うこと数十分。目的地周辺だと思われる場所に到着した。ナビはまだ案内を終えていなかったが、指示する先は道が極端に狭くなっており、Uターンして帰ることも考えるとそれ以上車を進めるのは躊躇われた。今の時点でもそれほど道は良くないため、その向こうは更に悪路になっているだろう。

「ここから先は車だと小回りが利きそうにないですね」

 カナデも同じ意見のようである。彼は車を邪魔にならないスペースに置いてエンジンを切った。シートベルトを外して降車し、ナビが案内していた先を見る。奥まった場所でもあるせいか、月明かりはあまり届いていない。しかし、全く何も見えないわけではなかった。

 トンネル付近に人がいるかどうかの判断はまだできないため、いた場合に備えた行動を取ろうと彼は静かに足を進めた。自分の存在にできるだけ気づかれないよう、スマホのライトに頼ることもせず野生の勘で地を踏んだ。

「ライト点けずに行くんですね」

「光があると目立ちますから」

 足元を照らすことなく歩き出した彼の隣を、同じく人工的な光に頼ることをしないカナデが陣取る。合わせてくれたのだろうと思いながら、彼は砂利道をどんどん奥へと進んで行った。

 二人揃って、心霊スポットへ向かっているという恐怖心もないまま歩き続けていると、視線の先で自然のものではない光が見えてきた。微かに人の話し声のようなものも聞こえる。

 彼は暗がりでカナデと目を合わせた。目があったと分かるくらいには闇に慣れ始めていた。

「持ってますねミコトさん」

「持ってるのはここを選んだカナデさんじゃないですか」

 何はともあれ、これは僥倖だ。人がいる。つまり殺せる。カナデからすれば、それを見られる。勝率の低い賭けに勝ったことは、彼にスイッチを入れさせるには十分だった。

 使う予定はなかったにしても、手袋を車に乗せて置くくらいのことはしておいても良かったかもしれないと今更後悔したが、ないものは仕方がない。他で代用して、最低限、指紋を残さないように殺したい。

 彼は標的との距離を縮めながら、何かないかとあれこれ思案し、結局自らの服に落ち着いた。羽織っていた薄手のパーカーを脱ぐ。これで首を絞めるくらいはできるはずだ。

「カナデさん、指紋には注意してください」

「指紋ですか? 分かりました」

 カナデが直接手を下すことはないだろうが、気をつけておくに越したことはない。イレギュラーの殺人であっても、やれるだけのことはやっておきたいのだった。

 カナデと足並みを揃えながら突き進む。微かだった人の声が徐々にはっきりしたものに変わっていく。学生と思しき男子の声のようだった。二人は夜に溶け込むようにどちらからともなく息を潜めた。

「お前、なよなよしてる上に優柔不断すぎるよな。いつになったら決めんの?」

「早くしろよ。お前のせいで俺ら帰れないじゃん」

「ラストチャンスでもう一回聞いてやるけど、ここのトンネルを一人で往復するか、金属バットで最低二十回殴られ続けるか、全裸でダンスでも披露するか、選べよ。どれかやってくれたら解放してやるってこっちは言ってんの。分かる?」

「ど、どれも、いや、いやです……」

「嫌だって? 調子乗んなよ」

 鈍い音が響いた。足か手で、もしくは金属バットで暴行を加えた音に違いない。呻き声も聞こえた。明らかに、心霊系YouTuberの類ではなかった。

 声の数からして、相手は四人。一人は金属バットを所持しており、一人はスマホのライトでその場を照らしている。そして一人は両手が空いており、一人は地面の上で丸くなっている。

 まず狙うのは金属バットの男子だろう。金属バットは十分な凶器となり得る。頭をかち割られたらこちらが殺されてしまうかもしれない。そうなる前に殺して、金属バットを奪ってしまいたい。それを手に入れてしまえば、素手よりも遥かに楽に殺せる。金属バットで撲殺するという初めての経験も味わえる。

 彼の集中力は途端に上がった。三人を通り越して四人をまとめて殺せる。この機会を逃すわけにはいかない。全員絶対に殺す。

 脱いだパーカーを両手で握り締め、ペースを落とすことなく金属バットの男子の背後に迫った。気づかれても構わない。先手必勝だ。逃走しようとする人間はカナデに任せておけばいい。

 リンチに集中している三人のうち一人が、不意に何かの気配を感じたかのようにパッと振り返った。その瞬間、驚愕の声を上げる。連れの声に反応して咄嗟にこちらを見る金属バットの男子の首に、彼は躊躇なくパーカーを回した。

「え……」

 一番最初に殺ると決めた男子の口から気迫に欠けた声が漏れた。

 突然の出来事を前に、必死に状況を理解しようとするかのような数秒の沈黙がその場に落ちる。彼はその間に、抵抗しようとする男子の膝裏を乱暴に蹴り、次いで背中を足で踏んで押し、首にパーカーを食い込ませた。男子は両手で首に隙間を作ろうとしている。金属バットは手放されていた。

「お、おい、冗談だろ……。お前、何だよ、誰だよ、いきなり何して……。おい、やめろ、やめろよマジで……」

 強気な態度はどこへ行ったのか。完全に動揺している一人の男子は、スマホを持つ手を震わせながら弱々しい声を上げた。逃げることも助けることもできずに慄いている。

 一人は腰を抜かしたようなリアクションだったが、もう一人は何やら叫びながら果敢に挑もうと襲いかかってきた。彼は人を踏んで首を絞めたまま顔を上げた。迫る男子と目が合うと、男子の方が萎縮する。彼は霊すらも怖気付きそうなほどの無表情だった。それでも彼の中には、これまでと同じように滾るものが確かにあった。

「これは君たちの手に渡ると危ないので、こちらでお預かりしますね」

 彼の影に隠れていたカナデが、怖がらせないようにとばかりに明るく宣いながら、地面に転がっている金属バットを伸ばした服の袖を使って拾った。その行動を、この場にいる男子たちは誰も止められない。予期せぬ異様な闖入者二人にひたすら混乱している様子だった。彼らはそれを意に介さず、計画を遂行する。

「まだ死んでないですか?」

「死んでもしっかり殺すことが大事ですから」

「それならこれで殴った方が余計な体力を使わなくて済みそうですよ」

 カナデが預かると称して拾った金属バットを我が物顔で差し出してきた。結局はそれで殴り殺すつもりでいたため、指示をしなくても当然のように凶器を入手してくれたカナデの行動はありがたかった。本人にそのつもりはないかもしれないが、気が利く男である。

「こちらの手に渡っても危険なことに変わりはありませんね」

 彼は男子の首からパーカーを引き抜き、金属バットに指紋をつけないようにカナデから受け取った。男子は失神しているのか、もう既に息をしていないのか、首が解放されたとて動かなかった。しっかり殺るのは後でも良さそうだ。

 彼は目を上げ、まだ傷のついていない人間を順に見た。言葉を失くしていた男子たちが悲鳴を上げる。躊躇なく人の首を絞めた彼が金属バットを握り、見定めるような視線を向けたことで、更なる身の危険を感じたかのような必死の叫声だった。

 金属バットを持つ手を動かした。その瞬間、パニックに陥った男子二人が、彼の足の下にいる友人であろう男子と、リンチに遭い既に瀕死になっている男子を置いて逃走しようとする。

 一人はカナデに任せ、一人は殴ることを瞬時に決断した彼は、足を縺れさせる男子、先程襲いかかろうとしてきた男子の頭目掛けて金属バットをフルスイングした。躊躇がなく、また容赦もなかった。

 濁点がついたような鈍い音がし、パーカーの布越しから確かな手応えを感じた。地面に倒れるような重たい音も後に続く。苦しそうに呻く声も耳が拾う。

 嗜虐心が刺激され、彼の全身に快感が走った。初めてにしては上出来だ。気持ちいい一発だ。当たれば一撃で足止めできる金属バットは有能だ。

「凄い音しましたね」

 低い位置からカナデの声が聞こえ、彼は顔を向けた。カナデは約束通り捕らえたもう一人の男子を俯せに倒し、その上に腰を落ち着かせていた。男子は必死に踠いているが、カナデが座っている位置は膝裏辺りである。男子が膝をついて腰を上げたり足を曲げたりすることは困難な状況であった。

 彼はまだ元気な男子を殴る前に、這ってでも逃げようとし始めた男子の頭にもう一度金属バットを振り下ろして止めを刺した。動きが止まる。

 徹底的に殺すことは後回しにし、彼は次の標的に近づいた。錯乱し、日本語かどうかも分からない言葉を発して無駄に足掻く男子の頭に狙いを定める。

 カナデがじっとこちらを凝視していた。そこはきっと特等席だ。彼は金属バットを握り直し、やはり躊躇なく、人の頭に叩き込んだ。男子の口から呻き声が漏れる。その声を消すために、彼はほとんど間を置くことなく、凶器と化した道具で再び頭をかち割った。

「とんでもないサディストですね。容赦なさすぎて逆に惚れ惚れします」

 人の膝裏に座って平然としているカナデも似たようなものではないかと彼は思ったが、口にはせずにスルーした。

 彼は忘れることなく残りの一人に目を向け、血液の付着した金属バットを握ったまま歩き出す。腰を上げたカナデが付いてくる気配を感じながら、死んだように横たわっている男子の傍に立ちその姿を見下ろした。

 男子は逃げない。体を起こそうともしない。今の間に死んでしまったのかと思ったが、それとなく息遣いは感じた。まだ生きてはいる。生きてはいるが、恐らくもう諦めている。自殺志願者を中心に殺してきた彼の勘が働いた。

 彼は金属バットを杖代わりにして膝を折り、瀕死の男子に尋ねた。

「どんな風に殺されたいか、希望はありますか」

 耳を澄ませて返事を待つ。男子はなかなか喋らない。喋る気力すら湧かないのだろうか。だとしたら、好きに殺すしかない。返答を待っていたら日が暮れる、否、夜が明ける。

 諦めて立ち上がろうとした時、足元から微かに声がした。男子が何か喋ったようだが、小さすぎて聞こえず、もう一回いいですか、と彼は聞き直して今一度耳をそばだてた。

「痛いのは嫌いです。痛いのはもう嫌です。もう楽になりたいです。楽にしてください。助けてください」

「そうですか。分かりました」

 一度は聞き取れなかった要望を聞いてすぐ、彼は金属バットを手放し、パーカーを手袋代わりにして首を絞めた。これは苦しいだけで、痛くはないはずである。

 殺せたら後はどうでもいい彼にとって、男子の身に起きたことに関心はなかった。男子が受けた痛みにも共感できなかった。それが可能な人間であれば、人を殺して快楽を得ることなどない。

 首を絞め続け、生が感じられなくなっても絞め続け、手が疲れ始めたタイミングで離す。男子は静かに絶命したようだが、念には念を入れて殺すことに拘る彼は、その場を立ち、絞めた首を踏み潰した。体重をかけて踏み潰した。

 一頻り押さえつけたところで気が済み、再び金属バットを掴み取る。楽に殺させてくれた、瀕死だった男子にもう用はない。彼は最初に始末した男子に目をつけ後頭部をバットで突いた後、狙いを定めてぶん殴った。ぶん殴った。ぶん殴った。何度も殴った。殴った。殴った。一連の動作に迷いはなかった。他の二人を殴ることにも迷いはなかった。

 殴り殺した人間をまた殴り、殴り殺した人間をまた殴り、殴り殺した人間をまた殴り、殴り殺した人間をまた殴り、殴り殺した人間をまた殴り、殴り殺した人間をまた殴った。彼は三人を徹底的にぶちのめした。満足するまで叩きのめした。生を殴る行為も、死を殴る行為も、どちらも快感だった。

 四人の人間を殺しまくったことで、心も体もすっきりするほどに満たされた彼は、息を吐きながら金属バットを投げ捨てた。パーカーを腕に引っ掛ける。

「帰りますか」

 人を殺害して損壊したことに罪悪感もなくカナデに呼びかけると、カナデは次は自分の独擅場だとばかりに死んだ人間の衣服を指紋に注意しながら弄り始めた。何をしているのかと思ったが、一切制止することなく好き勝手殺らせてくれた手前、口を挟むことは憚られる。彼は黙って事の成り行きを見守った。

 カナデは死体の衣服のポケットに順に手を突っ込み、何やらあるかないかの確認をしている。目的のものがあればそれを引っ張り出して中身を開け、その中のものを躊躇なく抜き取る。

 すっかり夜に目が慣れた彼は見た。カナデが探っているのは財布であり、奪っているのは紙幣であることを。大金は入っていないだろうが、それでも一枚残らず盗っていた。まとまった金を騙し取れる詐欺師であるのに、やけに貧乏臭い行動であった。

「お待たせしました」

 奪った金を自身のポケットにしまいながら、カナデが彼の傍に寄った。彼は何も言わず、何も聞かず、カナデを一瞥してから歩き出す。カナデは後に続き、彼と肩を並べて歩いた。

「ミコトさんが人を殺すのを生で見られて良かったです。迫力満点でした」

「そうですか」

「非常に少ないですけど、俺も金を盗れましたし、なんだかんだ言って一石二鳥でしたね」

 一石二鳥と口にするカナデも彼と同じで、罪悪感はないようである。死体に対しても恐怖心は皆無で、それだけでカナデのことを多少なりとも知れたような気がした。

 息をするように平気で罪を犯す二人は、ライトも点灯せずに夜道を進んでいく。人を殺しても、金を盗んでも、彼らの心が乱れることはないのだった。


 ◇


 嬉々として話をしている相手が人殺しだと知ったら、一体どのようなリアクションを取るのだろう、と彼は仕事の相方である後輩を雑に扱いながら思った。

 わざわざ人を殺したことがあることをひけらかすような真似をすることはないが、そのうち知られてしまう可能性がないわけではない。捕まらないことが一番だが、こればかりは彼も自信を持って、自分は捕まらない、とは言えなかった。いつどうなるか分からないものの、人を殺せるうちは殺していたい。あの快感は、何物にも代えがたいものなのだ。

 殺害した人数が一気に四人増えたとしても、彼の日常に大きな変化はなかった。後輩も店長も、その他の仕事仲間も、彼を見る目は変わらない。深夜に訪れる客も同様だった。

「ありがとうございました」

 目当ての商品がなかったのか、何も買わずに出て行った客を、後輩が元気な声で送り出した。後に続いた彼の声とは温度差があり、まるで真逆である。

 後輩のような明朗な店員に対応される方が客も気分が良いだろう。声のかけやすさも、寡黙な彼よりも口数の多い後輩の方が遥かに上であることは間違いない。それでも彼も店員だ。話しかけられることが全くないわけではなかった。

 冷やかしに来ただけの客がいなくなり、店員である彼と後輩だけがコンビニ内に残される。深夜に訪れる客は元々多くはないものの、今夜は一段と店内の空気がのんびりとしていた。

「なんか、平和っすね」

 隣にいる人間が殺人鬼であることも知らずに平和だと口にする後輩は、彼をただの先輩だと信じ切っているようだった。警戒心は感じられない。後輩含め誰も、自分のすぐ隣に犯罪者がいると思うはずもない。

 裏で複数の人間を殺していたとしても、表で危険人物だと思われていなければ、その他大勢の中に溶け込めてしまえる。彼はどこにでもいる大人の男である。それは詐欺を働いているカナデも同じだろう。詐欺で得た金以外にも、真っ当に働いて得た金をカナデも持っている。彼らは極悪人でありながらも、きちんとした職場で働き、義務となっている納税をし、社会に貢献しているのだった。

「平和なことは良いことだと思いますが」

 彼は誰でも思いつきそうなそれっぽい言葉で後輩の相手をする。そうなんすけど、と何か言い分があるらしい後輩は続けた。

「先輩と一緒の時って、何か特殊なことが起きる確率が他の人と比べて高い気がするんで、平和すぎるとなんか逆に落ち着かないんすよね」

 特殊なことと聞いて、強盗と全裸男の件が頭に浮かんだ。確かにどちらも後輩と同じシフトの時だった。女性店員目的で来店してきた男もいた覚えがある。その時は後輩ではなく店長と一緒であったが、いずれにせよ、特殊なことが起きた全ての当事者でもあるのは彼のみだった。

 面倒事に巻き込まれることなく平和に仕事を終えられるのならそれに越したことはないだろうに、何も起きなさすぎて落ち着かないとイレギュラーを欲しがっているような後輩の独特な感性は理解に苦しむ。

 そんなに刺激を求めているのなら殺してやらなくもないと血迷いそうになったが、善人の仮面の下に留めて脳内で雑に殺しておいた。後輩は合計で二回死んだ。

 どんなに殺しても、現実の後輩は死なない。殺されていることも知らない。彼は生きている後輩を横目で見遣った。

「落ち着くようなことが起きなくても落ち着いてください。そわそわされると目障りですから」

「目障りっすか? いきなり毒吐き無慈悲な先輩のお出ましじゃないっすか。流石に傷つくっすよ」

「傷ついた人間がそんなリズム良くいきなり毒吐き無慈悲な先輩とか言わないと思いますが」

「うわ、なんか今ドキッとしたっす。流石、男が惚れる男っすね。俺の言葉復唱してくれた先輩は貴重っす」

 後輩は口角を上げ、目尻を下げ、嬉しそうに破顔する。人懐っこそうな笑顔を見せる後輩を見ながら、今の発言のどこに胸が跳ね相好を崩すような要素があったのだろうと彼は首を傾げてしまいたくなった。

「先輩って本当にかっこいいっすよね。彼女もずっと推してるんすよ。もちろん俺も推してるっす。おまけに俺は惚れてもいるんすよ、マジで。俺みたいに先輩に惚れてる人は結構いそうっすけど、心当たりとかないんすか?」

 積極的で暑苦しい後輩のテンションが上がっている。この状態が長く続くと疲れてしまう未来が見えた。後輩が喋れば喋るほど、彼の気力はじわじわと奪われていく。

 彼女持ちでありながら彼女以外の誰かに惚れているとはにかむこともなく自信を持って言ってみせる後輩と、初対面で惚れた後から事あるごとに惚れ直しているという掴みどころのないカナデとが微妙に合わさったが、性格が不一致すぎるあまり同極を突き合わせた磁石のように即座に弾かれた。

 後輩とカナデなら、カナデといる時の方が害のない人間を演じなくて済む分、気が楽なことに彼は今になって実感した。どちらかを殺すような状況に陥ったら、迷わず後輩を殺すかもしれない。

「心当たりはありません」

 カナデのことを思い出していたが、彼は完全否定した。馬鹿正直に答える気はない。カナデの存在を後輩に打ち明けると後々面倒そうである。計画に支障をきたすような真似はできなかった。

「ないんすか? じゃあ先輩が気づいてないだけかもしれないっすね」

 心当たりがあったところで自分で心当たりがあると肯定するのもいかがなものかと彼は思った。ナルシストのような自己に陶酔しがちな人間であればよくぞ聞いてくれたとばかりに自信満々に答えるのかもしれないが、彼は自分にも他人にもそれほど関心がない冷酷な人間でしかなかった。

「彼女含め俺を推すとか惚れているとか変わってますね」

「変わってるなんてそんなことないっすよ。先輩自己肯定感低すぎじゃないっすか? 先輩は本当にマジでめちゃくちゃ魅力的な人なんで、もっと自信持っていいと思うんすよね」

「そうですか。あまり興味はないですね」

 彼は後輩を冷たく流し、しばらくサボっていた仕事を再開しようとレジを離れた。情に熱い後輩との会話を強制的に終わらせる手段でもあった。

「そういう素っ気ないところも魅力の一つっすからね、先輩」

 無駄に大声で呼びかける後輩を無視して売場の整理を始める。冷淡な対応をされても後輩は反発することも不機嫌になることもなく、寧ろ犬のように尻尾を振って楽しそうに笑っていた。

 いくら冷たく突き放しても、後輩は他の仕事仲間と違ってめげずに駆け寄ってくる。未だに連絡先を知りたがるくらいには諦めが悪くしつこかった。親しくなれば教えてくれると希望を抱いているのかもしれないが、そもそも彼は後輩と親しくなりたいわけではない。一定の距離感がほしいところである。後輩はその距離感を遠慮もなく詰めてくるのだから考えものであった。

 一回懲らしめてやろうかと思ったことがないわけではないが、そこまでする熱量は彼にはない。殺す予定でもない相手に熱くなるのは柄ではない上に、その労力が無駄に思えてならなかったのだ。余計な体力を使いたくなかった。寄ってくる後輩には心を開くことなく遇い続け、このまま仕事での人間関係を上手く調整するしかない。

 隣にいると何かと喋りかけてくる後輩から逃れた彼は、レジは後輩に任せ、隅から隅まで売場を綺麗にすることに集中した。

 後輩はもうレジ業務に慣れている。彼が教えることは何もない。近くにいなくても、見ていなくても、全く問題はなかった。

 呼ばれたら行く。呼ばれなかったら行かない。基本的なことではあるが、できるだけ呼ばれないことを彼は願った。強盗犯や露出狂の男といった、罪の重さにギャグかそうじゃないかほどの差があるような犯罪者の来店がまたしてもあっても、呼ばれたくはない。犯罪者の来店を心配するのもおかしな話ではあるが。

 一度でもイレギュラーな出来事が起きたら、またそのようなことが起こるかもしれないと懸念するのは当然のことだった。実際に二回目があった。三回目はまだないが、この場合の三度目の正直など不要である。

 これ以上治安の悪い夜のコンビニと化してしまうのは避けたい。三回も警察沙汰になってしまったら、いよいよ顔を覚えられてしまうかもしれなかった。裏で人を殺しまくっている彼にとっては、それが一番の懸念事項である。変にマークされるわけにはいかない。殺す予定の人間を殺せずに手錠をかけられるなど冗談ではない。もう人を殺せなくなるのも冗談ではない。自分はまだ、人を殺したい。彼はまだ、人を殺したいのだった。

 そのような外道じみた欲求を真顔のままふわふわと脳裏に浮かばせながら、彼はお菓子コーナーへ手をつけた。何度も人を殺した汚れたその手で、整理をするために食品を触った。しかしこれを客が購入したとて、客は気づきもしない。思いもしない。自分の身近に殺人鬼がいると誰が疑うのか。この近辺で殺人事件が起きていて、犯人が逮捕されていないのならともかく、ここで人が殺されるような血生臭い事件は起きていない。殺人鬼が潜んでいるなど、普通に生活をしているなど、誰も思わない。客の目から見れば、彼はただのコンビニ店員である。そこで働いているだけの人間である。

「いらっしゃいませ」

 客が来店した。レジにいる後輩が明るい声で出迎えている。遅れて彼も、仕事だと割り切って同じ言葉を放つ。後輩と比べるとやはり、声は低めだった。

 お菓子コーナーはレジの近くで、入ってきた客がレジに直行する姿が見えた。中年の女性であり、深夜によく煙草を買いに来る女性である。人に興味のない彼であっても、常連客の顔は嫌でも覚えてしまうのだった。女性は今日も煙草が目的だろう。

「煙草を買いに来たんですが、いつも持ってきている空箱を誤って捨ててしまって。番号言いますので、ちょっとだけ見させてください」

 少しだけ前のめりになった女性が、レジ奥にずらりと並んでいる煙草の番号を目で探り始める。女性が目当ての銘柄を見つける前に、後輩の手が先に動いた。

「いつも購入していただいているのはこちらだったでしょうか?」

「あ、そうです。すみません、ありがとうございます。まさか覚えてくださっているとは、お恥ずかしい限りです」

 恐縮する女性は腰が低かった。相手が年下であっても店員でありまた他人でもあるからだろう、敬意を払っているのがよく分かる。年下で若い店員だからとタメ口で気さくに話しかけてくる客もいるが、女性はそのような親しみを込めて話すタイプの客ではないようだった。どんな人間とも一定の距離を保ちたい彼にとっては、敬語を使わない客よりも使ってくれる客の方が不満はない。店員との距離が近くないこの女性は良客だと言えた。

 深夜の常連客である女性がどの銘柄の煙草を購入しているのか覚えていた後輩は、にこにこと愛想の良い笑顔を見せながら女性客の対応をする。

 後輩はよく笑う人間だった。表情も感情も豊かで、暗い雰囲気は一切ない。そのため、彼と並ぶと明暗がはっきりしてしまうのだった。

 彼はもう何年も笑っていない。最後に笑ったのはいつだったか、それすらも思い出せない。

 笑い方を忘れてしまいそうなほどに笑っていなかったが、だからどうしたというわけでもない。笑わないのが彼である。それを周りの人間も知っている。おかしなことは何もない。彼は感情を決して顔に出さないクールな人間であるだけだった。

 煙草一箱のみの会計を済ませ、会釈をしながら礼を言って帰っていく女性を、後輩はまた元気よく送り出した。彼も口を開いた。心が籠もっているかいないかで言えば、それほど籠もってはおらず、マニュアルを読んでいるだけかのような淡々とした声だった。

 女性客が店内を後にし、後輩と二人だけの時間が再び訪れた。彼は作業する手を止めない。商品の整理が終わったら清掃でもするかと次の仕事のことを考えながら、乱れている商品を黙々と整えていった。

 レジにいた後輩が売場に出た。突っ立っているわけにはいかないと思ったのだろう、後輩も仕事に着手し始める。

 口数の多いちゃらんぽらんな男だが、著しく仕事に不熱心というわけではなかった。ヤンキーや不良とは異なる属性で、決して悪い人間ではない。後輩は善人であるため、悪人を許すこともきっとない。強盗犯からの暴力には屈してしまったが、逃走を図った全裸男に関しては体を張って捕らえた実績を持っている。正義感や責任感が強くなければ、逃げた犯罪者を咄嗟に追いかけて捕まえるという危険な行為はできないだろう。強盗の被害に遭った際に何もできなかったことを悔いた上での深追いだったのかもしれないが、理由は何であれ、後輩は人のために動ける人間だ。どこからどう見ても、彼とは正反対の人間だった。

 真人間である後輩が慕う先輩に扮する彼は、唇を真一文字に引き結び、流れ作業のように淡々と簡単な仕事をこなし続けた。

 商品であるお菓子を前出ししている最中、どこからともなくふわふわと飛んでやってきた小さな黒い物体が視界に映り込んだ。彼は目で追う。今の時期になると非常に鬱陶しい蚊だった。女性客が扉を開閉した際に侵入してきたのかもしれない。

 人よりもムカデよりも遥かに極小な蚊であっても、吸血しようとしてくる時点で殺す以外の選択肢はない。

 彼は蚊を刺激しないように緩慢な動作で両手を広げた。タイミングを見計らい、挟み込むようにして叩き殺す。狙いは命中し、潰された蚊が真っ逆様に落ちていく。一発で仕留められたことに気分よくなりながら、彼は床に落下した蚊を摘んでゴミ箱に捨てに行った。

「叩くような音したっすけど、なんかあったんすか?」

「蚊がいたので殺しただけです」

「蚊っすか? 一発で仕留めたんすね。流石っす」

「手洗ってきます」

「了解っす」

 話が長くならないよう、早めに後輩に断ってからバックヤードへと向かった。まっすぐ休憩室へ入り、手洗い場の蛇口を捻る。落ちる水の中に手を入れて洗いながら、近いうちにまた人を殺したいという願望の芽が花開いた。蚊如きで満足できるはずもなく、中途半端に刺激された欲求が目を覚まし、むくりと起き上がってしまったのだった。

 殺す予約をしているカナデの金蔓は、いつになったら殺せるだろうか。カナデからの吉報はまだない。

 間に別の殺しを挟めるか否か確認するためにもこちらから連絡をしてみるか、と仕事が終わってからすることを決めた彼は蛇口を閉めた。手を振って水気を切り、自然乾燥させる。ハンカチの類を持参しているような男ではなかった。

 店内に戻ると、後輩がレジに立っていた。彼がいない少しの間に来店した客を捌いたばかりのようだが、後輩は不意にしゃがみ込み何やら床を見回し始めた。物探しをしているような顔つきであり、時折首を傾げている。見て見ぬ振りをする手もあったが、些細な出来事が後で大きな問題に繋がることもないわけではない。そうなった場合に咎められたくない彼は、困っている様子の後輩に近づいた。

「どうしたんですか」

「あ、先輩。いや、さっきちょっと受け取ったお金を落としちゃったんすよ。一枚だけ、どこに転がっていったのか分からなくて、全然見つからないんすよね」

「何円ですか」

「五十円すね」

 決して騒ぎ立てるような金額ではないが、精算をする際、一円でも五円でも合わなければ違算として処理されてしまう。金銭を取り扱う以上、そこはしっかりしておかなければならなかった。

 彼は探すのを協力し、後輩と一緒になって床を見下ろした。金を落としてしまった時、まさかと思う所にまで転がっていることがある。そこにはないだろうと期待できないような所にまで目を向けてみると、床にぽつんと取り残されている五十円玉にピントが合った。レジの外にまで転がっていた。彼は蚊を摘んだ所作と同じ所作で硬貨を摘んだ。

「ありました」

「え、秒で見つかったじゃないっすか。どこにあったんすか?」

「レジの外です」

「まさかすぎてそこまで見てなかったっす。ありがとうございます」

 目を見開き、次いで笑みを見せる素直な後輩は、彼から五十円玉を受け取り、自動釣銭機の投入口に入れた。機械が作動し、五十円玉を飲み込んだ。

 すぐに発見できる場所に倒れてくれていて良かったと彼は思う。いくら探しても見つけられず、まるで神隠しにでもあったかのように行方不明となる不思議な現象が起きたこともあったため、そうはならずに済んだことに安堵した。店員も客も含め、誤って小銭をばら撒いてしまった時に探し出せなかった金は、今もどこかに放置されているだろう。見つかっても誰のものか分からないため、募金にされる確率が高かった。

「それにしても、今日は本当に静かで平和っすね。嵐の前の静けさみたいな感じじゃないっすか?」

「だとしたら不穏すぎますね」

 彼は冷静に突っ込んだ。後輩が金を落としたことも、嵐の前の静けさという言葉が出てくることも、考えようによっては不穏そのものである。警察沙汰になるような大事なことは何も起きなくていい。起きてほしくはない。

 後輩が感じている不吉な予感から目を背け、彼は蚊を殺した売場へ戻ろうと歩みを進める。彼の後を追うように後輩もレジから出たちょうどその時、出入口の扉が勢いよく開いた。

「いらっしゃいま……、え……」

 いち早く反応した後輩の声が不自然に途切れ、困惑したような揺れた息が漏れた。その瞬間、和やかだったはずの空気が一転し、張り詰めたものに変わった。透明な水の中に黒くて害のある異物が混入したかのようだった。いや、確実に混入していた。来店してきた、見るからに小汚くて息の荒い人間は、こちらに鋭利な刃物を突きつけていたのだ。

 舌を打ちたくなった。不要な三度目の正直であり、早すぎるフラグ回収であった。ぶっ殺したくなる。叩き潰したくなる。

 買い物が目的じゃないなら来るな。回れ右してとっとと帰れ。こっちは警察沙汰になりたくないのに。

 内心で不満を漏らす彼のことなど露知らず、刃物を持った男を前に顔を引き攣らせる後輩は、できるだけ男を刺激しないようにじりじりと後退する。対して肝っ玉の大きい彼は、いつ爆発するかも知れない爆弾のような男を目の当たりにしても物怖じせずに前進する。しかし、目を血走らせた男の方が二人よりも初動が早かった。男は出入口から一番近くにいた後輩に目をつけ、弱気な心を打ち消すかのように汚い咆哮をあげて突進する。あまりの剣幕にたじろぐ後輩は逃げ遅れ、男の攻撃を許してしまった。来た道を戻っていた彼も間に合わなかったが、少しも焦ってなどいなかった。

 刃物が後輩の腹部に突き刺さる。後輩は顔を歪ませる。バランスを崩し、突進してきた男に押し倒される。刃物が更に深く突き刺さる。刺された箇所から溢れ出る血液が衣服を赤く濡らしていく。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 荒い呼吸が耳をついた。彼でも後輩でもない。突然後輩を刺した男のものだ。人を刺したことで理性の箍が外れ、ハイになっている様子である。自棄を起こしていると言っても過言ではない。

 怨恨か、無差別か。その答えは、男が次に彼を標的にするような充血した目を向けたことで明らかとなった。無差別だ。男の顔に覚えはない。後輩も、男と面識がある風ではなかった。八つ当たりの犯行である。

 後輩が刺されようとも人が人を刺そうとも、全くパニックになることなく、彼は二人の元へ近づいていた。もう一人の店員を刺すために後輩の腹部から刃物を引き抜こうとした男の手を、恐怖心もなく掴んで止める。凶器がなければ強くなれない男は遮二無二引き抜こうとするが、彼の力の方が強かった。

「じっとしてください。顔に蚊が止まってますので」

 止まっていない。付近に蚊すらいない。平然と嘘を吐いた彼は、蚊を殺すためだと暗に仄めかし、男の頬を加減も躊躇もなく引っ叩いた。男が反射的に頬を押さえる。刃物の柄から手が離れた。

「逃げられてしまいました。でも蚊に感謝ですね。平手打ちで目が覚めたようですので、早く救急車を呼んでくれませんか」

「あ、あ、ぼ、ぼく……、ぼく、ぼくは、なんてことを……」

 頬を叩かれたことで我に返った男は、よろよろと後輩の上から退き青ざめた顔でわなわなと唇を震わせた。彼の声は届いていない。専ら自分のした行動に恐れを抱くのみである。

 使えないと瞬時に見切りをつけた彼は、声も出せないほどの激痛に脂汗を流す後輩に、刃物は抜こうとしないでください、と落ち着いた口調で告げた。

 レジにある子機を取りに行き、救急車を呼ぶ。状況や後輩の容態を説明し、結局、警察にも来てもらうことになった。人が刺されてしまった以上、警察の介入は避けられない事案である。犯人は頭を抱え、戦意喪失している。逃走することはないだろう。

 救急車が来るまで、彼はオペレーターに指示された通りに応急手当を施し、出血を防いだ。後輩の意識はまだある。

 善人であるコンビニ店員として後輩の命を繋ぎながらも、どうしてこうも大なり小なり事件の被害に遭ってしまうのだろうと彼は溜息を吐きたくなった。

 事件を携えて来た、今はもう意気消沈している犯人の男を脳内で刺し殺す。滅多刺しにして殺す。次に誰かを殺す時は、手順はどうであれ、絶対に身体に無数の穴を空けることを彼は密かに決意した。


 ◇


【ちょうどミコトさんに、近々招待ができそうなことをお伝えしようと思っていたところなんですよ。連絡を取ろうとするタイミングが重なるなんて気が合いますね】

 カナデに進捗具合を尋ね、また時期が来たら言いますね、お願いします、と画面上でのやりとりを締めてから一週間が経っていた。殺しと殺しの間に十分な冷却期間を設けたい彼は、金蔓との間には何も挟めそうにないことをカナデの返信で察知する。下手に動こうとせず、大人しく連絡を待つことに徹した。

 彼はすっかり住み慣れたアパートで、市販のスティックと牛乳で簡単に作れるアイスカフェオレをちまちまと飲んでいた。今日は休日である。本来であればシフトが入っていたが、見知らぬ男に刃物で刺突され、数週間の入院を余儀なくされた後輩の穴埋めをするためにシフトを再調整した結果、休日が変更になったのだ。元の休みの日に予定はなかった。

 責任者として警察や後輩の家族への対応に走り回る店長は、可哀想なくらい疲れ切っていた。当事者である彼も店長任せにはせずに動いたが、それでもフォローはできていないのか店長の疲労は酷いままである。後輩を刺した犯人のせいで、決まっていたシフトも変更せざるを得なくなり、後輩の代わりを担うことを了承してくれた部下には申し訳ないと眉尻を下げて回っていた。店長に落ち度はないにも拘らず、申し訳なさそうな表情は抜けない。彼にも同様の態度であったが、一つ異なることがあるとすれば、事件が起きた時の対処について称賛はされなくとも感謝はされたことだろうか。

 事件を起こした犯人は駆けつけた警察によって現行犯逮捕された。犯人はもぬけの殻のようになっており、抵抗は見せなかった。社会に対する不満をぶつけるように人を刺し、彼に横っ面を引っ叩かれて我に返った後の衝撃は凄まじいものだったようだ。

 暴走した犯人の頬を叩いたことは、今回であれば正しい判断だったと言えるが、所詮は結果論である。一般市民がするべき行動ではない。手を出したことで更に興奮させ、犯人自身も制御できないくらいの暴行に遭っていた恐れもあるのだ。本来は気弱なのだろう犯人の性格に助けられたと言っても過言ではなかった。反撃されていたら、勢い余って殺してしまっていたかもしれない。後輩も、出血多量で死んでしまっていたかもしれない。しかし、そうはならずに済んだ。誰も死なずに済んだ。彼も殺さずに済んだ。結果オーライである。だからこそ、店長は彼に感謝したのだ。

 彼に礼を述べたのは、何も店長だけではなかった。後輩の両親もである。両親はわざわざ深夜のコンビニにまで顔を出し、後輩から聞いていたのだろう彼の姿を発見するなり深々と頭を下げた。先日は刺された息子を助けてくださり本当にありがとうございました。また人の旋毛を目にした。三回目である。警察沙汰になった回数と同じである。

 両親が、担当した医師から聞いた話によると、後輩が一命を取り留めたのは、刃物が抜去されていなかったことが大きな理由だったという。刺さった刃物が大量出血を防ぐ役割になっていたようだ。オペレーターの指示通りに彼が応急処置を施したことも功を奏したようである。

 息子が会いたがっていました。ご都合のよろしい時にでも会ってやってください。帰り際に両親はそう言っていたが、彼は見舞いにはまだ一度も行っていない。ご都合のよろしい時はないことにした。休みであっても、人を殺しに行ったりカナデと会ったりする以外でほとんど外出することのない彼に時間がないわけではなかったが、気分は乗らず腰は重く全く持ち上がらなかった。彼が顔を見せなくても、後輩が本気で文句を言うとは思えない。先輩全然来てくれなかったじゃないっすか。寂しかったっすよマジで。会いたかったんすよマジで。復帰してから被ったシフトでそんなようなことを口走りながら、相変わらずの距離の近さで迫ってくる後輩の姿が容易に想像できた。

 後輩みたいな、尻尾を振って走り回る犬のような人間はもう一人いた。後輩の彼女、金髪ギャルである。金髪ギャルもまた、深夜のコンビニに訪れていた。刺された彼氏から先輩が助けてくれたって聞いたので、お礼を言いに来たんですけど、あ、うわ、なんか、やばい、久しぶりに見た推しがはちゃめちゃにかっこよすぎて目的を忘れそう。眩しい。輝いてる。イケメンすぎる。先輩、いろいろ、マジで、助かります。ありがとうございます。刃物持った男に立ち向かった先輩かっこよすぎ。めちゃくちゃ命の恩人じゃん。彼氏も先輩のこと命の恩人だって感謝してました。私たちの推しはやっぱり最強でしかない。息つく暇もなく一方的に喋り、嵐のように去って行った金髪ギャル。後輩や金髪ギャルの中で、彼は不覚にも恩人にレベルアップしていたようだった。

 後輩の両親や彼女など、人からどんなに感謝されようとも、彼の心は動かない。鼻高々にもならない。彼は至っていつも通りに、まるで刺傷事件など起きていないかのように、淡々と仕事をこなす日々を送っていた。そうしながら、人を刺殺する妄想を繰り広げていた。後輩の代わりにシフトに入った相方の店員も、治安の悪いと言わざるを得ない深夜に来店してきた客も、わざわざ礼を伝えにきた後輩の両親も彼女も、ひとまず全員刺し殺し、欲求をちまちまと満たした。

 ただ流しているだけのテレビを眺めながら、彼はアイスカフェオレに度々口をつける。恋愛ドラマが放送されていた。興味はなかった。何一つ惹きつけられなかった。

 喉が渇く。アイスカフェオレを飲む。頭がクリアになる。体の内側が冷えていく。また一口飲む。伏せた目を上げる。綺麗になった脳内で、映っている芸能人をぶっ殺す。鮮血が噴き出し、舞台が真っ赤に染まる。気分が良くなる。恍惚とした心境で、その他のエキストラも片っ端からぶっ殺す。舞台はあっという間に血に染まる。アイスカフェオレを飲む。殺人は快楽である。唇の内側を舐める。早くカナデの金蔓をぶっ殺したい。

 テレビを見ながら思う存分大量虐殺を続けていると、カサカサと何かが蠢くような耳につく雑音が割り込んだ。壁に気配を感じ、彼は目を向けた。息を潜めるように動きを止めた一匹の大きなクモがいた。

 暫しの間、彼は壁に張りついたまま静止するクモと睨み合った。クモがこちらを見ているかは知らないが、彼は慌てることなく凝視した。芸能人やエキストラを殺害したように、想像上でクモもしっかり退治した。

 室内に現れるクモの多くは、害虫を捕食してくれる益虫である。ムカデや蚊のように無闇に殺す必要はない。故に、彼はのんびりと構え、アイスカフェオレをまた口に含んだ。ごくりと飲み込む。飲み慣れた味が舌に広がる。流している恋愛ドラマは中盤に差し掛かっている。主演はもう何度も彼に殺されている。画面に映る度に殺されている。

 手にしていたカップを机上に置くと、彼は不意に気が変わった。常備しているティッシュ箱を出し抜けに掴み取り、壁にくっついているクモに向かってぶん投げた。クモは驚いたようにカサカサと音を立てて壁の隅の方にまで移動する。飛ばしたティッシュ箱が、逃げ足の速いクモに命中することはなかった。

 壁に当たってひっくり返ったティッシュ箱をそのままに、彼は再び恋愛ドラマを無表情で見つめた。全く持って、心が動かされないドラマだった。

 依然として、暇を潰すように殺戮を繰り返したが、同じ顔ばかりで飽きが生じた。リモコンに手を伸ばしてチャンネルを変える。バラエティー番組が流れ始める。ガヤガヤとうるさい中、彼はアイスカフェオレに口をつける。

 テレビに映る新たな顔ぶれを殺しながら飲んで、飲みながら殺す。殺しながら飲んで、飲みながら殺す。殺しながら飲んで、飲みながら殺す。殺しながら飲んで、飲みながら殺す。飲みながら殺す。飲みながら殺す。飲みながら殺す。殺す。殺す。殺す。次から次へと殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。ぶっ殺す。

 アイスカフェオレがなくなった。唇を舐めた。息が漏れた。妄想でいくら殺しても、殺しまくっても、実際に手にかけた時に抱く、心からすっきりするような満足感は得られなかった。刺激も快感も弱かった。足りなかった。

 空になったカップを手放す。徐に顔を上げ、何気なく視線を巡らせた。彼の攻撃から逃げるようにして壁の端に身を潜めていたクモは、いつの間にか姿を消していた。

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