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「ぼ、僕のことを、殺す前に、ひ、一つ、お願いがあります」
「何でしょうか」
丁寧に尋ねながらも、彼は心中で舌を打った。吃りながら長々と語り尽くした後にこれである。お願いなど心底どうでも良かった。こっちは殺すためだけに来たのに。ようやく殺せると思ったのに。一体いつになったら殺せるのだ。
彼の本音など知る由もない男は、分厚い肉で埋まっているように見えるほど小さい目で彼を見る。舐め回されているように感じ、反吐が出そうだった。それでも彼は、親身になっている風を装って男の話を聞いた。
「あ、あの、あの、その……、ぼ、僕に、あ、あなたのこと、その、あの……、だ、抱かせて、ほしいです」
選んだ相手を失敗した。過去一の失敗だ。大失敗だ。SNS上では姿が見えない以上文面だけが頼りではあるが、これほどまでに気持ちの悪い人間を引き当ててしまったのは初めてだ。
目の前の男は脂肪塗れであった。率直に言えばデブである。体重は彼の二倍以上あるのではないか。
玄関から顔を出した巨漢の男の姿を見た瞬間に、いつも以上に体力を消耗する相手であることを彼は確信した。これだけ肉がついていると、刃物で刺し殺すにしても急所まで届かない可能性がある。男に希望があればその通りに殺すつもりではあるが、それがなければどうやって殺すのが楽だろうか。あまり接触はしたくない風貌だ。しかし、遠距離攻撃ができる拳銃などは所持していないため、触れずに殺すことは至難の業だ。久しぶりの殺人に気分は上がりはするが、今までよりも殺しにくそうな相手だった。今回は完全にハズレの自殺志願者だ。
抱かせてほしい、とふざけたことを抜かした男は顔を真っ赤に染めており、しかしどこか興奮した様子で鼻息を荒くさせていた。死ぬ間際になってまで盛る様は見るに堪えない。性欲を自分に向けていることすら気色悪くて鳥肌ものである。
「申し訳ないですが、それは無理なお願いです」
「僕が、お、男だから、ですか……?」
「そういうわけではなく」
「だ、だったら、べ、別に、問題なんか……」
「俺はあなたを殺しに来ました。そういうことをしに来たわけではありません」
発情している男の言葉を遮断する。このままでは埒が明かない。調子に乗らせるわけにもいかない。はっきり言わなければ、いつまで経っても殺すに至れない。
「そ、そうですよね……。じゃ、じゃあ、僕のこと、だ、抱いてから、殺して、ください……」
人の話を聞けよデブ。きったねぇ豚野郎が。
柄にもなく、非常に攻撃的な暴言が口を吐いて出そうになる。飲み込んだ。もう何ヶ月も人を殺せていないストレスが、希死念慮がある癖に性欲だけは強いデブを前に爆発してしまいそうになっていた。
暴言を隠し持ちながらも彼は無表情を貫き通し、飼育のなっていない豚の対応を続けた。
「申し訳ないですが、それもできません」
「だ、抱くのも、抱かれるのも、だ、ダメなんですか……?」
あなたのような汚くて醜いデブに抱かれたいと思う人も、逆に抱きたいと思う人もいるわけないですよ。鏡見たことないんですか。
言いたくなったが、無闇な挑発はするべきではないだろう。一度本音を吐露してしまうと、そこから箍が外れて止まらなくなる。もう少しだけ堪えれば殺せるのだ。苦しみから解放されるのだ。彼は忍耐力を総動員する。
「そろそろ殺していいですか。殺され方の希望があれば教えてください。なければこちらで好きに殺します」
男の問いをスルーして、彼は本来の業務に取り掛かった。手綱を強めに引かなければ、この男はすぐにどこかへ行こうとする。ふらふらふらふら蛇行されると殴り殺したくなってしまう。そうだ、殴り殺せばいい。決定だ。希望がなければ殴り殺す。希望があっても殴り殺す。人の話を聞かない人の話など聞く必要はない。
欲は強いが気は強くはない男は、彼にはきはきとした物言いをされ、たじろぐ様子を見せた。小さな目を泳がせ、あ、とか、う、とか息だか声だか分からない音を口から漏らしている。
全体的に不快な生物だ。だから死にたくなったのか。死にたくなるような目に遭ったのか。
抱かせてほしいなどと血迷い発言をする前に、そのことについて男は辿々しいながらも一生懸命話をしていたが、冷酷な彼の頭にはやはり、全くと言っていいほど入っていなかった。興味のないことを聞き流してしまうのは、何も彼に限った話ではないだろう。
汚い音を漏らしていた男が、汚い声でぼそぼそと喋り始める。一度気持ち悪いと思うと、何から何まで気持ち悪く感じて仕方がなかった。
「ぼ、僕、は、せ、性の、け、経験が、ないので、その、せめて、し、してから、死にたいんです……」
「そうですか」
「だから、あの、僕と、してから、こ、殺して、ください……」
「それは無理だとお伝えしたはずですが」
「ど、どうしてですか……?」
その容姿で初対面の人と性に関することができると思っている方が不思議でならなかった。風俗嬢などであれば、それが仕事であるためどんなに嫌であっても相手をするだろうが、彼はただの殺人鬼である。抱くのも抱かれるのも御免だ。
自分はなぜ、こんな面倒な男を殺しに来てしまったのだろう。時間を巻き戻せるのなら巻き戻してしまいたい。
ファンタジーを求めるが、ここはファンタジーの世界などではない。願えば叶うようなこともなく、これまで通り何が何でも殺すしかない。毎回確認している後悔の有無も、この生物には通用しないだろう。いつまでも食い下がる気しかしないため、ここはもう強行突破だ。殺してしまえば静かになる。殺してしまえばストレスも発散できる。暴力的になってしまう思考も落ち着くはずである。
「希望がないようですので、こちらで好きに殺しますね」
彼はまたもや男の問いを無視して立ち上がった。あたふたし始める男の胸倉を掴みに行き、躊躇なく顔面をぶん殴る。ぶん殴る。ぶん殴る。お気に入りの手袋はしっかり身につけていた。
男は何かを訴えるように唇を動かしていたが、彼の耳には届かない。男の声が聞こえる前に殴っているからだ。殺されたくて自分と約束を取りつけたのだから、ここで文句を言われる筋合いはない。黙って殺されていればいい。黙って殺させてくれればいい。彼は真顔で拳を振るい続けた。
男の手が顔を庇おうとし始めた。殺されたいはずだ。死にたいはずだ。抵抗されるのはおかしな話だ。
彼は防御が疎かになっている首を不意打ちで殴りつける。潰れたカエルの鳴き声のような濁った音が男の喉から落ちた。手応えを感じ、繰り返し喉笛に暴行を加えるが、手袋がクッションとなり、骨が皮膚にぶつかる痛みや威力を軽減している恐れがあることに気づく。
胸倉を掴んだまま、彼は目だけで辺りを見回した。雑多な机の上にテレビのリモコンを見つけた。これでいいか、と彼は手を伸ばしてリモコンを握り締める。角を利用し、勢いをつけて喉に叩き込みたかったが、今度は首を守るように身を捩っている男に邪魔をされた。ここまで抵抗を示す自殺志願者も珍しい。今になって後悔しているのだろうか。だとしても手は止めない。殺される運命は決まっている。
首を守ることで、今は顔面が無防備になっていた。彼は慌てることなく狙いを変え、握ったリモコンを振り切ってこめかみを打った。男の米粒のような黒目が回ったように見えたが、この程度ではまだ死なない。彼はもう一度打った。更に打った。何度も打った。打った。打った。打った。
長期間殺人欲求を我慢していた分だけ気が立っていた。リモコンが破損するほどに殴り続け、男の顔面が血塗れになっても殴り続け、男が口を開けて動かなくなっても殴り続けた。ハイになっていた。全身を突き抜けるような快感を覚えていた。
暴力を振るっていた手が疲労を感じ始めたところで、彼は連続の殴打をやめる。凶器に使用したリモコンを捨てるように手放し、巨大な生物からもパッと手を離す。襟元が格好悪く伸びていた。
霧が晴れたようにすっきりした気持ちで息をする。殴殺する前と比べて、胸の通りがとてもいい。人を殺した時の心地良さは何度経験してもいいものだ。癖になる。また味わいたいと彼は思う。
それにしても、今回の殺し相手は気持ちの悪い変態だった。殺してしまえばただの肉塊に過ぎないが、その死に様も、死に顔も、不快なもので救いようがない。
醜い姿を晒している男を見下ろす。胸が上下していないことを確認したが、異様な生命力を発揮されては都合が悪い。彼は丸太のように太い男の首を足で思い切り踏みつけた。骨を折るつもりで全体重をかける。念入りに殺すことは大事なことである。いくら気分が晴れたとしても、油断は禁物である。
男は何をされても無反応ではあるが、徹底的に殺しておきたい彼は気の済むまで暴行を加え続けた。
満足するまで殺り尽くと、無駄にエネルギーを消費してしまったのか、僅かな空腹を覚えた。この後はもう帰宅するだけだが、男の家もまた彼のアパートからは遠く離れている。運転を開始する前に何か胃に入れておきたい。彼は腹を摩りながら冷蔵庫に向けて歩みを進めた。扉を開けて中を物色するが、すぐに食べられそうなものは何もない。冷気を押し戻すように扉を閉め、続けて下の冷凍庫を開けてみる。アイスがあった。箱で販売している棒アイスだ。彼は箱から一本だけ抜き取り、開封しながら足で蹴るようにして冷凍庫を閉めた。
仰向けで息絶えている男と机を挟んだ対面に腰を下ろした彼は、早速棒アイスに噛みつき、気休め程度の腹拵えをする。舐めて溶かしながら堪能するでもなく、彼は黙々と噛んで咀嚼し続けた。腹を満たすためだけに胃に送り込んでいるだけだった。
早々にアイスを食べ終え、身包みを剥がされ裸になった棒を袋に戻す。まとめてゴミ箱に捨てた後、彼は男の死を今一度確認した。屍姦が性癖の犯罪者であっても、一瞬で萎えてしまうのではないかと思うほどに魅力のない、まるで汚物のような死体だった。
「無事に死ねて良かったですね」
一区切りをつける際の彼の声は、食べたばかりのアイスのように冷たい響きを持っていたが、それが彼の通常運転であった。
彼は部屋の電気を消灯し、死体となった男の家を後にする。
久しぶりに行った殺人の対象は、害と害を組み合わせて作ったような失敗作だったが、溜まった欲求は問題なく吐き出せた。これでしばらくは心の平安を保てるだろう。また殺したくなったら殺せばいいだけだ。選んだ人間が失敗作だろうが何だろうが、殺してしまえば心のない肉塊となる。
夜の闇に溶け込んでいる黒い車に乗り込み、エンジンをかけた。男の皮脂や血液が付着してしまっているであろう手袋を外し、ナビの目的地を自分のアパートに設定する。帰ったら手袋も衣服も身体もよく洗うことを決めた彼は、シートベルトを着用するなりすぐに車を出した。
◇
俺とバディのようなものになったからといって、ミコトさんの私生活を変える必要は全くありません。ミコトさんはミコトさんの生活を送ってください。従来通り人を殺す殺さないもミコトさんの自由です。俺はミコトさんの殺人のスキルを貸してほしいだけなので、金蔓を処分する時が来たら連絡するようにしますね。俺との記憶が薄れた頃になるかもしれませんが、気長に待っていてくださるとありがたいです。
【ミコトさん、今度俺と休日が被ったらどこかで食事でもしませんか?】
カナデが時折連絡を寄越してくる限り、記憶が薄れることはなさそうだと彼は思った。
カナデと初対面した日の別れ際、特に私生活を変える必要はないと言われ、後に続けられた弁からも、業務連絡以外はしないようだと彼は踏んでいた。だが、蓋を開けてみれば想像と違っている。記憶が薄れた頃という話は、それくらい時間がかかるという比喩に過ぎないのかもしれない。
カナデは詐欺師である。言わずと知れたことだが、その詐欺にも種類があった。オレオレ詐欺、架空料金請求詐欺、還付金詐欺、融資保証金詐欺など、誰もが知っているようなものからあまり知られていないようなものまで、その数は多岐に渡る。金を騙し取る手口は様々で、件のカナデは人の好意を利用して金を奪う恋愛詐欺を働いているのだった。
ターゲットを選び、あの手この手で好意を抱かせることから始め、最終的には大金を出させるほどに信用させる。金銭を搾り取った後は、容赦なく切り捨て姿を消す。相手が騙されていたと気づいた時には連絡が取れなくなっている。言葉にすると簡単そうに聞こえるが、一日二日で成し遂げられることではない。恋人関係になってからが本番のようなものであるため、すぐには結果が出にくい長期戦の詐欺であった。だからこそ、気長に待っていてほしいと言ったのだろう。
恋愛詐欺を働くカナデにも、カナデの生活がある。普通の人間としてコンビニで仕事をしている彼と同じように、カナデもまた、社会の片隅で細々と働いている。工場勤務だと言っていた。
彼もカナデも、手を組むことにしたとて生活は何も変わっていない。平然と働きながら裏では犯罪行為を繰り返し、または繰り返そうとしている極悪人であることも、変わっていない。
コンビニ店員に扮する時間が今夜も訪れた。彼はカナデからのメッセージの返信を後回しにして仕事へと向かう。
この日のシフトは、最近新しく入ってきたばかりの後輩と一緒だった。転職するまでの繋ぎでバイトをしていた人が辞め、その穴埋めとして採用された若い男である。
「分からないことがあったらじゃんじゃん聞いちゃってもいいっすか?」
若い男であり、チャラい男である。ありとあらゆるやんちゃをしていそうな男である。それでも無事に採用されたということは、面接で見えた人間性は決して悪くはないということか。
「分からないことがないことを願っています」
「入ってきたばっかの人間にそれはきついっすよ」
人に何かを教えるのは好きではない。この後輩のように、やたらと声が大きくてテンションの高い人も好きではない。だが、今は仕事中である。自分の苦手なタイプの人間だからといって、他の人と違った態度を取るわけにはいかない。悪目立ちしないように。害のないように。彼は誰に対しても同じような、温度のない返答をする。熱がこもっていないのが彼であり、年齢性別関係なく敬語で話すのが彼であり、職場にいる誰もが周知していることであった。
「俺はレジしてればいいっすか?」
「売場の整理や清掃もしてください」
「分っかりました。めちゃくちゃ綺麗にしますんで」
後輩は機敏な動きで敬礼をする。言動は軽いが、やる気はあるようだ。そのやる気を買われたのだろうか。
後輩は出入口側の雑誌コーナーから順に見て回り、乱れている商品を整えていく。見かけによらず几帳面なのか、丁寧な所作だった。チャラチャラしている上に、仕事への意欲はあっても中身が伴っていない新人だった場合、今後はできるだけペアになりたくないと思っていたが、それは杞憂に終わりそうである。チャラチャラしていることに関しては、ひとまず目を瞑ることにした。
彼は後輩のいる反対側の食品コーナーの整理から始めた。手前のものが売れたことで奥に残っている商品を前出しし、見栄えを良くしていく。誰にでもできる作業だが、誰かがしなければならない作業だった。単純なことでも、仕事の一つである。
「いらっしゃいませ」
聞き慣れた音楽と共に、後輩の元気のいい溌剌とした声がした。彼も遅れて同じ言葉を発するが、温度差は歴然である。後輩が明るすぎるのだ。接客業に向きすぎている。仕事だと割り切って全力なのかもしれないが、全員が全員できることではないだろう。実際、彼にはできない。接客業の最低限のルールを、合格ラインギリギリで守っているだけの彼にはできない。
後輩に大歓迎された客は女性だった。酸いも甘いも噛み分けたような中年の女性。手に何か持っている。じろじろ見ないようにして流し見た。煙草の箱のようだ。
考えられる展開が脳内を駆け巡る。購入したばかりの煙草で何か問題があったのか。いつも吸っている銘柄とは異なるものを誤って購入してしまったために、返品交換のお願いをしに来たのか。持ってきたものと同じ煙草を買いに来たのか。
同じ銘柄を求めてやってきた展開であればいいが、いずれにせよ女性は店員に声をかけるだろう。近くにいる後輩の元へ向かっている。
「すみません」
案の定、女性は作業をしていた後輩に声をかけた。後輩は手を止め、はい、と明るい返事をする。愛想の良い店員だ。
「これと同じ煙草を買いたいのですが」
女性は手にしていた煙草の箱を後輩に見せた。ひとまず、嫌でも自分が出なければならないような幕ではなくなる。
後輩は女性に一言断ってから箱を受け取り、レジに入って同銘柄の煙草を指で追って探し始めた。
彼は後輩の様子を気にしつつも、止めていた作業を再開した。まだフォローにはいかない。店長や勤続年数の長いベテラン社員に一通りは教わっているはずだ。困り果てていたら手を貸すくらいでいいだろう。深夜は客がほとんどいない。列ができることも滅多にない。せっかちではない穏やかな客であれば、ゆっくりでも多少は待ってくれる。女性はその部類のように見える。
「あ、ありました。こちらでよろしいでしょうか?」
「そうです。ありがとうございます」
流石に客の前では舐めたような語尾を封印していた。なんすか、どれっすか、これっすか、間違いないっすか、などとすかすか言われてしまうとこちらがひやひやしてしまう。クレームにも繋がりかねない。クレームの対応は面倒臭いのだ。今この場で気難しい客に鉢合わせてしまったら、相手をしなければならないのは後輩の先輩である自分である。何事もなく仕事を終えたい。
「ありがとうございました」
スローペースではあったが、後輩は問題なく一人で客を捌いてくれた。スピードは慣れれば自然と上がっていく。それまでは、覚束なくても丁寧に処理していく方が、客を嫌な気分にさせることもないだろう。
「先輩、どうっすか、今の。問題ないっすか?」
「ないです。その調子でレジお願いします」
語尾が気になってしまうが、自分から話を広げる気にならない彼は、問題ないことだけを告げて唇を引き結んだ。
彼が必要最低限の会話しかしないのは、何も後輩に対してだけではない。これも、彼の平常運転である。
仕事中に関わらず、あまり人と深い仲にはなりたくなかった。距離の近さが原因となり、隠している重大な秘密がバレてしまったら水の泡である。一巻の終わりである。
「なんか、全然喋んないっすね」
レジから出てきた後輩が歩きながら声を上げ、会話を続けようとする。先程の女性を最後に客はまたいなくなってしまったため、後輩と二人きりだった。整理整頓の続きをしないのかと思わないでもないが、彼は何も指摘せずに手を動かし続ける。自分も隠れて仕事に関係ないことをしてしまうことがある上に、店のトップである店長ですら深夜はぼんやりしていることがあるのだから、注意できる立場にはいなかった。
「喋るのはあまり好きではないですから」
「そうなんすね。いや、第一印象からクールな人だとは思ってたんすけど、クールはクールでも超がつくほどクールっすね。めちゃくちゃモテそうっす。彼女いるんすか?」
プライベートに土足で踏み込んでくるようなこのいらない積極性は何なのか。喋るのは好きではないと言っているのにくだらない質問をして喋らせようとするのは甚だ疑問である。仕事の内容であればそんなことは思わなかっただろうが、彼女の有無など仕事に関係なさすぎる問いでしかない。
此奴は面倒臭い新人だ。すかすかすねすねうるさいちゃらんぽらんなのも好かない。殺してやろうか。
殺そうと思えば今すぐにでも殺せるが、監視カメラがしっかり見張っている。それがなくとも、真っ先に怪しまれるのはシフトが被っていた自分である。通り魔的な殺人は自分の首を絞めるだけだ。
彼は先輩としての広い心と余裕を持って、舐め腐った口調の後輩の相手をしてやった。
「俺にそんな人はいません」
「マジっすか。じゃあ今フリーなんすね」
「そうですね」
「実は俺もフリーなんすよ。彼女ほしくないっすか?」
「俺は別にほしくないです」
見栄でも何でもなく、本当にほしくなかった。必要なかった。いらなかった。恋愛にすら興味が湧かないのだから、彼女がほしいほしくない以前の問題である。故に後輩の言葉も、例の自殺志願者の言葉と同様でほとんど頭に入っていなかった。耳から耳へとするすると抜けている。後輩の恋愛事情にも全く持って興味はない。
「珍しいっすね。男だったら女といろいろしたくないっすか? 俺は早く彼女作って甘やかしてやりたいんすよね。ベッドの上で」
作業をしながら、後輩を一瞥する。何を想像しているのか、顔が情けなく緩んでいる。
エロガキが。自分の股間でも甘やかしてろ。
咄嗟に湧いた暴言を身体の内側に隠しつつ彼は思う。前回殺したデブの男も性欲に塗れていた。この後輩も性欲がたっぷりあるようだ。それが男として普通なのか。殺人をすることでしか発散できないのが異常なのか。
淫らに腰を振って射精する行為よりも、暴力を振るって息の根を止める行為の方が遥かに気持ちいい。その気持ちよさを知らない方が、その気持ちよさが分からない方がおかしい。殺人欲求がある彼からすれば、そのような感覚だった。
「そうですか。それは頑張ってください」
「先輩マジずっと感情こもってなさすぎっす。面白いっすね」
後輩マジずっと迷惑すぎっす。殺していいっすか。どうっすか。いいっすよね。
馬鹿にするように後輩の口調に合わせてみれば、自分の知能レベルが一気にダウンしてしまったように思えた。これは本当に馬鹿丸出しの口調だ。鼻で笑ってしまいそうになる。恥ずかしくないのか。
真顔のまま心中で暴言を吐きまくる彼の前で、後輩は深夜テンションの如くへらへらと笑っている。何がそんなに楽しくて面白いのか、彼には微塵も想像できない。
「俺、先輩ともっと仲良くなりたいんすけど、連絡先とか教えてくれないっすか?」
男にナンパをされているような気分だった。いくら冷たく雑に遇っても、後輩の機嫌は悪くなるどころか良くなっているような気さえする。自分から距離を置こうともしない。後輩の周りに自分のような人種はいないのか、物珍しがるように面白い人だと思われてしまっているのは嫌な傾向だ。
彼は後輩と仲良くなるつもりはなかった。仕事以外でもこのような絡みをされるのは堪えられそうにない。よって、連絡先は教えない。
「教えません」
悩む素振りも見せずに切り捨てて、場所を移動する。彼の手の届く範囲にあった商品は、もう整理のしようがないほどに綺麗に陳列されていた。
「マジっすか? 教えてくれないんすか? そりゃないっすよ」
嘆く後輩を無視して、彼は別のコーナーの整理を始める。
したくもない馴れ合いはしない。積極的に来られてたじろぎ、嫌なのに断れずに何でも教えてしまうような控えめでお人好しな人間とは違うのだった。
これだけ拒絶を示せば、流石の後輩も関わろうとするのを諦めてくれるかと思ったが、残念ながらすかすかすねすねといった語尾は離れない。彼は治安悪く舌を鳴らしてしまいそうになった。一体どういうメンタルをしているのか。
「ちょっと壁が分厚すぎじゃないっすか? 全然心開いてくれる気がしないっすね。あ、お客さん来たっす。いらっしゃいま……、ん? あれ? なんか、物凄い勢いでこっち来てんすけど、え、やば、やば、先輩やばいっす、やばいっす、先輩、うわ、うわ」
突然、後輩の唇が忙しなくなった。人の足音と気配も忙しなくなった。客が来たのは確かなようだが、思ったことを全部口にして実況してくれているような後輩の慌てぶりから、何やら様子が変であることを彼は悟る。作業していた手を止め顔を上げた。視界に映った異様な光景を、彼はすぐには飲み込めなかった。
後輩が、マスクを身につけ、フードを目深に被った黒ずくめの男たちに襲われていた。殴られていた。暴力を行使する男たちは明らかに、客ではなかった。
一方的な暴力によって後輩の身体は棚にぶつかり、綺麗にしたばかりの商品がどんどん床に落下していく。後輩もずるずると床にへたり込んでいく。鼻からは血が出ていた。それでも、後輩はやり返そうとはしない。驚愕のあまり、身体が萎縮してしまっているのか。見た目に反して、人を殴ったことがないのか。
「おい、お前はあそこの店員を早くやれ。絶対逃すなよ。逃したら計画がおじゃんだからな」
一人の男がもう一人の男に指示を出す。命令された男が黙って突っ立っている彼を認め、なぜか一瞬躊躇うような素振りを見せた後、意を決したように駆け出した。今この場にいる人の中で一番の長身であり、体格のいい男だった。フードの隙間からは、茶色に染めているのであろう髪が覗いていた。
このまま何もしなければ、自分も後輩のように鼻血を出してへたり込むだろう。どうするのが正解か。どうするのがコンビニ店員らしいか。男たちを順に殺ろうと思えば殺れるはずだ。しかし今は、しがないコンビニ店員である。やはり、後輩のように鼻血を流すのが正しいだろうか。逃げるにしても、そう簡単に逃げ切れるとは思えない。このような異常事態が発生した時に押す非常ボタンはレジにある。深夜で客もおらず、二人揃ってレジから離れていたせいで押せなかった。そのレジも、別の男たちに占拠されている。袋に金を詰めているように見えなくもない。
決定だった。マスクとフードでできるだけ顔を晒さないようにしている男たちは、間違いなく強盗犯だった。
彼は無駄な抵抗はせずに、大人しく殴られることにした。恰幅のいい男の大きな手に頬を打たれ、ぐらりと重心が傾き、そのまま棚に身体をぶつける。前出ししたばかりの商品が飛び出して落下する。彼は商品には目もくれず、確かめるように鼻を押さえた。その手のひらを見た。血は出ていなかった。
一度殴ったことで妙な自信がついたのか、胸倉を掴んできた男に彼は再び殴打された。暴力の一線を踏み越えてしまったことで、箍が外れてしまったようにも見えた。この男は、後輩を捕らえてはいたが殴ってはいなかったのだ。
彼は歯止めが効かなくなっている男に殴られながら横目で後輩の様子を窺う。後輩もまた、リーダーと思しき男に殴られ続けている。先程まで自分に絡んでいたチャラい男とは思えないほどに弱っていた。無抵抗だ。後輩は最初から、抵抗一つしていない。もう手を出さなくても、逃げも隠れもしないはずだ。店員の動きを封じ、金を奪うことが目的であるのなら、それ以上暴力を振るう必要はない。
舌が鉄の味を感じ取った。口内が切れてしまったようだ。視界もぐらぐらと揺れていて、乗り物酔いをしているみたいに気分が悪い。子供の頃以来の、久しぶりの気持ち悪さだ。
欲求を満たすためにデブの男を殺した時と逆の立場になっている彼は、自衛をしようともせずにひたすら顔面を殴られた。殴られた。殴られた。口の中に血が溜まっていく。殴られることで唇の隙間から血が漏れ出ていく。一度は堪えた鼻の粘膜も遂には傷ついてしまったようで、気づけば鼻からも出血していた。喉に血が流れていく。気持ち悪い。思わず咳き込んだ。タイミング悪く殴られた。舌を噛む。血が飛ぶ。新たな出血箇所ができてしまった。彼の顔の下半分は無残な状況となっている。だが、後輩のように極端に気力を失うことはなかった。強盗犯に襲われていようとも、少しの恐怖も感じていないからだった。いつまで殴られなければならないのか。だんだん腹が立ってくる。強盗犯全員に腹が立ってくる。
さっさと金を盗めよグズが。お前らがちんたらしているせいでこっちは血みどろだ。
レジでもたもたしている男二人に心の中で悪態を吐く。今日が初めての強盗なのか何なのか、要領も手際も悪すぎる。殺してやりたくなる。自分と後輩を殴っている男たちも含めて全員。しかし、しがないコンビニ店員は普通、そんなことなどしない。殺すことはしない。それならば、殺さずに叩きのめせばいいのか。出血するほどに暴力を振るわれているのだ。正当防衛が成り立たないはずがない。
「終わりました、終わりました」
反撃を開始しようとした時、レジの方から叫ぶ声がした。それを合図に、暴行に徹していた男二人が彼と後輩からパッと手を離し、こちらを見向きもせずに出入り口へ向かって駆けていく。嵐が過ぎ去ったように、一気に音の数が減った。
彼は胸倉を掴まれたことで乱れた服を整えながら、手の甲で口元の血を拭い鼻を押さえた。
やり返せなかった。いや、やり返せなくて良かったのかもしれない。これで完全なる被害者になれるのだから。
強盗の被害に遭ったことを警察に通報して、その次は店長に連絡か。顔を合わせたくない警察とこんな形で関わることになろうとは。だが、自分は被害者だ。変に怪しまれることはないだろう。何をされたのか、事実を正直に述べるだけでいい。下手に嘘を吐く方が却って疑われる。普通に働いていただけで、何一つ悪いことはしていないのだから、そもそも嘘を吐く必要もない。
床に散らばっている商品と、ところどころに飛び散っている血液。彼と後輩の血塗れの顔。被害がどのようなものだったのか、想像に難くない惨状のはずである。十分な証拠となり得るものであった。
彼よりも酷い暴行を加えられた後輩は、ほぼ瀕死の重傷を負っていた。鼻血が全く止まらないのか、力なく押さえている手が真っ赤に染まっている。どうにか処置をしようとしている後輩は顎を上げてしまっており、それでは誤嚥や窒息の原因となってしまう恐れがあった。
彼は歩みを進め、顔面蒼白になっている後輩の前を通り過ぎながら、さりげなく口にする。
「鼻血の時は上を向かない方がいいです」
舌が動かしにくかった。殴られ盛大に噛んでしまったせいだろう。鉄の味も続いている。口内の傷は長引いてしまいそうだった。
後輩に助言した彼は一旦バックヤードへ行き、社員で共有しているティッシュ箱を手にして店内へ戻った。上げていた顎を下げている素直な後輩に、持ってきたティッシュ箱を丸ごと渡す。
業務のように淡々と、やるべきことを一つ一つ消化していく彼は、自身の止血は程々にして電話をかけることにした。レジに置いてある子機を手に取り、血がつくのも構わず、三桁の番号を押して警察を呼ぶ。事情を話せば救急車も呼んでくれるだろうか。まだ少し酔っているような気分の悪さが残っているものの、ふらつくことなく歩けてはいる自分はともかく、立ち上がれもせず、止血も間に合っていない後輩は診てもらった方がいいだろう。
『はい、警察です。事件ですか? 事故ですか?』
すぐに応答した警察官に、彼は依然として冷静な調子で緊急案件を述べた。
「事件です。コンビニで強盗に遭いました。犯人は四人組で、レジの現金を奪って逃走中です。暴行も加えられ、自分ともう一人が負傷しています」
喋っている途中で血が絡んだ。時折咳き込んでしまいながらも掻い摘んで説明し、警察から尋ねられたことにも答えていく。最終的には、要請してくれた救急車と共に現場に急行してもらうことになった。その過程で、自分の名前や電話番号などの個人情報を尋ねられ思わず渋ってしまいそうになったが、こればかりはやむを得ない。やましいことがあるのかと猜疑の目を向けられてしまうくらいなら、潔く答えてしまった方がいい。
素直に話した彼は警察との電話を切り、その手で今度は店長にかけた。コールが続く。日付が変わった深夜である。もう寝ているだろうか。
緊急であるため、少し長めに鳴らしたが、出ない。一度切るかと耳から電話を離しかけると、プツと呼出音が途切れた。耳に再度押し当てる。
『もしもし? どうしたの? 何かあった?』
夜も遅い。こんな時間に直接電話をかけてくるなどよっぽどのことがあったに違いないと察しているような、緊張感のある店長の声だった。いつもは穏やかな人だが、それでも店長になれた人なのだから、いざという時はしっかり部下を導いてくれる。
「遅くに申し訳ないです」
『それは大丈夫。用件は?』
「先程、強盗に遭いました。犯人はレジの現金を奪って逃走しています。警察には通報済みです」
『強盗? 怪我はしてない?』
「二人とも負傷していますが、警察にかけた際に救急車を呼んでもらいましたので、今は到着を待っている状況です」
外の様子を窺い、耳を澄ます。まだサイレンの音は聞こえない。
『分かった。僕もすぐにそっちに行くから。警察や救急の方が先に来られたらその指示に従って。連絡ありがとう』
電話を切り、子機を元の位置に戻す。血が付着している。事が済んだら拭き取ろうと思いながら、彼は後輩を振り返った。その場をじっと動かず、鼻を押さえて安静にしている姿を捉える。血を吸ったティッシュが後輩の手元に溜まっていた。
「警察と救急車と、あと店長も来てくれます」
後輩に伝えると、後輩は徐に顔を上げた。静かに見つめられる。その双眸からは混乱は見て取れず、真っ青だった顔色も大分良くなっていた。呼吸も落ち着いている。何やら発言しそうな雰囲気すらある。後輩の目が、物を言っていた。
「先輩、一つ、いいっすか?」
「何ですか」
予想通り話し始める後輩と目を合わせたまま、彼は強盗の被害に遭う前とほぼ変わらない声色で答える。後輩は自分と同じように喋りにくそうではあったが、声の調子も悪くはない印象だった。
「なんか、あの、めっちゃ、冷静っすね」
「そうですか」
「そうっすよ。こんな大惨事が起きたのに、俺と違って全く動揺してないじゃないっすか。でも、あれっすよ、あれ。慌てずにてきぱき動く先輩見てたら、不思議と凄く安心したんすよ、俺。先輩ってやばいっすね。男も惚れる男っすよ、マジで。かっこいいっす。先輩に一生ついて行きたいんで、俺にも連絡先教えてくれないっすか?」
「教えません」
「やっぱそうっすよね」
即答する彼に、後輩は落胆の色を見せる。何度お願いされても、教える気にはならない。大袈裟に褒めちぎられて口説かれても、他人に情が湧かない彼が絆されることはない。自分の言動で相手の顔色が曇ろうと、心底どうでもいいのだった。申し訳ないことをした、という罪悪感のようなものを抱く気持ちにもならないのだった。
相変わらずの語尾で喋り散らかした後輩の声量は落ちていたが、これだけ口を動かせるのなら、少しの間に随分と回復していると言える。鼻血が無事に止まったからだろうか。救急車も必要なかったかもしれないが、彼も後輩も、顔面を何発も殴られた事実は変わらない。骨にまで影響はしていないだろうが、それも医師に診てもらわなければ判断できなかった。
「……あの、先輩」
唐突に、改まった声で呼ばれた。彼は眉一つ動かさずに後輩に目を向ける。先程とは打って変わって真剣な声色となった後輩は、赤く汚れた多数のティッシュを硬く丸めながら立ち上がっていた。床には商品が落下し、血液すらポツポツと飛び散っている。どこをどう見ても綺麗ではない状態だ。どうせ清掃をすることになるのに、決して床にゴミを置くことはしないその行動から、後輩の人柄が垣間見えるようだった。
「先輩も殴られて怪我してるのに、何から何までしてくださって、ありがとうございました」
後輩はゴミを抱えたまま、彼に向かって頭を下げた。彼は無表情のまま、人間性は悪くないのだろう後輩の旋毛を見つめた。返事はしなかった。チャラさを隠しきれない語尾を封印してみせた後輩も、彼からの返事を求めなかった。
遠くの方で、サイレンの音が聞こえ始める。彼と後輩は揃って外へ顔を向け、暗い夜だとより一層目立っている赤色灯を確認した。
「来たっすね」
口調があっという間に戻っている。後輩は赤が白を侵食している塊を、レジに置いているゴミ箱に捨てた。
強盗に襲われるというイレギュラー中のイレギュラーが起きた、いつもよりも明らかに慌ただしい夜が、駆け抜けていく。
◇
「こちら、ガソリン代です」
アパートから出てきたカナデが、彼の車の助手席に乗り込むや否や、脈略もなく茶封筒を差し出した。彼は視線を上げて、下げて、また上げて、カナデの言葉を淡白な声で繰り返した。
「ガソリン代ですか」
「ガソリン代です」
バタン、とドアが閉められる。室内灯がゆっくりと消えていく。カナデの顔も、手元も、よく見えなくなっていく。彼は灯りが消え切る前に手動でオンにし、車内を照らした。前に初めて会った時と変わらない胡散臭い表情が浮かんでいた。
「少ないかもしれませんが、遠慮せず受け取ってください」
まるでプレッシャーをかけるかのように見つめられる。
彼は数瞬思案した後、ひとまず礼を言ってカナデから茶封筒を受け取り、中を検めてみた。紙幣が十枚も入っている。全て一万円札だった。
これのどこが少ないというのか。大金を騙し取っている詐欺師の金銭感覚は狂っているとしか言いようがない。
「ガソリン代にしては多すぎますね。賄賂ですか」
「賄賂じゃないですよ。今日入れて二回も、わざわざここまで来てくださったんですから。その謝礼を含めた金額です。俺の純粋な気持ちです」
純粋とは言っているが、この金自体は人から奪ったものであるかもしれない。もしそうであれば汚い金である。純粋の欠片もない。
彼は薄く笑っているカナデと目を合わせ、金の出所を直球で聞いた。
「泡銭ですか」
「違いますよ」
即答される。本当かどうかは、嘘を吐くのが上手い詐欺師相手では判断できない。彼に嘘を見抜く力は備わっていないのだった。
「ミコトさんにお渡ししたのは、汗水流して稼いだ綺麗な金です。惚れている人に黒い金なんか渡しませんよ」
カナデの理屈ではそうらしい。初対面の時にも感じたが、カナデには随分と気に入られている。
彼は改めて茶封筒の中を確認した。間違いなく十万円が入っていた。ガソリン代と、謝礼金。カナデが選んだ金蔓をいずれ殺害することも含め、今後もカナデと会うことになるかもしれないことを考えれば、決して多くはない金額のように思えてきた。彼はカナデに自分の住所を教えておらず、またカナデから尋ねられることもなかったため、カナデがこちらに来ることはまずないと言っていい。カナデは住まいを一方的に知られている状態だが、本人は意に介していなかった。
「しっかり働いて得た金を、こんなに頂いてもいいんですか」
「どうぞ、貰ってください。またミコトさんに会いたくなって、呼び出してしまうかもしれませんから」
「俺を待っている間に口をよく温めてきたようですね」
「それはもう、待ち侘びて待ち侘びて、会いたくて会いたくて、口が冷えるくらい震えていたものですから」
「そうですか。震えは治まっているようで何よりです」
腹の中を探り合うような会話も程々にして、彼は持参していた財布に茶封筒を押し込んだ。荷物は非常に少なく、財布とスマホくらいである。カナデも身軽であった。
「そういえばミコトさん、今日は手袋してないんですね」
まるで思い出したようにカナデは口にした。彼の手元を見て気づいたかのようだった。
彼は今、手に何も身につけていない。指紋があちこちに残ってしまうが、今日は後ろめたいことをしに来たわけではないのだった。手袋を嵌めて出歩く季節でもないため、今回は身につけない方が得策である。その方が自然である。やましいことは何もない。
「今日は殺りに来たわけではないですから」
「それは嬉しい言葉です。俺と食事をするためだけに来てくれたってことですよね? 奢りますね」
「食事代くらい自分で払いますよ。それで、どこに行くんですか」
「車で十分くらいの場所にファミレスがあります。長時間滞在できますし、そこでいいですか?」
「構いません。道案内お願いします」
彼は室内灯を消し、ハンドルを握った。出入口を右です、とシートベルトを身につけながらナビするカナデに従い、アクセルを踏み込む。
カナデに食事に誘われ、今日を迎えるまでの期間は三週間程度空いていた。二人の休日が被らなかったり、強盗の被害に遭った後処理で慌ただしくしていたり、その際に打たれてできた傷、とりわけ口内の傷の治りが遅かったりで、なかなか都合がつかなかったのだ。
コンビニも数日は臨時休業となったが、今は通常通り営業している。強盗犯も、まだ全員ではないが、一人は捕まっている。長身の男である。自分を殴った男である。同性でも頭一つ分くらい飛び抜けている身長と茶色に染めている髪のせいで、他の強盗犯よりも目立つタイプの人間だったのかもしれない。防犯カメラに映った姿なども頼りに聞き込み捜査し、逮捕に繋がったようだった。逮捕された男の証言次第では、他の三人も芋蔓式に引っ張れるのではないか。
責任者として警察から話を聞いた店長によると、逮捕されたその男は、コンビニに来店したことのある男であるようだった。身長が高く体躯も良い若い男。小柄な店長からすると、多少なりとも威圧感を覚えてしまうような人である。それにより頭に濃く残っていたようだ。自分と一緒のシフトの時で、酎ハイをたくさん買ってくれた人だと目を合わせられたが、確かにそんなことがあったような気がするといった程度の頼りない朧げな記憶しか思い出せなかった。他人に興味関心がないせいだった。
一度は害のない客として来ていたらしい男が、一体何がどうなって、今度は強盗犯として来店してきたのか。男の中で光と闇がひっくり返ってしまうような事象でも起きたのか。疑問が浮かぶが、それも店長からの言葉であっという間に消え去った。
若い男はSNSで募集していたバイトに応募したようである。とどのつまり、闇バイトである。悪い友達に唆されてしまったのか。誘われてしまったのか。自らの意思で応募したのか。詳細までは聞かされなかったが、組織に所属する何者かにたたきをするよう指示され犯行に及んだと見て間違いないだろう。
泥濘に両足を突っ込んでしまった以上、簡単には抜け出せない。じたばたと踠けば踠くほどずぶずぶと沈んでいくことを知り、気づいた時には犯罪に手を染めるしかなくなっていた。やり遂げるしかなくなっていた。他の三人も似たようなものなのではないか。
闇バイトが問題になっていることは承知していたが、それがまさか自分の働いているコンビニを舞台にされるとは思っていなかった。治安が悪くなっているように思わないでもない。自分自身がそのような人種であるため、類は友を呼んでいるだけだろうか。
類は友を呼ぶ。その良い例なのが、現在車の助手席に座っているカナデである。普通であれば、人生で関わることはないような人だ。
彼もカナデも互いの素性を明かしている。殺人鬼と詐欺師。世間一般では犯罪者とされる二人だからこそ、誰にも見えないような暗い場所で不思議な関係が続いているのかもしれない。
「看板が見えますね。そこを右です」
己の存在を知らせる看板を確認し、彼はウィンカーを出した。直進車が一台通り過ぎていく。歩道には誰もいない。ハンドルを回した。
駐車場は空いている。人も車も少ない夜である。カナデと相談し、わざとその時間に調整していた。
彼は適当な場所に車を停め、エンジンを切った。シートベルトを外す。隣でカナデも同じようにしながら、何やら短い感想を述べ始めた。
「運転、凄く丁寧で上手いですね」
「そうですか」
「余裕があって安心できます。今度はドライブでもしませんか?」
「その流れから行くと、運転するのは俺ですか」
「そうなりますね」
簡単に言ってくれるものである。カナデは乗るだけで済むからだろうか。
一般的に考えて、運転をしない人がドライブに誘うというのもおかしな話だと彼は思ったが、そもそも二人揃って普通の人間に見えて普通の人間ではないのだ。いちいち突っ込むことはしなかった。
目的地を定めた上でする長時間の運転は苦ではないが、目的地を定めずにする行き当たりばったりの長時間走行は気が乗らない。カナデも本気で言っているのか、その場のノリで言っているのか。表情だけでは区別がつかない。
「暇な時にでも考えておきます」
「前向きにお願いします。また声かけますので」
ドライブはどうかという誘いを軽く躱し、彼は車から降りた。カナデも降車したことを確認し、鍵をかける。
数台しか車のない駐車場を抜け、カナデから先にファミレスへと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。二名様でしょうか?」
「はい」
「お好きな席にどうぞ」
溌剌とした店員に歓迎される。彼も接客業をしているが、ここまで明るい接客はできたことがない。しようと努力したこともない。最低限のことしかしていないため、テンションが低く愛想のない暗い店員だと思われているだろうが、今のところ大きなクレームには繋がっていなかった。嫌味を宣うクソ客が現れた時は、絞め殺して刺し殺して焼き殺してへし折ってぶん殴って徹底的にぶっ殺せばいい。想像上の話である。客からの印象など心底どうでもいいことではあるが、好き放題嫌味を言わせる代わりだ。彼は好きに殺していた。
「席はどこがいいですか?」
「カナデさんが決めていいですよ」
選択をカナデに押し付ける。カナデは通路を歩きながら視線を巡らせ、ここにしますね、と奥の壁側の、周りに他の客がいない席を選んで座った。彼はカナデの対面に腰を下ろす。店員が、おしぼりとお冷を持ってきてくれた。
店内にちらほらといる客は若者が多い印象だった。中には制服を着た学生のグループもいる。こんな夜遅くまで遊び呆けているのなら、隠れて非行でもしていそうだと偏見を抱いた。そのようなことをしていそうな派手な見た目でもあった。これもまた偏見であった。
メニュー表を開いてそれぞれ注文した後は、妙な沈黙が続いた。水をちまちまと飲んで場を繋ぐ。ただ食べるためだけに自分を誘ったわけではないだろうことは彼も察している。何か進展があったのではないかと踏んでいるが、こちらからそれを問うのは憚られた。
「ミコトさんも割と、自分から話そうとはしない人ですよね」
カナデが水を飲んだ。彼はその所作を目で追った。流れた沈黙は、自分を試していたものなのかと彼は唇を引き結んだまま思った。ミコトさんも割と、と誰かと同じであることを示すような言い方も引っかかる。
「俺が喋らなかったら、ずっと喋らなさそうです。でも、気まずさを感じているようには見えません。何か話さないといけないと焦っているわけでもないですね。それが、俺の新しい彼女との違いでしょうか」
新しい彼女。そのまま受け取れば、突拍子もない惚気話の前振りになるだろうが、利害の一致で手を組んでいる彼とカナデの場合は、そんな甘ったるい話ではないと断定できる。新しい彼女というのは、カナデなりに選択した隠語のようなものだろう。新しい金蔓を見つけて、繋がりを持った。そんなところだろうか。
カナデが直接そう言わないのは、ここが公共の場であるからに違いない。どこで誰に聞かれているか分からないため、婉曲的に表現することが重要だった。罪を犯していない一般人に溶け込むためには、怪しいと思われる会話やそれを彷彿とさせる単語を使用するのは厳禁である。
彼は言葉に注意しながら、カナデに合わせて取るに足らない雑談を装った。
「内気な彼女ができたんですね」
「なんとか無事にできました」
「ちゃんとゴールインできるよう応援しています」
「その時は真っ先に招待しますからね」
「楽しみにしています」
表面上はめでたい話のように聞こえるが、裏では真逆に近い情報が錯綜していた。ゴールインや招待がまさにそうだった。説明なしで本来の意味ではない別の意味が伝わるのは楽でいい。
飄々としているカナデと目を合わせた。カナデからは余裕が垣間見える。計画通りに事を運べているのだろう。金蔓はしっかり繋ぎ止めているようだ。その調子でしくじることさえしなければ、カナデの新しい彼女を手にかけることができる。彼自身もしくじらなければ次もあるかもしれないが、それを考えるのは全て終わってからでも遅くない。
注文した料理が二人分一緒に運ばれてきた。店員に礼を言い、それ以上の会話もなく二人は出来立ての料理に手をつける。かなり遅めの夕食だ。
食べている時はより一層無言になる。食べながらぺちゃくちゃ話すことは、彼よりも口数の多い目の前のカナデもしようとはしなかった。それには好感が持てる。食事中に、一言二言なら特に気にすることはないが、やたらと話しかけられるのは好きではない。生返事ばかりになる気しかしない。
店内は静かとは言えないが、彼とカナデの席に限っては、まるで息を潜めているかのように音数が少なかった。
黙々と料理を口に運び胃を満たしていると、ふとカナデの視線が席を外れたことに気づいた。何かあるのだろうかとその視線の先を追うよりも前に、ミコトさん、とカナデが考案した名を呼ばれる。
「ミコトさんから見て右斜め後ろの方の席にいる学生グループ、特に女子が、こちらをちらちらと窺っています」
カナデはさらりと言ってから、料理を口に運んだ。カナデは一瞬だけ学生グループの方に目を遣ったものの、気づいていないふりをしている。彼は振り返ろうとしたが、思い直し、カナデに合わせることにした。食べ物を放り込み、噛み砕き、飲み込む。
「カナデさんについて、何か気になることでもあるのかもしれませんね」
「俺ではなく、ミコトさんじゃないですか? ミコトさんは独特な雰囲気がありますから」
「それはカナデさんの方だと思いますが」
恋愛感情を利用する詐欺師なだけあって、カナデは異性の心を鷲掴みにしそうな容姿をしている。胡散臭さはあれど、標的の前ではその人物をコントロールしやすいキャラを演じているはずだ。人を騙すための仮面をいくつも持っているだろうが、今はそれを被っていないであろうほぼ素の詐欺師に、オーラがないとは言い難い。
「女子二人が席を立ちました。手に何か持ってます」
「実況しなくていいです」
「こちらに向かってきてます。どうしますか?」
「相手はカナデさんがしてください。俺は何も言いません」
「人任せですね」
コミュニケーション能力はカナデの方がある。学生たちが何を企んでいるのか知らないが、できるだけ未成年の相手はしたくない。関わらないのが一番いい。
彼は学生グループを一切振り返らずに、注文した料理を食べ続けた。何か話しかけられた場合、カナデが上手く遇ってくれるはずだ。
人の気配が近づいてくる。制服を着たその姿が視界の片隅に映り込んでも、彼は顔を上げようとはしない。
「あの、すみません」
頭上で緊張の混じったような女子の声がする。彼は平然と無視をした。聞こえていても平気で無視ができる人間だった。
スルーする彼の言った通りに、カナデが女子たちの相手をする。
「何か用ですか?」
妙に柔らかい声だった。明らかにキャラを作っている。未成年の女子たちを怖がらせないようにするためか、爽やかな好青年のキャラを選択して即座に演じてみせるのは流石としか言いようがない。小首を傾げる仕草も様になっている。
「これ、私たちの連絡先です。その、良かったら、交換してもらえませんか? それか、この後、時間ないですか?」
持っていた紙を手渡され、誘われる。カナデがちらりと目を合わせてきた。
どうしますか? どうもしませんよ。受け取りますか? 相手は未成年ですから、何かあった時に責任を問われるのはこちらです。それなら、断るのが正解ですね。
エスパーさながら一瞬で意思疎通を図り、断る選択を共有する。後から面倒なことになりそうな芽は潰しておく。そうでなくとも、学生に興味はない。十歳くらい離れた相手からナンパされても迷惑なだけである。
まだ成人していない自分たちの安直な行動が、相手を社会的に殺す可能性があることを学生たちは分かっていない。想像力が足りていない。関わってきたのはそちらなのに、何か問題があった時、未成年であることを利用して被害者面されると殺したくなる。何も知らないくせに、大人が悪いと決めつけ誹謗中傷をするような奴らも殺したくなる。最終的に胸糞悪くなるくらいなら、今の時点で徹底的に遮断する方がいい。こんな夜遊びをしているような学生に人生を狂わされたくはない。
「申し訳ないですが、お断りします。俺、彼女いますし、彼にもいるんですよ。それに、君たちまだ学生みたいですから。下手に関わるといろいろ問題があります。何より、年下に興味はないです。迷惑でしかありません。君たちと違って大人であるこちらの立場も理解していただけますか?」
興味はないだとか迷惑だとか、ストレートな言葉を放ちつつも、最後には理解してもらえないかと眉尻を下げて困ったような顔を浮かべるカナデ。傷つけないようにしながら、それでいて分かりやすくはっきりと断ってみせるカナデの話術は見事である。一点自分に関する嘘が気になるが、相手をしてくれている以上文句は言うまい。ここで否定するのもおかしな話である。
女子たちは返事を探るように数秒押し黙り、それから、上手くいかなかったことに沸々とした怒りが湧き上がってきたのか、苛立ったように感情的になった。
「はぁ? 何それ、だる」
「せっかくこっちが声かけてやったのに」
ナンパを断られたことで、プライドを傷つけられてしまったようだ。女子たちの口調が攻撃的なものとなり、態度も視線も物がひっくり返ったように豹変した。しかし、彼もカナデも冷静だった。
彼は手を動かして、静かに料理を食べ続ける。カナデの外面は困った表情のままである。怠いのはこちらであった。
「男二人で食事とかホモじゃん。彼女いるとか嘘でしょ」
「そっちの人なんかずっと喋んないし。どう見ても陰キャ、童貞」
「抱かせてやってもいいかなって思ったのに、間違いだった。顔だけのクソじゃん」
してやったのに。させてやってもよかったのに。先程から何様のつもりだ。クソガキあばずれ痴女共が。
彼は真顔を保ったまま、心の中で暴言を炸裂させる。そうしながら、女子たちの喉を掻っ捌いていた。無様に死ねばいい。
高圧的な態度を取る女子たちは完全にこちらを下に見ている。年上に対する敬意が一切感じられない。無視をして大人しくしているせいか。カナデが優男を演じてしまったからか。
「どこの馬の骨とも知れない君たちの不遜な問いに真面目に答えてあげたのに、そこまで貶される筋合いはないですよ」
カナデは丁重に誘いを断った時と同じ声音で再び相手をしてあげていた。どうにか傷をつけたい風の女子たちは、怒りと苛立ちで顔を赤くしている。自分たちを見ているであろう仲間の前で、恥をかきたくないのかもしれない。既にかいているのに。
暴言を内に秘めながらも、彼は我関せずと食事をし、最後の一口を食べ終えた。カナデの皿にはまだ食べ物が残っている。なかなか食べ進められていないため、そろそろ交代した方がいいだろうか。
自分は何も言わないとは言ったが、事態は少々面倒なことになっていた。ナンパは失敗したのだから大人しく退散してくれればいいものを、女子たちは何を意地になっているのか。迷惑極まりない。
喋る前に唇を湿らせようと、彼はコップに手を伸ばした。しかし、それをなぜか女子に奪い取られ、思い通りにいかないストレスを発散するかのように、飲もうとしていた水をぶっかけられた。
「こっち見ないの何なの? ムカつくんだけど」
女子は空になったコップを乱暴に机上に置き、主にカナデに向けていた矛先を彼へと向けた。此奴なら勝てると思ったのか。舐められたものである。
彼は女子と目を合わせようとはせず、濡れた衣服に視線を落とした。水を飲みたかったのに、これでは喉の渇きを潤せない。ナンパしてくるような面倒な人間が絡んできたせいだ。死ねばいいのに。
「大丈夫ですか? 店員さんにタオルあるか聞いてきますね」
女子二人を無視することに決めたのか、カナデが席を立とうとする。その行動を、彼は女子を挑発することで止めた。カナデのフォローはありがたいが、店員が来てしまうと有耶無耶になってしまいそうだ。彼は湿らせられなかった唇を開く。
「自分たちの誘いを断るなんてあり得ないと思っているみたいですが、それ、凄く痛いですよ」
「は? 何?」
「酷い八つ当たりもしてくれましたが、すっきりしましたか」
「いきなり何言ってんの?」
「終始上から目線の傲慢なその態度、将来苦労すると思いますから、今のうちに直しておいた方が身のためです」
煽られた女子が机を叩いた。一際大きな音が響き、嫌な沈黙が流れる。威嚇のつもりだろうか。自分の思い通りにいかなかったらすぐ感情を剥き出しにする堪え性のない厄介な女の誘いは断って大正解だった。そういうところがまだまだクソガキなのだ。
「その水、少し飲んでもいいですか」
彼はカナデのコップを指差した。どうぞ、とその場に留まってくれていたカナデは快く了承してくれる。
彼は水を一口飲んでから、徐に目を上げた。初めて女子二人の顔をしっかり見ると、見られた方は怖気付いたように一歩後退る。彼の視線は殺気を孕んでいた。
「いつまでそこにいるつもりですか。そろそろ戻った方がいいですよ。悪目立ちしてますから」
女子から顔を逸らした彼は、それ以上はいないものとして扱った。カナデも察したように座り直し、食べかけだった料理に手をつける。
「最近の学生は何がしたいのか分かりませんね」
「単純に構ってほしかっただけだと思います」
「だとしたら迷惑すぎますね」
カナデは口を閉じ、もぐもぐと咀嚼する。彼はまたしてもカナデの水を飲んでしまいそうになったが、思い止まり、口をつけることなくカナデの側にコップを戻した。
「何なの? ふざけやがって。死ね」
「本当にマジで腹立つ。死ねよ」
女子が揃って暴言を吐き、イライラを隠しもせずにその場を立ち去った。肝が据わっている彼とカナデはノーリアクションで、顔すら上げない。死ねと言われても、少しも傷はつかなかった。負け犬の遠吠えにしか聞こえなかったのだ。
学生に誘われ冷静に追い払った後であっても、二人はその場に居座り続けた。気まずさを感じることもなくちゃっかりデザートまで注文し、食べ終え、ファミレスを後にする。
ナンパに大失敗した女子二人を含む学生の集団は、一足先に姿を消していた。