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市販の粉末と沸かした湯で簡単にできるカフェオレを、彼はアパートの一室で嗜んでいた。何もない休日の夜である。
湯は沸き立てのため、火傷に注意しながらちまちま飲み、ゴールデンタイムに放送しているバラエティー番組を適当に流した。ネットに上げられた動画に頼ったような衝撃映像番組だった。
世界にはいろいろな人がいる。そのいろいろに、自分も含まれているのだと彼は思う。多種多様ないろいろの中に、紛れ込んで埋もれてしまえばいいとも思う。
目立ちたい、認められたい、といった、誰しもが持っているであろう承認欲求が、彼はあまり強くなかった。できるだけ、陽の光を浴びたくなかった。
カフェオレを一口飲む。その時ふと、視界の端に黒い影が見えた。目を向けると、どこから侵入してきたのか、一匹の大きなムカデが、床に敷いているカーペットの上を這っていた。
彼は驚くことも慌てることもなく、机の上に常に置いているティッシュ箱を手に取り、その角を使ってムカデの胴体を押さえつけようとした。あまり効果がない。這っている場所が柔らかいせいだろうか。
ベッドの下に潜り込まれてしまっては退治が面倒になるため、彼は殺虫剤を取りに行こうとその場を立った。
そこで彼は思い出す。殺虫剤でも問題なく殺せるが、ムカデには熱湯がいいと聞いたことがある。
彼はカフェオレを一瞥した。湯はポットで沸かしていた。まだ中身は残っていたはずで、熱も冷めてはいないはずだ。
ベッドの下に隠れようとするムカデを、ティッシュ箱を使って、今度はそこから無理やり移動させた。
すぐには隠れられない位置まで強制連行し、台所から、夕飯の弁当を食すのに使用した割り箸を取る。ムカデを摘むためのものだ。リーチが短いが致し方ない。
彼はじっとすることもできずに動き回っているムカデを、折り畳むようにして割り箸で摘んだ。落とさないように慎重に、シンクの上まで運ぶ。空いている片手で側にあるポットを掴み、身を捩っているムカデに熱湯をぶっかけた。
人間であれば全身大火傷だが、ムカデもそうなのだろうか。
彼は観察する。熱湯をかけられているムカデは縮み上がっているように見える。
そうか、縮むのか、と行き当たりばったりで始めた実験を通して一つ学んだ。ネットで調べればすぐに分かることではあるが、実際に試してみたことで得た結果のほうが、より一層記憶に残るものになるのではないか。
熱湯を浴びているムカデの動きが次第に鈍くなる。死に近づいているようだ。ムカデは縮んで、縮んだ。
熱湯さえあれば、殺虫剤をかけて叩き潰すよりも楽に殺せるな、と瞬く間に弱っていくムカデを見下ろしながら彼は思考を巡らせる。やがて、無数の足がある細長いそれは、割り箸に挟まれた状態で動かなくなった。
縮み上がって死んだと分かっても、気の済むまで徹底的に殺すのは、自分よりも遥かに小さい虫でも同じだった。そこにある生命力を舐めてはいけない。息を吹き返されては困るのだ。
一度殺すと決めたら死ぬまで殺す。死んでも殺す。殺して殺す。それが彼のポリシーだ。
熱湯をムカデにかけ続け、ポットが空になったところで彼はようやく手を止めた。胸に気持ちいい風が通り過ぎていく。虫でも何でも、殺すのは快感だ。害虫を駆除するのにいちいち罪悪感を抱く人はいないだろうが、その逆で高揚感を抱く人もいないのではないか。
殺すのは面白い。これが何よりも一番楽しい。虫でも、人でも。面白くて、楽しくて、やめられない。
殺しを娯楽とする彼は明らかに、後者の感情を抱く人間だった。
彼は熱湯で濡れているムカデを上下に軽く振って水気を切った。割り箸で摘んだまま場所を移動し、ティッシュを何枚も引っこ抜いて机の上に重ね、縮んだムカデを寝かせる。動くことはない。
暫しの間、死骸を眺めた。それを前にカフェオレを飲んだ。すっかり冷めていた。突然現れたムカデと遊んでしまったせいだった。テレビも次の番組であるドラマが放送されていた。突然現れたムカデと遊んでしまったせいだった。
テレビはともかく、カフェオレは熱い内か温かい内に飲むのが美味しいのに。少し殺すのに時間をかけ過ぎてしまったようだ。
最後に人を殺して一ヶ月以上が経っている。その反動だろうか。きっとそうだ。そろそろ人を殺したい。殺したくなっている。殺そう。
彼は冷めたカフェオレを飲み干し、ムカデの頭を割り箸の先で潰した。
殺して頭を潰したムカデを、いくつも重ねたティッシュで包み、今度は全体を握り潰してよく固めてからゴミ箱に捨てる。割り箸もへし折って四つにして捨てる。一緒にムカデに対する興味も捨てる。
彼はスマホに手を伸ばした。SNSで、捨て垢前提のアカウントを出鱈目な情報で作成する。名前も適当につけた。ゴミ箱。
プロフィールなどの設定は一切せず、早速検索バーに死や自殺の単語をそのまま入れたり、それに関連するキーワードを入れたりして調査を開始した。
本気で死を望んで呟いている人間と、冗談だったり構ってほしかったりして呟いている人間を区別するにはまず、アカウントの規模を見ることにしていた。数字が大きいもの、とりわけフォロワー数が多いものに関しては全て却下し、殺す候補に挙げないようにしている。そのようなアカウントは漏れなく全部、承認欲求の塊の人間が動かしていると彼は思っていた。
所謂承認欲求モンスターと呼ばれる類の人間に自ら声をかけて、その強い欲求を満たすための餌食になるつもりは毛頭ない。死ぬのを協力すると絡みにいってしまったら、すぐにスクリーンショットと共に晒されてしまう気しかしないのだ。拡散されるとこちらも身動きが取れなくなる。炎上して目立ってしまうような真似は絶対に避けなければならない。それ故に、ターゲットを絞る際には、慎重に、冷静に、本気か否かを見極める必要があった。
殺すのは簡単だが、殺すまでの過程は茨の道である。早く殺したいが、焦ってはならない。これは耐久戦であり長期戦なのだ。それを乗り越えた先に、幸福が待っているのだ。彼は集中して検索を続けた。
死にたい。生きていたくない。殺してほしい。誰でもいいから殺してほしい。殺してくれる人を探してるけど見つからない。そんな都合よく見つかるわけないか。俺は死にたい。死にたい。でも死ねずにいる。死にたいのに死ねない。弱虫だ。強くなりたい。殺してやってもいいよという人が俺を見つけてくれますように。自分で自分を殺せたらいいのに。自殺したいのに怖くてできないなんて情けない。死にたい死にたい死にたい。もう全部嫌になった。殺して。死にたい。頑張って死のうと思う。どうすれば死ねるのかずっと調べてる。誰か私を殺してください。死にたい。
フォロー数もフォロワー数もアイコンも初期のままで、おまけにツイート数も少ないアカウントをいくつか発見した。本気かどうか後でじっくり吟味するために、ひとまず非公開で作成したリストに追加する。フォローはしない。どうせ役目を終えたら死ぬアカウントだ。彼のそれも、相手のそれも。
一頻り調べて、彼は一度スマホから目を離した。見もせず垂れ流していただけのドラマが終わっている。自殺志願者を探し始めてから約一時間が過ぎていたようだ。
程々にして、今日は終わることにした。焦りは禁物だ。雑でいいのは、アカウントを作成するまでだ。そこからは、慎重すぎるくらいに慎重になるのがちょうどいい。
アプリを閉じて、スマホを机の上に置く。軽く伸びをした。大きく息を吐き、中身のないコップとそこに収まっているティースプーンを丸ごと持って腰を上げる。
冷たくなる前に飲みきれなかったカフェオレを飲み直すことを一瞬考えたが、一日に何杯も飲むものでもないだろう。沸かした湯も使い果たしている。
新たに水を入れて沸騰するのを待ってまで飲みたいわけではなかったため、大人しく流しで洗い物を済ませた彼は、濡れた手を拭いて部屋へと戻った。
◇
夜から朝にかけてのコンビニの仕事を終え、そこで弁当とお茶を購入してから帰宅する。朝食である。
彼は自炊をしない男だった。料理に関しては何をするにも面倒臭いが先行し、全くやる気にならないのだ。よって、市販の弁当や、常備しているカップ麺ばかり食べている。
何年も不摂生な生活を送っているが、今のところ病気には罹っていない。まだ二十代後半という若さがカバーしてくれているのだろう。いつまで堪え忍んでくれるだろうか。
食にも健康にも無頓着な彼は、買った弁当を電子レンジで温めた。店でも温めることは可能だが、仕事の時間以外であまり長居はしたくない気持ちがあるため、いつも温めずに冷たいまま持ち帰っていた。
それを続けていると、最初のうちは温めるかどうか確認してくれていた仕事仲間も、いつの日か何も聞いてこなくなっていた。元々少ない会話が更に少なくなったが、基本的に無口な彼は意に介さなかった。
電子レンジがピーピー鳴くのを最後まで聞かずに扉を開け放ち、中の弁当を取り出す。しっかり温まっていることを手のひらで確認してから、開けた扉を閉めた。少し熱いくらいが好みで、中途半端は好きではなかった。
温めた弁当を机の上に置き、貰った割り箸で早速口にする。テレビもつけずにもぐもぐと咀嚼し続け、ごくごくとお茶で喉を潤し、空いていた腹を満たしていく。
何の感動もなく機械的に朝食を終えた彼は、スマホに手を伸ばした。例のアプリに通知がきている。昨夜自分が送ったメッセージに、相手が何かしらのリアクションをしてくれたのかもしれない。期待に震えそうになる指先で画面を触った。
【俺のこと、からかってますか? それとも本当に殺してくれるんですか? もし嘘を吐いているのなら、期待させるようなことを言わないでいただきたいです】
文字の節々から猜疑心が見て取れる。そうだろうな、と彼は指先同士を擦り合わせた。
突然現れた、俺があなたを殺しますよ、などとコンタクトを取る人物を、いくらそれを望んでいるからといってすぐに信じられる人は少ないだろう。前回命を奪わせてくれた女も最初はそうだった。
自殺志願者を面白おかしく揶揄して煽る輩がたまにいる。相手はそれを警戒している。そんな輩と一緒にされるのは不服であった。
彼はスマホの縁を指先で軽く叩き、言葉をまとめてから文字を打ち込んだ。
【からかってはいません。ちゃんと殺します。こちらから、殺しに行きます。あなたは家で待っているだけで大丈夫です。死にたくても死ねないのなら、俺が責任を持ってあなたを殺しますから】
先を急ごうとせず、冷静に誘導し、信頼を得ることを第一に考えた。
まだ序盤に過ぎないが、相手からの返信があったことでその時が着々と近づいている兆しを感じ、胸が弾んでしまいそうになる。でも、まだだ。彼は意識して深呼吸をし、昂る感情をグッと堪えた。
次の殺しに選別したアカウントは、殺してやってもいいよという人が俺を見つけてくれますように、と呟いていた人のものだった。
リストに入れたアカウントを後日取捨選択した時、幸か不幸かどれも自殺願望に嘘はないように思えた。
誰でも大丈夫そうだと判断する中でそのアカウントを選んだのは、見つけてくれますようにと願っていたからでもあり、フォローせずにダイレクトメッセージを送れるからでもあった。ほとんどの人はそこが非公開設定になっていたのだ。非公開では、第三者に見られることなく秘密裏に話を進めることができない。フォローすればメッセージを送れるようになるかもしれないが、そこまでして接触を図るつもりはなかった。
消去法に近い形で選別し、殺す標的としたアカウントの名前はカナデとなっていた。中性的で性別が分からないが、一人称が俺のため男だろうと安直に判断する。
カナデという名前も、彼のゴミ箱というあまりにも適当すぎる名前同様偽名の可能性があるが、殺すにあたってそこは取るに足らないことである。寧ろ本名などはあやふやな方がいい。互いのことを詮索し、詳しく知り合う必要はない。
自らの手で存分に人を殺せるのなら、どこの誰でも良かった。相手がどんな人物であろうとも。殺せたらいいのだ。男だろうが女だろうが、殺せたらいいのだ。
彼が自殺志願者を狙っているのは、単純に殺しやすそうだからだ。死を切望している人間を殺すのは、生きようとしている人間を殺すよりも楽なのではないかと彼は思っている。人を殺すことは好きだが、未だ嘗て活力に溢れた人間を殺したことはないため、楽なのではないか、という推量でしか言い表せられなかった。
死を求めている人間は楽に殺せそう。死を求めている人間は手が掛からなさそう。死を求めている人間は死を求めているのだから殺してもよさそう。殺すことで自分の欲求が満たされる上に、殺されることで相手も絶望しかないこの世から消えることができる。双方が幸福になれる。生かすよりも殺す方がいいこともあるのだ。生かす役割があるのなら、殺す役割があったっていいのではないか。殺し屋という職業があるくらいなのだから。
早く殺したい。殺してしまいたい。カナデは長話などせずさっさと殺させてくれるだろうか。家に上がってすぐに、そうさせてくれるだろうか。
カナデはどのように殺されることを望むだろう。望みがなければどんな風に殺してやろう。絞殺は連続になる。ひとまずその方法以外で殺すのがいい。
まだ上手く事が進んだわけでもないのに、彼はもう既にカナデを殺すことを想像してしまっていた。
想像が現実になる瞬間は、何度経験してもいいものだ。殺しというものはいいものだ。殺すことができなくなるまで、一人一人時間をかけて殺していたい。
人知れず逸る気持ちを抑えるように、ペットボトルのお茶を体内に流し込んだ。身体の内側を伝っていく冷たさが妙に心地良い。
殺しの対象として選択したカナデから新たな返信が来たのは、それから僅か数分後のことだった。死を望むカナデの一日がどのように過ぎていくのか知る由もないが、今朝はメッセージに返信をする余裕があることが窺える。レスポンスが早いのは都合が良い。
【分かりました。死ねるのなら、何でもいいです】
口角が持ち上がりそうになった。彼は咄嗟に表情筋に力を入れて、平常心を保とうとする。誰にも見られる心配はなくとも、誰にも見えないところでしてしまう癖は、ふとした時に人前で表れてしまう恐れがある。彼はそれを懸念していた。
文字に嬉々とした感情が乗り過ぎないように注意しながら、早速殺す日程を組む旨を伝えてカナデをリードする。つもりだったが、思っていた以上にカナデは前のめりだった。
【殺しに行くということは、俺の住所をお伝えすればいいですか?】
彼が先導せずとも、勝手に横か、もしくは前を歩いている。引っ張られているのはこちらなのか。
話が早いのも切り替えが早いのも助かるが、どこか妙に思ってしまうほどカナデは積極的だった。自殺志願者にしては珍しいタイプのように思える。
これまで殺してきた人たちは皆、彼が手綱を引いて導いてやらなければほとんど動かないような人たちだった。受動的な態度だったのだ。
それに慣れてしまっていたせいか、今回初めて引き当てた、導く必要のない能動的な殺し相手を前に、指の動きが止まってしまう。
本当に、カナデは死にたがっている人間なのか。
ここにきて急激に熱が冷め、クリアしたはずの初期段階の疑問が頭を擡げた。今度は彼がカナデを疑う番だった。
自殺志願者を狙っている殺人鬼がいることが警察内部で共有されていて、その殺人鬼を誘き出すために、カナデという本名かも偽名かも分からない人物が死にたがりを演じているのではないか。文字だけなら、誰でも、いくらでも、嘘を吐ける。
突飛な妄想が、それでいて、ないとも言い切れないような妄想が、脳内を駆け巡る。彼はお茶を飲んで深く息を吐いた。
少し時間を置くべきだ。早く話を進めて殺しに行きたいが、カナデに急かされるままに返答していては足を掬われてしまうかもしれない。例え些細なことであっても、覚えた違和感は無視しない方がいい。
あくまで殺すのはこちらだ。殺しに行かされるのではなく、こちらが殺しに行くのだ。カナデがサクラだろうがサクラじゃなかろうが、主導権を握られるのは性に合わない。
緩んでいる手綱を引っ張って、カナデを上手く取り扱おうと企図する中、そのカナデから追加でメッセージが送られた。
【返信待ち切れないので、先に住所送っておきます。ここです。夜だったらいつでもいいです。殺しに来てください。俺はあなたを信じることにしました】
胸がずしりと重くなる。誘き出されているのかいないのか。今は冷静に判断ができない。ただの偶然に過ぎないだろうが、猜疑の目を向けてしまった今となっては、それは追い打ちをかけるものと化していた。
カナデの住まいは、以前殺害した女の住まいと、全く同じ県にあった。
◇
信頼させておいて派手に裏切る行為は、程度の違いはあれど詐欺に該当する。彼は俗に言う殺人鬼であって、そのような詐欺師ではなかった。
彼の殺しは、相手が自殺志願者であると彼自身が信じ、相手からも殺してくれると信じてもらうことで初めて成り立つものだった。どちらかが疑っている状態では成し遂げられない。
今回の場合であれば、相手の方は彼のことを信じ切っているが、途中で疑いを挟んでしまった彼は、相手を信じ切れずにいる。そして、何も進展せずにいる。
慎重になりすぎていると思わないでもないが、人を殺しに行くのだから仕方がない。殺したくてたまらなくとも、欲に負けて思考を停止するわけにはいかなかった。
しかし、もう、腹を括るしかないだろうか。最初に、これはきっと大丈夫だと候補に残した自分の直感を信じて、カナデを殺しに行くしかないだろうか。
信じるか、信じないか。様々なパターンを想像し、懊悩しても、結局はそのどちらかしかない。殺しに行かずに後悔するより、殺しに行って後悔する方がずっといい。彼は人を殺したいのだ。逮捕云々は二の次だ。
仮にもしこれが、警察が関わっている誘き出し捜査であれば、夜だったらいつでもいいとは言わず、予め日付や時間を指定してくるのではないか。いつでもいいでは、毎晩警戒しなければならなくなる。非効率だ。
時間をかけてよく考えた末に、彼は覚悟を決め、仕事が休みである今日、車を走らせることにした。
ナビを操作し、目的地をカナデの住所に設定する。何度確認しても、女の住所と同じ県だった。
気が変わってしまう前に、彼はギアをパーキングからドライブへチェンジする。足踏み式のサイドブレーキを解除してアクセルを踏み込み、弱気な心に鞭を打って強気に車を発進させた。その場から動かして道路に出てしまえば、あとはもう行くしかないという気にさせられる。
そうだ。行くしかない。最初からそのつもりで、カナデにメッセージを送ったのだから。
無機質なナビの指示に従い、彼はハンドルを操作し続けた。
カナデに騙されているかもしれないという猜疑心と、しかし自分は今、人を殺しに行っている最中なのだという高揚感が胸を覆い尽くしている。
心躍る展開のはずだが、相反する感情が綯い交ぜになっていて、どうにもすっきりしなかった。到着してはっきりさせるまでは、どっちの気分にも片足を突っ込んでいる不安定な状態は続く。
県を跨いでの長時間の運転だった。彼は時折休憩を挟みながら、着実に目的地へと車を進めた。
まだ明るい時間にアパートを出たが、今は既にヘッドライトが必須になっていた。ただでさえ慣れていない道でもあるため、無駄な事故を起こして警察のお世話にならないように、予定にないことで顔と名前を記憶されないように、より一層集中し、気を引き締める。緊張感を持って、ハンドルを握り直す。
今日殺しに行くことはカナデに伝えていないが、夜であればいつでもいいというのだから突然訪ねても大丈夫だろう。目を見て文句を飛ばされたとしても、追い返されることはないはずだ。何日の何時に行くと日時を指定する方が却って不安で、今更だった。
ヘッドライトの先で、カナデが住んでいるというアパートが見えてきた。県名ばかりに気を取られていたが、カナデは自分と同じアパート住まいである。若干の親近感を覚えつつも、まだ気を緩めるべきではなかった。
ナビが目的地周辺であることを告げる。彼は建物の隣の広場の、邪魔にはならないであろう隅の方に停車し、辺りをよく見回した。人気はない。不審な車両も見当たらない。
スマホで時刻を確認する。既に九時を回っている。夜といっても、人の家をアポなしで訪ねるのには迷惑になりそうな時間だったが、夜は夜だ。彼は無言で理屈を捏ねた。
何時間も稼働していたエンジンを切る。あとは殺しに行くだけだ。やっと殺せるのだ。このアパート内に、死にたがっているカナデがいるのだ。疑いは払拭されていないが、ここまで来て殺しに行かない理由はない。
助手席に置いていた荷物から、いつしか手に馴染むようになった黒い手袋を引っ掴んで両手に嵌める。気合が入った。手袋は指紋を残さないためのものではあるが、それ以外にも、彼にとってはある種のスイッチであり、気持ちを切り替える手段の一つであった。
貴重品を持って車から降りる。鍵をかけるとパッと光がなくなり、足元が見えにくくなった。住み慣れた場所であれば、例え暗くとも体が地面の感触や続く道を覚えているが、ここはそうではない。彼は夜空に浮かぶ月の光を頼りに、ゆっくりと歩みを進めた。スマホのライトを利用すれば楽だろうが、身につけたばかりの手袋を外さなければならないのが煩わしかった。それ以前に、外したくなかった。
人とすれ違うことなくアパートの出入り口を通り過ぎ、なるべく足音を立てないように階段を上る。
カナデの住む部屋は二〇三号室だった。ここでも、二階に住んでいるという共通点があることに彼は親しみが湧いてしまいそうになったが、結局は自らの手で殺してしまう人である。距離の近さを感じても無駄だった。何の得にもならない。早く殺してしまいたい。
アパートの住人とも出会すことなく二〇三号室の前に辿り着いた。彼は呼吸を整えてから、布に覆われた指先でインターフォンを押す。程なくして、中から人が床を踏む気配を感じる。玄関へ来ている。鍵の開けられる音がする。ドアノブが動く。扉が開く。
部屋の明かりを背にしたそこの住人と目が合った。瞬間、彼は舌を打ちたくなった。その衝動を鎮めるように咄嗟に唇を引き結んだ。
やりとりをする際に覚えた違和感は気のせいではなかったのだと思い知らされる。此奴は違う。明らかに違う。
決して部屋を間違えたわけではない。そうではない。顔を出したこの男はカナデで間違いないはずだ。
一目見て違うと感じたのは、カナデが自殺志願者であることだ。
明らかに、カナデは死にたがりの人間ではない。人生に絶望している人間ではない。そのような人間の目には大抵光がないが、カナデにはある。その上で、胡散臭い笑みを浮かべている。
「やっと来てくれましたね。待ってましたよ。ずっと」
いつ行くと知らせてもなければまだ名乗ってもいないのに、カナデは初対面の彼が何者であるのか分かっている様子だった。
癪に障るが、カナデに騙されていたことは理解した。誘き出されていたことも理解した。しかし、その理由が判然としない。自殺志願者を装ってまで自分を釣ったのはなぜなのか。
「いろいろ聞きたいこともあると思いますから、中で腰を据えて話しませんか?」
疑問を読み取られ、先回りされたような感覚に陥る。完全に主導権を握られている。言われるがままは不愉快だったため、彼は一旦形だけの抵抗を挟んだ。
「部屋にいるのはカナデさんだけですか」
「カナデ……」
「アカウント名がカナデですから」
「ああ、それならあなたはゴミ箱さんですね」
適当に決めたのは自分だが、いざ口に出して呼ばれると侮辱されている気分になる。カナデは彼の名前をそれ以外で知らないため、名前に関してはカナデに非はない。全て自分の責任だ。
「部屋には俺以外いませんよ。一人暮らしですから」
「一人で全て計画したと踏んでいいということですか」
「そうですね。個人的にあなたに興味があるので。直接会って話をするために誘い出しました」
騙していたことを暗に認めている表現だった。そしてそれに申し訳なさを覚えている風でもなかった。
カナデは人を騙すことに慣れている。嘘を吐くことに慣れている。一切目を逸らすことのない様子から、人を欺いたことに罪悪感を抱いているとは到底思えない。
「カナデさんとは初対面のはずですが。それなのに俺に興味があるんですか」
「それも含めて話しますから。少し込み入った内容でもあるので、人に聞かれると困るんですよね。あなたもそうじゃないですか? それなりに殺ってるんじゃないかと俺は思ってますが」
やるが確実に殺る方だった。つまりは彼が殺っていることに関連する話をするということか。確かにそれを他人に聞かれるのは困るが、あなたも、とカナデは言っている。すなわち、カナデも、何か人に聞かれては困ることをやっているということか。
「どうぞ。上がってください」
カナデの意図が知れないまま蜻蛉返りしてしまうと、胸を覆っている大量の霧が晴れなくなる。殺しに来たのに殺さずに帰ってしまうことも、長時間の運転の元を全く取れなくなる。
胸をすっきりさせ、尚且つ元を取るには、カナデと話をすることが必須だ。避けては通れない。
「長話はあまり好きではないので、手短にお願いできますか」
「難しい注文ですが、お気に召すように努力しますね」
彼はカナデの部屋へと足を踏み入れた。後ろでカナデが扉を閉め、鍵をかける。その音がする。
「好きな場所に座ってください」
中へ案内され、腰を下ろすよう促された。部屋の壁の角に沿うようにベッドが、その線対称に位置する場所にはテレビが、中央には机が配置されている。彼は机の前に静かに座った。扉に背を向けた位置を選んだ。
腰を落ち着けた彼は、不躾に室内を見回す。部屋の間取りは彼のアパートと多少違うが、広さは同じくらいだろうか。物が少ない印象だった。生活に必要な最低限の物しかないように見える。かくいう彼の部屋も似たり寄ったりである。人のことを悪くは言えない。男の一人暮らしはこんなものなのかもしれない。
「何か飲みますか?」
「お構いなく」
「俺が飲みたいので、そのついでですよ。コーヒーは飲めますか?」
「飲めなくはないです」
「飲んで、あなたが散々待たせた俺の相手してください」
コーヒーよりもカフェオレ派だが、そんなわがままを言うわけにはいかない。カナデの言葉に甘え、コーヒーを一緒に飲みながら話をすることにした。
コーヒーの粉末と専用の砂糖を入れ、ポットで沸騰させた湯を注いだカナデが、二つのカップを手にして彼の対面に腰を落ち着けた。湯気の立つそれを、どうぞ、と差し出され、素直に受け取る。カフェオレよりもほろ苦さを感じる香りが鼻腔を擽る。
カナデが一口飲むのを見届けてから、彼も火傷に注意しながらカップに口をつけた。人前では、息を吹きかけて冷ます所作はしない方がいいだろう。彼は非常識な殺人を犯しているにも拘らず、妙なところで常識的であった。
コーヒーを飲み、カナデと向かい合ったままで、暫し沈黙が続いた。異様な光景だ。何のためにここに来たのか、目的を見失いそうになってしまう。本来であれば、彼は持て成しなどされる立場ではない。殺したいという欲求もあったはずだが、それもカナデに騙されていたことを知った途端に鳴りを潜めていた。こんなことは初めてだ。大丈夫そうだと判断して殺す対象を選別したのに、実際は自殺志願者を騙っていた人物であったことが、殺人欲が薄くなってしまうほどにショックだったのだろうか。自分自身のことだが、その自覚はない。騙されていたからといって、強烈な怒りも湧いてこない。憤りを覚えたのなら、今頃カナデは虫の息のはずだ。すぐ感情的になるような直情型の殺人鬼ではないことが、この予期せぬ事態を生んでいた。
「手袋、外さないんですね」
カナデが彼の手元を差し示した。胡散臭い。室内で手袋を着用したままなのは違和感があるのだろうが、カナデの表情は疑問を感じているというよりも、陳腐な話題を提供しているだけのように見えた。
「一応、俺はカナデさんを殺りに来た立場ですから」
彼は首を切るジェスチャーを挟みながら、カナデの纏う空気に合わせて答えた。今は落ち着いていようとも、またいつ状況が変わるか知れないため、できるだけここにいた痕跡は残したくない。
「その立場が、俺と話をして変わってくれるとこちらとしてはありがたいので、話の途中でいきなり刺しに来るようなことはやめてくださいね」
「ご心配なく。殺りに来たとはいえ、凶器は一切所持していません」
「それは安心です。信じますね、あなたのこと」
腹の探り合いをしながら、目を合わせる。カナデはずっと口元を微かに上げている。きな臭さの原因だった。
彼はまだ、カナデの目的も正体も知らない。本当に信じられる人なのか、誘き出された身としては警戒心は高まるばかりである。
カナデが目の前のカップに手を伸ばし、コーヒーで唇を濡らした。音を立てることなくカップを机の上に置くと、途端に空気が変わるのを実感する。本題に入る気だ。ようやくか。
「口も温かくなってきましたから、そろそろあなたが知りたいであろうことを一から順に説明していきたいのですが、その前に一ついいですか?」
フェイントを噛まされ、眉間に皺が寄ってしまいそうになったが、堪える。その前に一つ何があるというのか、という文句すら漏らしてしまいそうになったが、それも堪える。代わりに、何でしょうか、と意識して丁寧な言葉を選んで唇を動かした。カナデはマイペースに続けた。
「俺はあなたのことを何と呼べばいいですか?」
また長くなってしまいそうな話題である。その前に挟むものが分厚いのではないかと思ったが、相変わらず顔に出すことなく、彼は敢えてカナデのペースに合わせることに徹した。
「俺のことはゴミ箱と呼んでいませんでしたか」
「あれは冗談です。いくらSNSのアカウント名だからって、実際に会って関係を持ちたいと思っている人の名前を物の名前で呼ぶ趣味は俺にはないんですよ。適当につけすぎじゃないですか?」
「ちょうどゴミ箱にゴミを捨てた後にアカウントを作成したものですから」
ゴミ収集車に、他のゴミと一緒に飲み込まれたであろう、殺して潰して丸めたムカデのことが頭の片隅にちらついたが、鮮明に思い出すほどの思い出はなかった。退治すべき害虫に過ぎない。
「本当に適当ですね。それだけ適当につけたなら、人名に変えても名残惜しくはないですよね」
「そうですね。カナデさんの好きなように呼んでください」
「俺が決めていいんですか?」
「どうぞ。あまり変な名前にはしてほしくないですが」
「悩みますね」
悩んでいるようには見えなかった。カナデも彼と同じで表情が大きく変わることがないため、依然として真意が掴めない。胡乱な顔の裏側では、一体何を思考しているのだろう。
彼は間を埋めるように、本日二口目のコーヒーを飲む。普段はカフェオレといった甘めのものばかりを好んで飲んでいるが、たまにはコーヒーのようなほろ苦いものを口にするのも悪くはないと思っていた。悪くはないだけで、残念ながらカフェオレには負けてしまう。
コーヒーを味わった後、彼はカナデの様子を窺った。へらへらとも、にやにやとも、にこにことも表せない薄ら寒い笑みを浮かべている。その不敵な微笑で内面を隠すカナデが、無表情を貫くことで裏側を隠す彼を見つめ、唇を開いた。
「ミコトさん」
「俺の名前ですか」
「そうです。変更希望はありますか?」
「特には」
「それなら決まりですね。あなたはミコトさんで、俺はカナデ。これでいきましょうか」
カナデにつけられた名前はミコトだった。カナデの前では、彼はミコトとなる。なぜミコトなのかとありふれた疑問が脳裏を掠めたが、掠めさせただけで抹消し、彼は何も問わなかった。
互いに本名を知らないまま、二人はミコトとカナデとして、他の誰かに聞かれると困るという込み入った内容に触れる。彼は得意の聞く耳を持った。
「ミコトさんは長話が好きではないとのことなので、結論から先に述べますね。俺と手を組みませんか?」
まっすぐ目を見て投げかけられるが、前後の脈絡がないために咄嗟に言葉が出てこない。彼は確かに長話は好きではないが、それにしても結論が過ぎるのではないか。イエスかノーか、決断するには圧倒的に情報が足りない。
「流石に飲み込めないので、もう少し詳細願います」
「そうですよね。では、徐々に話の枝を広げていきますね。まず俺は、裏でこっそり詐欺を働いています。自分で言うことではないですが、詐欺師の端くれです」
詐欺師。そうか、詐欺師か。
淡々と告げられた、本来であれば驚くべきであろう新情報を前にするも、通りで人を騙すことに慣れていたのかと、騙しても平然としていられたのかと冷静に納得してしまう。その片鱗があったことによって、カナデは詐欺師であるという衝撃が薄れてしまった。
犯罪行為をしていることをさらりと打ち明けられたことで、あなたのことを信じています、と今度は間接的に伝えられている気分になる。彼が同じ穴の狢であることを確信し、信頼していなければ、自分は詐欺師だとまるで自己紹介のように名乗れるはずがない。
「対してミコトさんは殺人鬼。俺の予想では、連続がつく殺人鬼。間違いないですか?」
思考が読めない瞳で見つめられる。しかし発言そのものには自信が漲っているように感じた。間違っていない。間違っているわけがない。カナデは殺人鬼本人である彼から、ゴーサインを貰うために確認しているだけだ。
カナデが詐欺師だとは、実際にそう言われるまで彼は知らないままだっただろう。しかしカナデは違う。カナデは彼の正体を知っている。残念ながら今回は失敗したものの、それでも自殺志願者を殺害しようとして彼はここに訪れたのだ。殺すために足を運んだという事実がある時点で、誤魔化しは通用しない。寧ろそうする方が不自然極まりない。殺人鬼であるかどうかの確認の会話など、今この場では重要だとは思えない。もっと大事なことがある。
「間違いはありませんが、それがどう転んでどう着地すれば、俺と手を組むという発想になるんですか」
詐欺師と殺人鬼。犯罪の種類は異なるものの、世間からは確実に忌避される存在同士で何を協力し合うのか、少しも予想できないわけではない。カナデが働かせているのは悪知恵だ。
「簡単に説明します。間違っていたら訂正してください」
カナデはそう前置いてから続けた。
「ミコトさんはこの県内で女性を一人殺してますよね? 長髪で、三十代くらいの、死にたがっていたという女性です」
「よく知っていますね。県内のニュースで報道されたんですか」
「ちょこっとだけですが」
人差し指と親指で、豆粒を摘むような仕草をするカナデ。少しだけでもテレビで流れたのなら、女がどのような経緯で、またどのような方法で殺害されたのかも知っているだろう。
女を殺した殺人鬼が自分だといつ知ったのか分からないが、言っていることは合っているため訂正の必要がなかった。白髪塗れの長髪の女。三十代の女。死にたがっていた女。その原因となった事柄は何だっただろうか、とほとんどの独白を聞き流していたために穴だらけとなっている記憶を彼は呼び覚まそうとする。興味のないことは頭に残ってくれない。それでも、虫に食われずに済んでいた気になる単語が隙間から顔を出した。瞬間、まさか、と思う。彼はカナデに目を向けた。相変わらず胡散臭く、気味の悪さすら覚える笑みを見せていた。自分に思い出す余地を与えたのはわざとか。
「ミコトさんの察しが良ければ気づいたかもしれませんが、ミコトさんが殺したあの女性、俺に大金をくれた人なんですよ」
意地の悪い言い方をしているが、要はカナデが詐欺した相手だということだ。自分が殺したあの女は。長々と独言していた中で何度も登場していたように思える彼という三人称は、今目の前で対面しているカナデのことで間違いない。
詐欺師であるカナデに好意を利用され、金を騙し取られ、途方に暮れ、絶望し、死にたいと思い、欲求を満たすための餌を探していた彼に見つかり、殺してもらうことを決意し、女は全てを終わらせた。人生をかけて好きになった相手は嘘塗れの詐欺師で、人生を終わらせるために選んだ相手は殺すこと以外興味がない殺人鬼。女は最期まで、人を見る目がないようだった。
女の死に、間接的に、または直接的に関わっている二人が揃っている。カナデが、自分の騙した女を殺した殺人鬼を誘い出し、正体を明かしてまで手を組もうとする理由がようやく掴めそうだった。
騙す詐欺師と殺す殺人鬼。偶然重なった共通の標的。選んだ鴨を騙して殺すこと。カナデが騙し、彼が殺す。それがカナデの悪巧みか。
「殺された、と知った時は正直驚きました。最近まで金蔓にしていた人でしたから。でもそこで俺は閃いたんです。搾り取れるまで搾り取ったら殺す手もあるのかって。ミコトさんのおかげですよ」
「俺は通りすがりに、カナデさんの出した残滓を処分しただけですが」
「その残滓がまた新たにできたら、あの金蔓にしたみたいに、ミコトさんの手で処理してくれませんか?」
「処理できるのは胸が躍りますが、カナデさんが自らそうしようとは思わないんですか」
「中身を綺麗にすることはできます。でも本体を丸ごと廃棄することはどうもできそうにないのです」
金蔓。残滓。処分。処理。廃棄。ここに来て言葉を暈してはいるが、治安の悪さは隠し切れていない会話だった。
下手に突っ込みすぎずに話を続けた限りでは、彼の見解は外れてはいなかった。カナデが詐欺を働いて内側を綺麗にした後、彼が殺人を働いて外側を綺麗にする。それぞれが得意分野の役割を担い、一人の人間の精神と肉体を順に破壊することをカナデは提案しているのだ。
人を殺せるのなら、彼にとっては悪い取引ではない。だが、人を欺いて金を奪うことが目的であるカナデの視点から考えてみると、金銭を搾り取った後に、わざわざ危険を犯してまで金蔓だった人を殺す必要はないのではないかと彼は思う。カナデが自分と手を組むことで得られるメリットは何なのか。本人の口から聞くしかない。
「人に頼んでまで、騙した相手を殺ろうとするのはなぜですか」
カナデと視線を合わせ、追及する。まだ、了承はしない。疑問を抱いた状態ではとことんまで趣味を堪能できない。胸にあるしこりは全て取り除いてしまいたかった。
飄々としているカナデは彼の問いに即答はせず、至って冷静な調子で、且つペースを崩すことなくのんびりとコーヒーを挟んだ。もう一度口を温めるためでもあるだろうが、湯気はもうほとんど上がっていない。
彼はカナデの上下する喉仏を意味もなく見つめながら、女を絞殺した時の感触を思い出す。言うまでもないが、女の喉仏は突き出ていなかった。
机の下に隠した両手で、カナデの無防備な首を絞めるように空気を掴んでみる。当然ながら、中はスカスカだ。間に物体がないため、気分は上がらない。非常につまらない。すぐに形を崩した。想像では全く満足できない。
沈黙を埋めるようにエア首絞めをしても心が満たされなかった彼の耳に、コーヒーを啜っていたカナデの平坦な声が届いた。彼はカナデの首から瞳へと視線を持ち上げる。相変わらずの表情で、昏い双眸だった。
「詐欺師に騙されて本気で死にたがる人がいるということは、逆に考えれば、自分を騙した詐欺師を殺してやりたいと恨む人もいるかもしれないということです。正気を失った元金蔓に殺される可能性があるのなら、そうなる前にこちらから殺してしまった方が安心だとは思いませんか?」
問われても彼は否定も肯定もせず、カナデが鴨を殺す考えに至った理由のみを頭に入れた。安心を得るため。彼が人を殺すのは、ただ殺したいため。飛んだ悪人同士であった。
「そういうことですか。でもカナデさんは、人を騙すことはできても殺すことはできない。だから、鴨を殺す役割に、ちょうどカナデさんの見覚えのある滓を殺した俺が任命されたわけですか」
「そうです。その方が俺も説明しやすいですし、話も早いですから。何より確実に人を殺している人です。ミコトさんが送ってくれたメッセージからも慣れを感じましたから、回数を重ねているシリアルキラーだと踏んで信じることにしました。ビンゴです。おまけに冷静に話し合いもできる人です。殺人に慣れている人で、何が起きても動揺せずに落ち着いている人。ミコトさんは俺の求めていた人そのものなんですよ。実際に姿を見て、実際に話をして、より一層ミコトさんと手を組みたいと思いました」
ここぞとばかりに畳み掛けるカナデの顔を、彼は目を逸らすことなく凝視する。唇はよく動く癖に、顔は胡散臭い微笑のままだった。
「俺を口説き落とす作戦ですか」
「惚れた相手に拒否されるのは堪えられませんから」
「口を温めすぎですね」
言いながら、彼は一度区切りをつけるようにコーヒーを飲んだ。温くなっている。火傷に注意し、慎重になる必要もなくなっている。
既に結論は出ていた。自殺志願者ばかりを殺していたため、たまには生を諦めている人ではない人を殺すのも良い気分転換になるかもしれない。
殺す方法はこうでなければならない、殺す人間はこのような容姿でなければならない、といったシリアルキラー特有の拘りは彼にはないのだった。そのため、殺人対象を変更することへの抵抗もない。
「ちゃんと殺させてくれるのなら、手を組んでもいいですよ。ただし、俺を裏切るような真似をしたらカナデさんを殺しますので、悪しからず」
相手は詐欺師だ。詐欺師の武器を翳される恐れがあるのなら、予め殺人鬼の武器を翳して牽制しておいた方がいいだろう。
犯罪者を、特に人を騙すことに長けた詐欺師を信用するのはリスクが生じる。カナデから見た彼もまた、同じようなものかもしれないが。
「本物に殺す宣言されると軽く受け流すことはできないですね」
カナデは顔色を変えない。腹の中を無闇に見せようともしない。彼も同様だった。
「裏切ることさえしなければ殺しはしません」
「俺はミコトさんに惚れてますから。裏切りませんよ、絶対に」
「そうしてください。俺には詐欺を働かないと信じてますから、カナデさん」
「俺もですよ。手を組むことを了承してくれた以上、俺からは逃げないと信じてますからね、ミコトさん」
昏い瞳を突き合わせ、彼らはどちらからともなくカップに手を伸ばした。これから秘密を共有して生きていく二人の息は、偶然であろうがなかろうが、確実に合っていた。