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早く殺したい。
机を挟んで対面する女の話を、彼は欠伸を噛み殺しながら聞き流していた。顔だけは、ちゃんと聞いている風を装って真剣そのものである。
最期に私の話を聞いてもらってもいいですか、から始まった女の自分語りは長かった。生きる希望を見失い、死ぬことを決意するまでの話に興味などない彼には退屈な時間だと言う他ない。
このような時間を過ごすことは初めてではないが、何度経験しても眠気に誘われてしまう。
さっさと殺させてくれればいいのに、誰も彼も最期に長々と話したがるのはなぜなのか。全てを話してすっきりさせてから殺されたいだけなのか。彼にとってはいい迷惑である。次に誰かを殺す時は、話したがっても許可しない方がストレスを感じなくて済むかもしれない。
不満を抱きながらも顔には出さず、彼は望み通り気持ちよく話をさせるために、適度に相槌を打ち、適度に共感した。
「まさか私が騙されていたなんて、思ってもみませんでした」
女が俯く。長い髪の毛が顔を隠す。垂れ落ちたその髪の毛は、見ただけで分かるほどにパサパサしていた。身なりに気を遣うことができないほどに生きる気力を失くしていることが窺えた。
女は三十代だと聞いている。その年齢の割には白髪が多い。全体的に窶れているようにも見える。非常に強い精神的なダメージを食らってしまったようだ。殺してほしいと本気で誰かに頼むほどに。
彼は依然として女の話を集中して聞くことなく、目だけで室内を見回した。
ここは女の自宅だ。整理整頓をする気にもならないのか、どこに目を向けても雑然としていた。汚くてもどうでもいいのだろう。今日、死ぬのだから。
彼と女はSNSで知り合った。もっと正確に言えば、彼の方から死にたがっている女にコンタクトを取ったのだ。ちょうどいいタイミングでちょうどいいところにいた獲物だった。
定期的に人を殺したいという欲求を覚える彼は、釣った女としっかり話し合ってから、待ち望んだこの日を迎えている。
彼が女の自宅に上がり込み、これからしようとしていることは、全て合意の上である。ビジネスのようなものである。
早く殺したい。殺してしまいたい。
しかしながら、彼の願いも虚しく、女の話はまだ続く。まだ殺せないようだ。まだ我慢するしかないようだ。
「本当に好きだったんです。彼も私のことを好きだと何度も言ってくれて。私、こんな暗い人間だから、誰かに好意を持たれるということが全くと言っていいほどありませんでした。だから余計に、その言葉が嬉しくてたまらなかったんです。彼を逃したら、もう私に恋愛なんかできないと思うくらい特別だったんです。結婚だって考えてました。彼も同じことを言ってくれました。でも、彼には多額の借金があったみたいで。それを返さないと結婚できないって言われて、君と結婚したいから、お金を貸してほしいってお願いされて、私、断れなくて。だって、私も結婚したかったから。それで、貸したんです。彼が抱えていた借金の全額を。これで結婚できるって思ったら、突然彼と一切の連絡が取れなくなって。そこでようやく、騙されてたんだってことに気づきました。本当に馬鹿ですよね」
女は自嘲する。詐欺に遭ったことを自嘲する。
あまり話を聞いてはいなかったが、どうやらこの近辺に、典型的な詐欺を働く詐欺師がいるようだ。
三十代にしては随分と老けている女は詐欺師の食べ残しであり、それを詐欺師と接点のない彼が処分しようとしている。滓しか残っていないものだ。少なくとも、金を騙し取る詐欺師にとっては。
詐欺の被害に遭い、意気消沈している女の、馬鹿ですよね、という卑屈な発言に、馬鹿ですね、とは言わなかった。相手のマイナスな言葉に頷いてしまうと後が面倒臭いのだ。
こういう時は、そんなことないですよ、と励ますようなありきたりな言葉でフォローするのが正解なのかもしれないが、感情を込めて言える気もなく、そもそも殺害に関係のない余計な会話をする気もないため、彼は口を閉ざしたままでいることを選んだ。
つまらない。退屈だ。興味のない講義を機械的に聞いている時みたいな感覚だ。早く殺されたくないのか。こっちは早く殺したくてたまらない。
金を奪って満足する詐欺師と違って、彼は命を奪って満足するただの殺人鬼なのだった。それも、対象に了承を得ている珍しいタイプの殺人鬼である。
「生活がギリギリになることを理解していながら貸すなんて、当時の私はどうかしていました。恋愛感情を利用されて騙されて、もう誰のことも信じられません。もう私には何もないんです。独りぼっちなんです。働く気力も失くなりました。死にたいです。これくらいのことで死にたいなんて言うなって笑うかもしれませんが、もう無理なんです。凄く、凄く、死にたいんです。でも自分で死ぬことはできなくて、だから、死ぬのを手伝うと声をかけてくれたあなたにお願いすることにしました。殺してください。よろしくお願いします」
女が彼を一瞥し、頭を下げた。ようやく出番である。彼は気持ちが昂るのを感じた。
死ぬ手伝いをする日には常に身につけている黒い手袋に目を遣る。指紋を残さないためのものだ。
殺してもいいと相手から許可を得ていても、残念ながら法律はそれを許してくれない。逮捕されてしまうと人を殺せなくなってしまうため、指紋を残さないことはせめてもの抵抗だった。
「何か希望はありますか」
彼は女の話には一言もコメントせずにそう切り出し、女の様子を窺った。顔を上げた女が小首を傾げる。
「希望?」
「どんな風に殺されたいか、その希望です。できるだけ叶えますよ」
「……血が苦手なので、血が出ない方法だったら何でもいいです」
「分かりました」
彼は徐々にテンションが上がるのを実感しながらその場を立ち、女の傍まで移動した。殺せるのなら、何でもよかった。派手でも地味でも何でもよかった。
「後悔はないですか」
あってもなくても殺すことに変わりはないが、毎回聞いていることである。途中で殺されるのが怖くなっても、やめるつもりはない。
「ありません」
女の声色には迷いがなかった。ここで言葉を詰まらせない人間は、本気で死にたがっている。本気で死を望んでいる。反射的な抵抗もされにくいだろう。
それ以上の会話は必要なかった。あとは殺すだけだ。望みを叶えてやるだけだ。
血が出ない方法であれば何でもいい。女はそう言った。つまり、流血しなければ何をしてもいいのだ。何をしても。
とりあえず、彼は女を乱暴に蹴り飛ばし、その胸部を踏みつけた。女の顔が僅かに歪む。いくら覚悟していても、死ぬ瞬間は苦しいものだ。その苦しみを乗り越えた先に、女の求める幸福があるのだ。
足で踏んでいる女の命を握っていることに人知れず興奮しながら、彼はじわじわと胸を圧迫し、じわじわと死へ導いていった。
一思いに殺してなどとは言われていない。血が出なければいいのだ。血が出なければ、いくら暴力を振るっても問題はないのだ。好きにできる。この女は殺してもいいのだから、加減する必要もない。殺してしまった、という失敗もない。成功しかない。
幸せを掴むために苦しみに堪えている女を上から見下ろす。良い眺めである。
彼は顔色をほとんど変えることなく胸から首へ足を滑らせた。ぐっと踏み込む。胸よりも首の方が効果は抜群だろう。
暫し無言で踏み続けていたが、この程度で死ぬことはない。彼はまだ本気を出していないのだ。遊んでいると言っていい。
快いと感じる時間は長ければ長いほどいいのだった。自分語りをされ散々待たされたのだから、これくらいはしてもいいはずだ。
苦しげに呻きつつも死を覚悟している女の傍らで、とりあえず、という気持ちで足蹴にしていた彼は膝を曲げた。女をじっと凝視する。殺されることを望んだ自分の言動を後悔しているだろうかと思ったが、女は彼から逃げようとはしなかった。女の顔は虚ろで、全てを諦めたかのように生気が感じられない。
この女の意思は強固である。そうでなければ、死ぬ手助けをすると名乗り出た、如何にも怪しい人間と会う約束を取りつけ、殺してほしいと頭を下げてまでお願いするはずがないだろう。どんなに弄んでも、最終的にはしっかり息の根を止めてやらなければ恨まれる。
彼は、なんとなく、女の細い首に手をかけた。手袋を身につけているため、そこに指紋は残らない。
布越しに感じる体温は、女が生きていることを知らせる。しかし、このまま絞め続ければ、いずれ女は死ぬ。それを女も望んでいる。
彼は女を見下ろし続ける。全体的に力が抜けている。手持ち無沙汰な両手は、申し訳程度に彼の腕に添えられている。
少しだけ、力を込めた。すると、女の手にも、僅かながら力が入った。息苦しさを堪えるための行動だろうか。
殺すことに興奮していながらも、彼はポーカーフェイスを保ったまま喉を押し潰すように首を絞めた。女の口から呻き声が漏れる。苦痛から逃れようと抵抗するというよりも、与えられる苦痛そのものを必死に堪えるような様は滑稽に見えた。
暇を持て余している空いた片手で、彼は女の髪を鷲掴んだ。頭を浮かせ、床に叩きつける。カーペットが敷いてあるため、衝撃は柔らいでしまうかもしれないが、効果がないことはないだろう。
片手で首を絞め、片手で後頭部を揺さぶる。息ができない中で頭に衝撃を加えられると、一体どのような気分に陥るのだろうか。彼は目の前の実験台を食い入るように見つめた。
女の目はぐるぐると回っている。頭を物のように扱われ、カーペットの上であっても床にぶつけられていることで酔っているのかもしれない。
酔っている、と考えて、彼は子供の頃によく乗り物酔いをしていたことを思い出す。長時間、車に乗っていなければならない時は、いつも酔い止めを飲んでいた。
当時は必需品であったが、大人になった今はもう平気である。自分で運転もできるようになり、何時間でも車をかっ飛ばしている。自分の家から女の家へ行くにも、県を跨いで数時間はかかっていた。
殺害時間よりも運転時間の方が長いため、彼はその元を取ろうと、すぐに終わらせようと思えば終わらせられる殺人を、無駄に時間をかけて楽しんでいるのだった。
口の端から涎を垂らし始めた女の首を捻り取るようにして、彼は頭部を揺さぶり続ける。呼吸ができないよう首も絞め続ける。
汚く、醜く、気持ちの悪い殺し方であったが、どんな方法でも相手が死ねばいいのだ。綺麗に殺すのもいいが、たまには雑に殺すのもいい。この部屋は雑然としている。汚い方が合っている。
首を引き千切らんばかりに乱暴な扱いをしながら、彼は無言で女を殺害した。
女の目から光が消失し、両手から力が抜ける。激しい抵抗をすることもなく、女はスムーズに死んでいった。
白髪だらけの髪から手を離す。息はもうしていなかったが、首だけはまだしばらく握っていた。徹底的に殺しておかなければならない。中途半端が一番避けるべきことである。
死体となった女の首を気の済むまで絞めた彼は、全身を満たしていく達成感に息を吐いた。
殺している最中もさることながら、殺した後も清々しいほどに気分が良い。これだから、彼は人を殺すことをやめられないのだ。
女と交わした約束通りに殺し終えると、小腹が空いてしまった。彼は床を踏み、台所へと向かう。
何か食べられるものはないかと冷蔵庫を開けたが、本当に金がないことを証明しているかのように中はスカスカだった。調理することなく、すぐに手をつけられそうなものはヨーグルトくらいである。
彼は冷蔵庫に手を突っ込み、ヨーグルトを掴んだ。長時間の運転をする前の腹拵えになるような量ではないが、何も食べないよりはいい。
食器棚にあるスプーンを拝借した彼は、カーペットの上で仰向けで死んでいる女と机を挟んで腰を下ろした。女を殺す前に座っていた位置である。
ヨーグルトの蓋を開ける。スプーンを差し込んで掬い、口に放り込む。自分の手で殺した死体のある部屋で、物も言わずに食べ続ける。異様な光景だった。
早々に空になった容器を机の上に置き、一息吐いた。罪悪感はなかった。
やることはやった。女の望みも叶えられた。後はもう帰宅するだけだ。
楽しいと感じる時間はあっという間に終わる。一時的に欲求は満たされているが、日が経てばまた人を殺したくなるだろう。
警察の懸命な捜査の果てに逮捕されてしまうその日まで、彼は人を殺し続ける。死んでいる女を騙した詐欺師が、犯行を繰り返すように。
帰ろう、と彼は徐に立ち上がった。部屋の隅に設置されているゴミ箱にヨーグルトの容器を投げ捨て、暫し逡巡してからスプーンも一緒に投げ捨てる。
ここの家主は死んでいる。ヨーグルトを勝手に食べてスプーンを勝手に使ったものの、わざわざ洗って元の場所に戻す義理はない。身につけている手袋を外したくもなければ、水で濡らしたくもないのだ。
「血は出さずに、しっかり殺しましたからね」
去り際に、女に向かって報告する。聞こえていなかろうが、それを口にすることで一区切りがつくのだ。
寝ている女のためにリビングの電気を消し、玄関ではなく、勝手口の方から家を出た。
静かな外の空気を吸う。ゴールデンタイムを過ぎ、深夜に差し掛かろうかという時間帯。辺りに人気はなかった。元より、ここは都会とまではいかない地域であるため、夜はちゃんと眠ってくれるのだ。
広くはない駐車スペースに停めていた黒い車に乗り込み、エンジンをかける。そこでようやく手袋を外してナビを設定し、車内で無駄な時間を過ごすことなく、すぐに県外に位置する自宅を目指して車を発進させた。何度目かの一人ドライブの幕開けである。
ナビの指示に従ってハンドルを操作しながら、彼は今日の殺しについて振り返った。
殺害時間を多少長く取ったものの、それでも数十分程度である。実際の滞在時間は一時間半くらいで、そのほとんどが殺す対象の長話に費やされている。元は取りたいが、興味のない話を聞いて時間が過ぎるのは好まなかった。相手の話を遮断して殺しに取り掛かってしまえばいいのかもしれないが、それでは改めての合意を得られなくなる可能性がある。合意があるかないかは重要なのだ。
話したがったら話させるしかないのだろうか。中には無駄話などはせず、すんなり殺させてくれる人もいたが、全員が全員そうではないのだから悩みどころである。
彼はあれこれ逡巡するが、結局は、気持ちよく相手を殺すためにも、気持ちよく相手が殺されるためにも、少しの妥協は必要かもしれない、という結論に至った。面と向かって、殺してほしい、とお願いされるまでは好きに喋らせるのが、やはり賢明なのかもしれない。
次に殺る人は、話をあまりしない人、しても短い人であればいいのに、と彼は思う。その方が、ストレスは軽減する。睡魔に襲われることもない。
彼は既に次の殺人に対して想像を膨らませながら、寄り道はすることなく、自宅へ向かってまっすぐ車を走らせた。
◇
一人暮らしをしているアパートに帰り着いたのは、午前四時頃だった。女の家を後にした時と比べると、外は随分と明るくなっている。
予め指定された駐車場にバックで車を停めた彼は、ナビの履歴を消去してからエンジンを切った。殺した女の家に行くことはもう二度とない。
鍵などの貴重品を持って車から降りる。朝に近い時間帯であってもまだまだ寝入っている人は多い。同じアパートで暮らしている住人の迷惑にならないように、できるだけ音を立てずに階段を上がり、二階の一番奥にある二〇一号室へ足を踏み入れた。後ろ手で静かにドアを閉め、鍵をかけ直す。
隠れて殺人を繰り返していながらも、それを抜きにして考えれば、彼にもある程度の常識は備わっていた。寡黙で大人しく、特筆するような悪い噂もない。どこにいてもおかしくない普通の青年である。
そんな彼が人を殺しているなど、アパートの住人含め誰も知らないだろう。
靴を脱ぎ、浴室やトイレの前を通り過ぎて部屋へと入った。
電気も点けずにベッドに寝転がった彼は、そこでようやく肩の力を抜いた。長時間の運転で疲労を感じている。人の命を奪うことに高揚する分、その代償は大きいようだ。それでも彼は、やめられない。
人を殺すことは、いつしか趣味と同等になっていた。誰にでも趣味はある。彼にとってのそれが、殺人だっただけの話だ。殺人が一番しっくりきただけの話だ。誰もが抱いたことのある何かしらの欲求が、殺人だっただけの話だ。殺したいから殺す。それだけの話だ。
倫理観が壊れていようとも、それを堂々と表に出したり他者に匂わせたりはしない。そうするべきではないことくらい理解している。何の自慢にもならないことくらい理解している。
彼は常に冷静だった。いくら趣味でも、履歴書に趣味は殺人だと書けるはずも、誰かに趣味は殺人だと言えるはずもないことは明白なのだ。
常識のある人間に擬態する時は、ありふれた趣味を持っていることにしていた。目立ったり怪しまれたりするのは最も避けたいことである。何の印象も残らないような、影の薄い存在でありたい。誰も自分に目をつけなければいい。
ベッドに寝そべったまま、彼はズボンのポケットに入れっぱなしだったスマホを取り出した。殺害して帰宅した後にはやるべきことがある。
外は明るくなり始めているが、スマホの光はまだ眩しかった。彼はブルーライトに目を眇めつつ、画面をタップしてSNSを開いた。殺した女と交わしたやりとりが残っている。
そのアカウントを、彼は躊躇いなく削除した。標的と連絡を取るためだけに作った、所謂捨てアカウントである。作っては消してを繰り返しているのだった。また適当に作成する日が来るだろう。
他にスマホを弄る用事のない彼は、それを枕元に置いて目を閉じた。シャワーを浴びたい気もしたが、汗を流すのは寝て起きてからでも問題ない。女を殺してから日付が変わった今日はもう、仕事がある夜まですることなどないのだ。時間は十分にある。入浴は後回しにした。
誰にも言えない重罪と呼ばれるものを抱えていようとも、彼は普通に職に就いていた。彼にも生活があるのだ。殺しで金銭のやりとりはしていないため、仕事をして最低限の金を稼がなければまともな日々を送れない。落ち着いて気持ちよく趣味を続けるためにも、毎月の収入を得ることは大事なことであった。
裏で殺人を働いている彼が就いている職は、アパートから車で数分程度の場所にあるコンビニの店員だった。良くも悪くも一般的な仕事だ。特に目立つこともなく、どこにでもいる店員として働けている。
そのコンビニはシフト制だった。店長に自ら希望して、シフトは深夜の時間帯に調整してもらっていた。だからこそ、夜遅くまで余裕があるのだった。
日中にバリバリ働くよりも、深夜のテンションで働く方が性に合っている。行きも帰りも、あまり人に会わないのがいい。昼夜逆転生活も悪くはなかった。夜行性だと言わざるを得ない現状である。
殺人も、今のところ全て夜に実行していた。暗い夜の方が人目につきにくいため、明るい朝や昼よりも行動を起こしやすいのだ。人を殺しに行っているのだから当然だろうか。
夜は変質者が多いと聞くが、あながち間違いでもないかもしれない。殺人を犯している彼も、変質者と言えば変質者であった。人を殺す予定のある夜に限り、化けの皮を剥ぐタイプである。
彼は布団に潜り込み、改めて就寝する体勢に入った。楽な部屋着に着替えるべきかと思ったが、面倒が勝り、やめた。殺しに行くのにわざわざオシャレなどしていないため、このままの格好でもいいだろう。今回の趣味は、返り血を浴びずに済んだのだ。汚れが気になるほどのことでもない。
同じアパートの住人たちがそろそろ目を覚ますであろう朝方に、周りと真逆の生活を送る彼は、仕事終わりのように深い眠りについたのだった。
◇
闇バイトが社会問題になっていた。それによる強盗や詐欺があちこちで多発している。
殺す相手を探すこと以外でSNSを使用することのない彼には、どこか遠い話のように思えた。余裕があるとは言えないが、これと言って困窮しているわけでもないからかもしれない。
簡単な作業で、楽な仕事で、尚且つ日給が何万や何十万など、明らかに怪しいと言わざるを得ないのに、それでも応募してしまう人は多いらしい。そこには様々な事情や経緯があるのだろう。見れば見るほど胡散臭いそれに応募するなどあり得ない、と何も知らない第三者が一方的に馬鹿にするわけにはいかなかった。自分は引っかからないと慢心するのは危険である。
もし自分が血迷って応募してしまったら。上から強要される強盗や詐欺を働くことに前向きにはなれないが、その要求が殺人であれば、自分は意気揚々と実行してしまうに違いない、と彼は闇バイトについて書かれた雑誌の記事を眺めながら思った。組織の捨て駒であることは少し癪だが、与えられた仕事が強盗でも詐欺でもない殺人なら喜んで引き受けてしまう自信がある。
しかしながら、誰かに人を殺させるのであれば、いくら金がかかってもその道のプロである殺し屋に依頼するだろう。金を奪うことが目的である強盗や詐欺とは違うのだ。よって、闇バイトで殺人を要求される率は低いのではないか。
彼は記事を流し読みする。現在進行形で仕事中だったが、今の時間は客が一人もいなかった。日付が変わって数時間が経過した深夜である。明かりがついている家はほとんどないと言っていい。
店内清掃や棚整理などの一通りの仕事は終わり、朝までに出す必要のある商品が納品されてくるまでは、しばらく暇な時間が続く。一緒のシフトである店長もレジで暇そうにしている。店長がそうなのだから、少しの立ち読みくらい許してもらわなければ割に合わない。難癖をつけて、彼はページを捲った。
強盗殺人についての記載があった。闇バイトに応募した若者複数人が実行役として高齢者の自宅に押しかけ拘束し、暴力を駆使して金銭の場所を吐かせ、奪い、挙げ句の果てには殺害した胸糞悪い事件である。
犯人は逮捕されたようだが、実行役に指示した上役以上の者からすればそれは想定内だろう。やはり捨て駒なのだ。組織に金を上納してくれさえすれば、実行役が逮捕されようが取るに足らないことなのだ。組織そのものを摘発しない限り、いたちごっこである。
見えない場所で警察が日々闘っているのだろうが、未だ進展はなかった。闇バイトとは別で、彼自身が犯している罪に関しても同様で、現時点では警察に接触されるようなことはなかった。
警察は危険な職の一つだ。刑事にでもなれば、狂った思想や狂った性癖などを持った凶悪な犯罪者や、裏社会の暴力団組織、麻薬組織、詐欺組織などを相手にすることもあるのだから、心休まる日などないのではないか。危険と隣り合わせであると分かっていながら、その職に就こうとする人たちは尊敬に値する。人を助けることよりも殺すことが好きな時点で、正義感の欠片もない彼には不向きすぎる仕事だった。警察官や刑事になりたいなどと憧れたこともなかった。
相手に了承を得て殺害したことが判明しても、それに目を瞑ってくれるはずもない警察関係者は、彼にとって漏れなく全員警戒すべき敵と成り果てていた。怪しまれないように、疑われないように。しがないコンビニ店員を演じ続ける。
いつまでそうしていられるかは判然としないが、できるだけ長く、誰からもスポットライトを浴びずに、影でひっそりと生きていきたい。何の取り柄もない自分には、それが合っている。それが普通である。
例え複数の殺人を犯していようとも、社会に溶け込めていれば、変に浮くことはない。挙動不審になることなく堂々としていた方がいい。様子のおかしい人間は、嫌でも目立ち、記憶にも残り、誰からも忌避されてしまうのだ。
レジでぼんやりとしている店長と二人きりの店内に、客の来店を知らせる曲が響いた。雑誌コーナーは出入り口のすぐ近くだ。
「いらっしゃいませ」
彼はマニュアル通りの挨拶をしながら、手にしていた本を閉じて棚に戻した。その後、何食わぬ顔をして仕事をしているふりをする。
入って来た客を一瞥した。若い男である。茶色に染めた髪を無造作に遊ばせているその見た目からは、彼よりも少し年下の二十代前半に見えた。付き添いはいない。
男はカゴを持って飲料コーナーへ向かった。ほとんど吟味することなく、適当な酎ハイを何本も入れていく。買い溜めにしても多すぎるのではないか。
一人で飲む量とは思えなかったため、友人と集まって徹夜でパーティーでもしているのだろうと彼は推測した。年齢に大きな開きはないだろうが、男は自分よりも身長が高く、体躯もよく、飲酒をして徹夜をしても体力は有り余っていそうだった。
横目で男の様子を窺うと、その顔が少しだけ赤く火照っていることに気づく。予想通り酒を飲んでいるようだが、飲む量のコントロールはできているのか、足取りはそれほど悪くはない。悪くはないからこそ、気になることがある。
彼は駐車場に顔を向けて目を凝らした。見た限り、自分や店長の自動車以外で、車やバイクなどは停まっていない。流石にそこまで羽目を外してはいないらしく、テレビだったり配信された動画だったりで目にすることのある迷惑系の人間ではないようだ。
世の中には、所謂迷惑系YouTuberという者がいるようだが、人に迷惑をかけてまで誰かに見てもらおうとするその心理が彼には理解できなかった。文字通り、迷惑極まりない承認欲求である。
何か珍しいことがあればすぐにスマホで撮影して投稿する時代だ。酎ハイをカゴに入れている茶髪の男が飲酒運転をしていたとして、もしそれで事故でも起こせば、深夜であっても好奇心旺盛な野次馬が多数集まるだろう。スマホを向けられるのは想像に難くない。飲酒運転で事故、などとタイトル付けされた動画は瞬く間に拡散され、事故を起こした若者は誹謗中傷に晒される。顔の見えない誰かのストレスの捌け口にされる。
悪いことをした人には、いくらでも攻撃をしてもいいというような風潮があった。客観的に見て、殺人鬼と言わざるを得ない彼もまた、起こした事件が公になってしまえばその対象になってしまうに違いない。
こっちは死にたがっている人間の望みを叶えるために殺しているだけなのに。殺すようお願いされてから殺しているのに。相手に許可を貰ってから殺しているのに。無差別でも怨恨でもないのに。
酒を飲んでいても判断力が低下しているほどではない男が、レジに商品を持って行く様子を彼は遠慮もなく眺めた。カゴの中には酎ハイだけでなく複数のつまみも入れられていた。
それまで暇そうにしていた店長の表情や態度が、瞬時に客用のそれに切り替わる。丁寧な所作で商品のバーコードを通していく店長と、スマホと財布を手にして静かに待っているほろ酔い気味の男を尻目に、彼は棚の整理をしている風を装った。綺麗にしてからは、彼以外まだ誰も触っていなかった。
会計が終わり、店長がマニュアルに沿った言葉を口にする。男はレジ袋も購入したようで、歩く度にガサガサとナイロンの擦れる音がしていた。缶が何本も入っているためかなりの重量があるはずだが、長身の男の体格がいいのもあってか、全く重そうに見えなかった。
「ありがとうございました」
男が店を出る時に、店長と同様、お決まりの台詞を彼も声に乗せる。見送られた男は振り返ることなくコンビニを離れ、深夜の道を徒歩で帰って行った。
やはり気持ちいい程度の酔いなのだろう。目に見えて分かるほどのふらつきはなかった。迷惑をかけない酒飲みなら、警察沙汰になることもなさそうである。
「さっきのお客さん、身長あったし体つきも良かったから、ちょっとだけ威圧感あったね」
店内を彷徨いてからレジに入ると、緩い口調の店長が暇を潰すように雑談を始めた。仕事中に客について話すことはあまり良いとは言えないが、店内に客の姿はない。関係ない誰かに聞かれる心配はなかった。
「そうですね」
彼はレジに置いてある椅子に腰掛けながら頷いた。そうしながら、共感して相手に気持ちよく話をさせようとする癖がここでも発揮されてしまったことに気づいたが、共感した側から否定的な返答に訂正するのも違う。頷くだけ頷いたものの、先は続けなかった。
彼は店長と違って、例の客に威圧感までは覚えていなかった。店長は大人の男性にしては小柄な体型である。男とは頭一つ分以上の身長差があった。目の前に立たれたら、相手の意図はなくとも圧を感じてしまうのは致し方ないだろう。
「お酒飲んでるなと思って警戒したけど、酔ってる人特有の面倒臭さというか、態度の悪さというか、そういうのはなかったから安心したよ。あれで変に絡まれたり高圧的に迫られたりしてたら怯んじゃいそうだった」
そう言いながらも、店長はにこにこと笑みを浮かべている。彼に対して緊張も警戒もしている様子はない。怪しく思われてはいないということだ。
元々穏やかな店長は彼に気を許してくれているようだが、彼自身は心を開きすぎないようにしていた。それは店長だけでなく、他の仕事仲間でも同じである。あまり踏み込まれすぎないように、ある程度の距離感を保つよう常に意識しているのだ。
「大体は優しいお客さんですが、中には店員を下に見ている人もいますからね」
「本当、すぐ見下す人は困っちゃうよね」
笑んでいた顔が、困り顔に変わる。嫌な記憶を呼び起こさせてしまっただろうか。
店長は責任者である。部下が対処しきれなかった厄介な客は、上へ上へと送られる。店長から見れば勤続年数の短い彼よりも、難しい客の対応をしてきたことは多いはずだ。その苦労が、ハの字に下がった眉から窺えた。
肩書などない彼がどこにでもいる理不尽なクレーマーに運悪く当たってしまった時は、冷静に相手をしながら冷静に殺していた。上辺では下手に出ながら、頭の中では殺処分する想像をしていた。
裏で殺人に手を染めている彼であれば実際に殺すことも可能だが、それはしない。行き当たりばったりの殺人は墓穴を掘るだけである。その代わりに、心の中で呪詛は唱えていた。
お前みたいなクレーマーは死んだ方がいい。死ね。不運な事故にでも遭って死ね。さっさと死ね。一秒でも早く死ね。今すぐ死ね。悶絶しながら死ね。
この客はもう手に負えないとなれば、内に秘めた殺意を振り翳して殺すのではなく、自分の上司に相談して変わってもらうことが仕事の上では正解だ。勝手な判断で勝手な行動をしてはならない。殺害するなど言語道断である。
「夜は変質者が活発に動き始める時間帯だよ。朝や昼とはまた違うクレーマーが来ることもあるから気をつけないとね」
店長が彼に笑いかけた。一緒に働いている男が殺人鬼だとは微塵も思っていないであろう朗らかな笑みだった。
そうですね、気をつけます、と当たり障りのない返答をする彼の素性を、店長は知らない。その変質者に、彼も当てはまることのある夜があることを、店長は知らない。
ポーカーフェイスの裏で思いながらも、彼は店長の気分を良くさせようと従順なふりをして頷いた。
悪く思われないように本音を隠し、彼は害のない普通の人間を演じ続ける。コンビニ店員という役を演じることで、怪しまれることなくできるだけ安全に人を殺すことができるのだ。殺すことをやめるという考えは、彼にはなかった。
店長との雑談は長くは続かず、二人してレジに居座ったまま会話のない時間が過ぎ去った。その間に来店してきた数少ない客は、彼が責任を持って捌いた。礼を口にしてくれる良質な客だった。夜に目を覚ます変質者が訪れるようなイレギュラーは起きずに済みそうである。
今日も平穏無事に終えられそうだと踏んだその後は、大型トラックの運転手によって運び込まれてきた商品を受け取り、淡々と陳列していくいつもの作業に取りかかった。
彼は黙々と手を動かす。商品を丁寧に扱い、丁寧に置く。店長も別の売場で同じ作業を繰り返す。彼よりもいくらか手際が良かった。ゆるゆるしていながらも、そこはやはりベテランである。埋められない年数の差があった。
一人の客が来店する。いらっしゃいませ、の声が店長と被ったが、珍しいことではない。いちいち顔を見合わせることはしなかった。
彼は出入り口に目を向ける。仕事の開始時間から闇に包まれていた外に色が付き始めている。その日の仕事もラストスパートであった。
そして、彼が自殺を志願していた女を殺害してから、彼の身には何事もなく一日以上が経過していたのだった。