鄙山賢輔と大切な話
外から雨の音が聞こえた。
控室は食堂よりもさらに静かである。掃除道具や備品が簡素に整理された、薄暗いこぢんまりした部屋。そこで僕は小出と対面する。
小出は期待をこめた目で僕を見ている。彼女の口元が動く。
「全て思い出したようだね。全く、ほんとにひどいよ? 私、プロポーズされたんだよ? あの日のこと、忘れてたの?」
あの日。それはたぶん、2月22日だろう。今から10年と4カ月くらい前の。
「覚えてるに決まってる」
「そっか」
小出は何か考えるような仕草をした。珍しいと思った。おしゃべりで、思ったことをすぐ話す彼女しか僕は知らないから。
「えっとね、鄙山君。たとえ、鄙山君が言った言葉がおざなりで形だけのものだったとしても。上っ面だけで安っぽい言葉であったとしても。励ましのためだけの、何気ない軽い言葉だったとしても、ね。私は本気で受け取っているから。そこんところよろしく」
小出は小首をかしげてウインクする。長い髪が揺れた。
小出は今日この日まで、僕のことを慕い続けてくれていたのだ。好きでい続けてくれたんだ。僕が彼女を縛り付けていた。
僕はあの時こういった。
「円佳は、不幸じゃない。幸せ者だよ。僕が約束するから」
「うん。確かにそう言った。一言一句そのまま覚えてたんだ。てっきり忘れてて、テキトーにごまかしてるんだと思ってたけど」
「そんな残酷なことはしない」
「ふふ。鄙山君は正直者だもんね」
今思い返してみると10歳にしてはあまりにも大人ぶった言動だった。勘違いされてもおかしくないセリフだ。
「だから、今日は正式に、直接、私からプロポーズしに来たの。言葉にしないといけないと思って」
小出の顔が引き締まり、真剣な眼差しが向けられる。しばらくの沈黙が訪れる。自分の心臓の鼓動がドックンドックンと聞こえる。胸がはち切れそうだ。
小出が口を小さく開く。
「私は、鄙山君のことが好き。私と……」
小出は大きく息を吸う。
「結婚してください!」
「飛ばしすぎ!」
なんてことだ。本気のプロポーズだ。
僕はしばらく何も言えなかった。さっきは咄嗟にツッコミをしたが、結婚について考えれば考えるほど、結婚という文字が頭の中で繰り返されれば繰り返されるほど、僕は小出に何を言えばいいか分からなくなってしまう。
小出のことは昔から好きだった。彼女と話すのは楽しかったし、落ち着くし。かわいいし。ずっと一緒にいれたらどれほど嬉しいか。
でも、だからこそ、こんな一時的な感情に流されてはいけない。後先考えない返事はできない。だめだ、大切な彼女のことを思えば思うほど、なんて言えばいいか、わからない……。
さっきよりも長い沈黙が静かな控室を包み込む。
「……だめ?」
今にも消え入りそうな、か細い声が聞こえた。
小出の方に目を向ける。小出は目を丸くして僕の顔をじっと見ている。
「いやそいうわけじゃ」
「私のこと、好きじゃないの!?」
小出の顔が歪んだ。目が潤んだ。
「いやだから……」
小出の認識では、好き=結婚なのだ。
なんとか話さないと。
「違うんだ。……その、段階ってもんがあるだろ?」
「そんなこと知ってるよ。それを承知の上で、結婚しましょう」
らちが明かない。
小出の顔は見るからに悲しい表情に変わっていく。どうすればいい? 久しぶりの再会から、まさかこんなことになるなんて。僕はただ、落ち着いてゆっくり話したい。聞きたいことは山程ある。話したいことは山程ある。伝えたいことがあふれて止まらない。
いっそ僕の脳と小出の脳が繋がればいいのに。でも、そんなことはできないし、できたとしても卑怯だ。
言葉にしないといけない。
「ごめん。結婚の話は、ちょっと考えさせてほしい。急すぎてびっくりしたから」
「……そう」
「でも、嬉しいよ。僕をこんなに好きになってくれた人は、小出しかいないから。僕も小出のこと、好き」
小出は何も言わない。
僕は続ける。
「好きだから、もっと真剣に話したい。だから落ち着いて話そう」
小出は頷いた。
「それもそうだね。ごめんね、仕事中に押しかけちゃって。出直します」
僕の横を通り過ぎ、控室の扉に手をかけた。
「また明日待ってる」
僕は思わず振り返ってそう言った。
「わかった。また明日来ることにして、今回は見逃してあげる」
「いつでも殺せるみたいに言うな」
「ふふ。明日こそ、ちゃんとした返事をしてもらうから」
小出はそう言って扉を開き、食堂へ向かった。
僕も控室から出ると、そこに小出の姿は無く、引き戸がガシャンと勢いよく閉じられた音がしただけだった。




