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さよなら、かみさま

作者: 左京ゆり

 線を描く。縦に、横に、斜めに、斜めに。四回繰りかえせば、黒い網目の四角になる。百回繰りかえせば、深い海の底になる。白と黒が織りなす色彩。この右手が生みだす、紙上(しじょう)の海。



新条(しんじょう)くん、ここ俯瞰(ふかん)帆船(はんせん)おねがい」


 差しだされた原稿用紙には、コマ割りの枠線と主人公の少年にペンが入っている。少年の背後には鉛筆でラフな海と船が描かれていて、(あん)が指し示しているのは、その大ゴマだ。俺はうなずき、マウスをクリックする。パソコンのデスクトップには、資料がフォルダ毎にまとめられている。目当ての画像――中世ヨーロッパの帆船を見つけ、あたりをつける。

 ふわあ、と間延びしたあくびが聞こえてくる。

 週刊少年Jの人気漫画家・栗栖(くりす)はブラインドから漏れる光を背に浴びて、細い目をさらに細めている。十月の日差しは穏やかで、男五人が醸しだす殺伐とした空気をやわらげる緩衝材みたいだ。チーフアシスタントの杏は、席を立って栗栖の背後にまわり、ブラインドのひもを引く。まぶたを閉じるように陽光はぴたりと遮られた。


「気持ちよかったのに」

「眠ったら間に合いませんよ、先生」


 惜しむような声の栗栖に、にべもなく杏は言って机に戻る。栗栖にこんな口を利けるのは杏ぐらいのものだ。栗栖と杏の付き合いは十年近くになるという。以前に栗栖がスランプで休載していたとき、杏が匿名でファンレターを送り続けたというのは、業界の有名な逸話である。栗栖が何度かまばたきして、俺を見る。とっさに目をそらしてしまい、一秒後には後悔に溺れそうになる。

「どうした? 新条くん、なにか分からないことある?」

 声を発したのは栗栖ではなく杏だった。この現場に入って三日目、栗栖とは挨拶以外で言葉を交わしたことがない。そっちが呼んだくせに、と反発する気持ちがないわけでもないが、俺はしがない臨時アシスタントだ。あと二週間もすれば去る人間に、さして興味を持たないのは当然だとも思う。


「いえ……何でもないです」


 杏におざなりな会釈を返し、机の上に視線を戻す。真っ白――ではなくて、栗栖が何度も下描きを消したせいで灰色に染まった――原稿用紙を指でなぞると、わずかな起伏が読み取れる。栗栖が入れたGペンの跡。この手ざわりはアナログでしか味わえない。インク瓶にペン先を浸し、定規を手に線を引く。ここ数年でデジタルに移行した奴のほうが圧倒的に多いが、俺はアナログ派だ。絡みつく針金のような俺の線は、タブレットペンでは上手く再現できなかった。栗栖の現場はデジタルとアナログが半々だが、今回の読み切りはめずらしくアナログ中心で仕上げるという。俺に声がかかったのもそれが理由だろう。



「栗栖先生んとこの月刊読み切り、新条くん、どう?」


 担当から電話がきたのは、先月中頃のことだった。秋口にしては暑い日で、畳に寝転がってささくれだったイグサを指で弄んでいたときだ。世間からも俺からも化石扱いされてたガラケーは、半年ぶりに出番がきたといわんばかりに鳴り響き、そのやたらと明るい音にぎょっとした。開口一番、息急くような担当に圧倒されて押し黙る。声は一度途切れた後で、気遣わしげなものに変わる。

「あ……まだ手の調子、だめっぽい?」

「いや……まあ」

 俺は言葉をにごす。平静を装いながらも、半年ぶりにきた仕事に声がうわずった。よりによって――栗栖のアシスタントとはな。期待をひた隠して尋ねてみる。

「でも……俺以外にも候補はいるんすよね? なんで俺に?」

 返ってきた担当の声も一オクターブ高かった。

「先生の指名なんだよ。今回は週刊連載とは違ってアナログメインで、往年のガロに載るような作風でいきたいんだってさ。ほら、新条くんそういうの得意でしょ」


 押し黙ったままの俺は、胸のあたりがきゅうと痛くなる。はしゃいだふうの担当の声も、栗栖が俺を指名したという事実も――嫌な痛みじゃない。担当が俺をまだ気にかけていたことも、栗栖が俺の漫画を読んでいたことも、甘さが滲むような痛みだ。

「分かりました。やらせてください」

 気づいたら、そう口走っていた。

 通話を切った俺はやけにのどが渇いて、冷蔵庫を開けたら空っぽだった。水道の蛇口をひねろうとして、思い直して財布を尻ポケットに突っこんで部屋を出る。

 半年ぶりに見上げた空は青く澄んでてびっくりした。




 栗栖の職場は自宅兼用だ。都内から快速急行で三十分、郊外にある一戸建て。作業場は玄関すぐの十畳の部屋で、俺を含めた四人のアシスタントと栗栖は、班で昼飯を食う学生みたいに机を並べている。


「新条さんって、クリスタとか使わないんすかー?」


 どこか険のある声は正面のK川だ。俺と同年代で、新人賞で佳作を獲って担当は付いているようだが、まだプロではない。デスクトップ越しに視線が合って、遠慮なく目をそらす。愛想を振りまく、というスキルは生まれたときから備わっていない。俺がサラリーマンなら一日でクビになっていただろう。

「俺はアナログなんで」

 原稿を見つめたまま答える。左手は紙を支え、右手が線を生んでいく。口が開いていようがいまいが、お構いなしで手は役目を果たしていく。


「でも今の時代、アナログは厳しくないっすか?」

「そうでもないよ。新条くんの画風はアナログでこそ生かせると思うし。ね、先生?」

 黙りこくった俺を気遣うように杏が加わってくる。俺の隣からも「うんうん」と同調の声がする。隣の席のO沢は、俺よりひとまわり年上のアラサーだ。ときどき青年誌で見かけるが、荒々しい作風に反して温厚なムードメーカーである。杏というのは通称で、投稿時代のペンネームらしい。早々に自分の実力に見切りをつけた杏は、プロアシ――アシスタントの専門職として栗栖を支えることを選んだという。熱心に原稿を見つめるふりをしながら、俺の耳はダンボみたいにでかくなる。栗栖はなんて返事をするんだろうか。心拍数が上がる俺をあざ笑うかのように、沈黙が部屋に満ちる。

「先生? って……ちょっと! こら! 寝ちゃだめですってば!」

 杏にゆさゆさと肩を動かされ、栗栖はまぶたをこすっている。

「昨日から寝てないから……」

「それは先生が締切を度外視してネームを切り直すからでしょーが!」


 ぶつぶつとぼやく栗栖の机からマグカップを奪い、杏は部屋を出る。おおかた、コーヒーを淹れ直すんだろう。俺は空気の抜けた浮き輪のようにへたりとなる。全身が力んでいたと今さら気づく。だけど原稿の線は平然としていて、通常運転を保った右手を内心で褒めてやる。



 漫画を描き始めたのは中一のときだ。親が離婚して母方の実家に引っ越した俺には、中学の知り合いが一人もいなかった。幼稚園からの顔なじみに囲まれてなんとか乗り切った小学校の六年間だが、見渡す教室は漂流して迷いこんだ海域みたいだった。


 梅雨の矢先のことだ。手持ち無沙汰にノートに描いたラクガキを見て、前の席の奴が食いついてきた。

「うめえ! それ誰?」「誰ってわけでもないけど」「ふうん……○○とか描ける?」当時アニメ放映中の主人公の名前だった。記憶をたどって描いたキャラクターを見て、そいつは目をでかくする。雨で校庭を使えないクラスメイトたちは、たまにノートを抱えて俺の席にやってきては、好きなキャラクターの名前を挙げた。

 夏休みは暇だったから毎日漫画を描いた。といっても、これまでのラクガキに毛が生えた程度のものだ。新学期、その漫画もどきをクラスメイトたちに見せたが「暗いしよく分かんない」と不評だった。自分の需要は絵だけで、漫画には誰も興味がないんだと知る。俺は絵の練習に熱中した。頭に詰まったまま口から上手く出せない言葉も、ぜんぶ黒い線のなかに押しこんだ。


 中三の冬だった。高校受験の帰り道、同級生たちの群れから離れて、知らない公園に寄り道した。空いたベンチにぼんやり座っていたら、視界の端に鮮やかな赤が飛びこんでくる。週刊少年Jだ。クラスの男たちが発売日に回し読みするさまを、いつも輪の外からながめていた。明るく発光するようなそいつらも、その漫画雑誌も、まぶしすぎて俺は避けていた。数式がちらつく脳みそを休めたくて、雑誌に手をのばす。冷気を吸いこんだ表紙が冷たくてほっとする。巻頭カラーは初めて目にする漫画だ。一枚、一枚、めくっていく。気づいたら公園には街灯がついて、あたりは真っ暗になっていた。

 この日、俺の脳みそは、栗栖という漫画家の名前に塗り替えられた。




 夜八時で一応、作業は終わる。マグカップを洗って戻ったところで、ぼそぼそと声が漏れてくる。扉はわずかに開いていて、俺は廊下に立ったまま動けない。


「……新条さんて、プロアシに転向するんすかね?」

「どうだろう。でも前の連載も途中だし、まだ続けるんじゃない?」

「途中っつっても半年休載ですよ? もう見切りつけられてるでしょ」

 からだを反転させたところで、思わず叫びそうになる。ぶつかった相手は俺に微笑んで、押し止めるように肩をたたく。扉が開き、薄暗い廊下に光が伸びていく。

「おつかれー、K川くん、O沢さん。どうする? お腹空いてたらなんか頼む?」

 杏の軽やかな声が耳に飛びこんでくる。俺は小さく舌打ちして、数秒かぞえてから、作業場の扉を開けた。K川はしかめっ面で、O沢はにこにこと、そして――杏はそしらぬ顔で会釈する。胸がムカムカするのはK川のせいじゃない。杏だ。こいつにだけは助け船なんて出されたくなかった。俺は三人に軽く頭を下げる。

「新条くんもたまには晩めし、一緒にどう?」

「大丈夫です。コンビニで買ってくんで」


 そそくさと荷物をまとめて、これ以上、声をかけられる前に部屋を出た。



 中三の冬から、俺は毎日漫画を描いた。栗栖の漫画を読んだ後、もう絵を描くだけでは満たされなくなっていた。授業中も、休み時間も、家に帰ってから明け方までも、寝る以外の時間をすべて漫画に注ぎこんだ。少年誌の新人賞に投稿したら、三作目で入選した。高校を卒業する目前のことで、俺は迷わず実家を出た。


 順調だったのはここまでだ。受賞すれば、すぐにプロになって連載が持てると信じていた。だけど俺のネームは企画会議を通らない。何度提出しても「暗い」「華がない」「地味」と全ボツを食らってしまう。当時の担当はネームを催促しなくなり、アシスタントや原作付き漫画を勧めてくるようになった。新人漫画家に選択肢はなく、言われたとおりに仕事をこなした。五年間、俺の評価は曖昧なままだった。ヒット作はないものの、依頼が途切れることもない。俺の絵のウリは病的なまでの緻密さで、それを好きという声もいくつか聞いた。

 オリジナル漫画の企画を通したのは、受賞時の担当だ。他部署に移っていた彼は、少年漫画部門に戻った矢先、俺の新担当に名乗りを上げてくれた。月刊誌の連載開始から三ヶ月が経ち――初連載は休載を余儀なくされた。アパートの窓を桜が埋めつくし、やがて花弁が散って新緑が覆いはじめても、俺はくすぶり続けていた。

 栗栖のアシスタントに誘われたのは、青天の霹靂としか言いようがない。



 ぐにゃ、と線が曲がる。右手に力をこめてGペンを握り直す。木製のペン軸が手汗で滑りそうになる。目玉だけを上に動かす。K川は黙々とタブレットの上で手を滑らせて、杏はデスクトップを見つめ、栗栖は――栗栖の細い目は俺を見ている。

 じわりと背中の毛穴から汗が滲みだす。

「なんでも……なんでもないです」

 聞かれてもいないのに、気づけば口走っていた。栗栖の尖ったあごが縦に動く。ほんのわずかな会釈だが、意思の疎通があった証でもある。どくどくと心臓が主張し始める。うるさい、黙れ。心の中で悪態をつく。ミスがばれることへの恐れなのか、自分を気に留めてもらえた嬉しさなのか――動悸の理由が自分でも分からない。ホワイトの瓶を手に取り、蓋を開ける。白い液体に浸した筆先が震えそうになる。もうこれ以上、注射は打てないと医者から言われていた。


 違和感を覚えたのは、デビューから間もない頃だった。


 ネームを切る右手の親指が、ときどきしびれて力が抜ける。ほんの一瞬のことだから、気のせいだと思いこんだ。一年経ってしびれが鋭い痛みに変わった後、ようやく整形外科を受診した。次のネームが提出できたら、この現場がはけたら――なんだかんだと理由をつけて、俺は受診を後回しにしていた。薄々、医者からなにを言われるか予想がついていた。案の定、いかにもスポーツマンという風情の医者は表情も変えずに「使い過ぎですね。一ヶ月ほど安静にしてください」と言ってのけた。冗談じゃない。ベテラン作家でもない、俺みたいな新人を誰が待ってくれるというのか。商業誌で作画担当を希望する奴なんていくらでもいる。俺は湿布や注射でだましだまし仕事を続けた。当時の担当には言い出せなかった。俺への関心が薄れているのが見てとれたからだ。

 受賞時の担当に変わって、ついに連載が決まったとき――俺の右手はもう限界だった。過去に三回ステロイド注射を打ち、こっそり別の病院で四回目を打った直後のことだ。しみの浮いた老いた医者から「腱が切れたくなきゃ二度と打つな」とこってり説教を食らった。手術を勧められたが踏んぎりがつかなかった。俺は絵がウリなのに、手術後も同じ線を描けるという保証はない。ずるずると決断できないまま、月刊連載は三話で休載、俺と俺の右手は否応なしに安静に――安アパートで貯金を崩しながら時間だけを食いつぶしていった。

 歪んだ線をホワイトで修正していると、この場にそぐわない機械音が空気をかき乱す。俺はとっさに机の端に手を伸ばしかけ、だがかろうじて、右手に筆を持っていると思い出してまず筆を置く。これ以上、原稿に被害が生じたら栗栖に顔むけできない。


「すみません、音消すの忘れてて」


 携帯の発信者名を見て、半分腰を浮かせる。担当からだ。迷惑そうなK川の顔も、人の好い顔で小首をかしげるO沢も素通りして、栗栖の顔を見てしまう。こっちを意にも介さず一心不乱に手を動かしている。視線を杏にスライドさせて「急用で」と断って、俺は作業場を出た。

 廊下の奥、玄関とは真反対の台所側に立ち、俺は声を潜める。台所の窓から風が吹きこんで、ひやりとして首をすくめる。


『……もしもし』

『ごめんね、アシ中に。新条くん今ひとり?』

『はい、作業場抜けてきてます』

『あのね……そっちの現場外れて代原(だいげん)する気ない?』


 担当は声を抑えながらも、皮膚の下の興奮が隠しきれていない。俺も血がぞわりと逆流しそうだった。早口でまくし立てる担当の声が携帯から響いているのに、ろくすっぽ頭に入ってこない。ようやく理解できたのは、通話が切れて内容を何度も反芻してからだった。

 代原――週刊少年Jの連載漫画家が、自宅の階段でこけて利き手を捻挫したらしい。全治二週間。その二週間分の代わりの原稿を打診されたのだ。半年前に連載していた俺の漫画はもともと五話、十話と話を区切り、人気に応じて連載も伸びる予定だった。掲載されたのは三話までだが、五話までのネームはもう出来ている。残りの四、五話を代原として載せられる――というのが、担当の提案だった。

『アシは代わりがいるけど、新条くんの漫画は新条くんにしか描けないから。それにほら、五話まで載せれたら……単行本も出せるからさ』

 嬉しそうな担当の声が耳にこだまする。今までに一度も、俺は単行本を出したことがない。原作付き漫画のほとんどは読み切りだったからだ。どん、と鈍い音が聞こえ、一瞬遅れて自分が壁を叩いたのだと気づく。代原か、栗栖のアシか――この右手の状態では、どちらか一つしか耐えられない。



「新条くん、大丈夫?」


 やわらかな声音に刺々しい気持ちが加速して、俺はかろうじて表情を保ったまま振りかえる。杏がマグカップを手に背後に立っている。俺を驚かせないようにと、一メートルの間隔を空けて声をかけてくる気遣いになおさら腹が沸きたつ。

「……はい。すみません」

 横を通りぬけた杏は、窓辺のシンクにマグカップを置くと、吊戸棚から赤い缶を取りだした。豆を挽くコーヒーメーカーの振動が台所中に伝わっていく。

「どう? 新条くんも一杯?」

 俺は頭を横に振る。でもこの場から離れることもせず、じっと杏の所作を後ろから眺めていた。栗栖の原稿を扱うのと同様に、杏の手は無駄なく、壊れものを扱うように注意深く動いていく。蛇口のレバーを上げる。スポンジに少しの洗剤をつけてマグカップを洗う。黒い陶器に残る泡を水で洗い流し、カウンターに置く。白い薄手の布巾を手に取って――ふいに、杏は背後を振りかえる。


「どうしたの?」

「甲斐甲斐しいなと思って」

 声音に含んだ棘は隠さなかった。杏も気づいているだろうに、まだ笑顔で俺を見ている。

「これも仕事のうちだからね」

「未練とかないんですか? 自分の漫画に」

「うん、ないね。僕は自分の漫画より先生の漫画が読みたいから」

 きっぱりと言い切る杏の顔は清々しくて、俺は右手を強く握りしめる。

「……さすがですね。栗栖先生の休載中、毎週ファンレターを送り続けたんでしょ?」

「はは……まあね」

 杏にしてはめずらしく歯切れの悪い言い方だ。髪をかき上げる仕草は照れ隠しのようでもあるが、気まずさを誤魔化すようでもある。そんなふうに見えるのは俺の意地が悪いのだろうか。

「うそですよね」

 杏の誠実そうな両の目は、なおも普段と変わらない。

「ファンレターを送ったのが杏さんだって、あれ、うそですよね」

「うん、そうだよ」


 こくん、とうなずく様子は幼児のようで、俺はあっけに取られてしまう。こんなにも簡単に肯定されるとは、思ってもみなかった。


「……なんで」

「うそをついたのかって? 自分でも分からない。アシになって先生からその話を聞かされたとき……なんで僕も手紙を送らなかったんだろう。僕だって同じぐらい、先生の漫画が好きだったのに。先生を応援していたのに。先生を励ました手紙の主は僕だったかもしれないのに……そう思っていたら、つい口走ってしまったんだ。手紙を送ったのは僕だって」

「ほんとの送り主の気持ち、考えなかったんですか?」

「……考えないようにしてた、かな。業界内の話だから、その人の耳に入ることはないだろうって。もしその送り主が業界の人で真実を暴かれたら、そのときは先生に打ち明けようって思ってた」

 あいかわらずやわらかな声音で淡々と言い、杏は俺に微笑んでいる。目をそらしたら負けだと思って、笑えない俺はただ杏を睨みつけていた。

「でも、それが今日だとは思わなかったな」

「今日も明日もない。栗栖先生には打ち明けないでください」

「……え?」


 初めて、杏の顔に動揺が走る。台所の四方に目を泳がせて、杏はまた俺を見る。その困惑がおかしくて、俺はつい口の端が上がる。


「今、栗栖先生を支えているのはあんただ。俺じゃない。手紙の主を明かしたところで、俺はあんたみたいにはなれない。栗栖先生の漫画にはあんたのサポートが不可欠だ。もしあの人があんたを信じられなくなったら、あの人のためにならない。だから……うそをついたのはあんたなんだから、一生つき続けてください」

 杏は何度かまつ毛を瞬かせて、床のフローリングから顔を上げた。さっきまでの微笑が消えた顔は、常になく、こいつの周囲の空気まで重たくさせている。

「分かった」

「それに……俺は俺の漫画が描きたいんで」


 あんたとは違って、という一言はかろうじて飲みこんだ。窓辺に立ちつくす杏の目つきが一瞬、燃えたように激しくなる。なんだ、あんたもまだ諦めきれてないんじゃないか。そう思ったら、自分でも意外なほど杏への反感がおさまった。



 ブラインドの隙間から夕陽が線の束になって差しこんでいる。オレンジ色に染まる栗栖は、がりがりと頭を搔きむしりながら席を立つ。遠慮がちに音を鳴らす扉を、誰もが見て見ぬふりをした。栗栖は行き詰まると裏庭にタバコを吸いにいく。健康に悪いからと口を酸っぱくする杏の目を気にして、こそこそと小箱をつかむ様子は教師をこわがる学生みたいだ。当の杏も黙認はしていて、そしらぬ顔で原稿と向き合っている。俺はGペンの先を布で拭きとり、息を潜めて席を離れた。



 廊下の突き当たりで勝手口を出ると、十坪ほどの裏庭がある。乗用車が二台停められるぐらいの広さの庭なのに、栗栖は壁を背にして座っていた。田舎のヤンキーみたいな姿に思わず呆れてしまう。


「お疲れ様です」

「ああ……吸うの?」

「いや、俺は吸いません」


 栗栖はほんの数ミリ片眉を上げて「そう」と呟いて、また正面をむいた。俺は数歩近づいて栗栖の隣に移動する。杏ならこんなとき、気の利いた話題を提供できるのだろう。栗栖はぼんやりと金木犀を眺めている。真似をして見つめていると、次第に緑色の葉はひっこんで夕陽と同じ色の花だけが浮かび上がってくる。

「ステレオグラムみたいだな」

 独り言めいた煙混じりの声に素で「っすね」と返してから、横目で栗栖をうかがった。調子に乗ってると思われやしないだろうか。しかしぱっちりと見開かれた目には、同意が返ってくるとは思わなかった、と書いてある。

「新条くん」

「はい」

 答えたものの、栗栖は次の言葉を発しない。なにかを考えるようにじっと俺を見て、タバコをくわえて、煙を横に吐きだしてから、また俺に向き直る。

「あの続きは?」

「……なんのですか?」

「休載中のやつ」


 ざわざわと梢のゆれる音がする。他にはなにも聞こえない。栗栖も、俺も喋らないまま、数秒、数十秒と過ぎていく。話題を振った責任を感じたのか、先に口を開いたのは栗栖だった。


「描けない?」

「描きます」

 脳が反応する前に口が勝手に動いていた。俺はたまらず息を呑む。栗栖が――微笑んでいる。眠たそうな目も皮のむけた唇も、わずかだが確かに笑みのかたちをしている。

「あ……あの、アシに呼んでもらってありがとうございます」


 頭を下げるふりをして、栗栖から視線をそらす。いや、呼んだのはぼくじゃなくて杏だけど――なんて返ってきたら、心がもたない。


「ぼくの原稿、きみの線で圧倒してほしくて」

「……どうですか、俺の背景」

「神の右手だね」

 そらしていた目もまた勝手に動く。栗栖の微笑はひっこんで、いつもの無愛想な顔に戻っている。平然とした顔つきは余計に真実味を帯びていて、俺は人生で初めて作り笑いをした。

「あざす。絵だけが取り柄なんで」

 なにか言いたげな栗栖の目をねじ伏せるように、俺は柄にもなく喋り続ける。

「俺の漫画、地味だとか暗いとかよく言われるんで。自分でも分かってます。俺が描く主人公、みんな俺みたいにぼっちでさびしい奴らばっかで……だからせめて絵だけでも読者を惹きつけたくて」

「そうだね」

 あっさり肯定した挙句、栗栖はさらに止めを刺しにくる。

「きみの漫画はすごくさびしい」

「ははっ……ですよね」


 これ以上、(そら)笑いがもたないと思った俺は、ようやく話を切り出す決心をした。「あの、明日から」と言う俺に栗栖の声が重なる。


「さびしいから、すごく救われた」

 互いに口を閉ざした。俺は堪えられずに先手を打つ。

「どういう意味ですか?」

「あの主人公は不器用で、誰にも理解してもらえない。ぼくもそう。だから……きみが描いた漫画を読んで、ぼくは救われた」

 続きが読みたい、と言って栗栖はタバコをくわえた。それはもうほとんど燃え尽きていて、栗栖の眉がわずかにひそめられる。

「で、明日から?」

「明日から……」

 アシを抜けさせてください。代原を頼まれたんです。初めての単行本が出せるんです。この右手はもうこれ以上、今の絵柄を描けません。だから最後に――。

「明日からも頑張りますんで。最後までよろしくお願いします」

「うん。次も来る?」

「いえ。今回が最後です」


 この右手はもう、絵ではあなたを手伝えないんで――自分の中だけで付け足す。引き留められることもなく、会話はあっけなく終わった。栗栖は携帯灰皿に吸い殻を捨て、二本目を取りだしている。俺はかたちばかりの会釈をして、勝手口に向かいかけ――足を止めた。


「…………俺も救われました、中学生のとき。栗栖先生のあの漫画。主人公だって負けるんだ、だったら俺が上手くいかなくても当然だって……すごく、救われました」

「主人公を敗北させるな、って当時すごく叩かれたけど」

「でも俺は救われました」

「ならよかった」


 栗栖が笑う。俺の漫画の神様が笑う。その笑顔はさっきとは違って泣き顔みたいだった。ひょっとすると、俺の目が潤んでいたせいかもしれない。勝手口から廊下に戻ると、作業場には行かずそのまま玄関にむかう。右手が携帯の通話ボタンを押す。




 晩秋の空気に冷えた手をこすりながら、コンビニに入る。自動ドア近くの雑誌コーナーが目をかすめる。赤い表紙の週刊少年J――の隣には、栗栖の読み切りが掲載された月刊誌。アパートの郵便受けにも届いていたが、まだ開いてはいない。尻ポケットで携帯が震える。メールの送信者名は担当でも、もちろん栗栖でもない。整形外科の予約確認メールを見て、俺は缶コーヒーを手にレジに向かいかけ――思い直して、雑誌コーナーに戻る。


 ざらつくページをめくる。


 見開きの大ゴマで手が止まる。荒れ狂う海。壊れた帆船。主人公の船が大破して、だけどまた別の船を探して旅を続けると決めた場面。コンビニの窓ガラスから朝陽が差しこんでいる。俺が描いた背景も、雑誌を持つ俺の右手も、光を浴びる。早朝のコンビニで立ち読みする自分を脳裏に線で描いていく。栗栖の漫画ごと俺もなんかの主人公になれた気がして、くすぐったさに紙面がゆがむ。手術が終わったら、切り直したネームを担当に持っていこう――また紙上の海に漕ぎだすために。


最後までご覧いただき、ありがとうございます。

年内か年明けには長編の連載を始めますので、よければまたお会いしましょう。

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― 新着の感想 ―
まず文章が好きです。 『頭に詰まったまま口から上手く出せない言葉も、ぜんぶ黒い線のなかに押しこんだ。』など。彼の絵・漫画に対する情熱もこの一文に込められているように思います。 『もうこれ以上、注射は打…
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