人柱
チュンチュンとスズメの鳴き声がする。
深い溝の奥にあった意識が、ゆっくりと上昇していく気がした。
自分と周囲の環境が繋がれ始め、僕は、ゆっくりと瞼を開けた。
「ここ、は……?」
「目が覚めたのね! 良かったわ!」
女の子の声がして、はっと上体を起こした。
「えっ、ここは……君はだれ……?」
「あら、覚えてなくて? 私よ、わーたーし。ずっとおぶってくれていたでしょう?」
「え……?」
「“寓話の婦人”よ」
うふふ、と碧瞳の金髪美人が笑った。水色のワンピースエプロンが良く似合っている。
「え……? どういうこと? 僕、死んだんじゃ……」
「いいえ、死んでなどいないわ? ただ少しの間だけ、眠っていただけよ」
「眠って……? 睡眠が戻ったの? っていうか世界はどうなったの? 少しの間ってどのくらい!?」
「もう! 質問が多い男の子は嫌いよ!」
ぷいっとそっぽを向いた彼女に、「ご、ごめんなさい」と謝った。
「少しは反省したかしら?」
「はい! すみませんでした!」
「よろしい! では、貴方の質問にお答えするわ。まず睡眠。これは人間の本能として戻りました。次に世界。これはまあ、追々ね。最後に眠っていた期間。これは個人差があるけれど、貴方の場合はそうね、半年ってところかしら」
「半年!?」
「ええ、半年。丁度貴方が眠れなくなった期間も、半年だったでしょう? それと同じ時間を、貴方は眠っていたの」
「そうなんだ……」
僕は、ベッド脇に置かれていた手鏡で、自分の顔を見た。半年の不眠のクマが、綺麗さっぱり消えていた。
「心配しなくても、中の下よ?」
「ああ、ありがとう……」
理解不能な現状に、どっと疲れが襲ってきた。
「それで、世界はどうなったの?」
「それは、貴方自身の目で確かめてみると良いわ?」
“寓話の婦人”が窓の外に目を向けた。
僕はゴクリと唾を飲み込み、ベッドから出た。一歩一歩と窓に近づき、カーテンを掴んだ。そうして一気に開いた世界は、僕が知るものとは違っていた。
「これって……」
「ええ、世界の始まり。まだ大部分が植物が生い茂る世界だけれど、既に開拓と文明は、息吹を上げたわ?」
「文明?」
「ええ、『カカシ』という新たな人種が築いた、全く新しい世界よ」
「新しい世界? ていうことは……!」
「ええ。貴方の世界は無事に『終わりの日』を迎え、『カカシ』達の新たな世界が始まったのよ」
“寓話の婦人”は笑って言った。
「そんな……」
僕は落胆した。
「……人間は? 人間はどうなったの?」
「ニンゲン?」
顔を上げた。“寓話の婦人”が首を傾げている。
「人間なら、神になったけれど?」
「はあああ!?」
訳が分からなかった。
「人間が神!? どういうことっ!? 『カカシ』達に滅ぼされたんじゃないの!?」
シーンと“寓話の婦人”が冷めた表情を浮かべた。
「ごめん、質問しすぎたよ……」
僕は反省した。「はあ」と溜息が漏れた後、“寓話の婦人”の小さな口が開いた。
「貴方がいた世界では、人類を創ったのは『神』なのでしょう?」
「ああ、うん。大昔には進化論というものもあったらしいんだけど、フラミンゴス教会が、全て異端としたらしいから」
僕は目を反らした。
「人類を創ったのは『神』で、同様に、『カカシ』を創った人間は、神となった」
「はい……?」
「起源論の話よ。貴方がいた世界、つまりは人間の世界、それの前には『神』の世界があった。『神』は人類の創造主であり、万物の父でもある。起源とされた『神』は貴方達が信仰とする唯一絶対の存在となり、人間もまた、『カカシ』達からすれば、自分達の起源となる絶対の主なのよ」
“寓話の婦人”の説明に、僕はポカンと口を開けた。
「もう! だらしのない顔ね! つまりは人間は『カカシ』にとってのカミサマなの! ただ、貴方がいた世界と違うのは、すぐそこに神が実在するというだけよ!」
それでも僕は、頭の中を整理出来ずにいた。
「ここはもう、貴方がいた世界とは違う。ここは『カカシ』が支配する世界で、その『カカシ』を支配する人間が神と呼ばれる世界なの!」
「……ということは結局、『羊の門』は開いてしまったんだ」
僕は俯いた。
父さんが命懸けで守ってくれたのに、結局僕は約束を守り切れなかった。
「羊の門? そんなモン、開いてなどいないわ?」
「えっ……、でも世界は終わったって、新たな世界が始まったんだろう? そういうことなんじゃないの?」
「確かに『羊の門』は開きかけたけど、肝心な『人柱』が存在しない。だから今はまだ、ちょこっとだけ隙間が開いている状態ね。不完全なのよ、何もかもが。だから頻繁に災いが起こる。天災、人災、カカシ災、災い転じて福となす為には、どうしても安定剤となる『人柱』が必要なのよ」
“寓話の婦人”が目を細めた。
「人柱……君が、そうなんだろう?」
「ええ。『神』の世界を終わらせて、人間の世界を始めた『人柱』が私。でもどうして私だったのか、それだけが思い出せない」
表情を隠す彼女に、僕は訊ねた。
「君は、僕達にとっての『神』なの?」
「……ええ、そういうことでしょうね」
これ以上は踏み込んで欲しくなさそうで、僕は黙った。まだ良く分からない状況で、不意にウォーズの名を呼んだ。
「……フラミンゴス教会は、この世界に神殿を築いたわ」
「え? どういうこと?」
「言ったでしょう? この世界で人間は神なのよ? 神となった人間は、この世界の頂点から、傲慢な『カカシ』に鉄槌を下す存在となる」
“寓話の婦人”の言葉に、はっとした。
ようやく合点がいった。
「そうか、『神』の御許に昇ることを赦されたって、そういうことだったんだ。フラミンゴス教会は、教会が掲げる『神』に自身がなろうとして、『終わりの日』を肯定したのか。全部こうなると初めから分かっていたんだ……!」
そう結論付けると、次第に腹が立ってきた。
「始まりから終わりまで、人間は傲慢な生き物ね。その傲慢さのせいで、何度も『神』の鉄槌を食らってきた筈なのに、今度は自分達がその鉄槌を下す立場になろうとはね。どこまでも傲慢で、強欲で、貪欲で、私達『神』を苛立たせる。人間なんて、大嫌いよ」
「それ……」
「え?」
「そのセリフ、前にも僕に言っただろう? あれは夢……じゃないか。僕と父さんが『カカシ』に襲われた時に、意識を失った僕に言ったセリフだ」
あの時も、今も、目の前の彼女は掴み所のない存在で、綺麗で美しかった。
「ええ、そうね。人間なんて、大嫌い。貴方も神と呼ばれる人間になったのだから、私達『神』の気持が、その内分かる筈よ?」
「神……」
僕は自分の両手に目を落とした。
「あれ? 僕のレザーは!? ないっ!?」
両手のレザーがなくなり、傷だらけの素手がそこにはあった。
「ああ、もう必要ないでしょう?」
「え? どうして?」
「どうしてって……。貴方はもう、レックスマン家の呪縛から解放されたのよ? こうして私は再び目覚め、貴方達の『血』を必要としなくなった。だから生傷を作る必要も、古傷を隠す必要もなくなったのよ?」
「そう、なんだ……」
「あら? 何だかとっても残念そうね? もしかして私に『血』を啜って欲しかったのかしら? やらしーわね、ヴァン」
「はうっ!」
ヴァンと名を呼ばれ、一気に緊張した。
「うふふ、かわいー」
突然、“寓話の婦人”が僕に抱き着いてきた。
「え? あ、あのっ……!」
ぎゅうっと僕の体を抱き締める。
「ちょ、あのっ……!」
「末の子の濃ゆいのも好きだけど、貴方の薄いのも好き」
「え? ええっ!? 何のことっ!?」
「うふふ。ねえ、飲ませてくれる? 貴方の……」
「――シリアスを下品に貶めるのはお止め下さい」
その時、割って入ってきた一人の青年。
青年は“寓話の婦人”を僕から引き離した。
「はあああ。助かったぁ」
急激な動悸。清廉潔白な神学校の学生には、刺激が強すぎた。
「何よ! ちょっとだけ『血』を吸ってあげようと思っただけじゃない!」
「それならわざわざ下品な言い回しをする必要はないでしょう? 狙っていたとしか思えません」
エメラルドの瞳に、栗色の髪の毛。背が高く、僕の視線が大分上をいった。
「君は……」
「ああ、申し遅れました。私は、ユーラシア・ボトムと申します。これより後、貴方様の身の回りのお世話をさせて頂きます。どうぞこれより後は、私のことをユースとお呼び下さいませ」
そう跪いて、ユースは言った。
「ユースは第3統の『カカシ』なのよ」
「カ、カカシ!? 君があの『カカシ』なのかっ!?」
どう見ても、普通の人間にしか見えなかった。道具感も、鼻を突く腐敗臭もなく、僕達を襲った『カカシ』とは、全く異なる生き物だった。
「かつて『神』が自分に似せて人間を創ったように、人間もまた、自分達に似せた『カカシ』を創った。だからこうなるのは必然じゃない」
「で、でも……」
「ヴァン様は、私がお気に召されませんか?」
寂しそうに、ユースが僕を見上げた。
「あ、いや、そういう訳じゃないけど……。サマ付けはちょっと、違うかな」
「では、何とお呼びすれば宜しいですか?」
「フ、フツーにヴァンでいいよっ!」
「神を呼び捨てになど出来ません!」
「僕は神じゃない!」
「いいえ! 貴方様は我々『カカシ』の神でございます! 貴方様人間がいらしゃらなければ、我々『カカシ』は存在していないのですからっ……!」
ユースの剣幕に、思わず押し黙ってしまった。
「……人間を神として崇め、畏怖し、心の底から尊敬することが、この者達『カカシ』の信仰心なのよ」
「信仰心……」
「それがなければ『カカシ』は生きられない。人間だって同じでしょう。寄り縋る何かがなければ、生きていようが死んでいるも同じなのよ」
“寓話の婦人”の言葉に乗って、ユースの真っ直ぐな視線が向けられた。
よく見れば、その左目は、硝子のように透き通っていた。
「その目……」
「ああ、すみません。義眼なんです……」
「義眼?」
気まずそうに、ユースが俯いた。
「私は第3統の『カカシ』なので、生命維持に必要な臓器の一部は、殆ど人間の方々に献上致しました」
「そんな……」
そこまで話したユースが、僕を見上げて笑った。
「これも、人間と『カカシ』の共存共栄の為ですから! むしろ、自分の身体の一部が神と融合したのですから、これ以上の名誉はございません!」
「ユース……」
僕は居たたまれない気持ちになった。
「これがこの世界の現実なのよ。羊の門が開きかけた状態で始まった、中途半端な世界。『人柱』が存在しない今、世界は不安定で、壊れやすく、創り上げたものが、災いによって消えていくだけ。この世界に秩序という安定を与える為には、誰かが『人柱』となり、『羊の門』を継承する必要があるわ」
「羊の門の、継承者」
「そう。フラミンゴス教会は既に動き始めたわ。この世界の『人柱』を探し始めた。貴方はどうするの? このままここで、『カカシ』達に神と崇められて暮らしていく? それとも、貴方がこの世界に平穏と秩序を与える『人柱』にでもなるかしら?」
「僕は……」
不意に、胸元のロザリオに目を向けた。三日月を取り外した、逆さ剣だけのロザリオ。
その前で誓った言葉が蘇る。
「……僕は、『終わりの日』を阻止したかった。『カカシ』の世界になることも、望んではいなかった。僕は、そのどちらにもならないようにする為に、君を守ると誓ったんだ、“寓話の婦人”」
「私はもう、“寓話の婦人”じゃないわ。私は『人柱』から解放され、『羊の門』もどこかへと消えてしまった。だからもう、貴方に守ってもらう必要はないわ。今度は、私が貴方を守ってあげる。私の本当の名前は、フィリア。ハバル12神の正義と反逆の女神。今の貴方の守り『神』としては、打ってつけでしょう?」
「ヴァン様、このユーラシア、どこまでも貴方様について参ります」
優しい瞳の中に、ユースの熱い忠誠心が見えた。
それでも、
自分がどうすれば良いのか、
その道が定まらない。
「ヴァン、リオネスは最後、貴方に何と言ったのかしら?」
「父さん……?」
「リオネスは貴方に、世界を終わらせるなと言ったのではなくて?」
その言葉に、僕は目を見開いた。
「どんな世界であろうとも、リオネスは、貴方がいる世界を終わらせるなと言ったのではなくて?」
「あ……」
僕は込み上がってくるものを、ぐっと堪えた。ぎゅっと唇を噛み締め、拳を握り締めた、
「この世界のどこかに『羊の門』が存在しているわ。それを見つけ出して、『羊の門』を継承すること。そうすれば、今の中途半端に隙間が開いた状態の『羊の門』を、開けることも閉めることも出来るわ」
「『羊の門』が完全に開いたら、この世界は……」
僕はユースを見上げた。顔からつま先まで目を通していった。ボロキレを繋ぎ合わせて作った、焦げ茶色の服。人と変わらない姿で、身体の中身は、殆ど空っぽなのだと言う。
「どのような世界になっても、私はヴァン様のお傍におりますよ。私の命は、ヴァン様に与えて頂いたものですので」
「え……?」
ユースが、にっこりと笑った。
「ほらヴァン、貴方の人生よ。何かを始めるのも、何かを終わらせるのも、貴方自身が決断しなくてはならないわ?」
フィリアの言葉に、僕は、ぐっと拳を握り締めた。
どうすれば良いのか、
その答が知りたくて、
僕は窓の外に目を向けた。
「この世界の現状を、僕自身の目で見てみたい――」