“寓話の婦人(マダムグース)”
夜更けになっても、僕達は各々勉強や読書で時間を潰している。人間から睡眠という本能が消え、睡眠薬でさえその効力を失っていた。人々は、思いのままに眠らない人生を送っている。それが後どれくらいなのか、誰にも分からない。
『終わりの日』が訪れるまでの苦痛に、誰も彼もが堪えている。
僕はそっと目を瞑り、深く溜息を吐いた。
その時、ドアを叩く音がした。開けた先に立っていた男が、躊躇いながらも微笑んだ。
「父さん……」
「すまんなぁ、ヴァン。こんな夜更けに」
申し訳なさそうに、父さんが謝った。
「いいよ、別に。どうせ眠れないんだし」
僕は、父さんを部屋の中に入れた。
二人でソファに腰掛け、ティーカップに紅茶を注いだ。
「はい、温まるよ」
「すまん。もうすぐ冬だもんなぁ、さすがに夜更けは寒いもんだ」
「そうだね。……それで、どうしたの? こんな夜更けに屋敷に来るだなんて、珍しいじゃないか」
「ああ……」
父さんが言葉に詰まった。
2年前、父さんはレックスマン家の屋敷を出ていった。いい年したオッサンが、家族と一族の宿命を捨て、この屋敷から逃げ出したのだ。
母さんは、僕が5歳の時に病気で亡くなった。
エドワード兄さんは4年前に大学進学を機に家を出て、ケルヴィン兄さんも3年前にスモック鉄道に就職したから、2年前に屋敷にいたのは、僕とウォーズだけだった。その状況下で、この父親は、ある日突然姿をくらませたのだ。僕もウォーズも血眼になって捜して、使用人達も毎晩捜し回って、ようやく隣町の小劇場で見つけた時には、もうすでに、レックスマン家の当主としての威厳はどこにもなかった。
元々優しい人ではあったが、先祖代々が受け継いできた土地や、レックスマン家の仕来りを精一杯に守ってきた人だった為に、そのショックは計り知れなかった。特にウォーズの落胆は凄まじく、父親の全てを拒絶した。
父、リオネス・ミルヴァ・レックスマンは不慮の事故で死んだ、そう世間に公表し、無理やり家督をエドワード兄さんに継がせようとしたが、まだ学生の身分であることを盾に、それは保留のままになっている。それからウォーズは父さんを恨み、絶縁状態が続いている。
父さんもレックスマン家の屋敷には足を踏み入れて来なかったが、時々寂しくなるのか、こうして人目を盗んでは、僕の所に訪れることがあった。
「ウォーズに見つかったら、ただじゃ済まないと思うけど?」
僕は、きっぱりと言った。
「ああ、まだ怒ってるよな?」
「そりゃあね。この時間は、町の図書館に行っていていないけど。今日だって、僕が“寓話の婦人”を、父さんや兄さん達に押し付けられたって言ってたからね。結果として自分もそうさせてしまったって。……どうするの? 揺らいでたよ? ウチの出世頭に、迷いが生じているみたいだけど?」
「そうなのか! ……すまんなぁ、不甲斐ない父親で」
しゅんと落ち込む父さんに、僕は大きな溜息を吐いた。
「それで、何しに来たの?」
「ああ! いや、大した用事ではないんだが……」
思い出した様子で、父さんがポケットから何かを取り出した。
「これって……」
「ああ。フラミンゴス教会のロザリオ。お前の母さんの形見だ」
握られているロザリオには、母さんが大事にしていた、パールのネックレスがつけられていた。
「母さんの……懐かしいな」
「ああ。ウォーズの司祭祝いにと思ってな。ほら、アイツが一番、母さんっ子だっただろう? だからこれが、アイツのこれからの支えになればいいと思ってな……。父さんからと言っても、アイツはきっと受け取らんと思ってな。だからヴァンから渡しておいてくれないか?」
「それは良いけど……。ちゃんと、ウォーズと話した方が良いと思うけど?」
「話したところで、今更許してはくれんだろう」
「僕は許したよ?」
「それは、お前が慈悲深いからだ」
「ウォーズだって慈悲深いさ。でなければ、最年少司祭にはなれないよ」
僕は、拳をぎゅっと握りしめた。
「ヴァン……。お前だって、いつか偉い司祭になれるよ」
心を見透かされているようで、奥歯を噛み締めた。
「別に。僕は司祭になりたいってわけじゃないさ……」
「強がりか?」
「違う!」
「弟に先越されて、本当は悔しくて堪らないんだろう」
「だから違うって言ってるだろっ……!」
そう躍起になって否定した僕の頬に、つぅーっと涙が流れた。
「ヴァン……」
「ちがっ、これは――」
「違わないだろう? お前は優しいから、アイツの優秀さを妬んだりしないし、司祭の件だって、とっくに受け入れているんだろうが、心にあるやり切れない想いは、父さんにだって分かるさ」
優しく抱き締められ、僕は父さんの胸の中で泣いた。
誰もが皆、心に葛藤を抱いて、寄り縋れる何かを探している。
世界が終わると知ってから、表立って口に出せない恐怖心が、更に心の安寧を蝕んでいく。それを取り除く存在が、本来の信仰心の筈だった。それなのに、『終わりの日』が訪れると知ってから、フラミンゴス教会がそれを肯定してから、僕は信仰心というものを、きれいさっぱり失ってしまった。
信じられなくなってしまったのだ。
それまで『神』と崇めていた存在を。
『神』の御許に昇ることで、更なる高みへと導かれると説いた教会を、僕は否定してしまった。
それではいけないと、今日のウォーズの説教で原点に立ち返ろうとしたけれど、一番初めにあった信仰心も、『神』への忠誠心も、今の僕に舞い戻ってくることはない。
ダビソンやミージャに説教出来なかったことで、はっきりとそう、思い知らされた。
「父さん、僕はもう、どうすれば良いのか分からないんだ」
紅茶を飲んで、そう呟いた。
「教会の考えが、僕には理解出来ないんだ。『終わりの日』を肯定した教会を、どうしても、正しいとは思えないんだよ」
「ヴァン……」
「母さんが死んで、毎日寂しくて悲しくて、泣いてばかりいた僕とウォーズを救ってくれたのが、フラミンゴス教会の司祭様だった。信仰心があれば、またすぐに母さんに会えるって、その言葉に救われた。だから僕もウォーズも、あの時の司祭様みたいになりたくて、悲しんでいる人々を救いたくて、神学校に入った。だけど、教会のあり方が僕にはもう分からない。僕よりもウォーズの方が、ずっとその神髄を理解しているんだ」
「ああ、アイツはブツクサだが、聡い子だからな。こっちが何も言わなくても、伝わるモノがあるんだろう。だから父さんも、それに甘えて、何も言わなかったんだ。アイツなら、分かってくれるってな。だが、結局それがいけなかったんだろうな……」
「父さんは間違っていなかったと思う。けど、きっと言葉が足りなかったんだよ。だからお願い、ウォーズがミーフに出立する前に、ちゃんとあの時のことを――」
ドーン!!!
「な、んだ? 今の音……」
僕はカーテンを開け、窓から爆発音がした方角を見た。
「なっ! これって……」
南に1キロ程離れたジェノレープの町の方角。家や建物、木々や森が、火の海に包まれているのが見えた。
「一体何が……」
「奴らだ! 奴らがこの町で芽吹いたんだ!」
「奴らって、もしかして『カカシ』!?」
「ああ。マズいな、こっちにも来るぞ!」
そう慌ただしく、父さんがドアへと向かった。
「えっ、ちょっと、どこに行くんだよ!」
「どこって、決まってるだろう! “寓話の婦人”の所だ! お前も来いっ!」
「はあ!?」
訳も分からず、僕は母さんの形見をポケットに入れ、父さんの後に続いた。
途中、黒煙の上がる町に振り返った。
「ウォーズ……」
「アイツならきっと無事だ! だから早く来いっ!」
事を急ぐ父さんの言葉に、僕は後ろ髪を引かれる思いで先を進んだ。
あちらこちらから、悲鳴が聞こえてくる。
町を燃やす炎が迫り来る中で、急いで森の奥へと走った。
「良かった、無事だな」
“寓話の婦人”の前で、父さんはホッと安堵した。
「……っ」
詰まるものがあって、反射的に僕は顔を反らした。
「どうした、ヴァン」
「……いや、いっそ燃えてしまった方が、良いんじゃないかと」
ボソリと本音が出た。
父さんの眉間が動いたのが分かったが、すぐに慈しむ表情に変わった。
「そうかもしれんな。お前の気持も痛い程分かるぞ? けどな、コレは何があっても、守らなければならないモノなんだよ」
そう言うと、父さんは左手のレザーを外し、爪で皮膚を切った。
真っ赤な『血』の中に、虹色に光り輝くものが見えた。
「父さん、それ……」
「ああ。お前にこれを見せたかったんだ」
するといつもはピクリともしない“寓話の婦人”から、息吹を感じた。
乾いた体に『血』が滴り落ち、どこからともなく鼓動が聞こえてきた。
「ウソだろ、生きてるの?」
僕は、目の前の光景が信じられなかった。
「ああ。これは生きている。ほら、見た目も変わってきたぞ」
父さんの『血』を吸収した“寓話の婦人”に変化が起きた。
木と同化し、完全に干からびた状態の老婆から、見目美しい若い娘になっていった。
とてもこの世のものとは思えないそれから、ドクンドクンと生気がみなぎってくるのを感じた。
「父さん、これ、どういうこと……?」
「そうだな、お前達には何も話してこなかったが、これは、この“寓話の婦人”は、かつてこの世界に始まりを告げた者――『羊の門』を開いた女性だ」
「羊の門……?」
初めて聞く言葉だった。
僕は怪訝な顔で、父さんを見上げた。
「ああ。神の啓示により、この世界も『終わりの日』を迎えようとしているが、この世界が始まる前にも、今とは違う世界があって、その世界も『終わりの日』によって、今の世界が始まった。つまりは、前の世界を終わらせ、次の世界を始める為の“人柱”――それが“寓話の婦人”。世界の終わりと始まりを繋ぐ、『羊の門』の継承者だ」
「継承、者……?」
「そうだ。そして、その継承者を代々守り繋いできた一族が、我々レックスマン家だ」
初めて聞く一族の真実に、僕は両手のレザーを見つめた。
「じゃあ『血』は? 僕達の『血』が、彼女を生き長らえさせているの?」
「……違う、その逆だ」
「え? どういう――」
生じた疑問をぶつけようとした、その瞬間――
「ミ、ツケ、タ……ミツケ、タ……ヤット、ミツ、ケタゾ……」
「なっ、なんだよ、お前らっ!」
森の影から現れた謎の生物。
片足を引きずって、両手をぶらんと落としたナニかが、僕達の方に近づいてきた。それは1体ではなく、2体、3体と、次から次へと、闇の中から湧き出てきた。
「コイツらが『カカシ』だ。『終わりの日』を迎えた世界の、次の支配者だ」
森の影に月光が落ち、その正体が、はっきりと見えた。
「こいつら、顔がっ……!」
「ああ。所詮はカカシだからな。だが、人間よりもずっと、薄気味悪い顔立ちだろう!」
ボサボサ頭に、ペンや筆で描かれた無機質な顔。生気を感じるものはなく、ただただ、気味の悪さだけが漂ってくる。
不気味な『カカシ』がじりじりと近づいてきて、思わず僕は後ずさった。
突然、悪臭が鼻についた。
「うえっ……な、んだ、このにおいっ」
「ヴァン!」
父さんの声と同時に、僕の鼻と口が、ハンカチで覆われた。
「んん(父さん)!」
「いいから、お前はこのまま町外れまで走れ……! ぐっ……、こい、つらは、父さんが、どうにか、する、から……!」
悪臭のせいで、父さんが咳き込んだ。僕はどうにかして父さんの手を払い除け、「父さんも逃げよう!」と叫んだ。
「うえっ……!」
吐き気で、その場の視界が揺らいだ。
「馬鹿やろっ……!」
揺らぐ視界の先に、ノロリノロリと近づいてくる『カカシ』が見えた。
父さんがゆらりと僕の前に立ち、両手を広げた。
「む、すこたち、には、指、いっぽん、ふれ、させんぞ……!}
「ケケケ。ケケケ。ニンゲン、ハ、コノ、ニオイ、デ、ホロビ、ユク……」
「オウサマ、ノ、イウトオリ、ダ……」
そんな『カカシ』の声が、遠くに聞こえた。
僕の意識が遠のき、力なく倒れた先に、生暖かい温もりを感じた。ドクン、ドクン、と心音が聞こえ、どこか懐かしい鼓動が、僕の意識の中に入り込んでくる。
すっと瞼を開けた先に、丘に立つ白い門が見えた。今までいた場所とは異なる次元で、フワフワとした感覚だった。
「これは……?」
「これが『羊の門』よ」
背中から上がった声に、「え?」と振り返った。
「君は……“寓話の婦人?」
「ええ、ご明察」
父さんの『血』で、生気を取り戻した彼女の笑顔が眩しかった。
「貴方がヴァンね。リオネスの三番目の息子」
「ああ。……僕の『血』は、美味しかったかい?」
どうしてこんな会話をしているのか、分からない。けれどもこの会話に、何かしらの意味があるのだろう。
「そうね、まあまあってところかしら」
「ふっ……。これでも、命懸けだったんだけどな」
「あら、ごめんなさい。でも、やっぱりリオネスの『血』が一番。こうして昔の姿に戻れる、特別な『血』ですもの」
「ああ、あの虹色のキラキラしたやつか……」
「レックスマンの中でも、更に特別な存在。リオネスと、その息子の中では、末の子くらいかしら」
「末の子? ああ、ウォーズか……」
フワフワした感覚の中で、僕の脳裏に、ウォーズの笑顔が浮かんだ。
「なんでアイツばかりが、特別なんだろう?」
すっと目を瞑った。
小さい頃からウォーズは優秀で、いつも誰かに「君は特別な存在」だと褒められてきた。父さんも母さんも、それから兄さん達も、皆がウォーズに期待した。
司祭の件だって、アイツがそこまで優秀でなければなかった話で、そうなれば、僕がこんなにもやきもきした気持ちになることなんて、なかったかもしれない。
だが、現実問題、ウォーズは司祭となり、母さんの形見を受け継ぐ。
そして今回も、“寓話の婦人”が気に入っているのは、ウォーズなのだろう。
ウォーズが主役で、僕は脇役。
『終わりの日』を前にして、信仰という名の下に、ウォーズは人類を更なる高みへと昇る意義を唱え、人類最後の希望となる。
きっとこんな筋書きで、この世界は『終わりの日』を迎えるのだろう。
「ああ、なんて僕は無力なんだろう……」
滲み出た感情に、「うふふ」と笑う声が聞こえた。
僕は瞼を開けた。“寓話の婦人”の透き通る肌に、思わず「綺麗だ」と呟いた。
ポッと頬が赤くなったかと思うと、クスクスと悪戯に笑って、こう僕の耳元で囁いた。
「――人間なんて、大嫌い」
「え……?」
そこで意識が戻った。
瞼を開けたそこに、今現在『カカシ』にフルボッコにされている父さんがいた。
「と、父さん!?」
「お、おう! どうにか無事だ!」
「そうは見えないけどっ!」
寄ってたかって蹴られている割には、余裕そうだった。
悪臭は消えていた。
木の葉が揺れる向きからして、風向きが変わっていた。
「そうか、風上にいれば、『カカシ』の臭いは防げるのか」
僕は立ち上がった。
ふと、背中の“寓話の婦人”に目を向けた。
さっき見た光景は夢だったのか?
いや、眠るという本能を失った今、それはなかった。反して、彼女は眠ったままだ。
「ヴァン、彼女を連れて逃げろ!」
「え?」
「父さん、やっぱり無理だった!」
先程まで格好つけていた、親父の見る影なし。フルボッコにされた父さんは、あっけなく『カカシ』達に降参していた。
「もう! そういうところが、ウォーズから嫌われている理由だよ! すぐに現実にぶち当たって、逃げ出そうとする!」
「ああ、すまんなぁ、ダメ親父で」
「ったく、しょうがないなぁ……」
僕は“寓話の婦人”を背負った。
「よし! そのまま彼女を背負って、『羊の門』をこいつらの手の届かない場所まで運べ!」
「父さんはどうするの?」
「おれは……まあ、どうにかなる!」
「ホントに!?」
どこまでも楽天的な父さんに、僕も、次第にどうにかなるだろうと思えてきた。
「いいかヴァン、何があっても、『羊の門』は開くな!」
「え……?」
「父さんもお前の考えと同じだ。『終わりの日』なんてものを肯定した教会はもう、信じられん。『羊の門』が開けば、今のこの世界は終わりを迎え、コイツら『カカシ』が支配する新しい世界となる。いいかヴァン、教会は新しい『人柱』を探している! この先、『羊の門』の継承者を巡って、大きな争いが起こるぞ!」
そこまで言った父さんが、「うえっ!」とその場に吐いた。
「父さん!」
思わず駆け寄ろうとした僕を、「来るな……!」と父さんが制止した。
「でもっ!」
風向きがまた、変わろうとしていた。
「大丈、夫だ。すこしだけ、臭いに、やられた、だけだっ……!」
「ケケケ、ケケケ、モウ、スコシ、デ、ニンゲン、ガ、シヌ、ゾ」
「アト、スコシ。アト、モウ、スコシ」
『カカシ』達が父さんに覆いかぶさっていく。
「父さん!」
「い、いいから、逃げろ、ヴァン! 世界を、終わらせるな!」
「ぐっ……」
拳を握り締め、奥歯を噛み締めた。
僕の背中に、この世界の命運が賭けられている。一目散にその場から逃げ出し、森の出口へと走った。
「ニゲタゾ、オエ……!」
そんな声が聞こえて、僕は、死にもの狂いで逃げた。
「父さんっ……!」
何度も振り返ろうとしたけど、
怖くて、
恐ろしくて、
引き返すことなど出来なかった。
僕は泣きながら森を出て、町外れのローグ港へと向かった。