休息の戦乙女
空が青い。
ベランダに干してあるシャツが、風に乗ってゆらりと漂っている。
のどかだ。
そう思えるほどに、この世界には何も起きない。
伸びをして、欠伸をした。
昼寝をするにもいい空模様が、部屋の窓からはよく見える。
さて昼寝だ。
そう思った直後、家のチャイムが鳴った。
「誰だよ、私の昼寝を邪魔しようとするやつは……」
誰がこののどかな時を邪魔をしに来たのかと、少し苛立ちを覚えながら、扉を開けた。
「はいはい、新聞はお断り……」
「随分地上生活を満喫しているな、フリスト」
自分の名前を呼ぶ声がした。それも、すごく聞き慣れた、威厳の満ちた声で。
一瞬にして、滝のような汗が流れたのが、フリストには感じられた。
案の定、視線を上げると、眉間にシワの寄った一人の男がスーツを着て玄関に立っていた。
「お、オーディン様……」
主神にして自分の創造神、それがオーディンだ。
フリストは神の一人である。
いや、正確には主神の僕の神だ。人間の会社で言うところの課長クラス相当の存在である。
それに対してオーディンはいわばCEOだ。本来フリストの住んでいる世界と自分たちを作り出した存在である。
そんな存在を前に、自分の格好を見ると、ショートパンツにTシャツというズボラ極まりない格好だ。しかも今履いている靴もトイレスリッパときた。
テレビとかいう映像を投影するもので見た話ではファッションだとかなんとか言っていたが、多分その番組のスタッフが見たら泣くだろうなと思うような格好だった。
「確かに、私はお前たち戦乙女に休息を約束した。それは認めよう」
フリストは戦乙女である。この世界でもワルキューレと呼ばれている存在だ。
死した者の魂を選別し、兵力として使えそうな者ならばそれを率いて魔界と戦う。それが自分たち戦乙女の本来の仕事だ。
だが、その仕事が、ないのである。
よりにもよって対決していたはずの別世界の存在も、それどころか自分たちも、「戦うのもういい加減めんどくさい」と言い放ち、それが原因で戦は終結したのだ。
それを行ったことで各々の神は様々な神から称賛を受けた。
それはそれでいい。
問題は自分たち戦乙女の存在だった。
戦乙女は戦を行うために存在する。
即ち、戦がなくなれば、無職だ。
だからオーディンは働き詰めだったからと、戦乙女全員に休息の指示を出した。
そしてフリストの行かされた場所が、日本という国の下町にある六畳一間のアパートである。
そんなところに何故オーディンが訪ねてきたのか、その理由も、あらかたフリストには見当がついた。
「ひょっとして、戦が近いのですか? 休息は終わりですか? また、我らに仕事が回ってくるのですか? ちょうどよかった、暇でしたし!」
期待に胸を膨らませて、フリストは聞いた。
その直後頭頂部をハリセンで叩かれた。
「神界から見たが、お前の部屋が汚すぎるから来たんだ! 戦もないわアホゥ! お前のこと大家さんが部屋が臭いと言ってたぞ! 私の方が恥ずかしくなったわ!」
まったく見当違いだったことがフリストには少しショックだった。
しかし部屋が汚すぎると言われても、あまり実感がない。
だいたい自分のいたところは戦場だ。きれいも汚いもあったものではない環境下で過ごしてきた。
だから汚いきれいの基準がわからない。
そしてオーディンはフリストを押しのけて部屋に入った。
瞬間、オーディンが崩れ落ちた。
「お、オーディン様?!」
「お、おま、お前……な、なんだ、このゴミ屋敷は?!」
オーディンが指を震わせながら部屋を仰天して見ている。
こんなにうろたえるオーディンは初めて見た。
これはこれで面白いなと、フリストは思ったが、創造神にそれは無礼すぎるなと、少し反省した。
「そんなに汚いですか?」
フリストの言葉の後、オーディンが必死に床から立ち上がった。
「ああ、すごくな! なんでゴミ袋が部屋の天井まで埋まっているんだ!」
またハリセンで叩かれた。
一体どこからそのハリセンは出てきたのか全くわからないが、さすがは創造主だと少し尊敬してしまった。
まぁ、確かに自分の部屋は汚いのだろう。飲みっぱなしの酒の缶や瓶、出し忘れになっているゴミ袋、そこら中に設置したゴキブリホイホイで自分の部屋の足の踏み場はベッドの周囲しかない。
オーディンが頭を抱えていた。
「なんでこんな生活無能力者なんだ、どの戦乙女も……。私か? 私が創造するときに戦闘のこと以外ろくに教えなかったのがいけないのか……?」
ここまでへこむオーディンも初めて見た。
それ以前にどの戦乙女も、と言ったところから察するに、多分他の休息に出ている戦乙女も似たようなものなのだろう。
確かに、思えば自分の同僚である戦乙女は正直私生活というものがまるで想像出来ない。
全員戦に明け暮れている仕事人間、いや仕事神だ。すべてが仕事中心に生活サイクルが組まれている。
その仕事が急になくなったのだ。どうしたらいいのかまるで分からない。
「しかしオーディン様、これでも私の部屋はどこに何があるのか私自身が把握しているので問題ないのでは?」
「そういう問題ではないだろう……。世間体を考えろ、世間体を。だいたいお前一応神だぞ。この国はどうやら一神教ではなく八百万の神を崇めるらしいが、つまりお前も崇められる対象だ。その崇められる対象がこんなゴミ屋敷にいてみろ。権威が失墜するぞ」
そう言われると言葉もない。
確かに神にとって威厳は大事だ。それがなくなれば神が神たる理由もなくなってしまう。
そうなれば戦乙女の資格の剥奪もあり得るし、全部の記憶を消された上で人間界に行かされるなんてことも考えられる。
流石にそればかりは勘弁してほしい。
「わかりました、掃除やります!」
フリストがそう言った直後、後ろにいたはずのオーディンの身体がフッと消えていた。
「あれ? オーディン様?」
『やる気を出してくれたようで何よりだ。片付けは自分でやることだ』
オーディンの少し意地の悪い声が、自分以外誰もいない空間にこだまする。
今度はフリストが膝から崩れた。
「ええ!? オーディン様も片付けてくれるんじゃないんですか!?」
あれだけ大層に言ったのだからやってくれるものと思っていたが、そんなことまるでないらしい。
そしてフリストはもう一度部屋を見る。
部屋にはゴミが、まるでバベルタワーのように思えるほどに積み上げられている。
自分はこんないつ片付けられるか分からない山を一人でどうにかしないといけないのかと思うと、汗が止まらなくなってきた。
『なんで主神である私が片付ける必要があるのだ? お前が出した結果だからお前がやることだ。ではさらばだ、戦乙女』
その言葉を最後に、オーディンの気配が消えた。
オーディンの言い草はもっともだ。そもそも上司をこき使おうと考えている時点で自分の発想が相当まずいということに気づくべきでもあった。
しかし、どうしたものかと、気が狂いそうになった。
神としての威厳を保つなら間違いなくこれは掃除しなければならない。しかし一人でやるなど到底無理だ。
過去の己を呪うよりほかなかった。
「おやおや、お客人は帰ったのかい、フリストさん」
玄関に、また見知った声がする。
大家の老婆だった。
「大家さん……。そ、その……このゴミ……どうしましょう……」
「まったく片付けが下手すぎるね、あんたは。そんなんじゃいつまでもいい男は出来ないよ。さっきの男にだって結局逃げられてるじゃないか。仕方がない、この老婆が手伝ってやろう」
ぽかんと、フリストは口を開けてしまった。
何故この人は手伝ってくれるのか、それがまるで分からない。
というかオーディンは逃げたわけではないのではという気もするが、これ以上言うとややこしくなりそうだし追求するのはやめた。
「あの、なんで手伝ってくれるんです?」
「あんたの生活無能力っぷりに呆れた上に臭い、っていうのもあるけど、人はつながってなんぼさ。あんさん神様らしいけどそんなの無神論者のワシからしたら知ったこっちゃないしね。助け合わないとどうにもならないものなのさ、人ってものは」
少し、わかる気がする。
自分が選定した者の中にもかつてそういう者がいた。それによって団結したことで力が更に強まり、戦を勝利したことも多い。
戦乙女としてずっと見てきたからそれは分かっているつもりだった。
だが、実際にそれを行われる側になったのは初めてのことだ。
神はそれぞれ独立心が強いものだ。助け合いの精神などない。
「助けがいるんだろう? 老婆で良ければ助けてやろう。その代わりじゃがね、後でこの老婆の肩でももんでくれ」
捨てる神あれば拾う神あり。
そんなことわざがあるらしいが、フリストはまさにそれに当たったのだろうと感じた。
オーディンとの関係性も好きだが、これはこれでいいものだと思えるのだ。
「では、甘えさせてもらいます」
そう言って、フリストは大家を家に招いた。
日はまだ中天。昼寝を逃したなと、フリストは少し苦笑した。
(了)