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鯛焼メンタル

作者: 坂裏庵

 熱い。暑いではなく、熱い。照り付けるような太陽系の支配者が、意図的に日差しで僕を総攻撃しているのだろうか。ほら、アスファルトから湯気が出ているではないか。考えられない。僕が一体何をしたっていうんだ。

 そもそも、こんな暑い日に外に出ているのは僕のせいじゃない。ただちょっと忘れ物をしていただけだ。別にそれは僕にとって大した意味を持つわけでもなかったし、それどころか煩わしさを増やすだけの物だった。

 気分が悪い。ここまで熱気を浴び続けていると、三半規管までやられていくものなのか。むしゃくしゃしながら歩いていると、いつもなら素通りしそうな屋台が目に留まった。屋台というよりむしろプレハブ小屋に近いその露店に掲げられていたのは、手書きで書かれた『たい焼きアイスあります』という文字だった。

 たい焼きアイス?意味が分からない。たい焼きというものは、アイスとは身分と所属の違う食料だったはずだ。

 僕は思った。ははん、これが巷で嘲笑されている『インスタ蠅』の風潮が生み出した副産物か。くだらない。こんなものを買うくらいなら、さっさと帰った方がよっぽど生産的だ。宜しい、僕が日本の生産性に貢献してやろう。

 そう本気で思っていた。そのはずだった。ところが僕の間抜けで頓珍漢な両足は、いつの間にか他人任せに露店へと向いていた。そして脳に躊躇させる間も与えず、僕はその辺の新しい物好きと同じような口調————どこか期待を込めた口調でこう言った。

「たい焼きアイス一つ下さい。」

 店員は慣れているのか、さっさとお代を貰うと新種の準備に取り掛かった。その間僕は番号札を手に取ると、隣に置かれている店のパイプ椅子に腰かけようとして手を伸ばした。だが、灼熱の日差しがパイプを凶器として僕の手を痛めつける方が早かった。熱い。これは暑いではなく、心の底から正しく熱い。

 仕方がなく鉄の部分を避けて、足で椅子を引く。母親の叱責が何となく通り過ぎていく。椅子に座ると、僕は瞬時に苛立ちではなく脱力感を覚えた。…椅子が生ぬるいのだ。直射日光に放置した腐りかけのアブナイ牛乳のように、それは僕から生気を奪っていく。適度な睡魔も襲ってくる。こんな炎天下で昼寝か。それも悪くははない。

 ここまでの動作は僕にとって金星並みの遅さだったが、店員にとってはそうでもなかったらしい。憮然とした態度で、彼女は僕のことを番号で呼んだ。囚人みたいだなと、不意に思った。

 商品を突き出された僕は、絶句した。心の底から絶句した。舌が下の歯の裏と引っ付いてしまったような衝撃だった。

「これが、たい焼きアイス…なんです…よね? 」

 何を聞いているんだ、僕は。仕方がない。咄嗟に舌を引き剥がして出てきた言葉がこれなのだから。店員は僕のほうなど微塵も気にかけず、慣れきっている口調で機械のように答えた。

「ええ、そうです。たい焼きアイスです。溶けてしまうのでお早めに」

 店員が引っ込んでしまい、行き場がなくなった僕の疑問はどんどん膨らみ、次第に僕自身を容赦なくつつき始めた。

 とりあえず、向き合うとしよう。この新種の生命体と。

 僕は席につくと、たい焼きアイスに視線を落とした。すると、たい焼きアイス…ではなく、たい焼きの部分と目が合った。なんと苦しそうに訴えている目なのだ。こんな悲壮な眼差し、勘違いで死んだ馬鹿なロミオを発見して自害するジュリエットでさえしないだろう。だが表情という概念があるはずもない、大量生産の典型物であるたい焼きが苦しそうに見えたのにはきちんと訳があった。

 たい焼きの口とは、本来規則正しく真一文字に結ばれてしかるべきものだ。しかしこいつは違った。なんと口が大きく強引にこじ開けられており、歯医者で治療を受ける前の患者のようだ。しかも大人の患者ではない。開け方の程度を知らず、顎が外れそうになるくらいまで目一杯開けてしまう子供の患者のそれと同じ状態だった。口の中は通常のコーンのように空洞なのか?

 そうではなかった。予想の斜め上を行き、ただのたい焼きだった。つまり苦しげに開かれたたい焼きの口は平だった。

 なるほど。ここにアイスが載っているわけか。僕は感心すると同時に、なんて残酷な食べ物なのだろうと思った。こいつなら、世界で一番見目残酷な食べ物ギネスに匹敵出来るかもしれない。それくらい、僕の手の中で、たい焼きは苦痛を訴えていたのだ。

 ふと、ここで僕は考えた。たい焼き、もとより鯛という魚は、魚類の中でも祝福された生き物のはずだ。日本人の好きなオヤジギャグも平服するような語呂センスの一端で、鯛は『めでたい』を担っていたはずだ。なのに、お前はこのザマか。いや、俺はこのザマか。たい焼きの声が聞こえてくる。更に僕は決定的なことに気づいた。当然といえば当然なのだが、このたい焼きはアイスが食べられない。それは鵜飼いの鵜が首を縛られ、生命の営みに必要不可欠であり、また何人たりとも冒すことのできない食事というプロセスを不条理に妨げられている状態と同じではないか。鵜は食事を狩りに利用され、この鯛は器に利用されている。どちらも当事者にとっては人為的災害であり、また双方とも人の食欲を満たすという点で共通している。

 哀れな定めなことだ。詩人のように高らかに、とはいかないが心の中でそう呟いてみせる。ではそんな哀れなたい焼きの定めを嘆きながら、僕は涼しさを堪能するとしよう。君が味わえないアイスの味を、僕が代わりに楽しもう。君の無念は晴らす。

 訳の分からない理由をつけながら、アイスを食べた。普通のバニライスだった。アイスを食べると口の中に甘さが広がり、心なしか疲労が和らいだ気がした。少し喉も潤っている気がする。更には不思議と涼しく感じる。僕は気を取り直し、たい焼きだけになった台座を見た。先ほどはアイスが載っていたから苦しそうにみえていると思っていたが、今度は違う。今、このたい焼きの口の上には何も載っていない。楽になっているはずだ。なのに先程よりも苦しそうだ。歩いていて誰かにぶつかり、アイスを不安定なコーンから落とした子供のように、その表情は驚きと悲しみに満ちている。そして、変わらず苦しそうだ。

 馬鹿な。僕は思った。どう見ても苦しそうだったじゃないか。アイスが邪魔で、苦しそうだったじゃないか。僕は何故か急に罪悪感に駆られ、さっさとたい焼きを平らげた。ただのたい焼きだった。アイスという称号を与えられた物珍しい新種だったが、結局のところはただのたい焼きとアイスだった。載せられているせいで一緒には食べられないし、そもそも載せる意味もない。だが、完食しきった僕のぱさぱさになった口の中には、微塵も後悔は広がらなかった。確かにたい焼きとアイスはバラバラになっている方がいいと思う。なのにどうしてこんなに清々しいのだろうか。

 答えは僕のカバンの中にあった。底の方にしわくちゃになった状態で放置されている進路希望書。僕はたい焼きの食べかすを払うと、ひと呼吸おいてからそれを取り出そうと試みた。しかし、ずいぶん底になおしたものだ。取り出しにくいったらありゃしない。僕の意思が捻じ曲げられそうになる。それでも今回は違った。自分の明確な意志で、僕はカバンの中を漁った。投げ出してひっくり返したくなる衝動を抑え、なんとかプリントの先端を掴んだ。このまま引っ張ってしまえば、提出できない格好の言い訳になる。僕の心が叫んだ。でもしなかった。アイスを落とさないように心がけるのと同じくらいの細心の注意を払い、僕はプリントを奈落の底から救い出した。

 全ての元凶はこいつだ。こんな暑苦しい日に高校へ呼び出され、担任から催促を頂戴した。

自分の人生なんだぞ。担任は僕をそう何度も諭した。その量産的でありきたりな言葉を並べ立てて。そうだ。自分の人生だ。人一人の人生なんだ。なのに僕はこんな簡単なことすら、人為的要因に左右され、思うようにペンを走らせることが出来ない。

 いつから自分で決めることを辞めてしまったのか。また、いつからそれに対してこんなに抵抗するようになったのか。何も考えない方が楽に決まっている。馬鹿馬鹿しい。それでも、僕は考えるようになった。考えるようにというよりむしろ、懐疑的になった気がする。そのせいか、最近両親には『皮肉屋』呼ばわりされている。だからたい焼きアイスのこともこんな風にしか見ることが出来ない。純粋に面白い、美味しい、斬新なんて感覚は到底湧き起らないのだ。

 それが大人になる———いや、幼心を忘れるということなのかもしれない。ビー玉のように輝きながらも、屈折して独自の世界を魅せる幼心というのは子供の特権らしい。

さて、そんな童心を忘れた僕は、果たしてどうすればいいのだろうか。たい焼きがアイスと必ずしも一緒でなくていいように、僕も将来の選択と必ずしも共存する必要はないはずだ。

 僕はおもむろにプリントの両端を持って、ゆっくりとそれぞれ逆方向に力をかけ始めた。乱雑に整頓された情報を刻印したコピー用紙が、ピリ…ピリ…と音を立てて引き裂かれ始める。裂けた紙の隙間から、見慣れた通学風景が戻ってきた。だが、不意に僕は三分の一まで破ってから呟いた。

「たい焼きは…たい焼きにしかわからない」

 たい焼きは、たい焼きにしかわからない。僕は何度も繰り返した。言葉の一つ一つが発される度に、脳内で波紋が静かに広がった。

「ごちそうさまでした。」

 僕はパイプ椅子から立ち上がると、店員にほんの気持ちを添えて会釈した。自分でも、どうしてこうしたのかは分からない。けれどそのまま立ち去るのは、何故か胸を刺すように気が咎めたのだ。

そう、きっと特に理由はない。ただ、何となくだ。きっと。


***


 次の日も、照り付けるような快晴だった。けれど、気分はそんなに悪くはない。責め立てるような日差しも、いつか雲が隠してくれる。それまでの付き合いが長いか短いかは、人それぞれの価値観に委託される。

委託という言葉は恐ろしいもので、その時点でどの程度の本質を相手に託すことになるのか。その明確な線引きは決められていない。ひょっとすると全責任かもしれないし、或いは形式上だけかもしれない。一時的な経由手段とも考えられる。だが、逆に双方の食い違いがあれば、瞬く間に委託は最強の凶器と化す。

その合法的な凶器を、僕は取ったことになるのだろうか。

「まだ提出できていない者は、いないか? 」

 担任は名指しで個人こそ特定しないものの、その眼差しは突き刺さるものがある。昨日までは耐えられなかった視線。たい焼きの訴えるような視線。店員のどこも見ていない視線。両親の視線。そして僕自身があの紙に向けていた視線。

「はい。」

 僕は提出期限を守らなかったことなど億尾にも出さず、高らかに返事をして立ち上がった。そして教卓へ近づき、一枚の紙を差し出した。

 それは、セロハンテープの傷跡を抱えている紙だった。満足げに首を縦に振っている担任を見て、僕も微笑んだ。

「受け取った。ところであんなに悩んでいたのに、結局決め手は何だったんだ? 」

 僕は少し考えると、幼子のように笑ってこう言った。

「たい焼きアイスのお陰です。」

 クラス中がどっと笑いに包まれる。笑いと言っても嘲笑に近い。けれどその中で、僕だけは決してつられて笑うことはなかった。


 ただ、僕としてはやっぱりたい焼きアイスはあり得ない食べ物であるという部分だけは、残念ながら同意せざるを得ない点だなと思う。だから僕はほんの少しだけ笑った。そう、ほんの少しだけ。

 けれど、いつかまた食べたくなるだろう。忘れたころに食べたくなるのだろう。或いは眺めてみたくなるのだろう。

あの倒錯的で一見馬鹿げた風体をしている、たい焼きアイスという新種の生き物を。


私がモデルにした苦し気なたい焼きアイスは、犬山の「明治村」で食べることが出来ます。

見た目はそのままで、味は普通に美味しかったです。

ただ、外が暑かったのでバニラアイスが溶けて手につきました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なぜたい焼きアイスなのか? 奇妙な題材な取り方に惹かれます。高校生の鬱屈した感じが文章に出ていてとても印象的でした。 [気になる点] 意味わからない設定も私は好きですた なぜたい焼きアイス…
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