カフカに欠けているもの ーーシェイクスピアとの対比ーー
カフカの「変身」では、主人公は最初から虫になっている。この不条理の、ありえない(とされている)設定と、そこからのリアリズムがカフカの作品を構成している。
自分はシェイクスピアを文学の理想としている。その地点から、カフカという作家を見ると、カフカの作品には「主体的意志」というものが欠けているように見える。もっとも、カフカも天才なのでそれは自覚していた。「掟の門」という短い話にその事が鋭く意識されている。
「変身」の主人公はある時、自分の体が虫になっている事に気付く。これは世界からの疎外感からのメタファーであろうが、色々な哲学者、作家、その他、天才と呼ばれる人はみなこのような疎外感を持っていたのだろう。これに対して「他者性」によって問題が解決するというのは極めていい気な、呑気な解決法であり、それならば、酒場でみんなと戯れていれば「他者」があって、色々な事が解決するという話になる。己の中に人と違うものと感じるものがあればこそ、その人は孤独になり、孤独にならざるを得なかったので、この問題を逆転して、「人々」の中に解消しようとするのは結局「普通の暮らしが一番いい」という話になる。では、本当に普通の人というのは素晴らしいだろうか。まわりを見渡してどう感じるか。
自分自身に意志というものを持っていて、更に知性が発達している場合、意志は客体化され、自己自身のものとして眺められる事になる。この場合、世界に対して足を踏み出すのに躊躇するようになる。何故、世界に対して足を踏み出さねばならないのか。行動は意識を阻害し、彼の孤独を破壊してしまう。彼は、世界の中で己の意志と知性を大切なものと感じたから孤独になったはずだ。何故、いまさら行動しなければならぬのか。
とはいえ、人はいつまでも、孤独の中に、自己の意志に閉じこもっている事はできない。その際の躊躇というものをカフカの作品に感じる。カフカは、ついに行為に、行動に達する事ができなかった。だから、カフカに与えられるのは外的な運命である。自分以外のものが彼を押しつぶしていく。それは、彼にとって行動の代用となるものだった。「変身」の主人公が、最初に虫という設定をされているのは、主人公が望んだものだった。だが、主人公自身が望んでそうなった、とはカフカには書けなかった。そうなってしまうと、主人公の主体的な意志が外部に現れる事になってしまう。主人公(カフカ自身)はあくまでも、聖なる犠牲者でなければならない。
シェイクスピアの諸作品では、登場人物は強烈な意志を持って外界に出ていく。もちろん、外界に向かい行動するのは馬鹿らしい事だ。例えば、今流行りの、起業して成功する、という事柄も、社会がそういう幻想を見せるという事と社会のあり方が一致している為に、流布されているにすぎない。これは、ビジネスがくだらぬという結論ではない。あらゆる外界に対する行為、行動は、必ず、本人が望んでいるものとは違うものになってしまう。人生の成功を願って邁進する時、手に入れたものは、手に入れようとするものとは違っている。人間の理性とか知性には限度があり、それは何かを望むが、望んだものと望まれたものとは違う。政治家のウィンストン・チャーチルは、晩年うつ病にかかり、塞ぎ込んだまま死んだそうだが、あらゆるものを手に入れ、成し遂げた男にふさわしい最後とはこれは言えない。現実はそういうものであるが、それがチャーチルの偉大さを損なうものではない。しかし、偉大であるから、全てが救われるという事もまた決して無い。
では、一体どうすればいいか。外界の愚かさ、人々が功利的な目標に邁進するのを笑い、扉を閉ざして、部屋に閉じこもればいいのか。一部の哲学者はこういう態度の中に入っていった。つまり、己の意志、知性、理性のみを絶対とし、そこから世界を観照する、そこに生きる意味があるのだ、と。
ここに一つの転換点があり、非常に重大な問題がある。今も世の中を見れば、愚かしい事ばかりで、くだらないものが騒がれ、もてはやされ、流布され、それがずっと続いている。では、この世界を軽蔑して、それで終わりなのか。
カフカの作品では、主人公が世界を軽蔑するほどに尊大ではない。『その代わりに』彼は、世界に押し潰されていくのである。ここに、彼の疎外感が世界と融合する、そのような箇所があった。彼はそれを望んでいたのだ、とさえ言える。だが、最初に戻るなら、ここには、主体的な意志が欠けている。あくまでも、カフカを取り巻くのは偶然的な、客体的な諸条件である。世界が彼を押し潰すのは、世界の行う偶然である。主人公は破滅を感じるが、その破滅を「望んだ」とまでは言えない。
では、お前の言うシェイクスピアはどうなのか。シェイクスピアに出てくる主な人物は、多く、自ら破滅を望んでいるように見える。彼らは、主体的意志を持って外部に飛び出ていく。そして、その先に破滅があると予感していても、やはり出ていくのである。何故そうなのだろう。この問題に実に悩んだがーー答えは出た。つまり、それが生の形式だからである。我々に、「救われる」とか「幸福」とかいうものはありえないからである。(ここでは一般的な意味は全て省いている) 我々は何らかの形で、破滅していく自分を生きている。仮に幸福に生涯をまっとうする人がいるとしても、病がきて、死が近づけば、自分の人生の無意味さを感じざるを得ない。だか、本当はそうではない。幻想なのは、「人生に何かがありうる」という観念の方である。これがあるから、破滅を避けて成功する、という人生論が跋扈するが、それら全てが幻影であり、人は破滅としての悲しい生を生きるしかないという時、人はより高い破滅を望む。もちろん、それは物語内での事だが、比喩として捉えれば、人間存在にも考えていく事はできるだろう。
カフカの作品で、未だ信じられている事は、「変身」のラストで、自分以外の家族が幸福そうにする部分である。あの場面によって、対比により、主人公の惨めさが露わになるが、本当は、家族もまた不幸な存在であるにすぎない。その事がはっきりすればまた物語は変わっただろう。ここでカフカは自分の幸福は信じていないにせよ、他人の幸福は信じている。もし、あらゆる幸福が存在しないとなれば、行動と非行動が共に生の形式であるとするなら、人はどちらが良いとも悪いとも決めずに生きるだろう。そして、人は「現に」そう生きているのである。
シェイクスピアの作品では、喜劇もあり、悲劇もあるが、僕にはどちらも同じように感じられる。例えば、夢が叶うとか、結婚するとかというハッピーエンドは現代人にも受け入れられやすい。エンタメ作品に人は、ハッピーエンドを求める。何故なら、人々は自分の幻影を壊されるのが嫌だからだ。映画を見ている間だけ酔っていたい、そううそぶきながら、彼らは現実でも夢を見て生きる。シェイクスピアのハッピーエンドは、バッドエンドと同一であり、「全ては夢幻、この世界は舞台、人間は役者」という世界観に統一されていくように見える。そこで、シェイクスピアはなにものも信じてはいない。しかし、信じて生きる人々を渾身の力で描きはするのだ。
長々と書いたが、まとめると、文学というのはどういう方向に上昇していくのか、自分なりに筋道を考えたいという事である。何も考えず、外界に向かって走り出す人間は、いずれ失望、幻影、幻滅に辿り着くだろうし、もし辿り着かないなら、それは「オメデタイ人」と一括して気にしない。幻滅から始めた人間は、自己の知性や意志の中に閉じこもり、世界に対する優越を持つが、彼もまた外界に出ていかざるを得ない。どうしてか。「そのような彼」もまた世界の中の一事物にすぎない、と彼の内観はより高まるからである。彼が世界に出ていく事と出ていかない事の間に、差がない事が次第に明らかになってくる。何故なら、自己と他者との間に境界を引く知性、幸福と不幸の間に境界を引く知性が、知性そのものによって反駁され、批判されて、境界線が無効化されるからだ。そこまで行けば、カントやウィトゲンシュタインのように終生独身で、孤独に生きた哲学者と、世界に向かって活動したナポレオンやチャーチルのような人物を分割したりしない。今言いたいのは、この分割がなくなったという事である。
カフカは、こうした分割を取り除く事はできなかった、と自分は考える。だから、彼は破滅の観念の内にあって、破滅を望んだにも関わらず、実際に破滅する自分を見る事はできなかった。もしカフカに勇気があれば、一歩を踏み出したのだろうか? …いや、もし彼が一歩を踏み出していたら、彼をカフカと呼ぶ事は我々にはできなかった。我々は本来、こう言うべきなのだろう。「彼は一個の運命であった」と。だから、この論考もあくまで、カフカとシェイクスピアを対比しつつ、自分の思考を明らかにしたいという事である。自分はそのように考える。
シェイクスピアにおいては、キャラクターは主体的意志を持って、世界の中に生きる。それは世界の中に生きる事が素晴らしいからではなく、そうせざるを得ないからである。世界の中の一人として生きる他に、生の形式はない。だからこそ、例え破滅すると知っても、自分の運命を背負って、彼らは出ていく。そこで、彼らは破滅するが、人間はみなそういうものである。また、仮にハッピーエンドになったとしても、それは束の間の休息のようなものだ。いずれにしても、主体的な意志が止む時、終わりがやってくる。カフカは、この意志を極限まで引っ張る事をしなかったので、ドラマは「不条理」なものに留まった。もちろん、それがカフカの特徴で非難するに値しないと言えばその通りだ。自分はカフカとシェイクスピアを対比して、自分の考えを明らかにしたかっただけである。それでは、この文章はこれで終わりとする。