scene:94 クレール王国の侵攻
グレタはリカルドを見ると眼に涙を浮かべ始め抱き付いた。
「お兄様が……」
リカルドは泣いているグレタを宥め、何故泣いているのか聞き出す。
グレタの話によると、隣国クレール王国がボニペルティ領へ攻め込んできたらしい。ボニペルティ領とクレール王国はウォダル河を挟んだ隣同士で、河のボニペルティ領側にはモラド砦、クレール王国側にはガロ砦という防衛拠点が在る。
ロマナス王国とクレール王国は、イレブ銀山を巡って何度も戦った歴史があり、今回もクレール王国がイレブ銀山を狙って攻めてきたと思われる。
「クレール王国の侵攻を知った御父様とお兄様は、配下の兵士を引き連れ出陣されました」
ボニペルティ侯爵は配下の兵士三〇〇〇を率いてモラド砦へ向かったらしい。その頃、モラド砦は敵兵に囲まれ籠城していたようだ。
ボニペルティ侯爵軍とクレール王国軍の戦力を比べれば、圧倒的にクレール王国軍が優勢だった。ただ地の利はボニペルティ侯爵軍にあり、侯爵軍は地の利を活かした戦いを挑んだ。
侯爵軍は敵を隘路に誘い込んで叩き、高低差を利用して矢の雨を降らすという作戦を実施し、クレール王国軍に多大な犠牲をもたらす。
しかし、兵力の多いクレール王国軍は少しずつ侯爵軍を追い詰めた。侯爵軍は一旦退却することになり、二手に分かれたそうである。
一方はボニペルティ侯爵が率いて後方の町に退き、もう一方は侯爵の妹婿レオーネが率いてモラド砦に入った。
ボニペルティ侯爵が率いる集団の中には、戦いを経験させるためにグレタの兄シルヴァーノが同行しており、退却途中、不運にも矢を背中に受け重傷を負う。軍に同行していた魔術医が応急手当を行い一命は取り留めたが、危険な状態らしい。
ボニペルティ侯爵は、グレタへも連絡した。
「私、ボニペルティ領に帰りたいんです。でも、叔父さんが駄目だって」
当然だろう。戦場となっているボニペルティ領へグレタを行かせるのに同意するはずがなかった。
「グレタが行っても、侯爵やお兄さんの助けにはならない。逆に負担になるんじゃないかな」
「でも、心配で心配で」
「王都に居ても、侯爵たちを助けることはできる」
グレタが顔を上げ、リカルドを見つめる。
「どうやって?」
「それを考えるんです。まず、クレール王国の狙いや作戦を検討しましょう」
リカルドとグレタはクレール王国の作戦行動を話し合った。
「クレール王国の狙いは何だと思う?」
「あいつらの狙いはいつも同じ。イレブ銀山です」
「だったら、今侵攻を開始した理由は?」
「理由なんてない。あいつらはいつも狙っているもの」
「いや、そうじゃない。海賊騒ぎでアルド砦の兵力が少なく……」
リカルドが急に黙り込んだので、グレタはリカルドの顔を見る。その顔に怒りが滲み出ていた。
「どうしたのです?」
「クレール王国だ。海賊共の後ろにクレール王国が居たんだ」
グレタは意味が分からないという顔をする。
「アルド砦から兵力を減らすために、クレール王国は海賊を利用したんです」
リカルドの心の奥から消えたはずの怒りが蘇る。
「そのために、キルモネの住民を殺したと?」
リカルドが怒っている理由に気付いたグレタは、顔を青褪めさせた。
「クレール王国の為政者は、冷酷な人物のようですね。そして、非常に有能だ。魔術で焼き殺したくなるほど」
リカルドは情報が不足していると感じた。グレタにボニペルティ領の様子を一番詳しい者は誰か尋ねると、叔父だと答えた。
「叔父さんに会わせてもらえないか」
「はい」
リカルドはグレタと一緒に、ボニペルティ侯爵の屋敷に向かう。
グレタの叔父アルフィオは、口髭を生やした三〇代の紳士だった。そのアルフィオから戦況を聞いた。
ボニペルティ領での戦いはクレール王国軍が優勢になっている。イレブ銀山を占拠したクレール王国軍は、モラド砦を包囲した後、残りの軍勢を西に進軍させ、周囲の村や町を攻撃しているらしい。
「国王陛下は、何か手を打ってくださらないのですか?」
そう言った後、国王が熱を出し療養中だということを、リカルドは思い出した。
アルフィオが言い難そうな様子を見せてから。
「陛下は疲れが溜まったせいで、床に臥せっておられるらしい。その代わり、王太子殿下が戻ってこられ、手を打ってくださることになった」
その翌日、ガイウス王太子が王家の兵士五〇〇〇を援軍として派兵することを決定。
王家派遣軍は村や町を攻撃しているクレール王国軍を押し返した。
クレール王国軍はイレブ銀山とモラド砦を結ぶラインまで退却し、そこで守備を固めイレブ銀山の麓に堅固な陣地を築き始めている、という戦況報告がグレタとアルフィオの所へ来る。
戦いは膠着状態に陥っていた。両者の兵力はほぼ互角。王家派遣軍とボニペルティ領軍は、クレール王国軍の堅固な陣地に阻まれ攻めあぐねている。
グレタは父親と兄が心配で、食事も喉を通らないほどだった。そんな時、ボニペルティ侯爵からの連絡が届いた。シルヴァーノの容体が悪化したのだ。
王都のグレタはシルヴァーノが危篤だと連絡を受けると居ても立ってもいられなくなった。
グレタは今度こそボニペルティ領に戻ると言い張り、アルフィオは折れた。戦況が以前よりはマシになっているので、許可を出したのだ。
その話を聞いたリカルドは、一緒に行くことにした。
「一緒に行ってくださるのですか」
リカルドが一緒に行くことを伝えると、グレタがパッと顔を輝かせる。故郷とは言え、戦場になっている場所に向かうのは不安だったのだろう。
アルフィオが用意してくれた馬車に乗り、リカルドたちはボニペルティ領へ向かった。
今回はモンタが一緒だ。最近、構ってやれなかったので寂しかったらしい。ボニペルティ領へ同行すると言い出した。
「グレタ、モンタも一緒。いいよね」
「ええ、嬉しいわ」
モンタはグレタと一緒に魔術の勉強をすることもあり仲良しだった。
ボニペルティ領の領都ベリオに到着したのは三日後。ベリオからボニペルティ領軍が駐留しているシェザの町まで一日。かなりの強行軍だったが、グレタは弱音一つ上げなかった。
シェザの町に到着したリカルド達は、大地母神ヴァルルの治療院へ向かった。シルヴァーノがそこで治療を受けているはずなのだ。
治療院の玄関に、護衛の兵士が立っていた。その兵士はグレタの姿を見て。
「お嬢様、シルヴァーノ様は二階の角です」
「ありがとう」
グレタは中に入り階段を駆け上がる。角部屋の扉の前に立つと深呼吸をしてから中に入った。
「グレタ、来たのか」
ボニペルティ侯爵が疲れた顔で、寝ているシルヴァーノの傍に座っている。
「お兄様の具合は?」
侯爵は力なく首を振る。
「魔術医が何度も【治癒】を掛けたのだが、効かんのだ」
リカルドは寝ているシルヴァーノの様子を確認する。苦しそうに呼吸しており、汗をかいているところを見ると熱があるようだ。
リカルドの肩に登ったモンタも、シルヴァーノを見て。
「グレタのお兄ちゃん……苦しそう」
グレタはシルヴァーノの手を握り。
「魔術医は何と言っているのです?」
「矢が刺さった部分が障気に侵され、腐っていると言うのだ」
リカルドは『障気』と聞いて、何のことか分からなかった。
「障気とは、何ですか?」
「リカルド君の故郷では障気と言わないのかね。風の中に含まれる悪い気のことだよ」
ボニペルティ侯爵の説明で、何のことだかリカルドにも判った。人の害になる細菌、いわゆる黴菌のことだ。
「そうだ。リカルド様は医術にも詳しいのですよね。お兄様の具合を診てもらえませんか」
グレタが頼んだ。侯爵は『そうなのか』という顔をする。
「いやいや、全然詳しくないです。誰がそんな与太話を?」
「タニアさんが言っていました」
侯爵が真剣な顔で。
「少しでも医術の知識があるのなら、診てくれないか」
リカルドは断り切れず、シルヴァーノを診察することになった。
リカルドは肩からモンタを降ろすと、侯爵に手伝ってもらいシルヴァーノを座らせる。包帯を解き、傷口を見ると皮膚の部分は【治癒】で塞がっている。しかし、負傷した箇所は赤黒く変色し盛り上がっている。慎重に触るとぷよぷよしており、中に膿が溜まっているようだ。
化膿している傷は、何か異物が体内に残っている場合があると聞いたことがあった。
「膿を出さないと駄目だな」
リカルドが呟くように言うと、侯爵がリカルドの腕を掴んだ。
「どうすれば良いのだ?」
「変色している部分を切り開いて膿を出し、中に異物が入っていないか調べる必要があります」
「頼む……治療してくれ」
親の愛情に突き動かされた必死の願いが、リカルドの心を打った。
侯爵はリカルドが必要だと言った道具や度数の高い蒸留酒と綺麗な水を魔術医に用意するよう命じる。
手伝いを命じられた魔術医は不満げな顔で用意した。魔術医は自分の治療で治せなかったものが、こんな小僧に治せるはずがないと思っているようだ。
リカルドは切開する部分に【麻痺】の魔術を掛けた後、よく切れるナイフを蒸留酒で殺菌してから患部を切り開く。血と一緒に膿が流れ出した。
綺麗な水で何度も何度も膿を洗い流す。膿がもっと奥の方から吹き出してくる。リカルドはもう一度ナイフを使って深く切り込む。ナイフの刃先に何かが当たった。
「何かあるぞ」
侯爵が固唾を呑んで見守り、グレタは眼を瞑っている。
リカルドはナイフの刃先を使って異物を掻き出した。それは鏃の先が欠けたもののようだ。
魔術医は傷口から出てきた鏃の先を見て、顔を青褪めさせている。
リカルドは他に無いか念入りに調べ、もう一度水で洗った後、切開部分を縫い合わせる。最後に【治癒】の魔術で終わらせた。
「これで様子を見ましょう」
リカルドが侯爵とグレタに告げた。
「リカルド様、これでお兄様は大丈夫なのでしょうか?」
リカルドには正直判らなかった。原因が鏃の先だったら回復するはずだが、他に原因があるのなら、リカルドにもお手上げだ。
「いや、まだ判らない。これで熱が下がるようだったら大丈夫だと思う」
その後、グレタは一生懸命に看病する。翌日、シルヴァーノの熱が下がった。
それを知った侯爵は大いに感謝し、自分ができることなら何でも言ってくれとリカルドに告げる。リカルドはシルヴァーノの治療により、ボニペルティ侯爵から絶大な信頼を得たようだ。
そして、グレタはキラキラとした目でリカルドを見つめるようになった。
リカルドは戦場となっているイレブ銀山とモラド砦の周辺について、侯爵から説明を受けた。海賊を使い非道な行いをしたクレール王国に何か一矢報いたかったのだ。
クレール王国が造り上げた陣地は、地形を利用し魔獣の素材と土嚢を積み上げたものである。
但し、この陣地には地形的に弱点となる部分が存在した。クレール王国はその部分を魔獣の素材を使って強化するという手段を使った。
「弱点というのは?」
リカルドが侯爵に尋ねた。
「元々、イレブ銀山へ行く道が在った場所だ。敵はそこを炎滅タートルの甲羅を使って補強しおった」
「えっ、クレール王国の誰かが炎滅タートルを倒したのですか?」
「それは分からんが、数人の魔術士が一斉に放った魔術を簡単に跳ね返したのを見た」
【陽焔弾】でも破壊できなかった炎滅タートルの甲羅である。生半可な魔術では通用しないだろう。
リカルドたちがシェザの町で過ごしたは数日の間にも、ボニペルティ侯爵軍とクレール王国軍の間で小競り合いは続いた。だが、本格的な戦いへとは発展しない。
両者とも決定的な決め手を持っていなかったからだ。
イレブ銀山を取られたまま時間が経てば、ボニペルティ侯爵軍は資金面で行き詰まり継戦が困難になる。ボニペルティ侯爵はイレブ銀山に多大な投資を行い、採掘設備を更新した直後だったからだ。
その資金は財閥から借金をして用意したもので、銀を採掘し返す予定になっていた。採掘設備の更新をクレール王国側が知っていたとすれば、狡猾な敵だ。
ボニペルティ侯爵は息子の容体が回復したことで、戦いに集中できるようになる。
リカルドは侯爵と一緒に敵の陣地まで行った。他の場所は急な斜面になっているが、イレブ銀山へと続く道だけは緩い上り坂だ。
その坂の途中にクレール王国軍の陣地が築かれていた。正面には見覚えのある甲羅で装甲された壁が在った。その壁の裏側には櫓が組まれ、櫓の上で数多くの弓兵が警備している。
リカルドは弓兵の矢が届かないぎりぎりの位置まで接近した。一緒に付いてきた侯爵が尋ねる。
「何をするつもりかね?」
「どれぐらい頑丈なのか、ちょっと試そうと思います」
【陽焔弾】の準備をしたリカルドは、十分な魔力を込め触媒を撒く。
「ファナ・ラピセラヴォーン・スペロゴーマ」
灼熱の陽焔弾が生まれた瞬間、その熱気を感じた侯爵はもしかすると炎滅タートルの甲羅を破壊できるのではと期待を抱いた。
膨大な熱エネルギーを持つ陽焔弾は、炎滅タートルの甲羅に命中し爆散し超高温の炎を吹き散らした。その熱の余波で、敵陣地に居た数人の弓兵が火傷を負う。だが、炎滅タートルの甲羅は健在だった。
「やはり駄目か。もっと強力な魔術が必要ですね」




