scene:8 妖樹との遭遇
本日2回目の投稿です。
木樹の植生が変わり針葉樹が多くなる。妖樹エルビルが居るエリアに近付いている。
ヤコボと兵士たちは用心して進むようになった。普通の樹木と妖樹を間違えば命取りになる。
前方の藪がガサリと音を立てた。
兵士たちが反応し武器を構える。そこに現れたのは斑大猪だった。全長二メートルの大猪で茶色と黄色の豹のような毛皮で覆われていた。
斑大猪クラスの魔獣になると剣や槍で倒すのは難しくなる。通常は罠に掛け身動きできなくなったところを仕留めるのだが、今回は何の用意もないところで遭遇したのだ。
兵士たちの顔に恐怖が浮かぶ。
「兵士だけでは無理だろ。私も戦うぞ」
フラヴィオが触媒と長めのロッドを取り出し構えた。リカルドを含めた見習いも触媒を取り出し身構える。リカルドが手に持つ触媒は【地】の触媒である。
大猪が地面を蹄で引っ掻き唸り声を上げる。たぶん自分の縄張りから出て行けと言っているのだろう。
いきなり大猪が兵士たち目掛けて突進を開始する。斑大猪の毛皮は革鎧に使われるほど丈夫で下手な斬撃や矢などは弾き返す。
兵士たちは大猪の巨体に恐怖し逃げた。
「馬鹿者!」
ヤコボの怒りの声が上がる。兵士たちの背後には見習い魔術士のイヴァンとベニートがいたからだ。
二人は慌てて魔術を放った。イヴァンが【流水刃】で、ベニートが【風斬】である。タイミングとしてはギリギリだ。【流水刃】の水の刃が大猪の肩を切り裂くが浅く、【風斬】の空気の刃は背中の毛皮に阻まれダメージを与えること無く消えた。
迎撃に失敗したベニートは横に身を投げ出し大猪の突進を避けた。だが、イヴァンが逃げ遅れ撥ね飛ばされてしまう。イヴァンは地面をゴロゴロと転がり立ち木に背を打ち付けて止まった。
リカルドはフラヴィオの後ろで見ていたが、大猪の姿には恐怖した。牛ほどもある猪が物凄い勢いで突進してくるのだ。恐れを抱くのは当然である。
しかし、目の前の魔術士だけは違った。
「こいつめ!」
フラヴィオは手に持つロッドに魔力を流し込むと反対の手に持つ触媒を撒く、ロッドの周りで触媒が渦を巻き始めると【重風槌】の呪文を詠唱する。
「シェナ・デュリュブデール・ダルウィブ」
魔術士は詠唱が始まると同時に、上空の空気が渦を巻いて集まり始め圧縮されていく。フラヴィオがロッドを掲げ振り下ろした瞬間、空気が圧縮され強固で大きな塊となったものが大猪目掛け叩き付けられた。
巨大な空気槌は大猪を押し潰し大きなダメージを与えた。
チャンスだと思ったヤコボは剣を持って走り寄り大猪の脇腹から心臓を目掛けて突きを放つ。走った勢いと全体重が乗った剣先が大猪の毛皮を貫通し心臓を抉る。
大猪が弱々しく悲鳴を上げヨロヨロと少しだけ歩いてからドッと倒れた。
リカルドはホッと息を吐き出した。
左手を見ると無意識に触媒をきつく握り締めていた。
マルタ婆さんから、フラヴィオが実戦派の魔術士だと聞いていたが、その言葉に嘘はなかったようだ。正直、凄いと思った。
「イヴァン!」
パトリックが弟弟子のイヴァンの傍に駆け寄り助け起こす。イヴァンは脳震盪を起こしフラフラしていたが、大した怪我はしていなかった。
打ち身や痣を作ってはいた。だが、骨には異常がなくちゃんと歩けるようだ。
その日は、そこで妖樹狩りを止め野営することになった。イヴァンを治療するためと大猪を解体し毛皮や肉を剥ぎ取るためである。
ヤコボは部下に野営地に適した場所を探すよう指示を出した後、イヴァンの様子を確かめた。
「治癒促進薬が必要か?」
イヴァンは足を擦りながら顔を顰める。
「打ち身だけです。大丈夫」
「そうか」
治癒促進薬は数種の薬草と妖樹トリルの樹肝油から作られる薬で、軽い傷なら数十分で完治させるほどの効き目がある。但し一瓶が銀貨二枚もするので気軽に使えるようなものではない。
丁度良い野営地が見付かり移動を開始した。
野営地では兵士たちが焚き火を起こし待っていた。到着した頃は日が山の稜線に掛かり、空が赤く染まり始めていた。
「おい、大猪の肉を料理しろ」
大猪を解体した兵士たちは内臓を中心に運んで来ていた。レバー(肝臓)とハツ(心臓)、チレ(脾臓)などである。特にレバーは六キロほどの大きさがあり、新鮮なうちに食べるのが美味いそうである。
もちろん、ロースやヒレ、バラ肉などの美味しそうな部位も運んできたが、運べたのは全体の三割ほどだった。
他は毛皮が高価なので剥ぎ取っている。
兵士たちは新鮮なレバーを中心に料理を始めた。
料理法は簡単で一口大に切ってから採取した山菜と一緒に鍋で炒めて出してくれた。味付けは塩とハーブだけだったが十分だった。
パトリックとイヴァンが傍に座って食べ始めた。一切れ口に放り込むと後は夢中で食べ始める。
「こりゃ絶品だがや」
「本当に美味い。フラヴィオ殿とヤコボ隊長には感謝しなければいけませんね」
リカルドも魔獣の内臓がこんなに美味いとは思わなかった。
食事が終わった後、リカルドは焚き火の前に座って今日一日の出来事を思い返していた。
初め思っていたより魔術士という存在が脆弱なものだというのに気付いた。魔術士は鉄製の武器を嫌うので武器と呼べるようなものはほとんど持たない。
それに加え、体力が無いので盾のような物も持たず、装備は布の服だけ。こんな装備で魔獣と正面から戦えば簡単に死んでしまう。
魔獣ハンターのように革鎧を揃えるのも一つの手だが、それだと魔術士らしくないと言われそうである。
「何を考えているんきゃ?」
炎を見詰めながら考え込んでいるリカルドを見てパトリックが声を掛けた。
「魔術士の防具についてです」
イヴァンは自分が怪我をしたせいでリカルドを悩ませているのかと思ったようだ。
「今日はドジを踏んで怪我したけど、こういうことは滅多に無いんだぞ。君は魔術士の弟子になったばかりだから、不安になるのも分かるよ。でも魔術士の戦い方は遠い間合いから魔術を放つ……これしかないんだ。鎧が必要になる接近戦なんて魔術士にとっては想定外なんだよ」
普段は無口のイヴァンが言い訳するように告げた。
それはおかしいと思った。不意打ちに遭い接近戦をしなければならない状況に遭遇する可能性はあるのだ。それとも魔術士の技の中に接近戦を避けるようなものがあるのだろうか。
そのことについて二人に尋ねると。
「魔力制御が得意な魔術士は『魔力察知』を鍛えているそうだがや」
『魔力察知』とは周囲にある魔力の存在を感じ取る方法で、熟練者になると五〇メートル先の魔獣の存在を感じられるようになるらしい。
魔力察知により不意打ちを防ぎ獲物を探すのも楽になる。但し精密な魔力制御と集中力が必要で熟練した魔術士しか実用的な魔力察知は使えないと言う。
パトリックがやり方を知っていたので教えてもらった。
リラックスした状態で目を瞑り、額の部分に魔力を集め周囲の魔力を感じる膜を形成し集中する。最初は何も感じなかった。ところが十数分くらい続けていると近くに居るパトリックとイヴァンの魔力が何となく感じられるようになる。
「やった。パトリックとイヴァンの魔力を感じられましたよ」
パトリックはうんうんと頷く。
「魔術士なら近くに存在する魔力の持ち主を感じられるんだぎゃ。だけんど遠くの魔力を感じ取るのは難しいんだがや」
パトリックの言った通りらしい。少し離れているフラヴィオたちの魔力を感じ取れなかった。
そこでふと気付いた。魔術士であるフラヴィオは魔力察知を使っている気配がない。
「フラヴィオ殿は魔力察知を使ってないみたいだけど、どうして?」
パトリックが笑いを堪えるような表情で。
「魔術士殿は細きゃあ魔力制御が苦手なんだ」
近くの魔力を感じ取るには魔力制御は関係ないが遠くの魔力を感じるためには強い魔力制御が必要らしい。
その夜は野営地の地面に横たわり寝た。地面が硬いので中々寝付けなかった。それでも疲れていたので眠れたようだ。
朝の陽光を感じて目を覚ますと身体のあちこちが痛い。起き上がって固まった筋肉を解すために身体を動かす。
半分ほどの者が起きていた。寝ている者を見るとマントのような物を被って寝ている。
リカルドは火の傍に居たので寒くはなかったが、普通は用意するものなんだろう。
皆が起きると出発の準備が始まった。朝食は食べないらしい。
今日は西の山へ行く予定である。狩りをしている場所は三つの山が連なっており『オリエス三山』と呼ばれている。目当ての妖樹エルビルは三山を彷徨き回り獲物を探していると言う。
移動の途中、リカルドは魔力察知の訓練を続けた。続けているうちに魔力察知が細かい魔力制御を必要とする理由が判ってきた。
魔力を額に集め魔力膜を形成するのに魔力制御が必要で、見習い魔術士なら直径一センチほどの膜を作るが精々、それだと近くの魔力しか感じ取れないみたいである。
遠くの魔力を察知するには魔力膜を大きくするか数を増やすかである。どちらの方法を取るかは人それぞれであり難易度は変わらないようだ。
リカルドは魔力膜を大きくしようとしてみた。一センチほどまでなら簡単に形成するのだが、それ以上大きくしようとすると膜が歪む。歪んだ膜では魔力を捉えることが難しいようである。
歪まないように綺麗な円盤状の魔力膜を形成するには魔力を均等に配分し膜状に変化させる魔力制御の技術が必要なのである。
魔力察知は魔術士なら誰でも習得する技術なのだそうだ。但し実戦で使えるのは一部の魔術士だけ、それなのに魔術士がちゃんとした防具を装備しないのは見栄を張りたいのだとしか思えない。
魔術士たちが歩んだ長い歴史の中で、魔力察知が満足に使えず魔獣ハンターのように装備で身を守るような魔術士を馬鹿にするような風潮が生まれたのかもしれない。
「見栄を張るのは馬鹿げていると思うけど、魔術士という集団の中で変に浮いてしまうのも嫌ですね」
リカルドが独り言を呟くと傍を歩いていたイヴァンが。
「ん、何か言った?」
「いや、独り言です」
その時、前方で兵士の声が響いた。
「エルビル発見!」
妖樹エルビルは木樹が途切れ見晴らしがよい場所でジッと佇んでいた。全長四メートル、太い部分で直径四〇センチほどの幹をうねうねと動き回るタコの足のような根が支えている。
太い枝が四本あり、それらは自由に動かせるようだ。
妖樹が居る場所から木が茂っている場所まで二〇メートルの距離がある。絶好のチャンスだった。
フラヴィオは見習い魔術士たちに散開するように指示を出す。
リカルドは右側に回り込み魔術を放つ準備に入る。
改めて妖樹エルビルを見ると巨大だった。一人だったら回れ右をして逃げていただろう畏怖すべき存在が聳えていた。こんな化物を大した武器も持たない人間が倒せるのだろうかと正直思う。
リカルドは喉の渇きを覚え唾を飲み込んだ。胸が痛いほどドキドキしてきた。
微かに震える指で【地】の触媒が入った木筒を取り出し妖樹エルビルを睨む。その時、ゆっくりと揺れ動いていた化物が敵に気付いた。
十数本に分かれている根をうねらせながら、こちらに近付いてくる。
その時、指の震えがピタリと止まり、痛いほどだった心臓が静かになる。
土壇場になって腹が据わったようだ。
最初に魔術士フラヴィオが【嵐牙陣】の魔術を放つ。中級下位の【風】の魔術で十数もの風の刃が敵に殺到し切り刻む。
妖樹は魔術に気付くと四本の枝を樹肝を守るように曲げ、襲い掛かる風の刃を耐えた。一本の枝が切り落とされ幹に多くの傷が生じたが、頭部に位置する樹肝の瘤は無事だった。
「仕留め損なったか……見習いは時間を稼げ!」
フラヴィオの声が引き金となって、見習い魔術士たちが魔術を放つ。【風斬】【流水刃】が大気を切り裂き妖樹の身体に命中しダメージを与えるが、仕留められない。
リカルドが【飛槍】を放った。石の槍が妖樹目掛けて飛び樹肝の瘤のすぐ下に命中し少しだけだが樹肝油が零れ落ちる。
兵士たちの間から惜しいという溜息が漏れた。
「奴の足を止めろ!」
ヤコボは部下に命令する。兵士たちは槍を構え突撃する。魔術士と見習いが次の魔術を放つ時間を稼ぐためである。
妖樹は纏わり付く兵士達を残った三本の枝で打ち据えようとする。
リカルドは空になった木筒を捨て、新しい触媒を取り出す。
そうしている間に兵士の一人が大きな枝で殴られ宙を飛ぶ。ヤコボが唇を噛み締め血を流すのが目に入った。