scene:230 グレタの怒り
サルヴァートが賢者マヌエルから受け継いだ上級魔術【水神斧】を放った。風魔鳥が飛び上がった瞬間、巨神の斧のような水刃が風魔鳥目掛けて振り下ろされる。
風魔鳥が飛び上がったことでサルヴァートの狙いが狂った。巨大な水刃が風魔鳥の胸を掠っただけで、逃してしまったのだ。
風魔鳥は大量の血を流しながら、懸命に羽ばたき上空へと逃れた。灰色と白が混じった黒っぽい羽根で覆われていた風魔鳥の身体が赤く染まる。
「ギィシュワーー!」
風魔鳥が甲高い声で叫ぶ。その瞬間、その眼が銀色から赤に変わった。それだけではない。黒っぽい羽根がオレンジ色に変化する。
風魔鳥から零れ出ていた魔力が一気に数倍に増加した。それを感じたサルヴァートが顔色を変える。
「まずい、失敗した」
伝説の魔獣が容赦ない攻撃を放つ気なのが分かった。サルヴァートは迎撃する時間が残されていないのを感じて、アウレリオ王子に向かって叫んだ。
「地下通路に逃げ込んでください!」
サルヴァート自身も地下通路に向かって走る。頭上で魔力が爆発したのを感じた時、頭から地下通路の階段に飛び込んだ。
地下通路から悲鳴が上がる。その地下通路には、周辺の貴族家の住人が避難してきていたのだ。これはアウレリオ王子が出した指示である。
ボニペルティ侯爵家のグレタも、その一人である。グレタは階段の途中から外の様子を窺っていたのだが、そこにアウレリオ王子たちとサルヴァートが飛び込んできて、思わず悲鳴を上げた。
サルヴァートが地下通路に逃げ込んだ直後、オレンジ色の魔物に変化した風魔鳥が新たな魔法を発動した。真っ赤な光を放つ風刃がシャワーのように地上に向かって降り注いだのである。
貴族街の屋敷が次々に被弾する。赤光風刃は高熱を発しながら貴族の屋敷を切り刻んだ。屋根や壁を切り裂き、柱を真っ二つに断ち切る赤光風刃。その赤い刃は屋敷の土台に食い込んで炎を上げた。
切り刻まれて崩壊する屋敷が煙を上げ、炎を広げ始めた。
「ああーー!」
「グレタ、どうした?」
妹が突然大声を出して叫んだので、シルヴァーノは驚いて尋ねた。
「リカルドと私の屋敷が、燃えています」
「仕方ないだろ。もう一度建てればいいのだ」
グレタが怒って、外に出ようとした。その肩をサルヴァートが押さえた。
「待ちなさい。僕が仕留めますから、ここに居てください」
振り返ったグレタは、サルヴァートの顔を見て目を伏せた。固い決意を秘めた目でグレタを見ているのだが、その鼻からだらだらと血が流れ落ちている。
グレタの兄であるシルヴァーノには、肩を震わせている妹が笑いを堪えているのか、怒っているのか分からなかった。
シルヴァーノがハンカチを取り出し、サルヴァートに差し出した。
「鼻血が出ていますよ」
サルヴァートは奪い取るようにハンカチを手にして鼻に当てた。
「今が攻め時かもしれんぞ」
外を見ていたアウレリオ王子が声を上げた。風魔鳥が幸運にも被害を受けなかった貴族屋敷の屋根で体を休めていたのだ。その羽根の色は黒っぽいものに戻っている。
サルヴァートとアウレリオ王子が地下通路の階段から外に出ると、グレタは顔を上げて深呼吸する。
「やはり、あの魔獣は許せません」
シルヴァーノは怒っているらしい妹を見て困ったという顔をする。
「許せないと言っても、相手は伝説の魔獣なのだ。どうしようもない」
「いえ、私も魔術士の一人です。上級魔術も学んでいます」
「だが、普通の上級魔術では倒せる相手ではないぞ」
グレタは収納紫晶から武器を取り出した。リカルドから預かった黒震魔砲杖である。リカルドが『何か遭った時に、使え』と渡してくれたものだ。
「その武器は、まさか?」
「リカルドが、強力な魔獣を倒すために創り出した特別な武器です」
「おいおい、リカルド殿は、そんな強力な武器を……」
シルヴァーノは、リカルドが妹のグレタのことを本当に特別に思っているのだと感じた。
「このままだと、王都が火の海に消えるかもしれないのです。こんな強力な武器を預かっているのに、何もしなかったなどと、リカルドに伝えることなどできません」
妹の気持ちが分かった。そして、少し気の弱かった妹が成長したのだと感じた。
「だが、お前が怪我したり、もしものことがあったら、リカルド殿が悲しむのだぞ」
グレタが強い視線で、シルヴァーノの目を見つめた。
「大丈夫です。私はリカルドの弟子でもあるのです。このまま放置したら、あの魔獣はたくさんの人たちを殺してしまいます」
グレタは屋敷を壊されたことだけを怒っているわけではないようだ。強い決意を秘めた目をして、外に飛び出していった。
シルヴァーノは自分が無力だと感じた。魔術も学校で習った程度、強大な魔獣を倒したこともない。そして、伝説の魔獣に恐怖を感じて、妹を追って外に飛び出せなかった自分が情けない。
ボニペルティ侯爵家の執事であるセルモンティがシルヴァーノの横に立った。
「シルヴァーノ様、人にはそれぞれに役割があるのです。あなたは侯爵家を継いで領地を発展させるのが役目なのです。リカルド様とは違うのです」
「セルモンティ、だが、悔しいのだ。勇気さえグレタより劣っている私に、侯爵家を継ぐ資格があるのだろうか?」
「グレタ様のように成長されればいいのです。人は成長し変わるのです」
シルヴァーノが溜息を吐いた。
「そうだな。ありがとう」
地下通路の入り口から外に飛び出したグレタは、風魔鳥を探した。少し離れた屋敷の屋根に止まっている風魔鳥の姿が目に入る。グレタは、その背後に回り込むように進んだ。
風魔鳥の前方には、サルヴァートたちの姿があった。彼らは崩壊した屋敷の陰に隠れながら、風魔鳥に近付いていた。
だが、それは風魔鳥に気づかれていた。
「ギィシュワーー!」
再び風魔鳥が甲高い声で叫ぶ。そして、眼が銀色から赤に変わる。黒っぽい羽根がオレンジ色に変化し、伝説の魔獣から放たれる魔力が膨れ上がった。
それを感じたサルヴァートが顔色を青褪めさせた。反射的にアウレリオ王子へ目を向ける。王子の顔が強張っている。自分の最期を予感したのである。地下通路に逃げ込むには離れすぎたのだ。
「兄上、申し訳ありません。役目を果たせそうに……」
その時、背後から黒い銃弾が風魔鳥の背中を襲った。強靭な魔獣の肉体を貫き、血を噴き出させる。風魔鳥が羽ばたき逃げようとした。
だが、連続で撃ち出された黒い銃弾は、容赦なく風魔鳥を貫く。口から血を吐き出した風魔鳥は、サルヴァートたちが潜んでいた通りに落下した。
血を流しているが、死んではいない。その目には強い光があり、負けを認めたものの目ではなかった。
「サ、サルヴァート、トドメを刺すのだ」
アウレリオ王子の命令に、サルヴァートが大きな声で返事をする。
倒れた風魔鳥は、立ち上がりまた飛び立とうとしていた。
サルヴァートは急いで【水神斧】の魔術を準備し発動した。巨神の斧が風魔鳥目掛けて振り下ろされ、その胸を大きく切り裂く。
伝説の魔獣は貴族街の半分を崩壊させたが、魔術士サルヴァートにより倒された。
だが、サルヴァートたちは助けられたことを分かっていた。
「殿下、どなたが助けてくれたのでしょう?」
「リカルドが戻って来たのではないか」
そこにグレタが現れた。
「殿下、サルヴァート殿、ご無事でホッとしました」
「グレタ、気遣ってくれるのは嬉しいのだが、地下通路で待って……」
アウレリオ王子はグレタが手に持っているものに気づいた。
「それは黒震魔砲杖ではないか。まさか……あなたなのか?」
「差し出がましいとは思いましたが、援護させてもらいました」
「それはリカルド殿の?」
サルヴァートが尋ねた。
「はい、リカルドより預かりました黒震魔砲杖でございます」
「あなたのような女性が、危ない真似をしないでください」
サルヴァートがキツイ口調で言った。それを聞いたグレタは胸を張って答える。
「私は魔術士リカルドの弟子でもあるのです。魔術士としての役目を果たしたまでです」
サルヴァートは、グレタがリカルドに『様』を付けないようになっているのに気づいた。グレタはリカルドと婚約したことで、リカルドに相応しい人間になろうと頑張っているのだろう。だから、『様』を付けるのもやめたのかもしれない。
「申し訳ない。僕が間違っていました。あなたには感謝いたします」
サルヴァートが頭を下げた。それを見たアウレリオ王子も感謝の言葉を口にした。
その言葉を聞いたグレタは恥ずかしそうにしていたが、周囲を見回し悲しげな表情を浮かべる。思い出が詰まっていたボニペルティ侯爵家の屋敷も炎を上げていた。
「そうだ、消さなければ」
グレタは声を上げると、【爆水消火】の魔術を放ち始めた。それを見たサルヴァートたちも消火に参加する。
貴族街の火事はグレタやサルヴァートたちの活躍で消し止められ、避難していた貴族や使用人たちが姿を現した。そして、通りの真ん中に横たわっている魔獣の死骸を見て、安心した。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
リカルドはメルビス公爵の屋敷で目を覚ました。
「ううっ、気持ち悪い」
胸がムカムカする。悪酔いした次の日の二日酔いの気分だ。この世界では酒を飲んだこともないリカルドだったが、悪酔いの記憶だけはあった。
「おっ、気がついたのだな」
サムエレ将軍の声だと分かりリカルドは安堵した。自分が巨蟻ムロフカを倒したのだと分かったからだ。何だか、最後の辺りの記憶が曖昧になっている。
「将軍、最後の辺りの記憶が思い出せないのです。巨蟻ムロフカの最後はどうなったのですか?」
将軍は見た限りの状況をリカルドに話した。
「また、山を吹き飛ばしたのですか。【白星焔弾】は威力がありすぎて、制御が難しいのが欠点です」
「山の一つくらい、どうでもよろしい。どうせモルドス神国の山だ」
国際問題になるようなことを平気で言っている。
「まあ、将軍がそう言うのなら、大丈夫なのでしょうが……」
「モルドス神国は、それどころではないだろう。巨蟻ムロフカが残した被害が凄まじいようだからな」
巨蟻ムロフカの『魔の滅死響』を浴びてしまったので分かる。リカルドは距離があったから助かったが、射程距離内で聞いた者は確実に死んだだろう。
しかも、その射程範囲は凄まじく広いのだ。何人死んだか想像もつかない。モルドス神国は当分混乱が続くだろう。
「リカルド殿、残念な報せがある」
「残念……王都で何かあったのですか?」
「王都を風魔鳥が襲ったのだ」
「そんな……副都街は無事なのですか?」
「副都街は無事だった。だが、貴族街に大きな被害が出た」
「まさか、グレタの身に何か遭ったのではないでしょうね」
リカルドが寝台の上で半身を起こした。
「無理をするな。グレタも無事だ」
リカルドはホッとした様子を見せた。
「ただ貴族街で建設中だったリカルド殿の屋敷が、燃え落ちたそうだ」
「そんなものは、また建設すればいいだけです。ところで、風魔鳥はどうなったのです?」
「賢者マヌエルの上級魔術を使って、サルヴァートが倒したそうだ」
「そうですか。サルヴァートが倒したのですか。良かった」
「そうなのだが、魔境が静まらないらしいのだ」
「まさか、まだ何か出て来るのですか? 伝説の魔獣が三匹も出てきたのです。十分でしょう」
「私も同じような気分だが、尋常でない数の魔獣が暴れているようだ」
「残っている伝説の魔獣というと、ティターノフロッグですか。それとも巨蟻ムロフカや天黒狼の仲間が居たのか?」
「王太子殿下からの連絡では、暴れ回る魔獣が多すぎて、十分な偵察ができないらしい」
「嫌な予感がしますね。王都へ戻りましょう」
「身体は大丈夫なのか?」
「こんな状況なんです。ゆっくりなんかしていられませんよ」




