scene:2 魔術の教本
最近、間藤とリカルドの区別ができなくなっていた。肉体の若さに精神が引っ張られている感じだ。集中すれば数学教師だった頃以上に明晰な思考を展開できるのだが、気を抜いた時は幼稚な思考しかできなかったぽやぽやリカルドに戻るのだ。
屋敷で働き始めて二ヶ月が経過した頃、久しぶりにアレッサンドロが戻ってきた。
門番も兼任しているリカルドは門を開いて主人を迎え入れる。屋敷の中に入ったアレッサンドロは大声を上げる。
「マッシモ、ちょっと来い」
弟子であるマッシモは、普段二階の書斎でアレッサンドロが集めた魔術書を読み勉強していた。階段を降りてきたマッシモは、アレッサンドロが厳しい顔をしているのを見て駆け下りようとし階段を踏み外した。
ボールのようにコロコロと転がり落ちたマッシモは、階段下に居たアレッサンドロをボーリングのピンのように薙ぎ倒した。
その様子を見ていたリカルドは小声で呟く。
「ナイスストライク」
倒れたアレッサンドロがブツブツ文句を言いながら起き上がる。
「おい、大丈夫か?」
アレッサンドロが気絶しているマッシモに歩み寄り助け起こそうとする。重かったようでリカルドの方を見て。
「ボーッとしてるんじゃない。助け起こすのを手伝わんか!」
リカルドは駆け寄りアレッサンドロと一緒になってマッシモの身体を起こす。
マッシモが目を開け、唸り声のようなものを発した。
「どこか痛い所はないか……頭を打ったんじゃないか?」
マッシモが重い体をどっこいしょと起き上がらせ異常がないか調べる。大丈夫なようだ。
心配するアレッサンドロもマッシモの身体をペタペタと触り異常がないか確認する。
「大丈夫だからもういいよ。それより何か用が有るんでしょ?」
心配そうにしていたアレッサンドロは真面目な顔になり。
「お前に仕事を与える。子爵の次男が魔術の勉強を始めることになった。初心者用の教本を三冊書き写せ」
マッシモは肥満体型の少年で部屋の中でダラダラしているのが好きであり、実戦は苦手のようだった。
実際に魔術を使う現場を見ていないので、本当に苦手かどうかは判らない。アレッサンドロとの会話から、そう感じたのだ。
「いつまでに写本を終わらせればいいの?」
「最初の教本は五日後まで、次は一〇日後、最後の奴は分厚いから一月後でいい」
マッシモの顔が引き攣るのが見えた。師匠の言い付けを守ると今後一ヶ月間ずっと写本しなければならないからだ。
「今日の夕食は食べていかれますか?」
リカルドが尋ねると、アレッサンドロが顔を顰め首を振る。屋敷の食事は近くに住んでいるおばさんが用意してくれる。街の庶民が普段食べているものと同じだ。黒パンは硬いが量は十分だった。
ただ城の食堂で食べているアレッサンドロには不満なのかもしれない。
アレッサンドロが屋敷を去るとマッシモがリカルドを呼んだ。
「お前、文字は書けるようになったんだろうな」
「えっ……はい」
リカルドが答えるとマッシモがニンマリと笑った。何だか次の展開が判ってしまう。
「僕は勉強で忙しいから、お前が代わりに写本しろ」
……やっぱりですよ。こんなズルする奴は魔術士として大成しないぞ。と思う反面、こういう奴が出世したりするんだよなと思う。教師の時、学年主任の先生が、このタイプで次の年には教頭に出世した。
写本を押し付けられたリカルドは、初めて書斎に入った。この書斎には二百冊の書籍が仕舞われていた。魔術関係の本が多いのかと思ったが、歴史書や物語・伝記・哲学書・魔獣の研究書などが多い。
魔術関係は一棚だけで、三〇冊ほどしか無かった。
マッシモは魔術関係の棚の中から一冊の教本を引き抜き、リカルドに渡した。
「一冊目は五日後だぞ。必ず仕上げろ」
紙や筆記道具はマッシモが用意してくれた。写本は自分の部屋でしろと言われた。書斎には教本より重要な書籍が多数あり、見られたくないようだ。
写本の仕事を押し付けられたのには納得できないものがあった。ちょっと考えて一つだけ要求を出す。
「写本なんて初めてだから書き間違いすることも多いと思うんです。余計に紙を貰ってもいいですか?」
マッシモは苦い顔をした。だが、それもしょうがないと思ったのか承知する。
「紙は高いんだからな。無駄遣いするなよ」
「分かりました」
リカルドは魔術の一冊目の教本と筆記道具・紙を持って屋根裏部屋に戻った。
部屋の隅に足が一本欠けたテーブルがあったので、修理して机として使っている。椅子は大きな柱の一部だったものを椅子代わりに使う。
魔術の教本を広げた。タイトルは『魔術の基本概念』だ。
中を読んでみると魔術というものが判った。魔術に使われる魔力は空気中に漂っているらしい。人間や魔獣は呼吸することで魔力を取り込み、心臓の筋肉の中に溜め込むと書かれている。
人により溜め込める限界が違い、それが魔力量の違いとして現れる。
魔術の発動には触媒と魔術言語が必要である。触媒は火を起こす場合は灰や炭、水を召喚するには魚の鱗や貝殻、風を呼ぶには鳥の羽根や骨、植物を操るには樹の実や花を使うのが一般的である。
但し一般的に使われる触媒では大した魔術は使えない。
大きな魔術を使うには魔獣の素材を使う必要があるらしい。【火】の触媒として妖樹エルビルの炭、【水】の触媒として一角魔魚の角などが有名だそうだ。
そして、魔術言語を触媒と組み合わせれば魔術は発動する。組み合わせ方も色々有り、代表的なものは触媒を撒き呪文を唱える方法である。
教本に薪などに着火する方法が書いてあった。実験してみようかと思ったが、部屋の中で【火】の魔術は拙いだろうと止め、風の魔術を実験することにした。
ペンの代わりにしようと拾ってきた鳥の羽根があるので触媒は揃っており、呪文は教本に書かれている。
屋根裏部屋には一つだけ鎧窓があり、その鎧窓を開ける。リカルドは触媒の羽根を手に取り窓の縁に置いた。
右手の先から羽根に向け魔力を放出するようイメージしながら【微風】の呪文を唱える。
「シェナ・ウィン」
何も起こらない。窓から風が吹き込んで羽根を舞い上がらせた。
猛烈に恥ずかしさが込み上げてきた。……これじゃあ、幼い子供がテレビを見て主人公の真似をして騒いでいるみたいではないか。
テーブルに戻り教本を見ると魔力はイメージだけで放出されるわけではなく、ちゃんとした訓練が必要みたいだ。
「魔力制御の訓練法か」
魔術が使えるようになりたいが、まずは写本である。
ペンを取って紙に教本を書き写し始めた。作業を始めて判ったが、これは思っていた以上にきつい仕事だ。
一日目には一割ほどしか終わらなかった。
翌朝、書き上げた紙を持って書斎に行きマッシモに見せると。
「まあまあだな。この調子でもっと早く書け」
自分の仕事を押し付けておいて、偉そうに言う。リカルドが書いた文字は割と綺麗で全体的に見栄えが良かった。元にした教本自体も手書きの写本なので読み難い字や間違いがある。
元教師としては添削する気分で修正し、元の教本よりちゃんとしたものに仕上げている。
「あの……掃除とかは休んでいいですか?」
マッシモはちょっと悩んでから、午前中は今まで通りに働き、午後からの時間を写本に充てるように指示した。
「いいか。期限までに必ず仕上げるんだぞ」
書斎を出て、一階の掃除を終わらせる。昼食を食べてから写本を再開した。
二日目、三日目はペースを上げ四日目にコツを会得した。複写元の一ページ分の内容を映像で記憶し、それを脳裏に思い浮かべながら筆記するのだ。日本に居た頃の自分には不可能なやり方だったが、リカルドには可能だった。何かが変化しているらしい。
複写スピードは二倍に上がり四日目には一冊目が終わった。
期限までには一日あるので『魔術の基本概念』の要点だけを別の紙に書き出した。自分用の魔術ノートを作ろうと考えたのだ。
一冊目の期限の夜に出来上がったものをマッシモに渡す。マッシモはチェックしてから、二冊目の教本を棚から引き出しリカルドに渡した。
「怠けるなよ」
マッシモの言葉にイラッと来る。怠けているのはお前じゃないのかと言い返したい。だが、マッシモが機嫌を損ね、ここでの生活が辛くなるだけだと我慢する。
子供の頃に絵本で読んだシンデレラの物語を思い出した。継母や姉に掃除や雑用を言い付けられるシンデレラを可哀想だと思った記憶がある。
何だか今の自分みたいだ。シンデレラには優しい魔法使いが現れるが、自分には現れそうにない。
アレッサンドロのことを思い出した。……あの人は優しい魔法使いというタイプじゃない。顔は笑っているが腹の中じゃ何を考えているか判らないと思った。
二冊目は『魔術における触媒論』という教本で、頑張って三日で写本が終了した。
二冊目も一冊目と同様に要点を紙に書き出した。
期限まで二日ある。早目にマッシモに渡すと変な目で見られた。
「早いな。手を抜いたんじゃないだろうな」
段々この魔術士の弟子が嫌いになってきた。こういう人物とはあまり関わらないようにしよう。
マッシモは写本の中身を確認し満足し、次の教本を手渡した。
三冊目の『魔術言語の基礎』は分厚い本で写本に七日掛かった。しかし、すぐにはマッシモに渡さず、中身の要点を紙に書き出し、前の一冊目と二冊目の要点を書き出した紙と合わせ魔術ノートを作製した。
リカルドは思い掛けずできた暇な時間で魔術の勉強を始めた。
魔術ノートの魔力制御の訓練法について書かれている部分を読み直し実践してみる。
魔力制御の基本は右の掌と左の掌を向かい合わせ、右から左へ魔力を移動させることらしい。魔力は白く輝く霧のように見えると書かれていた。
試してみたが魔力の欠片さえ見えなかった。訓練法として確立しているほどだから、先人が色々試行錯誤しているのだろう。諦めずに続けることが重要なのかもしれない。
本物の魔術が存在する世界に来たのだから、魔術を使ってみたいという気持ちがある。
毎日寝る前に訓練しようと決めた。今の自分は九歳だ、じっくりと訓練する時間はたっぷりとある。
但し時間を無駄に使うつもりは無かった。間藤だった時の人生は後悔することばかりだった。
子供の頃、もっと本気で勉強していれば、もっと真剣に考えて仕事を選んでいれば、あの時もっと周りを注意していれば……。
後悔するのは、もう嫌だ。
一日一日を大事に過ごそうと思った。だが、元が自堕落で意志の弱い人間だったので、本来のリカルドのぽやぽやした性格に馴染んでしまいそうになる。
恐ろしいことに気を抜くとボーッとしたまま時間を過ごしている時がある。その時の頭の中は『ぽやぽや』としており幸せな気分になる。
本来のリカルドは、こういうぽやぽやした時間が好きだったようだ。
九日後、魔力制御の訓練をしていると身体の中に水よりも何倍も重い物が存在するような感覚を覚えた。何と言って表現したらいいか分からないが、錯覚ではない確かな手応えを感じる。
次の瞬間、右の掌から白いモヤのようなものが放出されるのが見えた。
「オッ」
錯覚かと思い、もう一度集中して魔力を動かそうとすると白いモヤが見える。どうやら魔力を動かせたらしい。けれども魔力の流れに勢いがない。
「何故なんだろ?」
『魔術の基本概念』に呼吸することで魔力を取り込み、心臓の筋肉の中に溜め込むと書いてあったのを思い出した。
「出発点が間違っていたのかもしれないな」
訓練法として書かれていたのは、右の掌から左の掌へ魔力が移動するようイメージしながら念じるという方法である。実際はもっと詳しく書かれているが、心臓については書かれていなかった。
もう一度試してみる。今度は意識を右の掌に集中するのではなく、心臓から魔力が流れだし右の掌から押し出されるイメージで行う。
白い風が勢い良く右の掌から噴き出し左の掌へ吸収された。思わずニヤついてしまい集中が途切れた。
「こんな簡単なコツに気付くのに一〇日も掛かったのか。才能が無いのかな」
リカルドは知らなかったが、魔力制御は訓練を始めてから平均半年ほど続けないと体得できないと言われている。それを一〇日ほどで体得したのは凄いことだった。
このことを魔術士が知れば、必ずリカルドを弟子にしただろう。
そして、リカルドが発見したコツは魔術士の間で秘技とされているものだった。魔術士は多額の報酬と引き換えに、この秘技を教える。そんな仕組みが出来上がったのは、百数十年も前のこと。
但し、この秘技を教わったとしても魔力制御を体得するのには早い者で一ヶ月掛かると言われている。
いよいよ魔術を試す時だ。
鳥の羽根を紐で束にしたものを用意し、窓の所に糸で吊るす。風で飛ばないようにするためである。ワクワクしながら羽根に向かって右手を差し出す。
意識を魔力に集中し、ドライヤーから熱風が噴き出すように右の掌から魔力を放出すると同時に呪文を唱えた。
「シェナ・ウィン」
白い風が羽根を揺らした瞬間、強い風が窓の外で発生し庭木の梢を大きく揺らす。触媒とした羽根は黒く変色し粉々となって消えた
「うっひょひょー、成功だ」
リカルドはバレエダンサーのように、その場でクルクル回り天に向けて手を突き上げた。
翌日、裏庭に行ったリカルドは魔術ノートを見てから、【火】の魔術を試した。
竈から持ってきた灰を地面に落ちている枯れ枝の上に撒き、右手から魔力を放出しながら【着火】の呪文を唱えた。
「ファナ・コロル」
枯れ枝から小さな炎が上がり燃え始める。
次は【命】の魔術を実践する。触媒は樹の実である。ブドウの種を土に埋め、樹の実を磨り潰して粉にしたものを撒いてから魔力を放出し呪文を唱えた。
魔力が当たっている場所の土が盛り上がり、芽が顔を出す。同時に触媒とした白い粉が黒く変色し消失する。
【火】と【命】の魔術が成功した。魔力制御が可能な者なら、最初の教本に書かれている初級の魔術だけであれば、失敗しないようだ。
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