scene:183 シェネル湖の黄金球
ミルカたち兄妹が、副都街に避難して五日が経過した。
長屋では百数十人のスラム住人が暮らすようになっていた。
「兄ちゃんは仕事に行ってくるからな」
「うん、頑張ってね」
妹を含めた年少の子供は、長屋のおばさんたちが面倒をみてくれることになっている。
ミルカなどの働ける者は、副都街にある家屋敷の雪下ろしをする仕事をしていた。雪が降らなくなったら、畑の仕事や地下道の掘削作業を行うことになるようだ。
地下道というのは、王都の下にある地下道を副都街まで延長する工事らしい。
その地下道により、雪が積もった時でも副都街と王都の行き来ができるように、というアイデアだそうだ。
ミルカは偉い人は凄いことを考えるな、と感心した。
「おい、聞いたか?」
ミルカと一緒に雪下ろしをしているジェネジオが、声を上げた。
「何のこと?」
「アントニオ様が来月に結婚されるんだ」
「へえー、めでたい話じゃないか」
「分かってねえな。結婚式の日には、祭りが行われるんだよ」
「でも、俺たちは参加できないんじゃないの?」
「いや、副都街に住んでいる者は、全員参加できる。祭りでは、料理や酒が用意されるそうだぞ」
「アントニオ様が用意される料理か……美味しいものが出るんだろうな」
「当たり前だろ。タダで食べられるんだぞ。待ち遠しいぜ」
一ヶ月がすぎ雪が消えた頃、アントニオとエレオノーラの結婚式の日が訪れた。
王都にある大地母神ヴァルルの神殿で、結婚式は行われた。その参列者は錚々たる顔ぶれである。筆頭はガイウス王太子とサムエレ将軍だ。
エレオノーラはガイウス王太子が来てくれるとは知らず、かなり緊張していた。そんなエレオノーラをアントニオが優しくリードして、無事に結婚式が終わった。
アントニオの結婚式を見た母親のジュリアは泣いた。
「お父さんにも見せたかった」
母親に泣かれて、リカルドは困った。パメラが母親に抱きついて声を上げた。
「何で泣いてるの?」
リカルドがパメラの頭を優しく撫で教えた。
「嬉しい時も、泣くんだよ」
マッテオとセルジュが笑った。セルジュの腕の中ではモンタが寝ていた。まだ寒いので眠いらしい。時々目を覚まして、キョロキョロしてからセルジュの腕の中だと確認して目を閉じる。
そこからは披露宴と祭りを一緒にした騒ぎが始まった。
「アントニオ様、おめでとうございます」
飼育場で働いているダリオたち、織物工房のミケーラたち、それに魔術士のニコラやロブソンが次々に結婚を祝って声を上げた。
グレタとボニペルティ侯爵も祝ってくれた。
「エレオノーラ様、ささやかながら祝いの品です」
ボニペルティ侯爵家から翡翠のネックレスが花嫁に贈られた。
「ありがとうございます。グレタ様」
エレオノーラが礼を言うと、グレタが彼女の衣装を褒めた。
「これは織物工房のミケーラさんたちが作ってくれたものなんです」
物語に出てくる王女のように綺麗な花嫁を見て、グレタは羨ましく思った。
「次はグレタ様の番ですね」
「でも、私たちの結婚は、もう少し先になるようです」
リカルドがセラート予言の年が終わってからにしようと言っているからだ。
アントニオたちの結婚は、副都街だけでなく王都全体に知られており、四大財閥の総帥からも結婚祝いの品が届いた。
元スラム街の住人も喜び、アントニオたちの結婚を祝った。その中にはミルカたち兄妹もおり、用意された料理を食べて幸せな一日を過ごした。
結婚式と披露宴が無事に終わり、アントニオたちが新生活に入った。
一方、リカルドは特級魔術について再検討を始めた。
特級魔術を一回使っただけで精神的に疲弊してしまうようでは、本当に実戦で使えるのか不安になったのだ。一撃で仕留められなかったら、反撃されて死ぬ恐れもある。
「どうする。魔力制御の特訓でもするか」
魔力制御を向上させる方法については、リカルドでも効率的な方法を見つけられなかった。やむを得ず地道に修業を行うことにした。
まずは、源泉門から三歩の距離で魔術を放てるようになろうと目標を定めた。特訓の方法はシンプルな方法を選ぶ。意識を源泉門に近付け、三歩の距離を一時間ほどを目標に維持するというものだ。
最初は五分ほどで精神力が尽きた。だが、一ヶ月も続けると三〇分ほど続けられるようになり、三ヶ月で目標の一時間をクリアした。
魔力制御力は格段に進歩したと思う。
源泉門から一歩の距離まで意識を近付ける所まで来ている。ただ実戦で使えるのは、源泉門から三歩の距離まで―――特級魔術を使える回数は三回までだろう。
攻撃手段は手に入れた。だが、化け物のような魔獣と戦うには、まだ不安だった。伝説となっている巨蟻ムロフカは、侯爵家の領都を囲んでいる高い街壁を跨いで越えたと記録が残っている。
その事実から計算すると、全長が一五メートルほどの巨蟻だったと思われる。
それだけではなく、脅威度8の魔獣は魔法を使うと言われている。巨蟻ムロフカが使う魔法は『魔の滅死響』と呼ばれている。
これはムロフカが巨大な大顎を擦り合わせることで発する音の魔法である。その音は地獄で奏でられる死そのものだった。聞いた者の神経を切り裂き、脳を破壊したと言われている。
黒魔術盾で防げるだろうか、と疑問が浮かぶ。残念ながら、答えは『否』だった。黒魔術盾は身体全体を包み込むようなものではなかったからだ。
それに黒魔術盾のエネルギー源は、魔力蓄積結晶に溜め込まれた魔力である。小さな魔力蓄積結晶に溜め込める魔力には限界がある。
巨蟻ムロフカのような強力な魔獣が発する魔法を受け止めれば、数秒で魔力を消費してしまうに違いない。
「防御用の魔術も必要か」
リカルドが脅威度8の魔獣の中で、巨蟻ムロフカを一番に注目しているのには理由がある。他の魔獣は、セラート予言の最終年に魔境から現れるかどうか不明だが、この巨蟻ムロフカだけは必ず現れると記録に残っていたからだ。
忙しい春が過ぎ、恒例の魔術士認定試験が終わった。今年も魔術士協会で働く小僕から五人が試験に合格して正式な魔術士となる。
リカルドが直接教えた小僕たちのほとんどは、魔術士になるか、魔導職人になって独り立ちしたようだ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
春が終わり初夏の頃。東のメルビス公爵領では、モルドス神国から客を迎えていた。
領都のフェムレス城にある応接室で、メルビス公爵とモルドス神国の外交神官セシリオが交渉を行っていた。
「シェネル湖で起きた漁民たちの争いは、ロマナス王国側に非がある。謝罪と賠償を求めます」
女性としては大柄なメルビス公爵は眉をひそめた。
「冗談ではありませんわ。シェネル湖に浮かぶトポシェ島は、我が領民が昔から使っていた島です。そこで発見されたものを、我が領民が持ち帰るのは当然の権利。そこで起きた争いを一方的な罪だと主張することには、納得できません」
モルドス神国とロマナス王国の国境線上にあるシェネル湖には、トポシェ島という小さな島がある。漁民が小屋を建て、ちょっとした作業をする場所として使っている。
争いは、この島で黄金色に輝く丸い物体が発見されたことで起きた。島の中心付近で最初の一個を発見したのは、メルビス公爵領の漁民だった。
島にはモルドス神国の漁民もいて、メルビス公爵領の漁民が黄金球を発見したのを見て、自分たちもと探し始めた。黄金球は大人でも一人で持ち上げられないほどの重さがあった。それが金で出来ているなら、凄い価値になる。
その後、モルドス神国側が一個、メルビス公爵領側が一個を発見したが、そこから両国の漁民が争い始めた。相手を島から追い出し、黄金球を独占しようと考えたのだ。
争いは大きくなり、メルビス公爵が兵士を出動させたことで収まった。その際に、兵士がモルドス神国の漁民を力で制圧したことが問題になった。
漁民の数人が怪我を負い、モルドス神国側が賠償を払えと言い出したのだ。
「我々が問題にしているのは、その点ではない。公爵の兵士が我が国の漁民に怪我を負わせた点を問題にしておるのです」
「それは貴国の漁民が、兵士たちに反抗したので起きたこと。我が方だけに非があるとは言えません」
「馬鹿な。その兵士は、漁民が発見した黄金球を取り上げようとしたのですぞ。あれは我が国が発見したものです」
メルビス公爵は笑いを浮かべた。
「我が兵士は、黄金球が危険なものかもしれないと判断し、保管しようと考えただけですわ」
「ならば、どう危険なのか説明を求めます。それができないのなら、詭弁だと判断するしかありません」
セシリオ神官の言葉で、メルビス公爵は内心ムッとした。
公爵はわざとらしく大きく溜息を吐く。
「貴国では、問題になっている黄金球を何だと思われているのですか?」
「ふん、黄金で出来た球でしょ。それ以外の何だというのです」
「あの黄金球の重さを量りましたか? 金にしては軽すぎると思うのですが」
「軽い? 何かの混ぜものを含んでいるのではないか。そういうものは多い」
セシリオ神官は金と何かの合金だと主張した。
公爵も最初はそう思っていたが、そんなものを作る理由が分からない。正体は不明なのだ。
「とにかく、貴領の兵士が怪我をさせた漁民に対して、一人金貨一〇枚の賠償を払っていただきたい」
漁民にすれば大金だが、国や領主にすれば少額である。
公爵はセシリオ神官の顔をジッと見てから、賠償を払うことを承知した。怪我をさせたという事実は覆せないと判断したのだ。
セシリオ神官を小者だと思った。この神官は自分の小遣い稼ぎのために交渉に来たようだ。漁民への賠償金から手数料として八割くらいを懐に入れるつもりなのだろう。
問題はトポシェ島がどちらの領土か明確になっていないということだ。
とはいえ、この島は小競り合いの原因になっても、大きな戦争の引き金となったことはない。ほとんど無価値な島だからである。
ただ、今回は黄金球が発見されたことで事情が変わった。
セシリオ神官が漁民から黄金球を取り上げ、首都ベリアスに持ち帰り大神官長に提出したからだ。大神官長クレメンテは、神官兵をトポシェ島へ派遣し占拠させた。
この所業にメルビス公爵は怒り抗議した。しかし、モルドス神国は相手にしなかった。
ガイウス王太子の力が増したことにより、ロマナス王国内の公爵の影響力が小さくなっているのを知っているのだ。
トポシェ島を占拠したモルドス神国は、もう一個の黄金球を発見したらしい。
公爵は領内にいる学者に黄金球を調べさせた。
「これはただの金属球ではないかもしれません」
調査を任せた学者が、公爵に報告した。
「正体が分かったのですか?」
「正確に見極めるためには、黄金球を断ち割って調査する必要があります」
「それはダメよ。この黄金球は魔術道具だという可能性もあるわ」
「その可能性は、私も否定しません。しかし、そうなると、私の手に負えるものではありません。これ以上は王都の研究者に任せるのがいいと思われます」
公爵が考えるように沈黙した。
「仕方ないわね。一個を王都に運んで調査させます。あなたは引き続き調べなさい」
「承知しました」
公爵は護衛の兵士を引き連れ、王都に向かった。馬車の中には、黄金球が積まれている。
公爵が乗った馬車が王領に入り、ルリセスまで来た時に奇妙なものを目にして、公爵は驚きの表情を浮かべた。
「あれは何なの?」
一緒に馬車に乗っている密偵部隊長のヴァルガスに確認した。
「あれは、王太子殿下のお気に入り魔術士が発明した『ケイトラ』という乗り物でございます」
「そう、あれがケイトラなのね。乗っているのは何者?」
ヴァルガスはケイトラに乗っている男たちを見た。
「サムエレ将軍の部下だと思われます」
「すると、あの乗り物を王家の軍は導入したということなのね、また一歩出遅れてしまった。悔しいわ」
「リカルドという魔術士を、公爵領に拉致して作らせる。そういう方法もございますが……」
「それが王家に知られたら、王太子殿下は我が領地に軍を派兵するでしょう。そんなリスクは冒せないわ」
ガイウス王太子は、自分が最も信頼する者数人の名前を発表している。その者たちに危害を加えた者には、相応の懲罰を与えると表明していた。その中にリカルドの名前もあるのだ。
若い魔術士であるリカルドが、王太子の最も信頼する者として名前が出ているのは、かなりの異例のことである。そのことには貴族や官僚も驚いていた。
メルビス公爵は王都の屋敷に入り、王都の有名な学者を呼んで黄金球を調べさせた。
呼ばれたのは、バイゼル学院で魔術道具を専門にしているクランゼ教授だった。教授は魔力を使って、黄金球を調べた。
「公爵様、これは魔術道具ではありません。何かの卵ではないでしょうか」
「まさか、魔獣の卵だとでも言うの?」
クランゼ教授は頷いた。




