scene:143 モラッティ少将の決断
海中に身を隠していた大海蛇が海面に頭を出した時、魔術士たちは大海蛇から膨大な魔力を感じた。
「あいつ、何かしようとしているんじゃないか」
宮廷魔術士の一人が声を上げ、ヴィットリオが顔を強張らせる。
「まさか……魔法か」
モラッティ少将の顔が険しいものに変化した。
「奴に魔法を使わせるな。バリスタの準備だ」
少将の部下たちが、バリスタの弓を引き黒震槍をバリスタにセット。ヴィットリオがバリスタを不審げに見て、不機嫌な声を上げた。
「ふん、そんなもので何ができると言うのだ」
モラッティ少将は宮廷魔術士長を無視して、準備を急がせた。
「少将、準備完了です」
「よし、奴の頭を狙え」
部下の一人がバリスタを大海蛇の頭に向けた。その時、大海蛇が巨大な口を開ける。大海蛇は衝撃波のブレスを放とうとしているようだ。
「放て!」
少将の号令で、黒震槍が放たれた。弧を描いて飛んだ黒震槍が、幸運にも大海蛇の脳天に突き刺さった。大海蛇が痛みでブレスを明後日の方向へ放つ。
ブレスを浴びた海面が爆発したように波立ち、飛沫が噴き上がった。
「あ、危なかった」
サルヴァートが胸を撫で下ろした。そして、大海蛇の脳天に突き刺さった槍に興味を持つ。上級魔術でも破れなかった防御を、バリスタを使ったとはいえ槍で貫いたのだ。
通常なら、あり得ないことである。
黒震槍に結び付けられている紐を伝わってくる物があった。大海蛇の脳天から噴き上がる血だ。噴き上がった血が紐を伝わり装甲高速船の甲板を赤く染める。
それを見た少将が、
「その血を集めるんだ」
バケツが用意され、紐を伝わる血がバケツに溜められた。
少しだけ血が溜まった時、大海蛇が身を捩って暴れ始める。そのせいで脳天から黒震槍が抜けた。
「クソッ。ヴィットリオ殿、魔術を」
「放て!」
宮廷魔術士たちが上級魔術を放った。サルヴァートが知らない魔術である。宮廷魔術士が秘蔵している魔術に違いなかった。
凄まじい【火】の上級魔術が大海蛇を襲い、その肉体を焼き尽くそうとする。だが、大海蛇の魔術耐性は強靭だった。かなりの範囲に火傷を負ったが耐えきる。
「う、嘘だ。あれは最強の魔術だったんだぞ」
ヴィットリオが落胆の声を上げた。
モラッティ少将は撤退を決断した。切り札である宮廷魔術士の上級魔術で仕留められなかったからだ。
「撤退だと……馬鹿を言うな!」
ヴィットリオが怒鳴り声を上げた。それを少将は冷静に受け止める。
「では、どうやって大海蛇を仕留めるというのです?」
宮廷魔術士たちが悔しそうな顔をする。
「時間が惜しい。撤退戦の準備をしてください」
仕方ないというように、宮廷魔術士たちが威力はないけれど、派手な魔術の準備を始めた。それを目くらましに使おうと事前に打ち合わせていた。
その後、黒震槍と宮廷魔術士の魔術により、大海蛇から逃げ切った。
装甲高速船は、あちこちが破損してしまった。モラッティ少将の顔色が悪い。
それ以上に顔色が悪いのは、宮廷魔術士長のヴィットリオだった。必ず大海蛇を倒すと国王に誓ったのだ。ただ幸いにも少しだけ大海蛇の血を採取することができたのが救いである。
装甲高速船はゆっくりと王都に向かっていた。
サルヴァートは船上で海原を眺めながら考えていた。島で見付けた賢者の上級魔術。宮廷魔術士の秘蔵魔術でも仕留められなかった魔獣。その魔獣に深い傷を負わせた魔術武器。
モラッティ少将がひょこっと顔を出した。
「何を考えているんだね?」
「先日の戦いですよ」
「ああ、大海蛇との戦いか。あいつは凄まじかったな」
「あんな化け物を倒せる奴など、いないんじゃないですかね」
少将の脳裏に、リカルドの顔が浮かんだ。しかし、実際に言葉にしたのは、
「賢者は倒したのだろ」
「ええ、賢者は独自の上級魔術を持っていたようです」
「ふむ、その上級魔術が残っていれば良かったのに」
サルヴァートは心の中でニヤッと笑った。賢者の上級魔術は、父親にも秘密にしている。ヴィットリオに話せば、宮廷魔術士の手柄として国王に報告されてしまうのではないかと心配したのだ。
この上級魔術だけは、自分の切り札としたかった。
「そういえば、バリスタで使用していた槍は、どういうものなのです?」
モラッティ少将が顔をしかめた。王太子が秘匿しているものなので、おいそれと話せるものではない。
「沿岸警備隊の秘密兵器だ。王太子殿下の要請で作られた」
少将が詳しくは言えないと伝えると、サルヴァートは納得した。だが、王太子が絡んでいることから、リカルドも関係しているのではないかと推測した。
王都に到着したヴィットリオとモラッティ少将は、報告するためにバイゼル城へ向かった。
その報告を受ける国王は、執務室で不機嫌な顔をして書類と格闘していた。
「切りがない。ガイウスの奴、わざと国主決裁が必要な書類を増やしたのではないだろうな」
ある意味、国王の推測は当たっていた。
国王の判断が必要な書類は元々多い。死んだ宰相が絶対に国王の判断が必要な書類だけを残して、後は宰相自身と各大臣に振り分けるように役人たちに命じていたのだ。
ガイウス王太子は、それを本来の姿に戻した。
また、国王がアルフレード男爵を近衛軍の将軍に任命したことも影響していた。
信用できる人物にバイゼル城の守りを任せたかったのだろうが、そのせいでアルフレード男爵が処理していた分も国王に回されるようになったのだ。
「何だこれは?」
国王は未処理分の書類の中に、不審なものを見付けた。何かの報告書らしい。表題に『国政評価報告書』と書かれている。
その内容を読んで、国王が顔色を変えた。
中身は国政を司る統治者、ここでは国王に対する民衆の評価が書かれていた。
治安・経済・外交のそれぞれについて、民衆から集めた評価が数値化されていた。しかも国王が復帰してから、その評価がガタ落ちている。
そして、最後の欄には民衆から聞き取った不満が書かれていた。
「ミル領まで遠征したのに、何もせずに引き返せと命令した国王の気が知れないだと……誰がこんなことを」
その他にもアルフレード男爵を近衛軍の将軍に取り立てた人事を正気じゃないと書かれている。
国王は報告書の作成者を確認しようとした。だが、その報告書には作成者名が書かれていなかった。本来なら作成者名が書かれていない報告書など、国王の執務室に存在するはずがなかった。
「なぜ、こんなものが?」
国王は報告書を引き裂き、ゴミ箱に放り込んだ。
それ以降毎月、国政評価報告書が国王に提出されるようになる。国王はアルフレード男爵に作成者を探せと命じた。しかし、探し出せなかった。
「こんなことをするのは、ガイウスの奴しかおらん。奴め何を考えておる」
正解である。これは王太子が国王に向けて用意した仕掛けの一つだった。
国王は国政評価報告書を読むことで、民衆から本当にどう評価されているかを知った。そして、衝撃を受けた。民衆は自分の味方だと思っていたからだ。
「なぜだ……余は民のために努めてきたではないか」
国王は、報告書の内容が捏造だとは思わなかった。内容に国王自身も思い当たる部分があったからだ。
それに王太子が国務を担っていた頃の国政評価報告書も発見した。そこには民衆の王太子に対する不満も書かれていた。──顔が怖いと。
国王が少し鬱になった状態の時、ヴィットリオとモラッティ少将が王都に戻った。
「あれだけ強気なことを言っておきながら……失敗したとは何事だ!」
「申し訳ありません。我々の予想より、大海蛇は強敵だったのです」
「不甲斐ない。大海蛇の血は手に入れられなかったのだな」
ヴィットリオがモラッティ少将の方をチラリと見た。
「陛下、少量ですが手に入れることができました」
「本当か?」
「はい、これでございます」
モラッティ少将は、冷凍収納紫晶に入れていた大海蛇の血を取り出した。
ガラス瓶に入った真っ赤な血を確認して、国王は頷いた。
「では、賢者の秘薬が作れるのだな?」
「神殿からの情報が正しければ、そうなります」
国王がヴィットリオを睨んだ。
「ふん、命拾いしたな。今回は大目にみるが、次はないと思え」
ヴィットリオが深々と頭を下げた。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
モラッティ少将がモルニア諸島へ向かう少し前。
魔術士協会で研究していたリカルドは、ボニペルティ侯爵とグレタ父娘の訪問を受けた。
「リカルド君、話があるのだ。少し時間をもらえないか」
侯爵が深刻な顔をしているので、リカルドは何事だろうと考えながら承諾した。
「実は、ボニペルティ領で事件が起きた」
「どんな事件です?」
侯爵の話によると、ペルーダ病が広がっているアプラ領から、避難民がボニペルティ領へ逃げ込んでいるらしいというのだ。
「領境を封鎖したのではないのですか?」
「もちろん、街道は封鎖した。だが、森の中を通って領内に入る者がいたようなのだ」
「まさか……ペルーダ病患者が?」
「ああ、領境に近い町で、ペルーダ病と診断された病人が出た」
リカルドは伝染病に関する知識を記憶の中から引っ張り出した。
「その病人と接触した者を全員、隔離しなければいけません」
「隔離は実行した。だが、拡大する恐れがある。確実な治療法が必要なのだ。知恵を貸してくれないか?」
「分かりました」
リカルドは王太子から、賢者の秘薬についても知らされていた。しかし、その賢者の秘薬がペルーダ病に効果があるかどうか懐疑的だった。
病気の原因は様々である。一種類の薬が万病に効くとは思えなかったからだ。
侯爵も秘薬のことは知っているらしく、大海蛇の血を確保できるか尋ねた。
「大海蛇は何とかなると思います。ですが、賢者の秘薬がペルーダ病に効くかどうか」
ボニペルティ侯爵の顔が青褪めた。それはグレタも同様で、
「リカルド様は、賢者の秘薬でもペルーダ病は治せないと言うのですか?」
リカルドは首を傾げる。
「どうでしょう。確率としては半々じゃないかと」
不可思議に満ちている世界なので、エリクサーやソーマのような霊薬が存在するかもしれない。
「そんな……どうしたらいいのです?」
リカルドは治療法を確実に知っている存在に心当たりがあった。
「魔境に行けば、治療法が分かるかもしれません」
侯爵が目を輝かせた。
「本当か……だったら、協力してくれないだろうか?」
侯爵の全身から熱意が感じられた。領民の被害をどうにかして抑えたいのだろう。
リカルドは、その熱意に押されるように承諾した。
「だったら、私も魔境へ行きます」
グレタが突然言い出した。
当然、侯爵が反対したが、グレタは頑固だった。
「危険をリカルド様だけに押し付けて、安全な場所で待つだけというのはどうなのでしょう。私は嫌です」
グレタの目には涙が浮かんでいる。それを見た侯爵は溜息を吐いた。
侯爵は仕方なく許した。
翌日、リカルドたちはヨグル領に向かった。同行したのは、グレタと護衛役の二人である。
侯爵所有の馬車でヨグル城砦へ向かう。まず王太子に会おうと考えていた。
「なぜ、王太子殿下に?」
グレタがリカルドに尋ねた。
「魔境のある場所に行こうと思っているんですが、そこは王太子殿下も関連している場所なんです」
「では、王太子殿下に許可をもらってから魔境に入るのですね?」
「そうなるかな」
グレタが魔境について尋ねたので、リカルドは知っている魔境の知識を教えた。
グレタと会話しながら馬車に揺られること半日、ヨグル城砦に到着。
門番に王太子がいらっしゃるか確認した時、兵舎から本人が現れた。
「リカルドではないか。どうした?」




