壊れた舌
有名な美食家がいた。彼の舌はとても敏感だった。彼はテレビに雑誌にひっぱりだこだった。しかしある日突然味覚が無くなってしまう。生きる意味を失った彼が辿り着く答えとは。
私は美食家だ。その手の雑誌にも良く載っている。まぁ、いわゆる有名人というやつだろう。『柳田省吾のグルメリポート』なんていう番組も持っている。
5年前に結婚した。子どもも1人いる。満ち足りた生活を送っていた。
小さい頃から舌が敏感だった。人よりも多くの情報を舌で感じることができた。味はもちろんのこと、舌触りや温度の微妙な違い。一口食べれば何が入っているのかわかるほどだった。
しかし、突然私の舌は私の物じゃなくなってしまった。もう味を感じなくなっていたのだ。何を食べても味がしない。美食家としての私は死んだ。それは私の全てが無くなったのと同義であった。
妻は私を励ましてくれた。きっとまた味覚が戻るわと、そう言ってくれた。そんな言葉が痛いほど胸に刺さった。妻はそれから良く私に料理を作ってくれた。それはそれは一生懸命作ってくれた。しかし私はそれを美味しいと感じることができない。妻に申し訳ないという気持ちで、毎晩涙が止まらなかった。悔しくて仕方がなかった。私に生きる価値が無いように思えた。
だから私はここにいる。自殺者保護センター。もはや思い残すことは何もない。家には遺書を置いてきた。ただ死んだような毎日を過ごすくらいならば、いっそ。
「では待合室でお待ちください」
受付のそんな声を聞いた。
待合室。そこは白く、清潔感があって、とても無機質なところだった。数人の若者が同じように座っていた。
「柳田省吾さん。お入りください」
ついに私の番がきた。
「これからこの脳死薬をあなたに投与します。あなたが死を選ぶのならば、あなたの臓器はより生きたいと強く願う者のために使われることになります。よろしいですね?」
「はい、もう何も未練はありません」
カプセル剤を貰った。
「飲んでください。脳死薬です」
ためらいなく飲んだ。味は無かった。ただするりと喉の奥に溶けていった。
「そしてこれが、解毒剤です。これを、まあ個人差はありますので、だいたい48時間以内に飲めば、死なずに済みます。どうするかはあなたの自由です。2日間存分に考えなさい」
解毒剤は粉薬だった。
これで私は正式に自殺志願者となった。あと2日間。あとたった2日間も生きねばならないのだ。しかし私はもう死んでいるようなものだ。何も感じない。
一日目
自殺者保護センター内は空調設備も整っていて、なかなか快適だった。椅子やテーブルが並べられている。まるで喫茶店の様な感じだ。
私の他にも人はいた。同じような顔をした老若男女。皆、ただ死を待っていた。ここには死への希望と生への執着と絶望が入り混じっていた。
私は開いているスペースに座った。このまま孤独に死んでいくのだろうか。椅子に座ったまま、脳が溶けて無くなってしまうのか。それもいい。自嘲気味に笑った。妻には申し訳ないが、もはや私には何も残されていないのだ。きっとわかってくれるだろう。
夕食は頼めば何でも出てくるらしい。だが私には関係のないことだ。私は席を立ち、廊下に向かった。寝室がある。誰の部屋かはわからない。きっと、誰の物でもないのだろう。布団を自分で敷いて寝るようだ。いくつも部屋がある。私はその一つの部屋に入った。殺風景な部屋だ。畳に、窓があって、押入には布団が入っている。白い布団だった。私は一番上のを敷いた。横になる。柔らかかった。
夜は眠れなかった。どうしても妻と子どもの姿がちらついて、瞼を閉じることができなかった。
二日目
自殺志願者は、申請するたびに翌日の新聞に載ることになる。もちろん私の名前も載った。だから、妻が面会に来たことも驚かなかった。
私は寝不足の目をこすりながら、面会室へと向かった。
ドアを開けると、妻と娘が一枚の板を挟んだ向こう側に立っていた。
「パパ!!」
「千夏…小百合、千夏も連れてきたのか」
「ええ、あなた。私達家族みんなの問題ですもの」
妻の声は怒気を含んでいた。
「どうして何の相談も無しにこんな所へきたのですか!!一言、私に言ってほしかった。どうして…」
「すまない小百合。君の作る料理の味、全く分からないんだ。とても美味しそうなのに。とても一生懸命作ってくれたものなのに。それで、なんだか申し訳無く思えてきて、私はもうお前達を養うこともできないってのに。もう何もしてやれないんだ」
「私も、千夏も置いていく気ですか?」
「ああ、すまない。すまない小百合。どうか許しておくれ。どうか…美食家の舌が壊れてしまった。味の探求は私の全てだった。もう生きる希望が見えないんだ。だからもうそっとしておいてくれ。頼む。頼むよ…」
「パパ!死んじゃイヤ!」
「ごめんよ千夏。パパはもうこうするしかないんだ」
妻が机を叩いた。ドンッ!という大きな音がした。
「ふざけないで!本当に自分勝手ねあなた!出会ったときからずっとそう。一人で全部抱え込んで、あなた一人の問題だと思ってるの!?みんな、あなたが大切なのよ?死んでほしくないの!分かる?」
そう言って妻はわんわんと泣き出してしまった。
「パパのバカ!ママを泣かせるな!」
どうすればいい。私は、生きていて一番楽しいことを失った。食の探求を失ったのだ。それは私が生涯かけてきたものだ。それがなくなった今、私は死んだも同然なのだ。
「小百合、どうか許してくれ。愚かな私を、励ましてくれた小百合のことは忘れない。ありがとう。ありがとう」
妻は顔を上げた。
「あなたは強情な人だから、そう言うと思っていたわ。でもね、私はあなたを愛しているの。舌が壊れたなんて些細なことよ。また作り直せば良いじゃない。辛抱強く頑張りましょう?気に病むことは無いわ。私はいつでもあなたのそばに居てあげるから。だからお願い。お願いよ。帰ってきて。生きて、お願い」
「パパ、帰ってきて」
俺は、必要とされているのだろうか。美食家としての私は死んだのだ。だが、妻と娘は私のために泣いてくれている。舌の壊れた私に。価値の無くなった私に、価値を見いだしてくれる者がいる。それだけで救われたような気になった。
「ごめん。ありがとう。生きるよ。迷惑かけるかもしれないけど。帰るよ。帰ってもいいだろう?」
妻は笑って言った。
「もちろんよ。また、いろんな料理作ってあげますね」
私は、こんなに大切なものを見失っていたようだ。私は美食家の私に囚われていたのかもしれない。舌を失って初めて、自分から生きていたいと思った。
私は解毒剤を飲んだ。ひどく苦かった。