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夏の季節/水

とある天狗の背中を追いかけて、

 とある夏のこと。おれは学校や実家のある人工都市東京を飛び出した。

 そして、


「タケちゃんしっかりしてや!」

「はいっ」

「ほらそっち、しっかり持ってぇ!」

「はいっ!」


 夏のむせ返るような暑さの中にいて、おれは必死に駆け回っていた。

 人使いの荒い叔父さん夫婦の民宿で夏休みの間だけ、住み込みのアルバイトをしている。

 畳十畳分もある巨大な防水布を広げ、鉄パイプを組み合わせて作っているのは強い日差し避けのための仮設テント。今日は早朝に叩き起こされてからずっとこのテントの準備にかかりっきりだ。

 叔父さんが民宿裏の倉庫からこれら一式を引っ張り出してきて、普段は女将さんが園芸用に使っている手押し車にぎゅうぎゅうに乗せる。おれはそのくっそ重い手押し車を押して、荷物を落とさないよう慎重に丘の上から浜辺まで運んで来たんだ。その後は叔父さんたちと三人でせっせと仮設テントを建てた。


 言っておくけど、一ヶ所じゃない。三ヶ所にだ!


 一つは叔父さん夫婦の民宿用で、これはお客さんが使う。一つは地域の小学生が水泳大会をするからってことで貸し出す用。そして残る一つは……なぞ!

 よそ者のおれには謎だけど、毎年必ず地域の持ち回りで用意するらしい。何の習慣かわからないけど、おれは叔父さんに言われるままに新たに運び込んだ荷物をなぞの仮設テントの影の中にまとめた。


「ご苦労様だっだな」

 ポン、と労うように叔父さんの分厚い掌がおれの肩に置かれた。はいっ! と返事をしようとそちらに振り返って、叔父さんの人差し指がおれの頬に突き刺さった。


(……やられたッ!)


 狙われた頬を両手で抑えて震えるおれを、叔父さんは至極満悦げに笑いながら空いた手でバシバシと叩く。


「愉快愉快!」


 そう言って、女将さんが持ってきた水筒から麦茶を勢いよく呷る。その豪快な飲みっぷりはまさに男の中の男だ。


「マサルさん、お昼ご飯食べ終わったらお風呂掃除してくれなぁ?」


 にっこり人好きのする笑みを浮かべておれに麦茶を差し出してくれながら、叔父さんに釘を刺す女将さんを見て、おれは思う。男の中の男も女将さんにはかなわなかったんだろうなと。

 民宿の仕事は重労働だけど、その代わり自由時間も十分すぎるほど長い。


 おれの場合は午前中に民宿の部屋掃除を終えて、昼過ぎに布団干しを終えられたら夕方まで自由だ。自由時間は室内で漫画でも読みながら涼しんで過ごすか、もしくは自転車を借りて遠くまでかっとばす。ここは田舎だから夜更かしするほどの娯楽なんてあるはずもなく、毎日のサイクルは実に健康的だ。

 今日は早朝から大仕事で疲れていたけど、手元にある漫画は既読本しかなくて、田舎だからテレビの放送チャンネルも少なくてつまらないから、おれはぶらりと外に出て泥土に塗れた自転車の洗車することに決めた。


 園芸用の延長ホースを使って大まかに泥を落としてから、バケツに水を張る。適度に水を含ませたスポンジに洗剤をたらして泡立て、自転車を隅々まで洗った。

 おれはこの作業を民宿の玄関先の空いた広いスペースで黙々とやっていた。ここからはL字型の民宿の様子がよく見えて、裏山や海の景色も楽しめるから結構気に入っている。

 女将さんが洗濯籠に入れた山盛りのシーツを洗うために洗濯場へ向かって行き、叔父さんは宿泊者の送迎のためにワゴン車に乗り込もうとしている。ここから眺める日常の一端は、気がつけばおれにすごく馴染んで居心地の良い空間になっていた。


 陽が少し傾いてきた頃。おれは女将さんに断ってピカピカに磨き上げた自転車にまたがり、市街地の本屋へ向かった。

 ペダルを踏みしめて緩やかに続く上り坂と下り坂を繰り返すやっかいな田舎道を走りつづけ、四十分以上かけて街に続く広い通りに突き当たった。

 ここからは比較的平坦な道が続き、車道を走る車の量も増え始める。

 この辺では一番大きな町の商店街が遠目に見え、ホッとしてスピードを緩めたとき、後輪に何かを引っ掛けてしまい「痛っ!」と甲高い悲鳴が上がった。


「すみませんっ、大丈夫ですかっ!?」


 その声にギョッとしてブレーキを握りこむ。そうしながら後ろを振り返るが、近くに人が倒れているわけでも立っているわけでもない。ただ、一二回跳ね飛んで転がっていく小石があるばかりだった。

 あの悲鳴はなんだったのか……。

 首をひねっていると今度は、バリバリッという激しい怪音がどこからともなく聞こえてきた。さらに続けてプラスチック容器がメキメキと割れるような音が響き渡る。

 近くで交通事故でも起きたのかと慌ててまわりを見渡したが、別段何かが起きた様子はない。

 メリメリッ、パキパキッと何かが音を立てつづけているのに、人々はまるで我関せずといった様子で全くの無関心。ある人は平然と通りを歩き、ある人はお店に入っていく。

目の前にある世界は実に淡々として、おれの目には奇妙に映った。

 一体どうなっているんだとハンドルを強く握り締めると、一際大きな音がおれの鼓膜を激しく叩いた。それは全身の細胞のひとつひとつをも震わし、未知の感覚に恐怖を覚えるほどの凄まじさで襲ってくる。

 瞼を下ろす一瞬が一生のように長く感じられる。


(こういう体験って、死に際にするんじゃないのか?)


 とか悠長に考えている暇はないんだった。

 何が起きているか理解できないけど、危機感は募る。

 逃げなければ。でも、おれはいったい何から、どこへ逃げればいいんだ。

 ぐわぁん、と目の前の世界が歪んだ。次第に感覚が意識から離れていく。自転車のハンドルを握っているはずの手の触覚が曖昧になり、それまで感じていた風のそよぎも、それに乗って届いていた土草の匂いもわからなくなった。

 ひとつひとつ丹念に、人として必要なものを取り上げられていく苦痛は、すぐに死という絶望を予感させた。

 目の前の景色が淡く滲んで視界すらも奪われ、気が遠くなりかけたところへおれの体を支えてくれる誰かの力を感じた。両肩に添えられた掌は、叔父さんの掌のように熱くて力強かった。

 誰かはわからないけど、頼もしい存在を得たおれは水を得た魚のようだった。一気に元気を取り戻し、はっと我に返ると苔むした岩肌が蛇のようにうねりながら鼻先すれすれを抜けていくところだった。

 巻き上がった突風に髪の毛がぶわりと逆立って元の位置に戻った。


「……っな、ん」


 霧の中に飲まれて遠ざかっていくひょろ長い紐のような影に言葉を無くし、しばらく呆然としていたがおれの前に白髪の老人が立っていることに気づいて我に返った。

 人がいることにホッと安堵し、額に浮かぶ冷たい汗を拭うと老人の近くに寄った。

 一本の棒を通したみたいにシャキッと伸びた背筋と、真っ白な頭髪に髭を生やしているので仙人かとも思ったが、仙人がこんな黒のライダースーツを着こなしていたらなんか嫌だ。

 それにしてもこの老人、目線が実に鋭く覇気が猛々しいな。たぶん忍者とかでもないんだろう。だって存在感が濃厚すぎる。隠遁術が使えない忍者ほど不適切な人材ってないと思うんだ。

 おれが老人に何と言って話しかけようかと迷っていたとき、一陣の風が吹き、霧がかって不明瞭だった視界がパッと開けた。


「な……んだ、これ」


 しかしあらわれた光景はおれを更なる混乱の渦へと突き落とした。

 目の前を──正確には、おれと謎の老人の目の前を──非常識な生き物が列をなして進んでいく。たとえば烏帽子をかぶった兎や狛犬であるとか、真紅の肌に頭髪は燃え盛る炎の巨神であるとか。想像上の生き物たちがゾロゾロと!

 不気味なのはそれらがまるでお葬式に参列した帰り道のような、神妙かつ粛々とした歩みだったことだ。

 その時何かがドウッと倒れる音がした。音がした列の進行方向に顔を向けて見れば、道にせり出す障害物はことごとくバリバリと派手に音を立てて地面に砂埃をあげながらなぎ倒されていくのが見えた。

 おれが聞いた怪音の正体はこれだったのか!


「おい」


 不意にそれまで微動だにしなかった老人がこちらを振り返った。


「お前はこれを知っているか」


 「これ」と言いながら老人はその列へと顎をしゃくる。おれは声もなく首を横に振った。老人はそうか、とだけ言った。


「これは何なんですか?」


 何も説明してくれない老人に対して、自然と丁寧な口調で尋ねていた。

 不思議なことに、おれの問いに老人が答えてくれないかもしれないという心配は微塵も頭に浮かばなかった。


「織姫の嫁入り道具を運んでいるところだ」


 呟くように答えて、はじめて老人は体ごとこちらに向けておれを見た。

 おれはといえば、それまでなんだかありえないものが行進している様を直視できず、宙に浮かせていた目を、意を決して魑魅魍魎の列に向けてようやく、視界の隅に参列者の抱える何かを辛うじて捉えることができた。


「彦星と別れた織姫は来年の七夕に、この嫁入り道具を持って再び愛しい人の元へ嫁ぎゆく」


 淡々と言葉を継いで老人はおれの目の前に来て立ち、(存在感に気圧されて気づかなかったが、老人はおれの肩ほどにしか背丈がなくて拍子抜けした)頭のてっぺんから足のつま先まで視線を走らせる。

 嫌な感じはしないが、その視線の鋭さに居心地の悪さを感じた。


「この状況下で、ずいぶんと冷静だな?」


 老人はここに来てはじめて感動を含んだ声をおれにぶつけてきた。老人からの突き刺さってくるような視線の圧力に耐えていたおれが答えられたのは、たったひとこと。

 そうでもないです、それだけ。

 それなのに老人はおれを見て、


「……見込みがある」


 ぼそりと呟いた。


***


 送ってやる。老人こと耀十郎(ようじゅうろう)さんにそう言われて、おれは覚えておいた民宿の住所を伝えた。


「ほう、ではお前はK地方の出身か」


 少しも人間味の要素がない類の行列に背を向けて歩き出した耀十郎さんは、地名を聞くと少し意外そうな表情になった。


 この現実味のない世界になぜか紛れ込んでしまったらしいおれは、こんな場所にあるのに、馴染みのある単語を耳にして違和感を覚えた。たとえば地球の反対側で流暢な大阪弁を話す外国人に会ったとか、当人は気にならないけど慣れない人には気になってしまう違和感の類であるが──そんな違和感とおれは密かに格闘していた。


「いえ、今は夏休みだから、叔父さん夫婦の民宿でお世話になりながら住み込みのアルバイトをしてます。出身は東京です」


 訂正すると、今度は納得された。

 おれが意識して標準語で話している様子もないのに、訛りが無かったからすこし疑問に思ったようだった。

 道は平坦だったから足元を気にする必要もなく、耀十郎さんの簡単な質問にぽつぽつと答えながらおれは自転車を押して歩き続けた。

 歩き出して十分くらい経ったころだっただろうか。石灯籠の林を抜け、おれたちは民宿の前に立っていた。

 さっきまで民宿の影も形もなかった気がするんだけど……聞かないでおこう……。聞いたら隣に立っている耀十郎さんから肯定する言葉が返ってくるのはなんとなく分かっているし。

 おれはとりあえず耀十郎さんに軽く頭を下げた。


「わざわざ送ってくださってありがとうございます」

「いや、気にするな。それより少しわしの話を聞いて欲しいのだが良いか?」

「はぁ、なんですか?」


 自転車を間に挟み向き合う恰好で、おれは耀十郎さんの口髭がもそもそと動くのを見下ろしていた。


「今週末にでも、もう一度ここを案内させてほしいのだが、どうだろう」


 どこをと聞かなくてもわかる。ついさっき通ってきた変な場所のことだろう。

 おれは悩んだが、こんな田舎ではどこに行っても同じようなものだ。ここに来てまだ一週間とちょっとしか経っていないが、空き時間が退屈になってきていたのも事実なのでおれは耀十郎さんの誘いに乗ることにした。


「よかった。では、そうだな……できれば一日仕事を休める日がいい。都合のいい日にまた迎えに来る」


 と言うので、おれは迷わず週末の日曜日を指定した。

 予定ではその日、一日自由だった。手伝うとしてもゴミ出しや玄関の掃き掃除ぐらいだろう。

 おれの話を聞いた耀十郎さんは軽く頷く。

 彼は「じゃあな」と片手を挙げて挨拶すると、さりげなくおれの背中を押した。

 促されるまま最初の一歩を踏み出せば、(なら)された道からゴツゴツした砂利道に変わった。それまで冷たく澄んでいた空気が含んで暑くなり、べたついて肌にまとわりつくような空気に変わった。

 さっきまでいた清涼な空間を名残惜しく思って振り返っても、そこには見慣れた田舎の田園風景が広がっているだけでなにもないのだった。

 自転車を押して民宿に戻ったおれは、とりあえず女将さんにただいまを告げた。




 その日不思議な体験をして民宿に帰り、約束した日曜日になるまであっという間に時は過ぎていった。

 叔父さん夫婦には耀十郎さんに知り合ったことだけを話し、日曜日は耀十郎さんと出歩くのだと付け加えた。


 働き手がいて困ることはないから、今度その耀十郎さんも連れて遊びにいらっしゃいと、なぜか耀十郎さんを若者と勘違いしている女将さんに誘われたが、まさか相手が還暦を過ぎているおじいさんだなんて言えるわけない。おれは曖昧な笑みを浮かべてその話を流したが、女将さんはその後もどことなしか上機嫌な様子だった。

そして日曜日の朝を迎えた。


 耀十郎さんがいったい何時に迎えに来てくれるかわからなかったので、普段より早めの朝五時過ぎに目を覚ましてしまった。

 もぞもぞと寝床から這い出し、共同浴場の隣にある洗面所に顔を洗いに向かう。

 キュッと捻った蛇口から勢いよく飛沫をあげて飛び出してきた冷水は、寝汗をかいた肌に心地よく、眠気で重たかった瞼も軽くなる。部屋を出るとき首にかけてきたタオルで水滴を拭き取り、そのまま朝食を調理中の女将さんのいる台所に顔を出した。

 台所の釜や鍋からはもうもうと水蒸気がのぼり、大きな鍋の中を覗くと根菜がごろごろと入っている。まだ味付けする段階までいっていないのか、無色透明の昆布だしが沸騰し、鍋の中で根菜が踊っていた。


「おはようございますっ」


 元気な声で挨拶すると女将さんはさらに元気な声で挨拶をかえしてきた。


「タケちゃん、おはよう!」


 木製の分厚いまな板の上で豚肉を一口サイズに切っている女将さんの側まで行って、何か手伝うことはないか聞いてみる。


「じゃあ神棚から器を下ろして持ってきてくれる?」

「神棚?」


 首を捻るおれに、女将さんは手を止めて高温の釜のそばまで行くとその上を指差した。


「ほら、あれ」


 見上げるとそこには確かに小さな木箱が壁面にくっついている。日本家屋らしい特徴的な屋根が木箱の上に乗った造りをしていて、首を伸ばして中を見ると、白いさかずきと白米を盛ったくびれた陶磁器、その奥には和紙に包まれたお札が数枚並んでいた。


「これが火の神様の神棚。広間にも似たような神棚があっから、昨日神棚にあげた器を持ってきて洗って欲しいの」

「了解っ!」


 おれは女将さんの説明を受けながら、そういえば広間にこれと似た神棚を見た覚えがあるなぁ、とぼんやり思い出していた。

 そして広間についたおれは、思い描いた通りの一番目立つ場所にそれを見つけた。しかも台所で見た神棚よりひとまわりもふたまわりも大きくて立派なやつだった。

 背伸びして覗き込むと、やはりお札と器が並んでいた。さらにその両端には真っ白な首のすぼまったおちょこサイズの花瓶に深緑の枝葉が活けられていた。

 おれは腕を伸ばして盃と隣の器を取ろうとした瞬間、パチッと掌に何かが当たった気がした。とはいえ、痛みもなかったので棚の縁にちょっと引っ掛けたかな? ぐらいに思って特に気にしなかった。

 おれが盃と表面が乾燥してしまったご飯を乗せた器を持って女将さんの元に戻ると、白くて艶々したおいしそうなご飯が炊き上がったところだった。


「うまそー!」


 釜のそばを通る際に、ふっくらした白米の様子を覗き込んで思わず声を上げた。堪えきれず、空腹のお腹が盛大に鳴ってしまう。おれは顔を赤くし、女将さんは笑った。


「じゃあ今日は少し早めにご飯を食べましょう。その前に、タケちゃん。それ洗って布巾で拭いてなぁ!」


 女将さんはおれが持ってきた神棚用の小さい器を指差して言い、おれが頷くのを確認してから味噌漬けのきゅうりを輪切りに切り始めた。

 乾燥したご飯は小さな山状のまま白い器に貼り付いており、それを一つ一つ取り除いてから洗剤で泡立てたスポンジで磨き、水で洗い流した。


「拭き終わったらまず最初にその器からご飯を盛って、神棚にあげて来て。それから私たちのご飯な」

「はいっ」


 テキパキと小皿に盛り付けていく女将さんの後ろで、おれも真っ白な小さい器に艶やかな炊きたてご飯をちょこちょこと盛っていく。慣れていないのと、ヘラの広いしゃもじを使ったのでどうしても不格好になってしまう。女将さんが昨夜盛っていた白米の山より、ずっと高くていびつな山になってしまった。


(ま、こんなもんだろ)


 細かいことは気にしない質なのでそれらを持って広間へ向かったおれは、女将さんに言われた通り神棚の元あった位置にひょいっと乗せると、さっさと広間を後にした。

 台所に向かうおれの足は踊るように軽やかに進み、栄養満点のおいしそうな朝食を前にしてさらに腹の虫が歓声をあげた。そしてそのご飯のおいしさに、おれが歓声をあげたのは言うまでもない。




 九時頃迎えにきた耀十郎さんは、なんと1400cc以上あるハーレーダビッドソンのバイクに乗って颯爽と現れ、おれの目は黒く輝くクラシックボディーに釘付けだった。

 後部に乗ったおれがヘルメットを被ったことを確認した耀十郎さんの運転で、ゆっくりと動き出したバイクは公道に出ると滑らかに疾走した。

 想像以上の壮快感におれは言葉もなく目を輝かせた。そう、とにかく最高だったんだ。

 おれの人生に新たな目標が加わった。


(金貯めて、おれもいつかこんなかっこいいバイクを乗り回す!)


 気分が高揚してきたところで周囲を見回すと、おれたちはいつしか標識も街灯も信号もない通りを走っていた。しかも路面は舗装されたアスファルトではなくむき出しの地面だ。

 気が付かない内に、どうやら不思議世界へとおれは再び足を踏み入れていたらしい。

 ようやくそのことに気づいたとき、耀十郎さんはバイクの速度を緩めた。


「昨日はよく眠れたか?」      


 前を向いたまま張りのある声で尋ねられ、おれも少しだけ声を張った。


「はいっ、朝飯もうまかったです」


 そうか、と言うかわりに耀十郎さんはひとつ頷いた。

 はじめて会ったときも思ったが、本当に口数の少ない人だ。だからといって冷たい感じは受けないから不思議だった。


「そろそろ目的地に着く」


 耀十郎さんが短く告げる。

 爽やかな朝日を浴びて風を感じる素敵なドライブは、あっという間に終わりを迎えた。




 バイクを降り、耀十郎さんに連れられてやってきた場所は小さな(ほこら)だった。雨風にさらされて古くなった板は、脆くなってところどころ変色していた。その祠に耀十郎さんは手を合わせる。おれも慌ててそれに倣った。

 穏やかな風のそよぎを聞きながら一分ほど経っておれたちは手を下ろした。


「なんですか、ここ?」


 古びていて年代物だろうとは推測できるが、それ以外は何もわからない。手を合わせたからといって何かが起きるわけでもなさそうだ。

 耀十郎さんはおれの疑問に答えないまま再び歩きだし、今度は森の奥へ向かって道なき道を進んだ。

 鬱蒼と下草の生えた広葉樹の森は、生命力に満ちていた。高所からこんこんと流れ出た小川をまたぎ、小鳥のさえずりを聞きながら奥へ奥へと向かう。そして辿りついた場所には西洋風の木造の小屋がポツンと建っていた。小屋とはいえ、中に入ってみると小さな祭壇があるだけの簡素な祠に違いなかった。そこでもやはり手を合わせる。場所を移動し、次も、その次の場所でもおれたちは無言で手を合わせた。


(案内するって、こういうこと!?)


 バイクに乗って期待が膨らんでいた分、落胆も大きい。

 ひとり項垂れ、後について歩くおれに耀十郎さんがようやく口を開いた。


「挨拶回りはこれで済んだ」

「……挨拶、まわり?」

「そうだ」


 少し先を歩いていた耀十郎さんは振り返り、和らげた目元でおれを見上げた。


(あれ、なんだかうれしそう?)


 常に感情を表に出さない耀十郎さんの表情はこれまで堅苦しいものばかりだっただけに、この時おれの下がりかけた気分もすこしばかり上を向いた。

 耀十郎さんは倒木を見つけるとそこに腰掛け、隣に座るようおれに目線で促した。


「ここは人ならざるモノが行き交う清道だ。掟に従い、神族以外の者はこうして神の祠に挨拶をして回らなければならない」


 隣に腰を下ろすと耀十郎さんは説明をしてくれる気になったみたいだ。


「今までにもわしはタケのように、道に迷い込むなどしてわしと出会った人を案内したことはあるが、こうしてすべての祠を回りきったことは一度もない。どうやらタケは認めていただけたようだ」


 おれを親しみ深くタケと呼び、まるで自分のことのように喜び誇らしげに話す姿を見ていると、おれの胸にもだんだんと温かい感情が湧き上がってきた。

でも……と、ふと考える。


「何でおれが神様に認めてもらわないといけないんですか?」


 おれのもっともな疑問に、ああと彼は口元を引き締めた。説明すると長くなるがと前置きしてから言葉を続ける。


「タケが普段何気なく暮らしている世界と同じように神々がまします世があり、それを我々は『清道』と呼んでいる。善良で聡明な神とそれに仕えし神族、名もなき異形のモノが混在する『清道』にあって、わしは神々を護り、神々が守り清めてきたこの地を護る責務を譲り受けた。これは神々を敬い、ときに諫める中立の存在にして唯一無二の錨であるべき重要な役目だ。それをわしは……タケ、おまえを見込んで後継者に育てようと考えている」


 だから祠を回り――神様に「挨拶回り」をして来たわけだ。

 おれは常識を覆す壮大な話に呆然とし、さきほど祠巡りをしていたときに見てきた危険とは無縁そうなのどかな風景を思い起こしていた。


「もちろん、すぐにわしのあとを継げとは言わない。それに、継ぐも継がぬもタケの自由だ」


 真っ直ぐおれの目を見て耀十郎さんは言い切った。嘘をつくようなあざとい目をしておらず、それはとても真剣でいて、相手を思う温かさがあった。

それに、とおれは考える。

 最終的な決定権を持つのがおれにあるのであれば、この耀十郎さんの誘いも言うなれば職業体験やインターンシップに同じことではないだろうかと!

 自分なりの結論に至り、顔を上げたおれを耀十郎さんは静かに見つめていた。

 そしておれの目を見てその意志を汲み取ったらしい。耀十郎さんはおもむろに嵌めていた黒革のグローブを取ってから右手を差し出すと言った。


「わしは二十七代目守方大天狗(かみかたおおてんぐ)耀十郎(ようじゅうろう)と申す。改めてよろしくな、タケ」


 顔に深い皺を浮かべて見せた力強い笑顔に引き込まれるようにして、おれは耀十郎さんの乾いた温かいその手を強く握り返した。







 学校も始まって目が回るような日々が続いているけど、あの日、耀十郎さんの手を取ったことを後悔してない。

 今日も気弱な狛犬の杉浦さんに泣きつかれてオヤシロさまとの仲立ちに行ってきますっ!



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